徳川幕府の埋蔵金

世界は荒廃の入り口にある。気候変動、戦争、飢餓、疫病、貧困、格差。今こそ埋蔵金が世に出る時ではないだろうか。

黄金の行方 徳川幕府の埋蔵金 改訂版

2024-04-07 15:08:01 | 冒険探索

序章

令和6年1月1日(2024年) 能登半島大地震が起きた。阪神淡路大震災(1995年)以降 M6.5以上の地震が実に20回以上起きている。この中にはM9.0の東日本大震災もあり、又この30年間で火山の噴火や豪雨による被害も度々起きている。財政も含め国家の存続に不安を抱くのは私だけでしょうか。紛争や感染、飢餓と世界を見ても同様に様々な災害が襲っている。しかしながら人々に希望を与えてくれるリーダーはどこにも表れていない。
1997年、私が代表をしていた日本トレジャーハンティングがデイリースポーツの日曜版の娯楽記事で取材を受けた(本書のあとがきに添付)。その時に掲載されたコメントが手元にある。
『我々も財宝も時の流れの中で運命が定まっているのではないでしょうか。とすれば財宝も時期が来ればおのずと姿を現すのでは…』
令和6年、今がその時ではないでしょうか。埋蔵金は紛争や権力者に使われるものではありません。国や民の平和の為に埋蔵されたものです。
埋蔵金が世に出て世界の平和の為になる事を願ってやみません。

序章 その2
どうしてもこのことを付け加えたい。そんな思いで序章その2を載せた。
2024年3月30日、NHKで戦後間もない下山事件のスペシャル企画番組があった。下山事件とは、日本が連合国の占領下にあった1949年(昭和24年)7月5日朝、国鉄総裁・下山定則が出勤途中に失踪、翌7月6日未明に轢死体で発見された事件であり、迷宮入りした事件である。後にこの事件はロシアのスパイ活動をしていた韓国人の李の仕業としてアメリカに言い含められた日本の高官は終止符を打った。

今回のNHK番組を見た多く方は、この事件はアメリカの国益のため、アメリカの諜報機関が下山暗殺に関与したことを理解したと思う。ここまではっきりTV番組で言えるところまで日本が来たことがうれしい反面、戦後80年近く掛かった事に考えさせられる。実はこの事件の真相に近いノンフィクションを松本清張氏が『日本の黒い霧』という題名で発表している。その内容は、当時日本を占領下に置いていた連合国軍の中心的存在であるアメリカ陸軍対敵諜報部隊が事件に関わったと推理したもので、今になって見れば実に的を得たもので、その情報収集や推理に頭が下がる。
私が何を言いたいのか。本書の改訂版2の中で「小栗上野介の暗殺と明治維新」を載せ、小栗の死を暗殺としたのは、討幕派を洗脳したイギリスの暗躍によるものと判断したからで、単に官軍の処刑ではないという事を、この下山事件が証明するように、自国の利益を優先する米英が自国に不利益な人間を抹殺する事が行われていた事を読者に理解してもらいたいからだ。

 

黄金の行方 徳川幕府の埋蔵金 改訂版

はじめに
私が書き残しておかなければ、永遠に埋蔵金が発掘されないであろうと思い、気力と体力のあるうちに34数年前に没頭した埋蔵金探索の調査を記載する。内容は30年前に日本トレジャーハンティングクラブ( JTHC)の会員向けに作成した内容もあり、紛らわしい所には年号を入れておく様にしたが、現代に修正することは困難な箇所もある。そのため時代考証は当時のまま記載している項も多くあるのでご容赦願いたい。
また、当時、埋蔵金発掘番組が世間を騒がしていたことを記憶されている方もおられると思うが、そのTV局に番組の修正を依頼した経緯なども付け加え、埋蔵金の真実に迫ってみたい。
本書はノンフィクションであるが、推理の部分を20%とすれば、正しくは80%事実であると言ってよい。ただ史実(歴史書など)とされているものや書籍にある口伝がどこまで本当かということは分からない。私は物書きでもなく極めて作文は苦手であり内容は雑文であるが、所々に参考になる文章を引用させていただき、何とか構成している。また、申し訳ないが敬称も省略させて頂く。
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★日本トレジャーハンティングクラブ( JTHC)
現在、同名のクラブがあるが、私がJTHCに入会した頃( 1986年ころ)はなかったように思う。JTHCは当時確か東京電機大学の講師をしていたKが作ったもので、私も当人からそう聞いている。また、当時としては早々とHPも作っていた。
私がJTHCを引き継いだのはKから頼まれたもので、彼が中国地方に転任になった時期だった。その後、彼は埋蔵金探索を引退宣言をしていたが、今は埋蔵金に関するHPもアップしているので、興味のある方は探して見てほしい。
Kもマスコミに多く関わりがあるが、埋蔵金発見には至っていない。だが、彼の調査は同名のクラブとは比較にならない立派なものである。
私はというと、当時沖縄の離島で暮らすか、日本本土内の移住かで悩んだが、結局沖縄に移り住んだため、探索活動を断念し、JHTCは中断したままで消滅してしまったが、機会があれば後進に委ねたいと今でも思っている。
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黄金の行方を記載するにあたり、一番懸念している事は埋蔵金について少しでも探求した人に大きなヒントを与える事になり、むやみに穴掘りを始めないかという事である。
Kの頼みで、沖縄に来てから一度だけ赤城山麓に出向いたことがある。トレジャーハンティングの会員からではなかったが今発掘中なので見てほしいとの事だった。発掘現場は何の根拠もないところで、理由を聞くと夢の中でお告げがあった場所の様だった。彼らの発掘は事の大小があれ、某TV局と何ら変わりはない。確証に近い根拠がない限りやたらに掘り返してはならないのである。
中型のパワーショベルで、道路傍を掘っていた。私はくれぐれも法的に許可を得て発掘を続けるよう伝え、早々に引き上げてきた。


TBSからの手紙

この手紙を頂いてからしばらくして、当時在住していた町田市でTBSディレクターと会ったのだが、元々は私が番組宛てに「 埋蔵金に関する伝承事をもう一度見直した方が良い」というような内容で、いくつかアドバイスをした手紙の返事でもあり、是非お会いしてとの事だったが、
のこのことTV局に出向き先方のペースにはめられても困るので、ホームで会った訳である。
この手紙にもあるように、TV局も赤城山麓で埋蔵金を3代にわたって発掘しているという水野家の伝承事の偽りに気づいており、何か新しい情報が欲しいという理由で私に会いに来たのであるが、「 いい加減に出ないとわかっている発掘番組を止めませんか」という私の言葉に顔色を変えてしまった。
また、トレジャーハンティングクラブ( JTHC)の活動内容なども説明し、迷惑もお伝えした。やたら自説を唱えそこら中を掘りまくるトレジャ-ハンタ―を見ている彼らにとって、郷土史家や学者などが書籍を紐解き、現地を訪ね、探求するというスタイルが異様に見えたのかもしれない。
余程堪えたのか、週刊誌にでも話されては困ると思ったのか、彼はこう言った。「 穴掘りで相当な赤字が出ているので、あとツークル( あと二回の放送)だけやらせてください」。彼は私よりも7~8歳若く、また彼の余談で、この発掘番組でTBSを辞め、現場にのめりこんでいるというAD( アシスタントデレクター)の話も聞いているので、その辺の同情もあり、穏便な対応をしたと思う。
彼には2~3の情報を伝え、偽りの部分の修正をお願いした記憶がある。その後、放送された番組で訂正した内容をテロップで流し、誇張を削除はしたが、大きな修正はされず、収録されていた残りの2回分の放送をして幕を閉じた。
それから2~3年後だったと思うが、性懲りもなく前回の続きのような番組を作り、再び埋蔵金発掘を失敗に終わらせたのである。その事はどうでも良いのだが、他局に委ねた様なエンディングに悲しくもあり、また残念な思いをした。所詮テレビ局の番組であったにしろ、夢とロマンを視聴者に残してほしかった。今から思うと、この頃から私の埋蔵金探索熱も急速に冷め始めた様な気がする。しかし今はあの時彼らに銅板の謎解きを教えないで良かったとつくづく思っている。・・・・・・・・

