映画っていいねえ。本っていいねえ。

映画や本の感想など。ネタバレ全開なので、ご注意ください。

『戦場のメリークリスマス』作品中の裏切りについて考えてみた。

※当ブログは広告を掲載しています。

※注意!『戦場のメリークリスマス』、「影さす牢格子」「種子と蒔く者」(ヴァン・デル・ポスト『影の獄にて』収録)のネタバレがあります。

 

 

 

二回ほど『戦メリ』についての感想を書いてきたが、その後、ふと目に止まった言葉があった。

セリアズ役のデヴィッド・ボウイが語ったという言葉だ。

「原作から映画へ話の形態が変わった時、ヨノイとセリアズのキャラクターはもっと具体的な一対一の関係のようなものになったと思います。ジューダスがキリストを裏切り、恥と罪悪感のあまり自殺したが、二千年に亘ってその過ち、その恥、その罪悪感が繰り返しに繰り返されて来たというか、そんな二千年の重みを原作から感じとったんです。ところが、映画の方はこの裏切りのテーマを扱いながらも、日本の文化や思想を背景に、ヨノイとセリアズという二人の人物を通じて、もっと明確にそれを伝えているのではないかという気がします」

 

 

引用元:『戦場のメリークリスマス―シネマファイル』、講談社

色々と考えさせられてしまった。原作でもユダ(ジューダス)とキリストの関係について触れているくだりもあったなぁ…。

※関連記事

nhhntrdr.hatenablog.com

 

 

過去に感想を書いたとき、私は意図的に宗教的なテーマに触れるのは避けていた。理由は単純で、壮大すぎて私の手に負えないテーマだからだ。とはいえ、やはり『戦メリ』を語る上で宗教の話は避けられないし、それに絡んだ形で「裏切り」というモチーフにも注目する必要があるように感じた。

 

そういうわけで、今回は作中の裏切りについてごちゃごちゃ考えてみた。

過去の二回の感想の内容を踏まえているので、この感想から初めて読む方に対して非常に不親切な内容になっていることを、あらかじめお詫びさせていただく。

 

 

感想1回目(4/18、追記しました)

nhhntrdr.hatenablog.com

 

感想2回目

nhhntrdr.hatenablog.com

 

最新の感想

nhhntrdr.hatenablog.com

 

 

 

 

 

『戦メリ』における裏切り

デ・ヨンの裏切り

裏切りについて考えるにあたり、とある男のことを取り上げてみたい。軍属カネモトから強姦されたオランダ兵のカール・デ・ヨンのことだ。

カネモトとデ・ヨンの事件についても、私は過去記事で意図的に避けていた。この事件が『戦メリ』において何の意味を持つのかが、わかりかねたからだ。今でも腑に落ちきってはいないのだが、「もしかして、こうなのではないか」という考えが浮かんできたので、現時点での考えとして書き留めておきたいと思う。

 

過去二回の感想を書いた時点では、私はカネモトが無理矢理デ・ヨンを犯したのだと認識していた。ロレンスから「君はホモかと聞かれている」と言われ、否定したときのデ・ヨンの強い口調や心外と言わんばかりの顔に、「デ・ヨンは同性愛者ではない=カネモトによる一方的な加害行為である」と思い込んだのだった。

確かに平常時ならデ・ヨンにとって同性は性愛の対象ではないのだろう。だが、作中では戦時中で、彼は俘虜として収容されているという異常な状況下にある。そういうときに自分に優しくしてくれたカネモトと平時なら芽生えないはずの愛情が生じることもあったのではなかろうか。

というわけで、デ・ヨンとカネモトが相思相愛の仲だったという仮定のもとに考えてみたい。

 

だが、デ・ヨンはキリスト教徒だ。男色をタブーだと考えていただろうことは想像に難くない。カネモトとの関係が第三者に知られてしまったとき、彼があたかも被害者のように振る舞っていたのは、ハラたちが勘違いしたこともあるが、それ以上に自分の意志で男色に耽ったことを隠そうとしたからではないだろうかと思う。

