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辞世の句

武田信勝【辞世の句】

武将データ
なまえ たけだ のぶかつ

武田信勝

Wikipediaより

出身 甲斐国
家紋 武田菱武田菱
主家 武田家
享年 16歳(1567~1582)

 

武田信勝の辞世の句

【あだに見よ たれも嵐の 桜花 咲き散るほとは 春の世の夢】

歌意:はかないものと思え。人は嵐の中の桜のようだ。咲いて散るまで、春の世の夢のような人生なのだ。(咲き散る=武田家の栄枯)

 

まだき散る 花と惜しむな遅くとも つひに嵐の 春の夕暮れ

歌意:まだ散る時期ではないのに、散るだなんて、早すぎるとは思わないでほしい。遅くたって、いずれ春の嵐に吹かれて散って(死んで)しまうのだから。(あらし≒在らじ(死ぬ) の掛詞)

 

 

 

 

武田信勝ってどんな戦国武将?

戦国のサラブレッド

父は武田勝頼であるため、祖父は武田信玄です。母の龍勝院は、織田信長の養女であり、姪でもあります。織田家と武田家の両方の血が受け継がれている戦国のサラブレッドのような人でした。

 

武田勝頼の頁でも書きましたが、勝頼は諏訪氏の名跡を継いでいたため、家督を継ぐことには難がありました。また、兄の義信は今川家との関係を断ち切るために廃嫡されてしまったため、次期当主の座を得ることとなりました。

 

祖父の死と凋落の始まり

野戦最強と謳われた武田軍に陰りが見え始めるのは、1573年に起こった祖父・信玄の病没からです。一枚岩ではなかったた武田勢をまとめていたカリスマがいなくなってしまい、土台から緩んでいきました。

これを象徴するのが1575年の【長篠の戦い】です。織田・徳川軍が鉄砲を用いた新集団戦術を活用し、山県昌景、内藤昌豊ら有力な将軍を次々に失い、大敗を喫してしまいます。

 

血縁の力では和睦にできず

亡国の兆しさえ見えてくる武田家は、佐竹義重と同盟を結び、義重を仲介に織田信長に和睦をもちかけます。

不利な状況は承知の上で、信雄の血の縁に縋って結ぼうとしたのです。しかし、この和睦が結ばれることはありませんでした。すでに織田・徳川でさらなる武田家侵攻の準備を進めていました。この融和の失敗は、母の龍勝院がなくなっていたことも要因の一つとされています。1571年に亡くなってから、織田家は武田家を血縁の結びという勢力から除外していました。長篠の戦いもその一つだったのです。

 

血統書にならんばかりのサラブレッドの血をもつ信勝でしたが、その血は政治利用できるところまでの価値にはなりませんでした。

 

16歳での死

家臣に見放され、次々と裏切る家臣から、どうにか勝頼と共に天目山のふもとに落ち延びます。頼れる味方はおらず、押し寄せる織田軍に全てを悟り、自害しました。享年16歳、その若すぎる死をもって、武田家の嫡流は潰えることとなりました。

辞世の句は、2句とも桜に準えるものでした。信勝にとって思い入れのある花なのか、桜の満開から散るまでの盛衰を見て、武田家が最強と謳われた時期を見ていた幼少期の自分と、没落寸前の今を重ね合わせているからなのかもしれません。

 

 

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