講談社のKさん
本書を書くにあたり、私のあの時が何時だったのか、どうしてもその記事をもう一度見たいと思い、2018年の秋から奔走した。
Kさん---
今月は弊社の決算月でその仕込みでバタバタしていてご連絡が遅くなりました。スミマセン。 まず倉庫ですが、この倉庫は通常の倉庫と異なり、いわゆる見学を受け付けていません。出荷倉庫ではなく永久保存用の倉庫ですのでこのような運用になっています。 次に合本ですが、私は閲覧可能ですが社員でなく、かつ仕事ではない一般の方の閲覧ができるかどうかはわかりませんので
一応明日聞いてみます( 私が付き添えば可能かもしれませんので)。 最後にコピーですが、これが一番手っとり早い気がします。 1962、1963年発行までわかっているのであれば( 月号とかその記事を読んだ季節とかはわからないですよね)、後は記事の内容を教えて頂ければわかるかと思います。2年分で約100冊あるのでお時間を頂くようにはなりますが。 それではご回答をお願いいたします。
私----
御多忙の折、ありがとうございました。 私も首都圏の図書館などを色々と蔵書の確認をいたしました。 その中で合本以外の冊子別に蔵書があったのは「 明治大学 現代マンガ図書館」でしたが、欠落号が多いため有料会員( 6000円)になって、閲覧費用を掛けながら探しても、見たい号がなければ無駄になりますので止めました。 そうこうしているうちに国会図書館に合本があることが分かりました。これも、一度に閲覧することが出来ないので何度も閲覧申請をすることになります。 覚えている限りの記事の内容をお話いたしますので、その号数が分かれば国会図書館で一回で閲覧できるので助かります。 国会図書館の件は、いろいろとお忙しい中を確認して頂いているので、ご連絡があってからと思っていました。
見開きであったのか巻末であったのかは覚えておりませんが、記事は3~4ペ-ジあったと思います。 赤城山埋蔵金発掘○○億円もうすぐ宝庫にたどり着く・・こんな見出しです。
当時、赤城山で埋蔵金の発掘をしていた三枝茂三郎にスポットを当てております。 小さな発掘品( 亀に形をした石や模様の書かれた漆喰板など)の写真もあったように記憶しております。 この記事の掲載が昭和37年の7月頃から38年の2月頃ではないかと思いますが、もしかしたら36年の7月頃からかもしれません。
Kさん---
今週になってから1962年6月~1963年4月の合本を見てきました。 読み物の場合、目次にそれぞれのタイトルがついていますのでそれであたってみましたが、結果としてそれらしきタイトルのものは見つかりませんでした。 明日以降1961年の7月近辺をみてみます。 とりあえず、中間報告という事で。 ----
今週1961年5/28号~1962年6/27号をあたってみましたが、やはり該当するものはありませんでした。国会図書館のデ-タベ-スでは赤城山埋蔵金で検索したところ、結構ヒットしました。ただ書名だけですので、内容を調べる時間はかなりかかりそうです。お役に立てずすみません。
私----
少年マガジン閲覧の件をご報告させていただきます。小生、4日に成田空港に着き、群馬、埼玉と周り東京には9日に入りました。7日は埼玉から、10日は葛西から永田町の国会図書館に行き、どっぷり調べてみました。冊子の索引だけですと記事を見落とすような気もしましたので、ページを追って調べてみました。結果として、見つけることはできませんでしたが、昭和30年代の少年マガジンの記事傾向がある程度分かり、当時を思い出したりしながら楽しい時間を過ごしました。冊子の傾向的には少年サンデ-にその手( 埋蔵金や宝探しもの)の記事多いことが分かりました。そして、サンデーの記事で1963年の25号と41号、42号に類似の内容を見つけることが出来ました( 残念ながら赤城山の埋蔵金ではない)。少年サンデーも調べたい年代をすべて見ることが出来ませんでしたが( 号の欠落と終了時間のため)、図書館の終了間際、私の目に『 吉展ちゃんを探そう』という記事が飛び込んできました。「 これだ」と、叫びそうでした。
1963年3月1日吉展ちゃん誘拐事件が起きました。身代金目的の誘拐事件です。平成時代のように悪質な事件がゴロゴロしている時代ではなく、当時はこの事件が日本国中が注目する大事件であったのです。いまでは到底記事として載せることが出来ない内容が少年冊子にも載りました。
それがこのタイトルでした。『 愛読者の皆さんに訴える、吉展ちゃんを探そう』...                     
実はこの事件があった時、当時、私はこう思ったのです。赤城に行った後でよかった。この事件の後だったらどんなに怒られたことかと思ったことを、最後の最後に図書館で思い出させてくれました。これにより、再度図書館で調べる年代を絞ることが出来そうです。私が朝早く家を抜け出し、たった一人で赤城山に向かったのは山頂に残雪の残る3月後半から4月中旬だったことは覚えていますので、そうするとやはり1962年が妥当で、少年冊子の記事は1961年の秋きから1962年の春までという事になり、次回は見つけることが出来そうな気がします。.........以上がご報告となります。
Kさん-----
雑誌の件、残念でしたね。また何かあればご連絡をください。「 吉展ちゃん事件」は知っています。私の亡くなった伯父が刑事で、この事件解決に貢献したとかで賞状をもらっていました。

冒険の始まり
昭和38年( 37年かも)、まだ肌寒い4月の朝だった。枕元に置手紙を残し、ありったけの小遣いを持ってそっと布団を抜け出し家を出て、早朝の電車に乗った。東京( 上野)から赤城( 前橋)に向う電車の中は人気がなく、いくら冒険心満々の顔をしていても10歳の少年であり、今思えばよく車掌に色々と聞かれなかったものだと思う。とにかく目的は週刊少年雑誌に掲載された埋蔵金発掘者の三枝さんに会うことだった。誰に発掘場所を尋ねる訳でもなく、赤城山頂の大沼までバスで行き、湖畔に15分くらい居ただけで、帰りの電車賃と時間が心配になり、結局、トンボがえりで前橋駅まで延々山を下り6時間も歩いて戻った。兄に上野駅まで迎えに来て貰うはめになり、家に帰り、こっぴどく叱られるかと思ったが、母が半べそをかいていた事を今でもよく覚えている。
当時流行っていたナップサックの中に筆箱とスケッチブックを入れており、山頂からの帰りに2~3ヶ所スケッチをし、その後油絵にしたのが20歳を過ぎる頃まで、家にあったのは覚えているが、その後はどうなったのか分からない。

少年雑誌の記事の内容は今でも覚えている。色々な発掘品と三枝さんの写真が出ており、あと数週間で宝庫にたどり着くというような内容であった。後年分かった事だが、この記事は昭和36年に刊行された畠山清行の著書『 ルポルタージュ埋蔵金物語』を元に少年雑誌の出版社が三枝氏を取材したものだと思う。
今でこそ思い出話として語れるが、漫画であれ小説であれ、書籍には人を動かす力がある。人生を左右する事もある。ましてや埋蔵金探しの話は少年の冒険ロマンそのものだ。初めて赤城に行った時から埋蔵金探索のロマンを持ち続けていた訳ではない。それから20数年の時が流れ、あるテレビ番組が遠い記憶を思い起こさせ、以来暇さえあれば埋蔵金の調査に出掛け、机に向かうきっかけとなったのである。

その番組は、日本テレビの「 謎学の旅」と言う番組であり、『 驚異の暗号歌-かごめかごめの謎』という題名の2週に渡る特集で、かごめ歌に隠された埋蔵金のありかを探るという内容であった。その見事な推理、解説、謎解きは、近年放送されたTV番組とは雲泥の差があった。
しばらくして畠山清行著『 日本の埋蔵金』を手にし、この著書が多くのトレジャーハンターの埋蔵金調査に影響がある事もその時はじめて知った。以後、私の調査も畠山氏の著書が基本になったことは言うまでもないが、他のトレジャーハンターの様に思い込みや、正夢や、占いなどであちこち掘りまくるものではなく、畠山氏同様に調査の大半は謎解きに費やし、図書館通いと現地調査を繰り返し、歴史をひもとき推理した。
調査の基本はそれぞれの状況下での人間の立場や心理を解析する事に重点を置き、史実( 史実とされているものも含め)と照らし合わせ、矛盾が起こらぬ様に心掛けた。謎が謎だけに、易学を始め、四柱推命、九星気学、十二支や五行大儀を理解することは勿論ではあったが、一番困らせたのは、たった130年位前の日本がなかなか見えなかったことである。今の時代とは違い歴史とは勝てば官軍で都合の良い様に作り変えられているからである。

