では前回の続きで、道徳販売の天国についての説明をします。

 

天国については、このブログで以前簡単に説明しましたが。天国というのは悪行さえしなければ行くことが出来る所になりますので。

通常は会社勤めをして得られる報酬と、その生活となります。

例えば、300年前の人に比べれば、現代人の暮らしというものは天国のような暮らしをしているのです。

冷蔵庫に洗濯機、エアコンに自家用車、電車に飛行機で遠出も簡単に出来ますし。スマホにネット社会、コミュニケーションも片手で操作すれば簡単に出来る世の中です。

会社勤めをして得られる報酬で私達は天国のような暮らしを手に入れているのです。

もちろん会社を解雇になり報酬が途絶えると、300年前の人と同じような暮らしをしなければいけなくなりますので、そこは地獄となるのです。ようは前回の記事の会社の解雇が地獄ということです。

とはいえ、報酬と、その暮らしが天国では、今までと何も変わらないではないかとなってしまいますので。

 

さらにここに、道徳社会をプラスします。

 

ようは、こういうことです。

「有能な新卒の皆さん。私達の会社で働いてくれるのなら。あなた達には道徳に満ちた会社勤めをお約束します。あなた達はこの会社に勤めることにより、村八分のような陰湿陰険な被害から守られることになります。子供の頃のような、いじめにあうことはもうありません。私どもの会社では、他者を落とし入れ、蔑み、憎むような、醜い心根の者たちを決してゆるしません。もしそのような者からの被害にあった場合は、その者を即刻解雇します。また、何かのトラブルや、他者に対する不平不満があった場合には、必ず話し合いによって、お互いの意見を聞いた上で、和解して解決をすることをお約束します。訴えた者だけの意見を一方的に聞いて差別をしたり、秘密裏に付け回しやストーキング行為をして監視をしたりするような村八分行為などは絶対にいたしません。誰しもが安心して働くことが出来る職場を提供いたします。そして、この会社では道徳教育と道徳販売を行うことにより、ライバル会社との差別化をはかり。売上アップと市場の拡大による成長が約束されているため、皆さんの収入もライバル会社の社員よりもより多い報酬が支払われることになります。皆さんの足を引っ張り、皆さんの行く手を阻む者達は、この会社にはいません。新しい時代の、新しいアイデアをどんどん出して、さらなる成長と、イノベーションによる世界市場における飛躍を目指してください。」

 

安定した収入と成長、さらに高い道徳意識による村八分のない職場環境。

 

これが天国となります。

 

では次に、神の教えについての説明をします。

道徳教育における神の教えとは、理想の人間としての立ち振舞とはどのようなものかを指し示すことにあります。

村八分を積極的に行う者というのは、自分に都合のいいように善悪を作り変えてしまい、自分こそが正義だと言い張り、自分の悪行を正当化してゆきます。

なぜこうなるのかというと、道徳心の低い人物というのはどのような立ち振舞をすればいいのかという教育を受けていないからなのです。

こういったケースにはこう立ち振舞いしなさいという、自分を投影するためのビジョンが何もないのです。そのため彼らは、どう振る舞えばいいのか分からず、自分勝手に善悪を作り変え自分こそは正義だと多数派を作り、多数決で自分達は正しいと正義を偽装して、平然と村八分をやりだすのです。

このため対処方法としては、まず最初に善悪の基準を作っておくのです。

以前このブログで話しましたが、善悪で大事なのは悪行が何かになります。悪行さえしなければ天国に行けるので、悪行が重要になるということです。

では、具体的な村八分の悪行については、前回のブログで会社を解雇される理由で述べましたので、そちらをお読みください。

村八分の悪行がどのようなものか理解したとして、ではそのような行いをやりそうになった時、どのように振る舞えばいいのかとなりますが。

ただ、これは非常に難しく。今の会社組織の内部組織だけでは、これを教えるのはほとんど不可能ではないかと思います。

例えば、「悪口を言ってはいけません。」というのを伝えるだけなら、紙に書いて渡して読んでおいて下さいね、で終わりですが。ではこれで、村八分を積極的にやっている者たちが村八分を止めたりしますか?というと、止めるはずがないのです。

