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若い世代の国語力について書かれた記事を読んで、ごちゃごちゃ考えた

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ネットで話題になっていた記事を読んだ。ルポライター石井光太さんが取材で子供たちに触れる中で、国語力の低下を感じたということについての話である。読んでいて、色々と考えさせられた。

bunshun.jp

 

言語によって制限される?

記事の中に「自分の気持ちを言語化できない子供たち」「つまり、言葉によって、自分が抱えている問題を把握し、どうしたらいいのか、どうしたいのかという思考ができなくなっている。」という記述があるのだが、この辺りを読みながらオーウェル1984年』のニュースピークを思い出した。

ja.wikipedia.org

一九八四年 (ハヤカワepi文庫)

 

正直、ニュースピークの恐ろしさについては『1984年』本編を読んでいるときよりも、アンサイクロペディアの「ニュースピーク」の項目を読んだときのほうが身に迫って感じられたものだった。

こういう言葉を使う世界に生きていたとしたら、人々の(そして私の)頭の中に浮かぶ思考はどのようになっているのだろうか。以前、『銀葉亭茶話』シリーズについて語った記事で、その文章の美しさについても言及させていただいたのだが、ニュースピークで書かれた『銀葉亭』シリーズなんて想像したくもない。

nhhntrdr.hatenablog.com

 

何の本だったか忘れたが、「思考は言語によって制限される」みたいな内容の文章を読んだ記憶がある。大学時代、外国人の教師が授業中に「この言葉をどう日本語で表現すればいいかわからない」と嘆いていたことがあったっけ、と思い出した。何の単語だったかはさっぱり忘れたが、その国の言葉では一単語で表せるものが、日本語では百万言費やしても表現できない、表現のしようがない。

少し前まで受験英語にどっぷり浸っていた私は、すべての日本語の単語には対応する外国語の単語があると信じきっていた。逆の事例もしかりである。だが、それは間違いだったわけである。私は件の単語が意味することを、本能的に理解できないことを残念に思ったのだった。

まあ、私の経験した事例は国ごとの文化の違いが言語に表れたという程度の話で、何ら不健全なところはない。だが、ニュースピークでは言語を単純化させることによって、体制側に不都合な単語が削除されている。結果的に、被支配層の人間は制限的な言語で思考を行う。それゆえに体制側に不満を抱くことすらできないわけだ。

 

 

プログラム外の言語を見つけた『魔法にかけられて』のジゼル

魔法にかけられて』を観ていて長いこと疑問に思っていたのが、主人公のジゼルが「怒り」という感情を覚えたときに、嬉々とした表情ではしゃいだことだ。怒りなんてストレス要因であって、こんなもん知らないで生きていくほうがいいじゃんかよぅ、と私は思っていたわけである。

ただ、ジゼルがおとぎ話の世界に生きていたことを考えると、彼女の気持ちがわかるような気がした。彼女はもともと、おとぎ話の国アンダレーシアに暮らすプリンセスで、「美しい歌で王子に見初められ、いつまでも幸せに暮らす」という人生を用意されていた。動物たちに囲まれ、毎日大好きな歌を歌う生活。そこには何の苦しみもないし、怒りを覚えるような出来事もない。ネガティブな感情は、彼女の周りから綺麗に排除されている。

 

ここでジゼルのことを持ち出したのは、上の記事の中に登場する女子高生への恐喝事件のくだりを読んでいるときに、彼女のことを思い出したためだ。恐喝事件について触れている部分を引用させていただく。

 象徴的なのは、ある女子高生に起きた恐喝事件です。その子は、わりと無気力なタイプで、学校も来たり来なかったりデートの途中で黙って帰ってしまうようなルーズな面がありました。こうした態度に怒った交際相手の男子生徒が、非常識なことをしたら「罰金1万円」というルールを決めます。それでも女子生徒は反省せずルールを破り、毎月のバイト代のほとんどを彼氏に払い、しまいには親の財布から金を盗んで支払いにあて続け、発覚したときは100万円以上も払ったあとでした。

 ところがとうの本人は、自分の被害を全く認識できず、「言われたから」「ルールで決めたから」と相手の行為を“恐喝”とすら思っていないんです。男子生徒のほうも「同意あったし。金は二人で遊びに使ったし」と平然としている。