推理がある程度まとまりかけたころ、小林久三著『 200兆埋蔵金の謎を解く』と八重野充弘著『 徳川埋蔵金伝説』が出版された為、一度目を通してみようと思ったことが色々とその著書の問題点を説明する結果となり本書( トレハンクラブの会員向けの会報誌)の遅れとなったのである。
畠山の懸念通り、氏の著作を無断で引用している本がたくさんある。これは著作の中の囮文面をそのまま引用しているのですぐ分かるのだ。この単純な囮にかかっているのが、某テレビ局であり、八重野充弘、小林久三である。許可を得ているものであればいざ知らず、盗用している物もあると聞いて呆れてしまう。

畠山は『 日本の埋蔵金』の中でこう書いている。
雑誌新聞あるいはテレビラジオに使われていたものがどうして私の著作の盗用と分かると言うと、私の文章には囮が仕掛けてあるだ。実際の話にしても私はその取材に50年の歳月と莫大な費用をかけている。古文書や古記録を買うことはしてないが毎年数ヶ月間旅で暮らすのが例だ。この費用だけでも累計すると相当な金額になる。こんな苦労をして集めた資料をみすみす他人に盗み撮りされるのも癪だから話の筋そのものには影響のない「 人名」とか「 数字」「 年月日」などを替え、例えば「 後藤」という人物の名を「 佐藤」に書いておくというようなことにして盗み撮りをされた場合一目でわかるような仕掛けを文章の中にしてあるのだ。これを盗み撮りするだけならまだしも、中には私の資料を盗んだ事を隠すためまるで自分が埋蔵者でもあるかのようにでたらめの場所や物語を付け加えているものもある。その新聞や雑誌の編集者あるいは作家にしてみると面白く読ませさえすればいいつもりだろうが、実際に埋蔵金の研究なり発掘なりをしている者にとってはこれほど迷惑な話はない。埋蔵金の探索には親子何代かにわたって心血を注いでいる人もあれば、このために命を無くすものも多いのである。このデタラメな記事を信じて一生を棒に振る人間が出ないとも限らないのだ。

私は始めにこの囮を探し出そうとした。関係書籍を漁ってもなかなかその糸口が見つからない。迷路に入った。しかし、現地調査をし始めると、その囮がだんだん見えてきたのだ。囮にしてはあまりにもお粗末だった。畠山氏はこう言いたかったのではなかろうか、最低このくらいは自分の足で調べなさいと。本書はこの囮をはっきり指摘し記載する。これは伝承事を調査をする上で大変重要であり、これから埋蔵金探索を始める諸君にとって無駄に迷走することもなく役に立つと思うからである。
畠山清行著書は上下巻含めて890ページになり、文字も小さい。今風のエッセイ本に例えるなら軽く2000ページくらいにはなる長編である。そんなわけで今回( 令和元年)もう一度読み返すだけでも相当時間を費やした。そして改めて気がついたことがある。畠山は赤城山麓や多田銀山の埋蔵方法について八門遁甲の秘物埋蔵法と説いているが、八門遁甲の解読や自身の調査結果の解説は全編を通してしてはいない。 
著書の内容は全国の埋蔵金話を物語調で書いており、これでもかというほど諸説が飛び交う。しかし、こうだという結論があるわけではない。いわばネバ-エンディングスト-リ-で後は読者自身で想像してくれという内容である。この中身がいい加減なものなら履いて捨てるのだが、畠山が50年もかけた調査であるのでグイグイと引き込まれる。

八問遁甲の秘物埋蔵法とは発掘者にあえてそれらしい証拠品を見つけさせ、のめり込ませるという手段で、何年何十年もかけて探した挙句、結局、元の木阿弥で結果が出ないまま、今度はこっち、その次ははあっちということを繰り返し、最終的には行き倒れにでもなるかのように朽ち果てるというものだが。畠山の埋蔵話にはどれもこの証拠品のような餌( 著者の推理を少しだけ載せる)がある。意識してか知らず知らずのうちか、畠山の著作が八門遁甲の術にはまっている気がしてならない。 
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本書は行き掛かり上、日光の埋蔵金( かごめかごめの数え歌の謎)の推理から始める事にする。この時に調べた四柱推命や九星気学、遁行、易学、陰陽五行などが、赤城山の埋蔵金場所を解読の上で役に立つからで、当時埋蔵に必要とされる技術力( 方位や実測値割り出すこと)がどれくらいあったのかを判断する事が、他の埋蔵金解読書などで無理やり方位や数値をこじつけて謎解きをしているものを見分ける手段でもあり、色々角度から埋蔵金場所を推理して頂ける資料にもなる。
また、赤城山埋蔵金の項では必要以上に易学等の資料や登場人物の経歴を載せたような気もするが、図書館に通わず本書の内容を分析するにも役に立つし、後々、読者独自の埋蔵金調査にも必要となるのでご容赦願いたい。

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日光の埋蔵金( かごめかごめの暗号歌)
結論から言えば日光の埋蔵金は3ヶ所にある。それは埋蔵金の性質を理解した上での答えとなるので、まず、その事から記載する。
埋蔵金の性質
日光の埋蔵金、赤城山の埋蔵金、多田銀山の埋蔵金と挙げても、それぞれ埋蔵する理由がある。赤城山の埋蔵時の幕政事情は別の項で詳しく述べるとして、多田銀山の埋蔵説は豊臣復興の財源であることは間違いない。では日光はというと、性質( 理由)的には2通りあり、ひとつは法隆寺同様の伏蔵に近い理由であろうと考えている。
伏蔵とは
聖徳太子が法隆寺創建時に造らせたものとされており、寺に重大な危機が訪れたなら、伏蔵を開いてその危機を切り抜けよと言い伝えられた、地下に隠された蔵の事である。法隆寺にはこの伏蔵は3ヶ所存在する。なぜ分散したのかは不明ではあるが。それは伏蔵を開けると分かるかもしれない。単純に考えれば盗掘を想定した配慮( 策)かと思うが、易学的方位などが加わると判断が難しい。
法隆寺の伏蔵の中身は、興福寺や東大寺の金堂の地下で発見された鎮壇具的なものではないかと考えている。鎮檀具( ちんだんぐ)とは寺院を建立する時に,地鎮のために埋納される品々の事を言い、金、銀、真珠、水晶、琥珀、瑠璃( ガラス)、瑪瑙などの七宝と鏡鑑,刀剣など除魔の呪術的効果があると信じられるものである。因みに興福寺の鎮壇具は約千数百点の膨大な量である。
日光のもうひとつの理由は神に対する供物を意味する。私の推理する3ヶ所の内、中禅寺湖の埋蔵物は易学的な金の性質を理解した供物で、大権現という神となった徳川家康への供物ではなく、二荒山大神(男体山と中禅寺湖を含めた神の領域)への供物である。
供物を含め日光の埋蔵物は、東照宮の創建時や大造営時の時代考証からして、興福寺の鎮檀具の様な物ではなく、大法馬金の様な金塊が妥当と考えている。
大法馬金とは
大法馬金は大判2000枚分である。その大判は小判10枚分。すなわち、大法馬金は1個で2万両となる。1個330キログラム。現在( 令和2年)の金価値で約24億円。発見されれば、歴史的価値を考慮すれば70~100億円くらいではないだろうか。
徳川家光が行った東照宮の寛永の大造営の際、その費用で、金小判だけでも56万両の記載がある。予算的には記載されない大法馬金が5~6個あっても不思議ではない。
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方位
トレハン( トレジャーハンティングクラブ)の会員よく聞かれることで、江戸時代に我々が地図の上に書くような直線や方位をなぜ測ることが出来たかの質問に、奈良平安時代の建造物に用いられた知識の延長と答えるのだが、山や川、そして海を越えたりする地理上の方位はの質問には日置氏の由来や修験道におけるいわゆる山伏の事も話すようにしている。
最近( 平成10年頃)では20年近く前( 昭和53年頃)のNHK番組の話をしている。タイトルは「 太陽の道」という企画である。
太陽の道
古代( 3~4世紀)の日本民族( 太陽信仰)が北緯34度32分の線に沿って、約200Kmもの道程に神社や巨石の遺蹟を残しているというもので、調査の結果、淡路島から伊勢湾の神島まで確かに足跡があるというものである。ここでその内容を詳しく話すつもりはない。ただその番組の中で地元高校生を主体にある実験をした。それは棒や綱、そして太陽の影だけを利用して5Kmの直線を進むという挑戦であった。もちろん北緯34度32分を。はたして結果はどうであったか。国土地理院がレーザーで測定した位置と僅か20mの横ずれしかなかったそうで、地理院の技術者も舌を巻いたのである。
古代、城や神社仏閣の建造にはもちろん正確な測量技術が必要であった。それが分かっていても、気の遠くなるような距離では無理なのではと勝手に判断してしまう。しかし実際はそうではないことをこの実験は証明してくれた。素人の高校生でさえ結果を残しているのである。
江戸時代の専門職( 日置氏の系統)がそれ以上の仕事をするのは容易なのである。「 太陽の道」の古代人は私が調査している江戸時代の埋蔵金の年代より、遥か以前のことである。
埋蔵物や遺跡を調査する際、埋蔵者や古代人の知識や技術をつい侮ってしまう場合がある。又、無理矢理結果をこじつけようとすることもある。そんな時は是非このことを思い出して貰いたい。常に彼らは我々より数段上の次元にいると考えた方が良い答えが出るものである。