キリスト教徒としての禁忌を犯したことを隠すため、デ・ヨンはカネモトを加害者に仕立て上げた。これが、デ・ヨンのカネモトに対する裏切りだ。

カネモト事件というのは、『戦メリ』世界において同性愛が如何に許されざるものだったかを示すだけでなく、裏切りというテーマを広げる役割を担っていたようにも感じる。

病棟でデ・ヨンが悪夢にうなされていたのは、カネモトを裏切った罪悪感ゆえだ。またカネモトの処刑の際、デ・ヨンが自らの舌を噛み切ったのは、愛したカネモトの後を追うと同時に、贖罪としての意味も有していた。

 

『戦メリ』世界の裏切り者が抱く罪悪感の強さはとにかく激烈なレベルであり、命すら脅かしてくるものだ。イエスをカイアファに引き渡した後のユダが自死に至ったように、デ・ヨンも自ら命を絶つという末路を辿った。

 

 

セリアズの裏切り

次に挙げたい裏切りは、言うまでもなくセリアズのものである。セリアズの裏切りについては過去記事でも言及したため、同じことの繰り返しにもなるが、改めて書いてみたいと思う。

 

学生時代、イニシエイションという儀式にかこつけて弟がいじめられているのを知りながら、セリアズは彼を見捨て、助けずに済ませた。この出来事をきっかけに歌が得意だった弟は歌わなくなり、セリアズは罪悪感から弟に会うことができないまま、戦争に参加した。

セリアズは原罪を背負った人だ。普段は他人に媚びず、決して卑屈に振る舞ったりしないが、自らが生み出した原罪に潰されるような脆弱な面もある。営倉の中、弟のことを考えながらうずくまっている弱々しい姿もまた、セリアズなのである。

 

原作「種子と蒔く者」でもセリエ(セリアズ)の裏切りについての描写がある。裏切りを犯した結果、セリエは〈無〉に囚われ、仕事や私生活が充実しているにもかかわらず、常に不安感に付き纏われるようになる。そんな最中に戦争が勃発し、彼は自ら志願して最前線に赴くようになる。無を振り切るように戦闘を繰り返す様子が、まるで自傷行為のようだと2回目の感想で書いたりもした。原作のロレンスもセリエについてこう述べている。

「でもね、死を求めているような行動をとることがときどきあるように、ぼくには思えたが。」

 

引用元:「種子と蒔く者」(L・ヴァン・デル・ポスト『影の獄にて』収録)、新思索社

裏切りによる罪悪感のため、セリエは死地に赴き、戦闘を繰り返す。

そんな彼が苦しみから解き放たれる出来事があった。彼は「啓示をうけたかのように、〈裏切り〉と呼んできたものを、いままでとは別様に理解した」のである。セリエは「人が自らの生の意識に従順にならないと、生には意味がないこと」を悟る。その話を聞いた語り部の「わたし」は、〈意識〉とは「まだ想像されたこともない生の全体性を感ずるということだろう」と推測している。

 

セリエにとっての裏切りとは「自らの生の意識に従順にならない」ことを指していた。私なりに表現させていただくならば、「自らの所属するコミュニティや文化の慣習に囚われるあまり、(意識と無意識すべてを含めた)自分の心を無視した行動を取る」ということではなかろうか。

ここでは、『戦メリ』でも同じ法則が適用されているとの仮定のもと、話を進めたい。例えば、先に言及したデ・ヨンは自分の生まれた文化や収容所での立場を優先し、カネモトその人やカネモトへの愛を切り捨てた。これが『戦メリ』での裏切りなのである。

 

 

ヨノイにも裏切りの過去があるのではないかと妄想してみる

ここまでも妄想度の高い内容ではあったが、ここから先は私の完全な想像の話なので、「こいつ、いい加減なことを言ってやがる」くらいの気持ちで読んでいただきたい。『戦メリ』にて「裏切り」という裏テーマがあるとしたら、ヨノイもそこに当てはまるのではなかろうかという妄想である。

 

まったく過去の情報がない原作とは異なり、『戦メリ』ヨノイにはわずかながら過去を語っているシーンがある。二・二六事件で同志が処刑されたこと。ヨノイ自身は三ヶ月前に満州に送られたため、決起の場には立ち会えなかったこと。それらを語った後、ヨノイはこう語る。

「私は死におくれたわけだ」

 

大島渚(監督、脚本)、ポール・マイヤーズバーグ(脚本)、戸田奈津子(字幕翻訳)、1983、『戦場のメリークリスマス』松竹、松竹富士、日本ヘラルド

この出来事に対するヨノイの感情がどれだけ複雑か、はかりしれないものがある。決起に加われなかった悔しさ、同志を亡くした哀しみ、軍人として立派に死ぬことができた同志への嫉妬、満州に左遷されたという屈辱感。ひとつだけでも抱えるのが苦しい感情がいくつも重なるわけだ。