 当人のなかでは「ルールを決めた→同意した→実行した、何が間違っているの?」というプログラミング的な理屈で完結しているのですが、社会の一般常識や人間関係を考えたら明らかにおかしいわけです。搾取されているゆがんだ関係や親の金を盗んで渡していることに疑問すら持たない。

 教師がいくら指導しても、彼女のなかには言葉がなく、自分の状況を客観的に捉えたり、なぜそれがいけないかも全く理解できていなかった。当然彼女がそのまま大人になれば生きる困難さを強く抱えますし、親になれば社会常識が欠如したまま子育てをして、負の再生産が起こります。

 

引用元:『ごんぎつね』の読めない小学生たち、恐喝を認識できない女子生徒……石井光太が語る〈いま学校で起こっている〉国語力崩壊の惨状 | 文春オンライン

件の女子高生の中には、決められたルールを疑うための言語がインストールされていなかったのだろうか。んな馬鹿な、日本語で考えりゃいいじゃん、そのための単語はあるんだし、と思ってしまったが、そういや私自身にも身に覚えがあった。

 

会社員時代、同じ部署の先輩にアドバイスを受けた。「あなたが抱えている案件、あなた自身には何の旨味もない。ただ、営業の成績を伸ばすために、あなたは上手いこと利用されているだけだよ。何でも請け負わずに、ダメだと思ったら断りなさい」みたいな内容だった。そのとき、私は「わかりました」と言ったのだが、今思い出すと、まったくわかっていなかった。

引用部分に倣って表現するなら、私は「営業から仕事を振られる→どんな条件であろうと請け負う」というプログラミングに沿って動いていた。「仕事を断る」という行為が私の中にインストールされていなかった。結果、「断りなさい」と言われたにもかかわらず、折角の先輩の言葉は私の中で意味を持たなかったのだ。このとき、私の中で「仕事を断る」という言葉は、「シゴトヲコトワル」という、意味をなさない八文字の何かだった。

数年後、会社を辞めて余裕ができたときに初めて、「シゴトヲコトワル」という八文字の何かが「仕事を断る」という日本語へと変化した。そのとき初めて、私は「あのとき先輩が言っていたのは、こういうことだったのか!」と理解したのだ。アホみたいな話だが、本当の出来事である。

 

ジゼルもまた、「歌を歌って楽しく過ごす→王子に見初められる→王子と結婚して、いつまでも幸せに暮らす」という生き方だけがプログラムされていた。それを疑おうにも、疑うためのプログラムが、言語が彼女にはない。そんな彼女が現代ニューヨークへ来てしまったことで、怒りや嫉妬というおとぎ話のプリンセスには無縁だった感情を、身を以て知った。言うなれば、ジゼルは「プログラム外の言語を見つけたプリンセス」なのかもしれない。

nhhntrdr.hatenablog.com

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最後に

閑話休題

人の思考が、その人の持ち合わせている言語の豊かさに縛られるのだとしたら、ニュースピークのように複雑性や論理性を持たない言語しか持てなかった場合を考えると、少々暗い気持ちになってくる。別に今の子供たちは『1984年』の人たちのように体制側から言語や思考法を強制されているわけではないから、良いと言えば良いのかもしれない。しかし、「自分の気持ちを言葉で表現できないから、問題の把握も解決への模索もできない。大人に理解してもらうこともできない」という状況は可哀想な気がする(可哀想。こういう書き方は良くないな。だが今の私にはそれこそ、この問題について的確に私自身の気持ちを言い表せる言語がない)。

 

こういう状況を改善するために実施されている対応策などが石田さんの著書『ルポ 誰が国語力を殺すのか』で紹介されているらしい。ぜひ読んでみたいところだ。

私は若い世代の子と直接ふれ合う機会はないのだが、できるだけ彼らを取りまく環境を知っておきたい。第一、今の子供たちがニュースピーク的な言語を持つようになった経緯に、私のようなおばさん世代が無関係なわけがないのだ。ニュースピーク的言語は恐らく突然変異的に湧いたわけではないと思う。私を含めた先行世代の歪みを若い世代が食らっているのだとしたら、きちんと原因をつくった世代の一人として、状況を把握しておかねばと考える次第だ。

 

当該記事を今日読んだばかりなので、まだ考えがごちゃごちゃとして、上手くまとまっていない。時間をかけて、色々と考えてみようと思う。