「 かごめかごめの暗号歌」

 日本テレビ『 謎学の旅』
『 かごめかごめ』の歌とは何か。日本テレビ『 謎学の旅』では、この童謡を徳川家康縁の埋蔵金のありかを示す暗号歌として推理し、日光東照宮や日光周辺の山々をヒントに暗号を解き進み、最終的に埋蔵場所を古峰が原湿原として探索したものである。より詳しくは二見書房の『 謎学の旅』を読んでもらいたいが、私の推理と比較する上で『 謎学の旅』の推理を引用してみたい。

【 かごめ かごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀がすべった 後ろの正面だあれ】
この歌詞は誰もが知っていると思う。そして、TV番組では、この後に続く歌詞を、詩人、谷川俊太郎編による『 日本マザーグース』より見つけている。その歌詞とは。
【 向こう山でなく鳥は、しんじん鳥か 鶏か 金三郎のおみあげに なにを貰った きんざしかんざし貰った 納戸のおすまに置いたれば きうきう鼠が引いてった 鎌倉街道のまんなかで 一ぬけ二ぬけ三ぬけさくら さくらの下でふみ一本拾った その文だれだ 金三郎の妻だ 金三郎の妻は山しょにむせた あくしょ あくしょ 一本よ】
また、実際に唄えるおばあさんにも聞いている(栃木県)。その歌詞は次の通りである。 
『 向こう山でなく鳥は しんしん鳥かみや鳥か ぎんざぶろうのおみあげに 何と何とを買ってきた 金ざしかんざし買ってきた 戸だなのおすまにおいたれば キーキー鼠が引いでった どこからどこまで引いでった 鹿沼の街道の松の下 松の下』
●金三郎ではなく『 ぎんざぶろう』と唄っている事に注目。
恐らく、谷川俊太郎の『 日本マザーグース』も口伝の聞き取りであるので、どちらが元詩に近いと判断できないのだが、二つ合わせると何やら謎解きが見えてくる。
埋蔵金場所を推理する上で、『 謎学の旅』の番組では、このおばあさんの詩を全く無視しているが、私はこのおばあさんの詩から重大なヒントを得ている。ではその『 謎学の旅』の謎解きの推理を紹介する。分かりづらい点があれば、参考資料の東照宮配置図、日光周辺図を照らし合わせて頂きたい。

A図 TV番組で放映された籠目の地形( 右)と地図上の実際の形( 左)

 

B図  日光東照宮の配置と埋蔵ポイント

 

 

 

C図  夕日岳を中心にした謎学の星形の位置と私の推理する亀甲目の位置( 日光周辺図)
亀甲目の中にある星形が謎学の旅で紹介された位置

『 謎学の旅』の謎解きの推理


【 かごめかごめ】…篭の目と解き、星形のマークを重要視している。添付A図参照
【 篭の中の鳥は】…鶏であり、これは金鶏伝説に基づき、鶏=黄金と推理し、すなわち黄金を閉じ込めている状態を言っているのだとしている。
【 いついつでやる】…どうしたら出せるのかと解して、以下の歌詞を埋蔵の場所の謎解きとしている。
★これ以降の謎解きは、日光東照宮の建造物にたとえたり、周辺の山々に呼応したりしているのでB図C図をよくご覧いただきたい。
【 夜明けの晩に】…夜明けを待つ頃と解し、日光東照宮の陽明門を指している。また陽明門は別名、夕暮れ門ともいう事から日光周辺の夕日岳とも呼応しているとの推理。
【 鶴と亀がすっべた】…すべったとは、統べる、交わると理解し、鶴と亀は東照宮の鶴亀の対象である鐘楼と鼓楼とした。また双方が交わる場所が陽明門の前であるので、周辺地理では陽明門に呼応するとした、夕日岳の前と解読した。 
【 うしろの正面だあれ】…東照宮、上神庫の二象が後ろを振り向いているので、この象の振り向く方向を少々無理はあるが陽明門とした。またこの二象を〈 二蔵とも解し〉周辺の山で直線状に夕日岳を見る、北地蔵岳、南地蔵岳とした。 
【 一ぬけ二ぬけ三ぬけさくら】…さくらの文字より一字抜くことで日光周辺の山の暗号と推理した。さく…石裂山 さら…さる( 庚申山)くら…地蔵岳 また三ぬけの事を東照宮の表門、陽明門、唐門をぬける事とも解いた。
【 桜の木の下で文一本拾った】…文とは唐門をぬけた拝殿の中の欄間の桜飾りの下にある三十六歌仙の歌とした。三十六歌仙の中から日光と縁の深い、小野猿田彦と同名の小野小町の歌とし、埋蔵場所を示すとした。
その歌とは…『 詫び塗れば、身を浮草の目をたえて、さそう水あらばいなんとぞ思う』という歌詞である。この歌詞の『 さそう水』をヒントに夕日岳の前である、古峰ケ原湿原と解いた。古峰が原湿原は利根川の源流でもある。
この謎解きにはもう一つの重大なヒントがあった。南光坊天海が江戸城守護のために使ったとされる易学の『 守護線』である。この守護線は東照宮にも使われており、日光東照宮、世良田東照宮、富士山、久能山東照宮とを結ぶ線がそれである。D図参照そして埋蔵地点はこの線上の〈 古峰が原湿原〉でもあるとしたのである。また、解読した篭の目の場所を図にするとA図右のようになり、古峰ケ原はその中心になるという事である。以上が『 謎学の旅』の推理概略である。 

 

D図1.2徳川幕府の守護方位と守護線

 


