RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『地獄の季節』アルチュール・ランボオ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

16歳にして第一級の詩をうみだし、数年のうちに他の文学者の一生にも比すべき文学的燃焼をなしとげて彗星のごとく消え去った詩人ランボオヴェルレーヌが「非凡な心理的自伝」と評した散文詩『地獄の季節』は彼が文学にたたきつけた絶縁状であり、若き天才の圧縮された文学的生涯のすべてがここに結晶している。

 

1868年に悪政を轟かしていたスペイン女王イザベラに対抗すべく、政府は軍事クーデターを起こしてフランスへ亡命させるに至ります。空位となったスペイン王座を利用しようと、プロイセン首相のビスマルクは自国のポルトガル王家血縁者を推薦し、傀儡政権を成立させようと企みます。スペインとプロイセンの密な繋がりはフランスにとって脅威となる恐れがあったため、ナポレオン三世はこの推薦を阻まんとプロイセン王ヴィルヘルムに撤回を求めました。このとき、大使を送って会談を行いましたが、ビスマルクは撤回要求を悪意に満ちた誇張をして、ヴィルヘルム王へナポレオン三世が脅迫をしたかのような伝文を周辺諸国へ送り付けます(エムス電報)。この挑発と国内の反プロイセン感情が合わさり、ナポレオン三世は宣戦布告して普仏戦争が始まります。軍備を整えた四十万人のフランス軍勢は恐れもなく乗り込んで行きましたが、プロイセン側には南北ドイツが加わった百二十万人もの軍勢が待ち構えていました。十ヶ月の奮闘も虚しく、ナポレオン三世は白旗を掲げます。


ロレーヌ地方の一部と五十億フランを譲渡するという大損害を受けたフランスに、プロイセン軍は入城してパリの街を闊歩します。飲食店は無償で喰らい尽くされ、邸宅に蔓延って住人を召使のように扱い、女性を娼婦の如く呼び寄せます。フランス国民の怒りは募り、遂に命懸けの抵抗を始めます。集団となった対抗組織は止めどない求心力を持って、パリを中心に国政を脅かすほどの団体となりました。労働者政権として拡大したこの組織は、その意思表示として軒先へ黒旗を掲げ、パリ=コミューンと名乗って全面的対抗組織として活動を始めます。この政権の大統領として任命された革命家のルイ・オーギュスト・ブランキは、権力と人権の保護を訴えてコミューン内から支持を受けていました。彼が目指す革命的共産主義は、組織から国土全体へ広まり、新政府としての求心力をさらに強めていきます。しかし、プロイセンビスマルクはこの組織を放置することなく、圧倒的な軍事力で抑圧に乗り出します。コミューンの拠点がパリにあることから四方を塞いで孤立させ、炙り出すように武力で攻め寄ります。逃げ道を無くしたコミューン兵士たちはパリの街路へ火炎瓶を投げ入れて抵抗するものの、約一週間を掛けて戦力を削がれ、ペール=ラシェーズ墓地へ追い込まれて全滅に至ります(血の週間)。これによって四万人以上のコミューン参加者が逮捕され、三百七十人が死刑、四百人以上が強制労働を与えられました。


アルチュール・ランボオ(1854-1891)は、陸軍大尉の家庭に生を受けました。裕福な環境と敬虔で信心深い母の元で健やかに過ごします。勉学で優秀な成績を収めた彼は、シャルルヴィル高等中学校へと進み、修辞学教授ジョルジュ・イザンバールと出会います。彼は革命思想の持ち主で、ランボオも思考を刺激され、詩作に触れながら影響を受けていきます。自らも詩作に没頭すると、イザンバールにシャルル・ボードレールと並ぶ高踏派詩人テオドール・ド・バンヴィル詩篇を送ってみるように助言されます。こうして、僅か十五歳にして第一級の詩篇を生み出す詩人が誕生しました。


ランボオはその年、1870年のパリ、つまり普仏戦争真っ只中のパリへ家出同然で駆けつけます。動乱の空気を直接吸い込んで、血や煙を目の当たりにしました。程なく彼は無賃乗車の罪でシャルルヴィルへ送り返されますが、その後も家出を繰り返します。フランスだけでなくベルギーにまで足を伸ばす傍らで、戦地に纏わる詩篇を幾つも生み出しました。目に映る戦地の光景、戦争が与える不幸、絶望に蹲る民衆、貧困による諍い、希望を無くした虚な目が、彼の心を支配していきます。やがて個を客観的に捉える目、地獄のような世界に佇む個を見つめる目を手に入れます。数度目のパリへ向かう際に携えた『酔いどれ船』には、パリ・コミューンの運命を題材にしていながら、人生の達観を含んだ凡そ十代にして創り上げだとは思えない詩篇でした。そして、その詩篇を手に取って感銘を受けたのが詩人ポール・ヴェルレーヌです。

