金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

世界のノーモンの発明者は縄文時代Earlyだろう

追加します 2023.03.27

最新のAIの説明をついかします。

問い1. 古代バビロニアやエジプトの天文学による太陽暦が、古代ローマ時代などで、その後季節が狂ってしまったのは何故ですか。

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‘古代ローマの暦 季節ずれ’ を検索しています
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古代ローマ時代に、季節が狂ってしまったのは、ローマ暦の不備が原因です12。最初のローマ暦は、10か月で304日しかなく、太陽年と大きくずれていました1。その後、ユリウス・カエサルがエジプト暦を参考にして、4年に一度閏日を入れるユリウス暦を作りましたが、それでも平均365.25日と太陽年の365.2422日との差が積み重なっていきました2。このため、約128年で1日ずれることになり、季節と日付の関係がだんだんずれていきました。

受信したメッセージ. 古代ローマ時代に、季節が狂ってしまったのは、ローマ暦の不備が原因です 。最初のローマ暦は、10か月で304日しかなく、太陽年と大きくずれていました。その後、ユリウス・カエサルがエジプト暦を参考にして、4年に一度閏日を入れるユリウス暦を作りましたが、それでも平均365.25日と太陽年の365.2422日との差が積み重なっていきました。このため、約128年で1日ずれることになり、季節と日付の関係がだんだんずれていきました。
詳細情報:
1. ja.wikipedia.org
2. eco.mtk.nao.ac.jp
3. museum.seiko.co.jp


問い2. 古代ローマで暦が季節からずれたとき、何故太陽を直接観測しなかったのですか

‘古代ローマ 太陽観測’ を検索しています
‘古代ローマ 暦 ずれ 太陽観測’ を検索しています

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古代ローマで暦が季節からずれたとき、太陽を直接観測しなかったのは、いくつかの理由が考えられます。一つは、太陽の動きを正確に測定するための技術や器具が不十分だったことです1。もう一つは、暦のずれが生活上の不便をあまり感じなかったことです23。実際、古代ローマでは、夏至や冬至などの重要な日は別途天体観測によって決めていました3。また、暦は政治的な権力にも関係しており、改暦には抵抗や混乱が伴うこともありました45。

受信したメッセージ. 古代ローマで暦が季節からずれたとき、太陽を直接観測しなかったのは、いくつかの理由が考えられます。一つは、太陽の動きを正確に測定するための技術や器具が不十分だったことです。もう一つは、暦のずれが生活上の不便をあまり感じなかったことです 。実際、古代ローマでは、夏至や冬至などの重要な日は別途天体観測によって決めていました。また、暦は政治的な権力にも関係しており、改暦には抵抗や混乱が伴うこともありました 。
詳細情報:
1. ja.wikipedia.org
2. ja.wikipedia.org
3. aska-r.repo.nii.ac.jp
4. tripeditor.com
5. nao.ac.jp
6. ja.wikipedia.org
+3 その他

この時代でもまだ、ノーモンを利用して太陽観測を行うことは出来ていないようだ。

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初稿 2023.03.03

ノーモンの機能と発明者については
世界的に明らかにされていないようだ


金生遺跡では太陽暦 二十四節気の暦 の存在は間違いない様子なので
縄文時代には金生遺跡以前からノーモンが使われてきた可能性があるが、その存在を示す遺跡としては、今の所世界初のノーモンの使用は、金生遺跡からと考えても良いのでは。

 

金生遺跡の立春と立秋の観測施設は正確に作られていた
これを造り上げる方法としては、ノーモンを利用する方法に違いないものと考える。
年の始、造暦の初めとなる重要な立春観測は、ノーモンによるものと考えるので、金生遺跡の立地では、立春の日の出は茅が岳の峰、金が岳からとなるので、ノーモンの高さは2.4メートル程のものが必要となる。石棒の太さで一日の移動位置の違いを判別できるようにするには、ノーモンとの距離22メートルとそれに影を落とすノーモンの長さが2.4メートルであった。
チャイナの漢籍によるとノーモンの高さは8尺とされているので、この起源は金生遺跡に有るものと考える。

 

ノーモンと日の出の関係
金生遺跡での立春観測を元にして概略図を描いて見ました。

日の出位置は南から北の方向に変わってくる。
ノーモンの影は配石の北限界の冬至ラインから、冬至方向から日毎に南の石棒の方向に移動する。
石棒の位置が立春当日となり、ここで季節は春に入る。
石棒より南に来れば春になったことを示す。ということになっていたようだ。
立春からはノーモンの影は日の出の石棒の南から、毎日時間経過と共に石棒を越えて、右回りに移動することになる。