「悪口を言ってはいけません。」という、当たり前の常識でさえ止めさせるためには。どのような物語や例え話で納得させればいいのかという知識や経験が必要となるのです。

こんなことを、会社内部で独自にやって簡単にできるとは、とうてい思えないのです。

では、どうするのかというと。

その道のプロにお願いするのです。

 

その道のプロとは誰かというと、世界宗教になります。

 

宗教は元々、社会の中心で人々に道徳を教えていた総本山になります。

日本で世界宗教といえば、仏教であり、次にキリスト教となるのでしょう。(宗教には新興宗教もありますが、歴史の浅い宗教はまだその内容が人々に理解されておらず、社員教育としては外させてもらいます。)

ようは地元に根ざした土着の昔からある、世界宗教のお坊さんや神父さんに来ていただいて、彼らの持っている道徳の物語や逸話などを社員教育として聞かせて頂き、道徳的な立ち振舞とはどのようなものなのかということを、具体的なビジョンとして植え付けていくのです。こうすることによって、村八分を起こしそうな感情が心の内から湧き出たとしても、それを客観視し理想の自分を保とうとその感情を滅却できるようになるのです。

 

あと注意が必要なのは。

村八分には中毒性があるということです。

子供のいじめもそうなのですが、他者をいたぶる行為というものには、本能的な興奮や快楽といった感情が芽生えますので。(詳しくは、このブログの「イジメとは」をお読みください。)小さい頃から他者をいたぶり、そういった快楽を何度も味わって来た者は、罰則を作り、天国を説き、理想の生き方を示したとしても、村八分の他者攻撃によって得られる、快楽にあがなうことができず。何度も何度も村八分をやり続けようとするのです。いじめをしている小学校の生徒が、先生に何度注意されても止めずに、学校の外でもいじめをやろうとするのと同じなのです。

もっと分かりやすく言うと、薬物中毒患者と村八分の常習犯は同じだということです。

麻薬の使用は医師の診断によるものでない限り違法行為ですが。本人に法律違反だし、自分の体も悪くするだけだから止めなさい、と言っても。彼らは、「違法行為で捕まるのは俺だから、他の者には迷惑をかけてないのだからいいじゃないか。」とか。

「俺の体のことは俺のものだからほっとけ。」と、一切人の話など聞かずにやり続けるのです。

村八分の常習犯も同じで、法律違反になるし、被害者の人が可愛そうだから止めなさい、と言っても。

「大丈夫、大丈夫、証拠が残らないようにやるから大丈夫」とか。

「可哀想?ですって、浮気をしたのはあの人よ、悪いのはあの人よ、私はあの人に家の鉢植えを割られたのよ、これは喧嘩よ口を挟まないで。」

といったように、他者攻撃による快楽欲しさに、相手の話も一切聞かず一方的に、妄想に妄想を上塗りしたような屁理屈で、自身の行いをひたすら正当化して話を聞こうとしないのです。

 

快楽による中毒患者を治すには、ひたすら忍耐が必要になります。

しかし、それでも彼らは私達の隣人になります。

聖書の言葉にこういったものがあります。

「あなたの隣人を、あなた自身のように愛しなさい。」

こう考えてみてください。

もし、あなたが中毒患者になり。どこかで悪いことだと思っているのに、快楽の誘惑に勝てずに、自身を滅ぼすような行いをやり続けているとしたら、どうでしょうか。

村八分で自身を滅ぼすというのは、隣人を自殺に追い込み殺す社会では自身もいつ被害者になるかわかりませんし。そのような社会では、子を持つ母親は処世術として自身の子に「いじめを見かけたら一緒にいじめときなさい。」と、教えますので、自身の子供がいじめの被害に合い自殺へと追い込まれる場合もありますし。会社組織では、目立ったことをして村八分に合うことを恐れ、ありきたりな改善案しか出てこなくなり、会社は衰退の一途をたどり、いずれは倒産へと導いてしまいます。

にもかかわらず、止めたいのに止められない。

このまま続けたら、自身も周りの人も巻き沿いにして、滅びの道を歩くしかないのにどうしても止められない。

そうなったら、どうでしょうか?

神様でも誰でもいいから助けて欲しいと思うのではないのでしょうか?