 
暗号歌かごめかごめの解読

私の推理に入る前に『 謎学の旅』の推理の疑問点を検証してみる。まず籠目の図形とされる参考資料A図右を実際の地図に当てはめるとどうなるか、実測図の参考資料A図左を参照してもらいたい。どうだろう、これが中心に亀甲目をつくる星形に見えるだろうか。ここに「 謎学の旅」の推理の矛盾がでてくる。久能山から日光までの守護線を引けた者が、どうしてこのように歪な星形を引いて篭目としたのかという事である。
それからもうひとつ、二象( 二蔵)が振り向く方向が陽明門であり、そこが埋蔵地点、古峰ケ原湿原であるとするならば、南地蔵岳は良しとしても、北地蔵岳は地理上、陽明門すなわち夕日岳を向くと、古峰ケ原には向かなくなってしまう。この矛盾を無視したまま推理解読した為周辺の大きなヒントが見えなくなり、つじつまの合わないままの結論となっている。
推理した人の考えの中には結果〈 埋蔵場所〉である陽明門〈 夕日岳〉前がすべてに先行したのではないだろうか。その夕日岳が示す本当の意味をもう少し検証していればと思うと実に残念である。
『 謎学の旅』では最後に埋蔵金探査をした。『 地中レーダー』『 誘導率探査』『 重力探査』の三種類であった。結果は失敗に終わったが、共感する推理もあり、楽しい番組であった。

さて私の推理だが、その前にまず日光という場所を理解してもらいたい。
『 日光という地名は、昔男体山が二荒山〈 フタラサン〉と呼ばれていいた頃それをニコウと音読し、これを弘法大師がこれに日光の字を当てたことによると言われるが真意のほどは明らかでない。しかし、平安の書物にもその字が見られるように歴史は古い。
日光は七世紀後半、下野の勝道上人によって開かれた。下野を発った上人は大谷川まで来たが谷を越えることができず困り果てた。そこで上人が一心に経を唱えると深沙大王が現れ、二匹の蛇で橋を架けてくれた。この橋のおかげで川を渡り日光を開くことができた。この橋が今の神橋である。
これより昔、神代のころ、下野の国の男体山と上野の赤城山の神が中禅寺湖をめぐって領地争いをしたとき、それぞれが大蛇とむかでに化身して戦った。苦戦の末、大蛇である男体山の神の軍勢、小野猿田彦の射た矢が敵のむかでに命中、血を流しながら赤城山に帰ったという。この決戦が繰り広げられたのが戦場ヶ原、勝負の着いたところが芭蕉ヶ浜、むかでの血が溜まってできたところが赤沼、そして勝利を祝い歌ったところが歌ヶ浜となったといわれている。


E図

解読1

『 かごめ』は篭の目であるが謎解きは星形ではなく、その中にできる亀甲目である。
亀甲目とは亀の甲羅の形であり、篭目編みによりできる形の事である( E図)。古くから亀を縁起物として考えていたことと同じようにこの形も使われていた。皆さんが知っている醤油会社のキッコーマン( 亀甲萬)は名前もマークもここからきている。確かに『 謎学の旅』のようにヘブライの星形マークとした方が謎的で面白く興味もそそるが真実を曲げてはならない。
星形のマークについては各地に残る魔よけの印としての伝承も引っかかるものがあるが、あとに続く歌詞『 鶴と亀がすべった』にしても埋蔵に使われたとされる気学や易学の上から考えても、動物の亀を重視し亀甲目と考えた方が自然である。 

解読2 

『 篭の中の鳥は』とは、『 謎学の旅』と同じく金鶏伝説に基づいたもので、私も鶏と判断している。金鶏伝説は世界にあるが発祥は中国やインドでもなくエジプトであり、シュメール文明まで遡るかもしれない。このことは後の文中にも類似した項目があるのでご記憶願いたい。参考までに、わらべ歌の中には『 篭の中の鳥は』という歌詞を『 地蔵さんは』『 鱒は』などと面白いものもあるが前後の歌詞が同様であるので問題にする必要はないと考える。ちなみに東照宮の彫刻の中にも錦鶏、銀鶏など鶏の彫刻がある。
解読3

【 いついつでやる】これはどうしたら出る?、またはどうしたのか?と考える方が正しい。わらべ歌を調べると『 いついつでやる』の歌詞を『 出わる』『 寝入る』『 逃げた』『 立つな』『 出しゃる』などとある。この言葉から連想すると双方の疑問符が考えられる。いずれにしてもあまり問題はない。
解読4 

【 夜明けの晩に】これも難解な言葉である。
類似する歌詞に『 四日…五日…七日…八日…十日の晩に』『 月夜の晩に』『 夜中の頃に』『 まだ夜は明けない』などの歌詞がある。
かごめの歌の発祥が栃木県とすれば、この歌詞は離れた地域に多く伝承( 伝播)の段階でオリジナルに変化を加えたものであり、これらの歌詞は除外できる。本来の歌詞に近いものをと考えると、夜明けの頃すなわち太陽を迎える前となり、日光東照宮に例えるなら、太陽の門とされる陽明門として考えても不思議でないのだが…
陽明門には別名、『 夕暮れ門』『 日暮れ門』という名前がついており、『 謎学の旅』では『 夕日岳』と結び付けているが、別名が初めからあるとは思えない。ここでも『 謎学の旅』の推理に大きな矛盾が生じている。東照宮創建時または大造替時点から建物に方向を示す謎を凝らしたのであれば、つじつまがあわなくなるからである。なぜか。創建時に別名をつけたとは思えないからである。

解読5

【 鶴と亀がすべる】は鶴と亀を鐘楼、鼓楼と考え、陽明門の前で交わると『 謎学の旅』では判断しているが、それだけではなく次の様な意味がある。
亀は古代東アジアでは蛇と組んでいたし龍とも組んでいた。中国では、亀と蛇とを組んでいたものを玄武と称し、玄武神は北方の神だった。韓国では玄武を玄風とも言い、風は古来蛇王を表す仮借字であった。また古代エジプトでは、亀は大地の神グブのシンボル、グブ神の代替記号は5である。またグブ神は太陽の運行を摂理する神でもある。そしてエジプト系では鶴亀は日・月神を意味している。これは中国古来の九星気学における大地=亀=5とも共通するものがある。        

F図

 

家康と鶴亀の呼応は一目瞭然で日光東照宮の奥社を見れば分かる。奥社すなわち家康のお墓にはシンボルとして、大きな亀の上に鶴が舞っている像があるからである。また、奥社は東照宮配置の真北にあり、玄武神の位置でもあるからである。
このように亀と太陽、すなわち太陽神〈 徳川家康〉とは大いに関わりがあるのである。わき道にそれたついでにもう一つ覚えておいて頂きたい。シュメール語の字音で日の出を『 エ』という。中国を経由して日本に渡り同意語として『 イエ』という字音になった。これを漢字の家の字を使い日の出の方向を表現した場所は日本にたくさんある。そして私の謎解きの中心である日光の鶏鳴山の日の出の方向にも『氏家』という地名がある。エジプト、シュメールなど、とんでもないように思えるが、日本の神道学や中国の易学に大いに影響していることは確かであり、南光坊天海や後に記載する林羅山もこの神道、易学を学んでいるのである。ここでの結論として、第一の埋蔵場所は陽明門の前( 鐘楼と鼓楼の間)とする。そして、これは伏蔵である。

解読6

【 うしろの正面だあれ】
この項は極めて埋蔵個所を特定しやすく、現地の方にご迷惑ともなりかねないので割愛する。
解読7に入る前に、私の推理する陽明門と呼応する場所を明らかにしておきたい。それは鶏鳴山である。鶏鳴山は日光周辺の山々の名前の基準となった可能性もあるし、私の推理から割り出した亀甲目の地理の中心でもある。参考資料C図 
地理上、夕日岳は鶏鳴山から見た〈 真西〉山岳名である。
また、真東に目を向けると、松田新田や氏家という地名がある。氏家については既に説明をしているが、ここでおばあさんの歌を思い出してほしい。『 鹿沼の街道の松の下 松の下』松田新田や氏家は確かに鹿沼街道方向にある。松田新田が松の下と伝播してもおかしくはない。
松田新田や氏家は間違いなく鶏鳴山から真東( 日の出)の場所である。すなわち鶏鳴山は日の出を迎え、日没を見る山なのである。また、氏家は丑( ウシ)家をもじったものかもしれない。丑は十二支の徳川家の守護方位である。
いずれにしても、松田新田や氏家は埋蔵場所ではなく、埋蔵方向を意味する。