漢籍ではノーモンのことを 表 と呼称するようです。西アジアからはノーモン、東アジアでは表となるようです。

図はお借りしました

引用ーーーーーーーーーーーーーー

その昔、人は天体の運行や季節の移りかわりなど、自然のリズムから時間の流れを知り、暦を作り、さらに時計を作り出しました。

紀元前3500年頃、エジプト人はオベリスクと呼ばれる方位碑のモニュメントを建て、影の位置で午前と午後を分け、影の長さで季節を知ることができたといわれています。

時刻を知る日時計の起源は、メソポタミア文明(今のイラク)であり、紀元前2000年頃にはバビロニアで昼間を6等分にした日時計が使われていた記録があります。

バビロニアに滅ぼされた高度な天文知識を持ったシュメール人が発明した可能性もあります。日時計の指示針のことを「知る」という意味のグノモンあるいはノーモン(gnomon)と呼びます。
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『古墳の方位と太陽』 〔北條芳隆/著〕
第 3 章 弥生・古墳時代への導入
 4. 正方位の割り出し法
 (pp.82-83)
 (1)「表」をもちいた観測法
 ではひきつづき正方位の割り出し法の問題に入る。回答の半分についてはすでに述べたとおりである。弥生・古墳時代の倭人が夜の星空を視準することによって真北を直接見定めた可能性は皆無に近い。となると残された可能性は日中の太陽の運行を利用する正方位割り出し法となる。そしてこちらの測定法については古代中国側に詳細な記述が残されており、その手法が日本列島でも再現された可能性は濃厚である。
 それはつぎのような手法である。まず観測地点を平坦にならし、そこに「表」とよばれる長さ八尺の棒を立て、棒を中心とする適度な径の同心円を地表面に描く。つぎに太陽の光が当たることによって「表」の反対側に伸びる影を追う。影は午前中には西に向けて長く伸びるが、その後短くなりながら表の北を巡って午後には東側へと移行し、再び長く伸ばすのであるが、さきの同心円に影が接する地点に目印を付ける。目印が付けられた地点は午前に 1 回、午後に 1 回となり、二つの目印を直線で結ぶと真東西が割り出せる。さらに直線の中間点を求め、そこから表に向けて直線を引く(半折)。そうすれば正南北が割り出せる。このような観測法である。
 古代中国では古く『周礼』にこの観測法の概要が記されており、以後『周髀算経』などでも繰り返し登場する。なお古代中国では円の中心に立てる棒のことを表と記すが、イスラーム世界ではノーモンとよばれた。日時計の原理もその基本は同様であり、世界の各地で採用された普遍的な方位観測法である。インデアン・サークル法ともよばれることがある。
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漢・・・・・前漢(B.C.206~A.D.8)
  文帝・・・・・改暦の試み
  武帝(B.C.140~B.C.88)・元号の採用
   司馬遷に詔勅。鄧平が作成。
   B.C.104・・・太初元年  太初暦の作成。(夏正正月)
   東西の方位を決定し、ノーモンをたて、水時計を動かし、28宿を追跡した。
   朔、晦、春分、夏至、秋分、冬至、日月の運行。月の満ち欠けの日の決定。
   1月=29日+43/81日とした。前もって半日を借りておくものを陽暦、
   借りないものを陰暦とした。
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ノーモンhttps://kotobank.jp/word/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%B3-1389370
【時刻】より
[日時計から水時計へ]
 人間が時間の観念を得たのは天空上における太陽の動きであるから,その太陽の位置を知る日時計が最初に考案された時計であったと考えられる。初めは1本の棒を立て太陽による影で時刻を知るノーモンgnomonが使用された。古代から天文学が発達していたメソポタミアとかエジプトでは,日時計の発明はかなりの昔と思われるが詳細は不明である。…

【中国天文学】より
…中国の歴史時代は殷王朝から始まったが,前1300年ごろからの甲骨文によると,当時すでに太陰太陽暦が行われていた。地面に垂直に立てた棒(ノーモン,中国では〈髀〉もしくは〈表〉という)が落とす太陽の影の長さを測り,冬至や夏至の日を決定し,1年の長さを知った。しかし当時採用された1年や1月の長さは確かめられていない。…
【天文学】より
…のちには正しい閏月挿入法が考案され,ギリシアの〈メトンMet?n法〉(前5世紀)と同じく,19年間に7回の閏月を挿入することが,西方諸国よりも早く知られたようである。観測器械としては地面に垂直棒を立ててその影を測る簡単な〈ノーモン〉が用いられ,これによって1年の長さが正確に求められるようになった。また若干の星座をみて季節の推移を知ることもできた。…