 

さて、ここに別の感情も重なっていると勘ぐってみたい。処刑されずに済んだという安堵感だ。もしこの感情がヨノイのなかに生じたとしたら、相当に受け入れがたいものだろう。何より帝国軍人が抱くべき感情ではない。「死ぬのが怖い」と思うのが軍人としてあり得ないということは、作中でハラが明言している。

または、同志の計画が頓挫して良かったという気持ちがあったとしたら、とも考えてみたくなる。これは何の根拠もない、完全な私の妄想だ。だが、「裏切り」という観点から見たとき、この路線もあり得なくはないような気がするわけである。ヨノイは二二六事件を起こした皇道派の仲間と最初は共感し合っていたが、いつからか彼らの考えに違和感を抱くようになっていたとしたら。

生きのびた安堵感にしろ、仲間への違和感にしろ、心の中に抱くことは仲間や日本に対する「裏切り」である。これをキリスト教的に言えば、ヨノイを堕落させようとする「悪魔の誘惑」なのかもしれない。

 

ロレンスに過去を語ったシーンで私が気になったのが、それまで穏やかに語らっていたヨノイの態度が変わり、カネモトの処刑を宣言する瞬間だ。その直前、ロレンスはこう言っている。

「なるほど。あなたはあの青年将校の一人だった」

 

大島渚(監督、脚本)、ポール・マイヤーズバーグ(脚本)、戸田奈津子(字幕翻訳)、1983、『戦場のメリークリスマス』松竹、松竹富士、日本ヘラルド

実際のところはロレンスの言葉と違い、ヨノイは「あの青年将校の一人」ではなかった。劣等感を刺激された彼は急に頑なな態度を取り、カネモトの処刑実施を言い渡す。デ・ヨンとカネモトの真実を知らないヨノイにとって、同じ男性であるデ・ヨンに手を出したカネモトは堕落した人間だ。堕落した自分を受け入れがたいヨノイにとって、カネモトの存在も排除すべきものだったのではなかろうか。いや、カネモトを裁くことによって、かつての堕落した自分を裁いたつもりになったのかもしれない。

 

 

ヨノイの『戦メリ』的裏切り

同時に、ヨノイにはもうひとつの「裏切り」がある。「自らの生の意識に従順にならない」という『戦メリ』的裏切りだ。過去記事でも言及した内容だが、これについても改めて述べてみたい。

厳格な帝国軍人として生きているヨノイだが、「高名な精神家」と評される彼の自己実現は、かなり彼自身に無理を強いたものであるように私は感じる。日本人的に生きる彼の心の裏には、いわゆる「非国民的」な考えもあったのではないか。そんな考えがあるのに無理に抑圧しているからこそ、確固たる自分を持ったセリアズに心を揺さぶられ、我を見失ってしまう。

 

「自分を何だと思ってる。お前は悪魔か」

 

大島渚(監督、脚本)、ポール・マイヤーズバーグ(脚本)、戸田奈津子(字幕翻訳)、1983、『戦場のメリークリスマス』松竹、松竹富士、日本ヘラルド

セリアズに問いかけた言葉通り、中盤以降のヨノイはセリアズを「悪魔=堕落への誘惑者」と捉えているように思える。

だが、見方を変えれば、セリアズはヨノイを変革へと導く使者である。『戦メリ』的裏切りに苦しむヨノイを救えるのは、彼と異なる文化圏に生きつつ、彼と同じく『戦メリ』的裏切りに苦しんだセリアズ以外にいなかった。

 

 

裏切りを超えるもの

「英国人対日本人」ではなく「個人対個人」

ところで、原作「種子と蒔く者」にて、裏切りの苦しみから解放されたセリエが、以下のように語っている。

人生でまず必要なことは、普遍的なものを特殊なものに、一般的なものを特定のものに、集合的なものを個に、われわれのなかの無意識的なものを意識化することなんだ

 