解読7

【 向こう山でなく鳥は しんしん〈 しんじん〉鳥かみや鳥〈 鶏〉か】
この項は極めて埋蔵個所を特定しやすく、現地の方にご迷惑ともなりかねないので割愛する。

解読8

【 金三郎のおみあげに何を貰った〈 何となにを買ってきた〉】
金三郎とは鶏鳴山から鶏頂山と同距離にある平五郎山のもじりと考え、おみあげは埋蔵物と見てみる。子供の遊戯の様に鶏頂山から左回りで平五郎山に行ったのである。
もしかしたら、平五郎山は埋蔵当時は金三郎か銀三郎山と称していて、近代になる過程で平五郎山と変わったのかもしれない。山岳名が変わることはよくある事で、例をあげたら枚挙に問わない。また、同じ山を別の呼び名で呼称する場合も多い。富士山にしてもその昔は福慈岳、不二山と記されていた事もあり、音が同じでも伝播の過程で呼び名が変わることもある。まして、人里離れた山であれば、時の権力者が、あの山は○○山と言えば、その日から名前が変わるのである。

解読9
【 戸棚〈 納戸〉のおすまに置いたれば】これは竹堂随筆の中に出てくる〈 かごめ〉の歌に類似する歌詞『 なべのなべののそこをぬいてたもれ』にも共通するもので、土間や台所が連想できる。
鶏鳴山から鶏頂山、平五郎山と左回りの同距離にある庚申山は音読で荒神とも読める。荒神はかまど〈 台所〉の神様でもあり、陰で人々を守る意味もある。夫の対しては妻である。この解読は庚申山に置くという意味である。これは『 金三郎の妻』との意味を兼ねているものとして解釈しても良い。
★気が付かれた読者もおられると思うが、私の推理はかごめ歌の遊戯であり、手をつないだ子供がしゃがんだ子供の周りをまわる姿そのものなのである。

解読10
【 きーきー鼠が引いてった】
解読11
【 どこからどこまで引いてった】
解読12
【 鹿沼の街道の松の下 松の下】

★解読10~12は極めて埋蔵個所を特定しやすく、現地の方にご迷惑ともなりかねないので割愛する。

解読13

【 一ぬけ二ぬけ三ぬけさくら】
さくらの文字より一字抜くことで日光周辺の山の暗号と推理した「謎学の旅」の深読みの必要はない。又、さらをさるとし、庚申山に結びつけたのは無理がある。
続く文のさくらの下でを考えれば三ぬけとは東照宮の表門、陽明門、唐門をぬける事でよい。


解読14
【 さくらの下で文一本拾った】これはこれも『 謎学の旅』と同様で、小野猿田彦に引っ掛けて小野小町の歌とすることは、日光の縁起を考えれば妥当である。さて、その文の『 わびぬれば、身を浮草の根をたえて、さそう水あらばいなんとぞ思う』これは地蔵岳のポイントを指す。『 謎学の旅』の解読では、利根川の源流でもある日光古峰ケ原湿原としたが、私が推理する『 ある特定の場所』にも鬼怒川の源流が二つある。
・上記を削除し、下記を加入。
【 さくらの下で文一本拾った】これは日光の縁起を考えれば小野猿田彦に引っ掛けて小野小町の歌としたいところではあるが、本命は頼基朝臣の歌である。その歌とは・・
『ねのひする野べにこ松を引きつれてかへる山路にうぐひすぞなく』
ねのひする野べにこ松を引きつれて・・は、平安時代の貴族の野べ遊びであるが、不老長寿や繁栄を願っての意味があり、恐らく徳川家の万代までの繁栄を願っての意図した一句を選んだのではないだろうか。また、解読の10~12までの中で鼠(ね=子)、引く、松の下の重なることも見逃せない。
かへる山路に・・とは、東照宮のある日光山に戻る意味で、求める場所は裾野という事になる。

解読15

【 その文だれだ、金三郎の妻だ】金三郎の妻を庚申山と解読したのだから、文は庚申山が持っている考え、文そのものが埋蔵物を意味すると考えてもおかしくない。

解読16

【 金三郎の妻はさんしょにむせた、あくしょ あくしょ あくしょ 一本よ】これも埋蔵金のポイントを指しているとみていいが、残念ながら確信はない。
さんしょは、樹のさんしょなのか、三書なのか、三所なのか。あくしょはくしゃみのことなのか、悪書の事なのか。ただ金三郎の妻はとあるので庚申山が絡んでくることは間違いない。これは単純にくしゃみと考えると、庚申山からの方向は日の出の方向である。くしゃみは、太陽を見ると自然に出る人間の生理であるから、こう考えても不思議はない。
また、私は埋蔵個所を3ヶ所とみているので「 さんしょ」は3所が正解かもしれない。

結論として私が推理する第2の埋蔵地点は『 ある特定の場所』にある。この埋蔵金は東照宮の外なので単に非常時の再建費用と考えても良いのだが、易学的に決めた方向でもあるので、やはり伏蔵本来の意味もあるのではないかと思う。
あくまでも私の解読ではあるが、すべての条件が『 ある特定の場所』に集まってきている事からの判断である。
決して『 ある特定の場所』を最初から無理矢理考えたものではない。
解読の決定打ともいえることは、謎解きの順番である。鶏鳴山を中心に回る謎解きは遊戯そのものであり、うしろの正面が太陽、すなわち徳川家康だったことである。
『 謎学の旅』を批判するわけではないが、男体山や東照宮を推理に使い解読するとき、どこどこに相対する山としたり、お婆さんの歌を無視したことはいただけない。また都合のよい歌詞だけを謎解きの材料にとしたところや、方位の正確性を無視したことに大きなミスがあると思う。

最後に私の推理する3ヶ所目の埋蔵場所を記載する。
私は何度か日光に調査に行っている。ある日、中禅寺湖の歌ヶ浜で残雪の男体山を眺めていると、その稜線がまるで白鶴が羽を広げ、湖畔に首を垂れているかのように見えた。そして反対側を見るとどうだろう、亀が鶴を見ているかのように八丁出島の寺ケ崎がのぞいていた。思い過ごしではと思われる向きは一度行かれてみるとよい。これでも少々絵心のある私の目にははっきりとそう見えた。
天海もここで何度かこの景色を見ているだろうと思っていると、はっと気がついた。中禅寺湖は毎年必ず氷結する、亀も鶴も滑るではないか、氷に穴をあけ、それこそ蔓と瓶を使って沈める。
さらに、重大なことにも気が付いた。鶴と亀の意味は反対になるのだが、男体山は蛇の化身でもあり、大蛇は玄武神で亀と共であり、亀そのものと考えられる。また八丁出島の後ろには半月山があり、月は月神すなわち鶴なのである。鶴と亀は中禅寺湖にも存在していたのである。
湖に捧げ物をする風習は世界中にあり、神への祈りためや、転生を願い金や鉱物を元のあるべきところに戻すことは希ではない。易学の『 金気』すなわち金は、水を生み出す物となっていることをわすれてはならない。 次ページ参考資料

G図


 

以上で日光の埋蔵金解読は最後としたい。埋蔵金が本当にあるのか定かではないが、日光周辺には本当に不思議な地名が多い。
疑えば、埋蔵と同時に名を付けた場所もあるのではないかと思う。誰が名付けたのか、やはり埋蔵の実行者とされている慈眼大師〈 南光坊天海〉ではないかと思う。天海はこれ以前江戸幕府を守護するため、江戸城を中心に守護線を引き、その上に守護の為の神社仏閣を配置している( I図)。そして日光造営に関してもその守護方位を実行している。次ページ参考資料

I図

 