【時計】より
…太陽の動きにつれて木や岩などの影が長さと方向を変えていくことに気づき,これを時計として利用したものである。このような日時計の利用は前5000年ころのエジプトで始まったらしいが,やがて日影棒(ノーモンgnomon)と呼ばれる棒を地面に垂直に立てて日時計とするようになった。オベリスクの高い尖塔も日影棒として用いられたという説もある。…
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歴史
甲骨文・金文や詩経などによると殷・周の時代は日・月や星、植物の生長などを観察して日付を決めていた。これを観象授時暦という。月の初めの日は新月の日(朔日)ではなく、月が見え始める二日月・三日月などの日を当てた。この日を朏(ひ)日という。年始はノーモンの観察などにより、冬至頃に設定された。
++++そうなのか 冬至頃なのか 確定するのは難しい

このような素朴な暦法は春秋戦国時代になって、大きく発展した。二十四節気が導入され、また閏月の設定にメトン周期が用いられ月初めも朔日の計算によって決定された。
++++そうなのか

戦国時代の各国で独自の四分暦が造られ、これらを戦国四分暦という。この頃、年始について三正(夏正・殷正・周正)という考え方が生まれた。夏暦・殷暦・周暦というものがあったとされ夏暦では年始が冬至の2月後、殷暦では冬至の1月後(つまり夏暦の12月)、周暦では冬至の月(夏暦の11月)とし正月が王朝交替ごとに変更され、夏正→殷正→周正→夏正→…と循環されてきたとした。
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『中国の科学と文明 第5巻 天の科学』 〔ジョゼフ・ニーダム/著〕
 ⇒ 〔第 110 図 の 拡大図〕  
第 110 図『欽定書經圖説』巻一 堯典
第 20 章 天文学 (g) 天文器具の発達
 (1) ノーモンとノーモン影尺
 (p.128)
第 110 図 ノーモンとノーモン影尺を使って夏至の太陽の影を測定する伝説上の古代の人物羲叔(羲兄弟の末子)を描いた清末の図。『欽定書經圖説』、巻一、堯典 (Karlgren (12), p. 3) より。
 (p.129)
 『淮南子』は、10 尺の長さのノーモンが古代に使われたという伝承を伝えているが(これは、すでに述べた周時代の 10 進法度量衡の存在に対する強力な証拠となろう)、これは早期に、たぶんそれが直角三角形の辺に関する簡単な計算の助けには容易にならなかったために、棄てられた。+544 年の虞?の 9 尺のノーモンのようないくつかの例外はあるが、一般に、古代および中世の文献に記されているのは 8 尺の長さである。元の時代、精度を高めるためさらに大きな構造を持ったときでさえ、8 尺の倍数 40 尺が選ばれたのは、後に見るとおりである。完全に水平な台と完全に垂直な棒が必要であることは、漢以前によく理解されていた。なぜなら、『周禮』に水準器および錘を吊るすひもについての記述があるからである。漢の注釈者はこれを同じ長さのひもが、台のおのおのの隅に一つずつ固定されているという意味に取ったが、唐の賈公彦は、吊るすのに 4 つの測鉛線を使ったと推測した。もしそうだったとすると、この器具はローマ時代の測量官が用いていたグローマ (groma) と非常によく似たものであった。
 影の長さの最も初期の測定は、もちろん当時の物差しで行われた。しかしこれらは役人の指示と地方の習慣によって一定でないことがわかったので、標準の碑玉の板(土圭)で、ノーモン影尺 (gnomon shadow template) と呼べるようなものが、この目的のためのみにつくられた。それは『周禮』に記されており、実物は素焼きの土製で、+164 年のものが現存している。
 大司徒(高官)は[『周禮』に言う]、ノーモン影尺を使って、太陽下の大地への距離を決め、正しい太陽の影(の長さ)を定める。こうして大地の中央を見いだす ……。大地の中央は夏至の時の太陽の影が 1 尺 5 寸ある(場所)である。
 大司徒之職。…… 以土圭之?測土深。正日景以求地中。…… 日至之景。尺有五寸。謂之地中。(周禮、地官司徒)
? ここまでに記述された語句の意味を、簡単にまとめておきましょう。
 ? 古代中国の日時計では、一般的に、八尺の棒である表(ひょう)を基準の長さとした。
 ? 表の影(かげ)の長さを測る装置=器具が、土圭(とけい)である。
 ? 表には、ジョゼフ・ニーダムの『中国の科学と文明』で「ノーモン (gnomon)」の語があてられた。
 ? 土圭は、同書で「ノーモン影尺 (gnomon shadow template)」と表記されている。
 ? 土圭と表を合わせて「圭表(けいひょう)」と呼ばれることがある。
 ? 影は『周礼』で日景(ひかげ)と書かれ、『周髀算経』では?(ひかげ)と記述されることが見える。
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 縄文人は、一年間の太陽の運行経路・鳥獣の形態・土地の形・人体など森羅万象を観察し、それらの造形に双曲図形・楕円図形・らせん形・渦巻き・+形・×形などがもつ生成の原理を発見していたものと考えられます。生成は再生観につながります。死生観から見れば死より誕生に重大な関心を寄せていた縄文人ですが、死に接して悲しまなかったはずがありません。死者の魂の再生を願っていたことは否定できません。
…太陽の光の影と表(=ノーモン)によって東西南北を決定する方法
 この方法は、太陽の光が表(=ノーモン)に投じられた影を利用して、東西南北を正確に割り出す測量方法で、北極星を利用する方法や磁石を使うことよりも精度が高いといわれている。また、この方法は簡単にでき、しかも一年を通じて、いつでも任意の一日のうちに方位を決定することが可能で、きわめてすぐれた測量方法といわれています。
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世界大百科事典内の漏刻の言及
【宇文愷】より
…煬帝(ようだい)のもとで東都(唐の洛陽の前身)の建設を主導し,将作大匠から工部尚書となった。また長城の修築,高句麗征伐の浮橋の架設,輿服の制定,漏刻(水時計)の設計も担当した。大興の都市計画は東西対称の条里を配し,宮殿,皇城を中央最北に置く斬新な創案であった。…