自分が助けて欲しいことは、相手だって助けて欲しいのです。

相手を助けるということは、自分も助けてもらえるということなのですから。

あなたの隣人を、あなた自身のように愛することは、あなた自身も同じく隣人に愛されることなのです。

私達はお互いに助け合って生きてゆくしかないのです。

しかし、その道のりは長く険しいものになるのかもしれません。それでも私達は彼らに寄り添い、あなたの内にある快楽を求める心根があなた自身を盲目にし、支配していることを根気よく教えていくしかないのでしょう。

 

また、このような中毒患者の、道徳教育を世界宗教のお坊さんや、神父さんに頼んでしまうのは少々気が引けるともいえるのですが。

ただ、世界宗教が今のように世界中に広まっていったのは、この中毒患者達に道を示し、争いや混乱の中から救ってきたからだといえます。

しかし、人類の不幸な歴史を振り返ると。宗教は物質的豊かさを求める人類の欲求から、科学によって神の存在や、天国や、地獄は否定され。世界宗教は大人世界の道徳教育の第一線から撤退を余儀なくされました。

これらの様子を見て、哲学者のニーチェなどは「神は死んだ」と言ったのですが。

しかしながら、世界宗教の持っている物語や逸話など人々を導く知識や経験は、数千年の歴史があり。今もなお人々を魅了していることは事実であり。完全に死んだとは言い切れないのでしょう。

ただ、世界宗教が道徳を人々に説くときに使っていた、天国や、地獄の、観念は一部の熱心な信者を除いては、ニーチェの言ったように死んでしまっていると言えます。

 

だとするならば、世界宗教が失った天国や地獄の観念は、ビジネスモデルとして会社が引き受け。その代わり会社が持ち合わせていない神の教えの部分、ようは精神世界の部分を世界宗教に補ってもらえれば、最良の形で道徳教育ができるのではないのか、というのが今回の経済と精神世界を融合させたビジネスモデルとなるのです。

 

かつてニーチェは「神は死んだ」と言いました。

しかし、宗教と、経済、お互い足りないところを補填し合えば。

かつてのように、社会の中心で宗教が道徳教育を施し。


 

今一度、人々の心の中に「神は復活する」といえるのではないでしょうか。



 

ここで、断っておかなければいけませんが、これはイノベーションではありません。

イノベーションを起こすためには、日本社会の村八分社会が障害になるために。

その村八分社会を克服するための改善案として提案したものとなります。

実際の精神世界のイノベーションを起こすためには、これよりもはるかに複雑なシステムを設計する必要があるでしょう。

もっというならば、ここに書いてある村八分社会の克服案すら実現できないような企業や社会では、精神世界のイノベーションという世界史を変えるような一大プロジェクトなど到底できはしないといえるのです。

本気でイノベーションを起こし世界市場のトップに立つ気があるのならば、たかだか村八分社会など克服して見せなさいということなのです。

 

では、精神世界のイノベーションがどのようなものかについてですが、残念ながらここでお話することはできません。

というのも、イノベーションが起こった後の世界がどうなるかは、イノベーションが起こる前の世界の者には分からないからなのです。

イノベーションは、起こった後の世界を具体的にイメージして、これだけの富を生み出すからやりましょうというものではないのです。

イノベーションは、そうすることが人々にとって、必要と思えるからすることなのです。

人々が何を必要としているのかというと、それは幸せな人生を送ることなのです。

人々が幸せな人生を送るために必要なものはというと、「愛」と「道徳」と「物質的豊かさ」だとなります。

そしてこの三つのものを、一つに統合する革命が精神世界のイノベーションだとなるのです。



 

長くなりましたが、ここまでお付き合い頂き有り難うございます。

私の言いたいことは、おおむね書かせて頂きました。

このため、このブログはいったんお休みしたいと思います。

できれば、このブログの記事の拡散をして頂ければ嬉しく思います。

あと村八分社会撲滅のため、このブログの内容で使いたいアイデアがあればご自由にご利用ください。

では、また何か書きたいことが出来ましたら、こちらのブログで書きたいと思います。

それはもしかしたら1週間後かもしれませんし、1年後かもしれません。

いつになるかは分かりませんが、その時はまたよろしくお願いします。



 

最後になりましたが、ここまでこのブログをお読み頂いた読者の皆様に、

 

「愛」と「道徳」と「物質的豊かさ」のご加護がありますように。



 

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