 
ただし、私は徳川の守護の方位そのものは天海が決めたものではない。徳川家元来の伝承であると判断している。それは、守護線の始まりは駿府、富士山、二荒山というラインが基本であるからして、年代的にも天海であるはずがないからである。富士山と二荒山の間に世良田東照宮が位置するのだが、これは天海が世良田東照宮を現在の場所に移設建立した形跡がある。
天海についてもう一つ。埋蔵金の隠匿方法としてよく言われる八門遁行が、もし徳川家に誰かが言い伝えたとしたら、私は天海の可能性が高いと思う。それが秘行とされ門外不出の物であるならば、徳川安泰の時期に入ったものと考えるのは不自然であり、それ以前の徳川幕府創設期と考えるのが妥当である。
参考までに、武田信玄の軍学術として伝えられてきている『 甲陽軍艦』は信玄の死後書かれた物である。天海は武田信玄存命中、直直に招かれており、その後家康に用いられることになるのであるが、武田での行動はあまり定かでない。また、武田軍学術は孫子の思想に近いことは確かであり、三輪や諸教学を学んだ天海が武田の軍学術に何らかの影響があったと考えない方がおかしい。
武田氏滅亡後、武田の家臣800余名が、家康の家臣となり存命したのも、私はこの天海の助言があったのではないかと考えている。
それだけ武田の家臣に信頼があったという事は、思想的に信頼があったことである。では仮に天海が徳川家に八門遁行を伝えたとして、その後どうなったか。この秘行を受け継ぎ幕末まで伝えられる人物が、仮にいたとするならば、道理から考えても一人しかいない。天海と同時期に家康に召し抱えられ、また天海に学んだ可能性がある人物、それは林羅山である。
林羅山は幕末までに続いた林家〈 林大学頭〉の始祖である。その林羅山〈 江戸初期の儒学者〉は、後年神道や日本の歴史に関心を深く示し、神儒一致とした『 神道伝授』『 本朝神社考』などを著していくのである。私はここに天海の思想が入り込んでいるのではないかとみている。

 


赤城山の埋蔵金

「 幕末の事情と埋蔵金」
埋蔵金なるものがあるとすれば、だれが、なぜ、何のために、いつ、どこに、どの様な方法で埋蔵した、という事になるのだが、本項はそもそも赤城山麓の埋蔵金伝説に焦点を当てているので、どこには省くのだが、ではなぜ赤城なのかという疑問が残るのでその理由を記しておきたい。これは誰がという事とも共通するので、最も重要な何のためにと合わせて説明する。

江戸時代における赤城神社
大洞赤城神社が歴史上に登場するのは江戸時代になる。1601年( 慶長2年)、厩橋( 前橋)城主として入封した酒井重忠が鬼門に当たる大洞赤城神社を篤く信仰し、歴代藩主もこれに倣った。重忠は「 正一位赤城大明神・赤城神社」の改築を幕府に申し出、その工事を完成したという。次の藩主・酒井忠世は、相殿に徳川家康を祀った。また酒井家により別当が前橋の寿延寺となった。1641年( 寛永18年)、社殿が落雷により全焼したため、酒井忠世により新築された。元来の山岳信仰と東照大権現( 徳川家康)の合祀により、将軍家をはじめ諸国の大名の信仰をも集めた。
赤城山( 赤城神社)は江戸城の守護線上にはない。しかし、駿府の東照宮、世良田東照宮、日光東照宮の守護線上に近い存在であり、方角的には丑未の範囲に入り、世良田東照宮と武尊山神社の線上にある。世良田東照宮の位置は人為的に移動されたものではあるが、将軍家に仕えた天海の作為によるもので、山王一実神道の天海であれば、武尊―赤城の線上と徳川の守護線上に世良田東照宮を配置したことも納得できる。要は世良田東照宮を含め、赤城山( 赤城山麓)は徳川家にとって易学上重要な位置であるという事であるという事がお分かりいただけただろうか。
この埋蔵に易学的要素が関わっているとすれば、赤城山麓が徳川家にとって極めて重要な位置と理解をしている者の仕業となる。

誰が
仮に幕府の資金を幕末期に赤城山麓に埋蔵したということで「 誰が」を考えると、幕末期のすべての事情を加味して消去法を用いても、時の勘定奉行小栗上野介が知らなかったという事がありえない。その理由は赤城山麓は幕府直轄の領地が大半であったこと、また、その領地や知行地を含め、統括管理をした関東郡代は勘定奉行の配下である事などからである。
( 幕末の関東郡代)
徳川幕府創設期の関東代官職( 関東郡代)が1820年以降廃止され、関八州見廻役や関東取締出役などを設置して対応しようとしたが、幕末期の不穏な社会情勢に対応するのには不十分であった。文久の改革以後、関東支配の立て直し策の議論が行われていたが、1864年( 元治元年)の天狗党の乱によって関東地方の中心部が戦場となったことが幕府に衝撃を与えた。
同年11月に関東郡代が再び設置された。関東郡代の定員は4名で関八州のうち2か国ずつを管轄・支配した。原則として現地の陣屋にて職務を行うため、以前のように勘定奉行との兼務は取られなかった。また、管轄する国に関しては幕府直轄領以外の旗本領(小栗家や井伊家など)や寺社領(赤城神社など)などに対しても訴訟や治安維持に関する権限を行使することが可能であり、更に新田開発や治水灌漑、酒造制限・生糸改印などの民政・経済政策に関する権限も強かった。
関東郡代の下には組頭以下の属僚が設置され、更に8名いた関東代官は全て郡代付とされた。将来は関東代官を廃止して関東郡代による関東地方の広域・直接支配を意図していたとみられているが、設置当初から定員1名を欠き、その後も人事異動や将軍上洛の御供などによって4名全員が現地で職務にあたることはなかった。そのため1867年( 慶応3年)1月26日、改めて関八州を二分し関東在方掛を設置、関東郡代であった木村勝教・河津祐邦を横滑りさせた。同年2月5日に関東郡代は正式に廃止された。
木村勝教こと木村飛騨守、河津祐邦こと川津伊豆守は小栗日記(慶応3・4年に書かれた小栗忠順の日記)に度々登場する。小栗自身が川津と書いているので、参考文献の河津はかわず違い(誤記)であると思う。木村は1865年から、川津は1866年から関東郡代を務めている。小栗上野介忠順の最後の勘定奉行歴任は1865年から1868年までである。この事からしても、赤城山麓に幕府に資金を埋蔵したのであれば小栗が知らない訳がないのである。
後に詳しく説明するが、幕末期( 天狗党の乱以降)、幕府( 江戸城)が陥落し、沼田城を最終砦とした場合、赤城山麓が主戦場になる事を想定し、赤城山麓の旧沼田街道沿いの密林に兵士や武器貯蔵の為、多くの壕を掘った記録もある。埋蔵金発掘のTV番組でかなり大掛かりに穴掘りをしたが、この時私はこの壕の事が浮かんだ。赤城山麓でその他にも多くの堀跡があるのはそれが理由かもしれない。また、その壕を利用して、埋蔵に見せかけた偽装工作をしたのかもしれない。いずれにしても、重機を使って掘る様な深さには埋蔵するはずがない。
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私は小栗上野介を尊敬している。小栗の菩提寺の東禅寺の住職やご子孫の方からすれば、また、埋蔵金の関わり本かと非難されるかと思うが、何故、埋蔵したのかという事の推理をご拝読頂ければ、もしかして、あり得る事かとご納得頂けると確信している。

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小栗上野介という人物に迫ってみると。国史大辞典にはこう書かれている。
〈 小栗忠順〉1827~68年

通称は剛太郎、又一。叙爵して豊後守と言い、後に上野介と改めた。
文政10年〈 1827〉江戸に生れる〈新潟奉行小栗忠高の子〉
安政2年〈 1855〉10月小栗家〈 二千五百石〉を継ぐ。同四年正月使番となり、6年9月目付けに進む。ついで遣米使節の一員に選らばれ、万延元年〈 1860〉正月出発、9月帰国した。
同年11月外国奉行に昇進。ロシア海軍の対馬上陸に際して、幕府の命を受け、現地に赴き退去を要求したが、目的を達しないで江戸に帰った。
7月外国奉行を赦免、同2年6月勘定奉行となり、翌8月町奉行に転じてのち、12月勘定奉行に復し、歩兵奉行を兼ね同3年4月赦免、7月陸軍奉行並となったが、わずか20日たらずで赦免された。
この間、同2年6月には、歩・騎・砲三兵を編成しようとする陸軍の軍政改革に参加した。また3年4月歩兵奉行在職中、新編成の陸軍部隊を率いて上京し、朝廷に圧迫を加え、和親開国の勅旨を強要しようとする陰謀を企てた。しかしこの計画は未然に発覚して赦免されたが、その後も謹慎することなく、同志と連絡し再挙をはかったという。
小栗の陰謀には強硬派幕僚の支持があったらしい、元治元年〈 1864〉8月、1年の在野期間を経て、又勘定奉行にもどった。その後横須賀製鉄所の建設について、フランス公使ロッシュとの間で予備交渉をを行なった。やがて同年12月軍艦奉行に転じたのは、製鉄所の建設に専念させる為であろう。