【時刻】より
…日の影を測った八尺の表とか?儀(きぎ)(ノーモン)があったが,おもな用法は冬至,夏至の時刻を知って1年の長さを決定するために使用されたようである。時刻あるいは時間はすべて漏刻(ろうこく)(水時計)によって測られた。漢の時代から精密な暦法があったことが知られているので,使用にたえる漏刻も西暦紀元前後にはあったと考えてよい。…

【天文学】より
…また若干の星座をみて季節の推移を知ることもできた。時間の測定には主として水を利用した〈漏刻〉が使用されたが,それがいつの時代に始まるかはわかっていない。古い時代には日食や月食がよく注意されたが,これらは当時の支配者にとって凶兆と考えられたからである。…
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なお古代中国では円の中心に立てる棒のことを表と記すが、イスラーム世界ではノーモンとよばれた。
日時計の原理もその基本は同様であり、世界の各地で採用された普遍的な方位観測法である。インデアン・サークル法ともよばれることがある。
…ノーモン影尺を使って、太陽下の大地への距離を決め、正しい太陽の影(の長さ)を定める。こうして大地の中央を見いだす ……。大地の中央は夏至の時の太陽の影が 1 尺 5 寸ある(場所)である。
観測地点を平坦にならし…
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 (1)「表」をもちいた観測法
 ではひきつづき正方位の割り出し法の問題に入る。
回答の半分についてはすでに述べたとおりである。
弥生・古墳時代の倭人が夜の星空を視準することによって真北を直接見定めた可能性は皆無に近い。
となると残された可能性は日中の太陽の運行を利用する正方位割り出し法となる。
そしてこちらの測定法については古代中国側に詳細な記述が残されており、その手法が日本列島でも再現された可能性は濃厚である。
 それはつぎのような手法である。
まず観測地点を平坦にならし、そこに「表」とよばれる長さ八尺の棒を立て、棒を中心とする適度な径の同心円を地表面に描く。
つぎに太陽の光が当たることによって「表」の反対側に伸びる影を追う。
影は午前中には西に向けて長く伸びるが、その後短くなりながら表の北を巡って午後には東側へと移行し、再び長く伸ばすのであるが、さきの同心円に影が接する地点に目印を付ける。このような観測法である。
目印が付けられた地点は午前に 1 回、午後に 1 回となり、二つの目印を直線で結ぶと真東西が割り出せる。
さらに直線の中間点を求め、そこから表に向けて直線を引く(半折)。
そうすれば正南北が割り出せる。
 古代中国では古く『周礼』にこの観測法の概要が記されており、以後『周髀算経』などでも繰り返し登場する。
なお古代中国では円の中心に立てる棒のことを表と記すが、イスラーム世界ではノーモンとよばれた。
日時計の原理もその基本は同様であり、世界の各地で採用された普遍的な方位観測法である。
インデアン・サークル法ともよばれることがある。
…「土圭の法は、八尺の表を立て、一尺五寸の圭を地面に横たえる。
太陽が南中して影が圭と一致すれば、そこが地の中心である。
浚儀なんかがそれなのだが、今、浚儀がはたして地の中心なのかどうかはわからない」。
 質問、「なぜ八尺の長さを表とするのですか」。
答え、これは勾股法[こうこほう]を用いて計算しなくてはならない。
南北を結ぶ線上の中心が定まっていないため、太陽の南中によって中心を測定する必要がある。北極は永遠に変わらない位置にある。