しかはあれども、われはあまりに哭きたり。
あけぼのはなやまし、
月かげはすべていとはし、日はすべてにがし、
切なる戀に醉ひしれてわれは泣くなり、
龍骨よ、千々に碎けよ、われは海に死なむ。

『醉ひどれ船』上田敏


ヴェルレーヌは詩の韻律を巧みに用いて、音楽的に流れる美しい詩篇を作ることが特徴的で、十九世紀後半を代表する作曲家クロード・ドビュッシーなどにまで影響を与えたフランス詩史における重要人物の一人です。ランボオの才は瞬間的にヴェルレーヌに認められて、詩作の成長と後押しを目的として共に行動するようになります。やがて、彼らの関係性は信頼から愛情へと変化して、公私共に互いに離れない生活を送ります。二人は居住地をパリから転々と移動させて暮らしました。そしてベルギーにまで辿り着いたとき、ランボオはパリへ帰還したいとヴェルレーヌへ打ち明けます。構築した幸福な二人だけの世界の崩壊を突き付けられたヴェルレーヌは、絶望と怒りに身を任せて拳銃をランボオに向けます。それでも自らの意志を唱えるランボオに、正気を失ったヴェルレーヌは発砲してしまいます。こうして終えた二人の甘い閨房生活は、苦い絶縁で幕を閉じました。その期間に生まれた詩作品が本作『地獄の季節』です。1873年にこの詩篇をまとめ終えたランボオは、手掛けていた作品や世に出した作品を全て暖炉で燃やしてしまい、一切の文学を捨て去ってしまいます。育てられた詩才にヴェルレーヌの影が強く見えていたからかもしれません。


英語を学ぶためにイギリスへ向かうと、そこから放浪の旅が始まります。イタリア、オランダ、オーストリア、文学を捨てた彼は何かを探すように諸国をまわり、各地の芸術や社会を眺めます。それでも彼の芸術家として、もとい個の根源としての心が満たされないまま時だけが過ぎていきます。この数年間は語学の習得に専念します。学ぶために軍への入隊さえ志願します。目的があるかのように必死に学び、各地の文化を吸収していきます。1880年キプロス島へ渡ると、幸運な出会いから貿易を生業とする商社に新事業要員として雇用されます。アラビア半島の南端にある港湾都市アデンにてキャラバンと共に交易を行う仕事でした。そこから時を経て、海を渡り、砂漠を越えて、企業が倒れ、新たな商取引を始め、続く半生を貿易商として暮らしました。

ランボオが文学を捨てたあと、ヴェルレーヌがフランスで発表した『呪われた詩人たち』によって、結核により早逝したトリスタン・コルビエール、語法を無視した難解な詩作で知られるステファヌ・マラルメ、などと名を連ねてランボオが書かれて国内で賞賛されました。そして、後世にまで名を残して詩人たちに影響を与え続けています。


『地獄の季節』では、景色を彩る樹々や土、砂、風、空、星などが、血煙と硝煙に包まれているような、息苦しく烟った空気のなかを歩くような、陰惨な印象の言葉をもって綴られています。目に映る全てが暗く、手に取るものが全て腐敗して、聴こえるものが全て嫌悪を齎す、苦しみの世界です。彼の身の回りを包む世界はそのように息苦しく、生きる希望さえも削がれる景色に感じられました。そして、取り巻く社会に対する諦めの達観とも言える人生の総括を十代にして吐き出してしまうのです。しかし、僅かに残った希望は、自らが自らに救済を求める姿勢のように、どこかに違う世界はないかと探し求めます。家族、親族、友人、そして愛するもの、全てを得ても満たされない違う世界を望む意思は、自分を含めた世界を客観視します。そして柵や制限の無い真の自由を求めて意識を詩作に傾け続けました。パリ・コミューンが目指した「自由と友愛」と、自身の達観した社会を混ぜ合わせた詩篇は、苦悩と無情に包まれています。

頌歌はない、ただ手に入れた地歩を守る事だ。辛い夜だ。乾いた血は、俺の面上に煙る、このいやらしい小さな木の外、俺の背後には何物もない。……霊の戦も人間の戦のようにむごたらしい、だが正義の夢はただ『神』の喜びだ。


ランボオが文学を捨てたのちに多言語を学んで貿易商となって多くの国々と接点を持ったことは、文学の深みに意識を潜らせて燻った意識を世界へ解放するために行ったことであると捉えることができます。世界に対して、諦めの達観から世界への飛翔へと移行させた意識の変化は、「自由と友愛」を求め続けた結果であるとも言えます。


本作『地獄の季節』には、ランボオの意識の片鱗が幾つも散りばめられています。悲観的で否定的な文面の中には、自身への救済を望む声が潜んでいます。彼の意識を感じることができる作品、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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