所在地   宮城県多賀城市市川

城主    大野東人(あずまひと)~藤原朝狩(あさかり)~坂上田村麻呂~北畠親房、顕家

時期    神亀元年(724)~元弘三年(1333)

 

 

訪城紀行  岩手県の二桜城跡を探索した後、高速に乗り多賀城跡へ向かう。友達は駅前の          

        「東北歴史博物館」に行き、私は多賀城を探索にいく。

        まず南門跡にある多賀城の碑、「壺の碑」を見て、他が城の正面入り口の石段

        を登り、外郭南門から中枢部である政庁へ南北に真っすぐに通ずる大路で多賀

        城の中で最も重要な道路を進み多賀城政庁跡付近を探索する。

        その後、多賀駅前にある観光案内所に行き多賀城のテレホンカードを購入して

        仙台城に向かう。

 

 

多賀城の碑

西暦762年に建立され、この地に東北一帯を治める多賀城が

置かれた事を示す日本三古碑。「国重要文化財」

 

日本三古碑の一つ「壷の碑」(いしぶみ)によれば、奈良前期の

神亀元年、蝦夷平定のために下向した大野東人が創築したと

言われている。

 

南門一政庁間大路跡

多賀城の中で最も重要な道路

 

多賀城跡政庁跡模型

 

外郭内からは、各種の建物跡が発掘されている

 

 

 

 

沿革    八世紀前半には朝廷の命を受けた大野東人により、当時朝廷と蝦夷の勢力園

       の境界線であった仙台平野に多賀城が築城された.(第Ⅰ期)

       多賀城には、軍事施設としての鎮守府のほか、郡山遺跡にあったと考えられる

       陸奥国府が移転された。その後、天平宝字六年(762)には藤原南家の藤原

       中麻呂(恵美押勝)の四男である藤原朝狩によって多賀城の改修が行われた。

       (第Ⅱ期)、宝亀十一年(780)、陸奥伊治郡の蝦夷の指導者の一人で、朝廷から

       外従五位下の官位を与えられていた伊治城の伊治砦麻呂が反乱を起こした。

       砦麻呂は俘囚(大和朝廷に帰属した蝦夷)たちの中で比較的自由を認められて

       いた「夷俘」の出身であった。しかし朝廷から「覚べつ城」築城のために派遣された

       陸奥国府の長官紀広純(きのひろずみ)に夷俘の出自を屈辱されて恨みを抱き、

       広純を殺害して多賀城を妬き払ったという。

       反乱鎮圧後、八世紀末から九世紀前半にかけて多賀城は再建された。(第Ⅲ期)

 

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