北方の地形は尖って斜めになっているため、昼は長く夜は短い。
骨里幹国では夜間、羊の肩甲骨を煮て柔らかくなる頃には、もう日の出になってしまう。
鉄勒は、もっと北に位置する。
極北の地は、ほとんど人がいない。
伝聞によると、そこには二千里にわたる松林があり、伐採が禁止されているそうだ。
その外側は龍や蛇だらけで、行くことはできない。
女真族発祥の地には鴨緑江が流れている。
話によると、天下には三つの大河があるが、黄河、長江、そして鴨緑江がそれだ。
もし浚儀や潁川を地の中心とするなら、今の襄陽、漢陽、淮西などの一帯は中心に近いということになる」。 (万人傑)
…朱子「『周髀』の法は、極は天の中心に当たり、日月は天に沿って運行しており、遠くなって見えなくなるところを果てとするといっているが、この説は正しくない。」
 質問「『論語或問』の中で『南極は地の下方三十六度、北極は地の上方三十六度』とあるのはどういうことですか。」
 朱子「七十二度の範囲で動いているということで、極はその中心に位置する。このことについては(『尚書』)「堯典」の疏が非常に詳しい。」 (廖徳明)
「七十二度の範囲で動いているということで、極はその中心に位置する。…
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暦Wiki
圭表儀†
圭表儀は、太陽の南中時における影の長さを測る装置です。
縦棒の部分が「表」、目盛りのついた水平部分が「圭」です。一般的には、ノーモン(gnomon)に分類されます。
とても単純で、もっとも古くから使われている観測装置といえます (授時解、貞享暦、寛政暦書)。
授時暦記載の圭表儀 貞享暦記載の圭表儀 寛政暦書記載の圭表儀
測定原理†
基本的に、太陽の南中高度は冬至で最も低く、夏至で最も高くなります。
南中時における影の長さは南中高度を反映し、冬至で最も長く、夏至で最も短くなります。
逆に、南中時における影の長さを日々測定すれば、それが極大・極小となる日から、冬至・夏至の日がわかるというわけです。
より根源的には、太陽の赤緯が冬至で極小、夏至で極大となることに対応します。
ただし、圭表儀による観測は1日1回=南中時のみであり、太陽赤緯が極小・極大となる瞬間を測定することはできません。
勾配術を用いると、その瞬間~冬至・夏至の時刻を推定することは可能であり、そこから1年の長さを知ることもできます。
そもそも、冬至・夏至前後における影の長さ~太陽の赤緯はあまり変化しませんから、冬至・夏至の決定は原理的に困難といえます。
ちょっとした誤差でも数日単位でぶれます。夏至では影が短いので、ますます精度のよい測定は困難になります。
表を高くすることで影を伸ばし、測定精度を上げることはできます。
一般的には8尺の表が用いられましたが、授時暦では40尺の巨大な表が用いられました。
さらに、ぼやけた影を鮮明にするために、景符が用いられました。
景符
現実的には、大きな装置を精密に作るのは困難だったようです。
渋川春海はもっぱら8寸の表で観測していました。8尺の表ができたのは、貞享元年(1684)のことです *1。
宝暦年間以降は、1尺の小表儀による観測が増えています*2。
いずれにせよ、赤道環で春秋分を観測するのに比べれば、いかにも心もとない方法といえます。
ようやく寛政年間になって、太陽の経緯度測定が主流となりました*3。


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