引用元:L・ヴァン・デル・ポスト著、由良 君美・富山 太佳夫訳『影の獄にて』、新思索社

この言葉を見ていると、『戦メリ』におけるロレンスとハラ、セリアズとヨノイの関係性を重ねてみたくなる。

以前、私は「セリアズがヨノイをどう思っているのかわからない」と書いたのだが、今は自分の中でひとまず結論が出た。セリアズはヨノイのことを憎からず思っている。

 

初めて会った軍律会議の場において、セリアズのことを「敵軍の人間」ではなく「ジャック・セリアズ」として見ていたのはヨノイだけだった。同じ尋問にしても、審判長たちからの問いかけは一方的なものだ。日本人の常識でセリアズの行動を裁こうとする。それゆえに返答するセリアズの口調も叩きつけるような激しいものとなっている。

一方、ヨノイの尋問は性質が異なっている。ひと言目から、ヨノイはセリアズ側の文化に踏み込んだ形で問いかけを行う。

"To be, or not to be, that is the question. Major Celliers."

 

大島渚(監督、脚本)、ポール・マイヤーズバーグ(脚本)、戸田奈津子(字幕翻訳)、1983、『戦場のメリークリスマス』松竹、松竹富士、日本ヘラルド

このセリフで私がハッとするのが『ハムレット』のセリフを用いただけでなく、「セリアズ少佐」という呼びかけを行っている点だ。投降して以降、「日本人から見た敵」としてしか扱われていなかったセリアズが、初めて個人として認識された瞬間と言って良いだろう。その後に為される会話が、上記のセリフの対になっているように私には思える。

"You know, Captain..."

"Captain Yonoi."

 

大島渚(監督、脚本)、ポール・マイヤーズバーグ(脚本)、戸田奈津子(字幕翻訳)、1983、『戦場のメリークリスマス』松竹、松竹富士、日本ヘラルド

ここでわざわざヨノイが名乗っていたのがなぜなのかわからなかったが、このときから彼はセリアズを「ジャック・セリアズ個人」と思っていたし、自分のことも「ヨノイ個人」として見られたかったのではないかと思えてきた。同時に、ここはセリアズが個人としてのヨノイに踏み込み始めた瞬間だったようにも感じる。

自分を「敵将校」という記号的存在ではなく、個人として見てくれる。しかも、命を救ってくれた。そんな存在であるヨノイを、セリアズは好意的に見ているように思えてきたわけである。

 

くどいようではあるが、一応書いておきたい。これらの対話はヨノイが他の日本兵より物わかりが良いから成り立ったわけではないと思っている。ヨノイとヒックスリ俘虜長の数々の会話が不毛な内容だったことを思い出していただきたい。あの二人はお互いの常識を金科玉条として衝突し続け、結局は理解し合えないままに終わった。これらを踏まえると、敵同士でありながら「個人対個人」の関係に移行できたというのは、様々な要因が絡み合った末の奇跡のようなものだと感じる。

ロレンスとハラの関係にしても、ロレンスだけが暴力的なハラの奥にある純粋性を見抜けたから構築できたものだと原作「影さす牢格子」では描写されている。

 

先に引用した「種子と蒔く者」におけるセリエの言葉が、ロレンスとハラ、セリアズとヨノイというふた組の関係を端的に表しているように思う。「普遍的なものを特殊なものに、一般的なものを特定のものに、集合的なものを個に」した関係の中で種子が蒔かれ、新たなものが芽吹いたのだ。

 

 

「兵士の中の兵士」から「誘惑者」へ

ただ、新たなものが順調に芽吹いたわけではない。前半でセリアズと「個人対個人」の関係へと持ち込んだにもかかわらず、後半でヨノイは狂気に駆られる。私個人の感想だが、セリアズが「兵士の中の兵士」から「堕落への誘惑者」へ変化したことがトリガーとなり、ヨノイが狂ってしまったように見えた。

当初、ヨノイはセリアズに惹かれている理由を「セリアズが俘虜長にふさわしい男だから」だと認識していた。だが、中盤におけるセリアズ脱走からヤジマの自決にかけてのエピソードで、セリアズへの印象が変わってしまったのではないか。

 

印象が変わってしまったのはなぜか。

理由のひとつめとして挙げたいのが「セリアズが戦わなかったから」である。脱走の最中、セリアズはヨノイと遭遇する。はじめはお互いに刀を構えて対峙していたが、やがてセリアズが武器を放棄し、ヨノイに笑いかける。

シナリオ本にて、ここのヨノイはセリアズとの直接対決の機会を喜んでいる様子が描かれている。このときまで、ヨノイの中でセリアズは「兵士の中の兵士」だった。だが、セリアズは戦いを放棄した。

セリアズからすれば、このときの行動は「ヨノイを敵だと思っていない」というメッセージを表現するためのものだったのだろうと思う。だが、不幸なことに、この行為がヨノイにとって「誘惑者の行為」だと捉えられたのだとしたら。それを後押しするように、ロレンスがセリアズに「彼に好かれてるようだな」と言ったのもまずかったと私は思う。ここでヨノイが「セリアズはヨノイに好かれていると考えている。セリアズが戦いを放棄したのは、ヨノイの好意を利用して彼の心を惑わせるためである」と勘違いしたように思えるのだ。

 

理由のふたつめは、ヤジマがヨノイに諫言した後に自決したことだ。セリアズに誘惑されたことで、部下を死に至らしめたという事実は、ヨノイにとって重い十字架となっただろう。葬式の最中、ヨノイが涙ぐんでいるシーンがある。このとき彼が抱えている罪悪感はいかほどのものか。同時に、ヤジマの死によってヨノイにとってのセリアズは完全に「堕落への誘惑者」へと変じてしまったのだと私は思う。だから、ヨノイはロレンスに「君の友人には失望させられた」と言ったのだ。

 

 

「裏切り」からの救済

過去の感想でも書いたが、後半のヨノイは自分の心と彼を取り巻く環境の間でがんじがらめになっている状態だ。今回はそれを「『戦メリ』的裏切りで苦しんでいる」と表現させていただく。『戦メリ』的裏切りに苦しんだ結果、ヨノイはセリアズとロレンスを排除しようとするが、ハラによって阻止される。クライマックスの直前、俘虜たちを集合させるように命じた後、ヨノイはハラに謹慎を命じる。ストッパーとなり得るハラをも排除し、日本人将校としての己を全うしようと決意したのだろうか。いずれにせよ、広場で病人を突き倒しているヨノイは、ロレンスに「俘虜たち全員を招いて桜の下で宴を開きたい」と言っていた彼ではなくなっている。

 

そこまで狂ったヨノイを救えたのは、先にも書いたとおり、セリアズしかいなかったわけだ。また、狂ったのがヨノイではなかったら、とも想像してみる。もしレバクセンバタ俘虜収容所の所長が最初からゴンドウ(ヨノイの後任として所長の座につき、セリアズを生き埋めにしたあの人です)だったとしたら。

その場合、そもそもセリアズが死刑を免れて、俘虜収容所に来ることもなくなるのだが、それは置いておく。同じような状況でゴンドウがヒックスリを殺そうとしたときも、セリアズはヒックスリを助けに来るだろう。だが、助ける方法は違ってくるのだろうなと思う。もっと殺伐とした方法でゴンドウの前に立ちはだかり、結局は泥沼の状況にまで至ってしまうのではなかろうか。

「個人対個人」として関係を築いてきたセリアズとヨノイだからこそ、あのキスは成り立った。そして、あの「個人対個人」としてのキスだからこそ、ヨノイは『戦メリ』的裏切りから救われたのだ。

 

 

最後に

結局、最後にたどりつく結論は過去の感想と似たようなものになってしまうなぁ、と。あと、言うほど宗教的なテーマについては言及できなかったな、と(やはり壮大すぎて私の手には負えない)。

それはともかくとして、『戦メリ』という難解にして美しい作品を自分の中で噛み砕いて血肉にするためには、こうやって字数を費やしてぐちゃぐちゃと考えるのが私にとっては良い方法なので、今回もぐちゃぐちゃな内容になったことをお許しいただきたい。

というわけで、過去の感想も今回の感想も、いちファンの取るに足りないひとりごとだと思っていただけると幸いだ。

 

 

※続きはこちら。

nhhntrdr.hatenablog.com

※原作者ヴァン・デル・ポストの別作品『新月の夜』を『戦メリ』と比較しつつ感想を書いてます。

nhhntrdr.hatenablog.com

※『戦メリ』感想記事リンク集

nhhntrdr.hatenablog.com

 

 

※この記事は、全文無料公開です。ここから先には文章はありません。「投げ銭をしてもいいよ」という方は、「記事を購入」のボタンから投げ銭お願いします。今後の記事作成の励みになります。

 

この続きはcodocで購入