こうしてのちの横須賀軍港の基礎は小栗によって築かれた。翌、慶応元年〈 1865〉2月軍艦奉行を免じられたが、5月には勘定奉行に復し、以後明治元年〈 1868〉迄その職にあった。
この間事実上の「 蔵相」として、困難な幕府最末期の財政を担当した。慶応2年の関税率改訂交渉に際して中心人物として参加した彼は幕府の重要財源として、関税収入に目を付けていた。当時、フランスとの経済関係が緊密となり、経済使節クーレが渡来すると、小栗はもっぱら彼との交渉にあたり、同年8月、600万ドルの借款契約が成立した。
そして9月『 フランス輸入会社』と結合関係をもつべき『 日本の商業・航海大会社』の組織についても契約ができた。
小栗は、フランスとの経済関係を緊密にする一方、国内では三都の特権商人と結んで、全国の商品流通を掌握しようとした。
三井を通じて江戸や横浜の商人に融通したり、鴻池や大阪の巨商によって兵庫商社を設立したりしたのは、その表れである。
さらに彼は、旗本の軍役を金納させ、傭兵による新しい陸軍の編制を企てた。
明治元年正月、前将軍徳川慶喜の東帰後、あまりに強硬な抗戦論を主張したため慶喜に忌まれて勘定奉行を赦免された。
3月、知行所の上野国群馬県権田村に土着し、形勢を観望しつつ再挙をはかったが、政府軍に捕らえられ、閏4月6日、烏川のほとりで斬殺された。42歳。権田村東善寺に葬られる。
以上が『 国史大辞典』に記載されている各々の略歴である。


実はこの内容は、史実と大きな違いがある。いかにもそれらしい書籍名ではあるが、歴史的に余り重要でない事項は前任者の受け売りであるため、何度改訂されても誤りが続いているのである。年代や名前だけを覚える日本の歴史教育がこんなところにも現れている。このような環境であるがゆえに歴史の中から真実を見つけだすことがいかに難しいかを理解してもらいたい。
埋蔵金を研究している方でも、これが真実( 埋蔵金の場所)だと言い切っている人がいるが、それは間違いである。埋蔵金に関しては「 発見」が真実であり、それまではすべて仮説なのである。本書では先人の誤りをいくつか訂正する。単なる勘違いもあれば、意識して捏造しているものもあった。私は何も物好きでするのではなく、それをしなければ解読や推理が進まないからである。  
「 小栗上野介忠順」
小栗上野介は弘化四年〈 1847〉21歳で両番入り。西丸御書院番秋田淡路守組に編入しており、その後使番となり、安政六年〈 1857〉9月12日、正確には本丸御目付けに就任している〈 御目付衆〉。
幕府の職制には似たような名前のものがあり大変わかりにくい、また職務内容も大変な差がある。国史大辞典の小栗の略歴で免じられたとあるが、これは一見左遷されたようにも思えるが、決してそうではない。この言葉が的しているとしたら、慶応4年1月15日の赦免の時であり、他の役替えは小栗が逸材なるゆえの結果であり、必然的に起きたのである。
また、慶応元年『 小栗』はフランスとの間に、600万ドルの借款契約が成立したとあるが、実際には成立していない。これはフランス側の記録にもある。
この600万ドルに関して〈  対フランス借款願、1866年9月13日〉、横須賀造船所〈  

製鉄所〉の建設費に当てる為との説があるが、建設費は240万ドルであり、残りの360万ドルはなんの目的かは今をもってはっきりしない。ただ前後して、英国のオリエンタルバンク・コンポレーションにも同額の借款を願っている為〈 1866年9月28日〉、小栗〈  幕府 〉にとって必要不可欠なものと思える。目的は不明のままであるが、いずれにしても借金はしていないので、これが埋蔵金と繋がるとは思えない。

また、英国側への借款願いは、薩長側がフランスとの借款を妨害する為に、仕掛けたわなではとの説もある。いずれにしても埋蔵金の金額の中に、この残金360万ドルが含まれている説がある事がどうにも理解できない。
以外にこんなとこからTV番組の埋蔵金360万両( 360万ドルとは価値が違うが、埋蔵金探索者の水野家の伝承事にある埋蔵金額)という数字が出ているかも知れない。
史実を調べて行くと実におもしろい推理ができる。参考までに当時の600万ドルは当時の400万両に相当する。また、小栗上野介が埋蔵した一千万両説もあるのでついでに記載する。その一千万両の内訳は小栗が勘定奉行の際 、フランスに売った蚕卵紙と繭、絹織物代金200万両。四国を担保にフランスから借りた400万両。横浜、兵庫二港の交易税金200万両。長征軍費のくすねたぶん200万両。計1000万両と言うのが内容であが、何ら根拠はない。このような内容を平気で書いているライターが大勢いることがあやふやな埋蔵金物語を生んでいるのである。

 

黄金の行方 徳川幕府の埋蔵金 改訂版その2に続く

 

 

                                      

 

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黄金の行方 徳川幕府の埋蔵金 改訂版その3

2024-04-07 14:15:26 | 冒険探索

林鶴梁と上野介
さて逸材なる上野介は誰に師事したかと言うと、8歳の頃より安積艮斉塾( 小栗邸内にあった)にて和漢、洋学を受けている。いかに非凡であったかは、前記の御両番( 今の上級国家公務員試験)入りを21歳で果たしているのだからお分かりと思う。家庭に恵まれていたこともあるが、父忠高の役柄を抜いてしまう度量は幕府困難の時節柄からして見逃すことはできない。
そしてこの父忠高もあるいは人間関係で埋蔵金に絡んでくるのではないかと私は見ている。忠高は幕末下記を歴任している。
天保14年1843年 御使番衆
弘化4年1847年御留守居番
寛永4年1851年御持筒頭
寛永6年1853年新潟奉行
寛永7年1854年御持筒頭
この翌年、安政2年1855年上野介が小栗家を継ぐのである。
井伊直弼、林鶴梁、中島平四郎、水野健三郎が忠高と同年代であり、職制がどういう人間関係になっているのか理解しておくことが本書での埋蔵金推理解説のポイントでもある。
特に忠高が新潟奉行の時、同時期における中島平四郎の幕府職が佐渡奉行というところである。
上野介の師、安積艮斉を中心に儒学系図を考察すると重要なことが見えてくる。上野介の人間関係と共に添付する

 

 赤城山麓の穴の検証

本書の初めにTBSの手紙を添付した中で、水野家の伝承の矛盾点や中島蔵人の詐欺事件の内容はご理解いただけたと思う。また、7つの銅板の解説の前に、やはりTBSの手紙の中で当時の発掘内容と、テレビの発掘が似ていると申し上げた点について説明をする。
昭和48年に刊行された畠山の「 日本の埋蔵金」の下巻に赤城山の埋蔵金の話が出てくる。その中で、竪穴に降りる三代目の水野智之の写真がある。私が二度目( 10歳の頃から)に赤城山麓で埋蔵金の探索をした際、水野家に尋ねたのは33~4年前頃( TBS番組が始まる数年前)だったと思うが、水野氏は丁度留守で無断で縦穴を拝見した。その時素直に思ったことは「 なんだ、何もしていないのか」であった。その訳はその場所の写真が昭和48年のそのものだったのだ。

( 埋蔵金発掘番組で見つけた穴について)
埋蔵金発掘者の水野氏の伝承によれば、初代智義は現在の発掘場所周辺を総掘りしたとある。番組ではその総掘りをした時の人夫として、近在に住む青木老( 84歳)を登場させ、当時総掘りした時には番組で初めて見つけた竪穴がなかったと証言をさせていた。平成5年の事である。
しかし、これは矛盾する。この青木老が仮に15~16歳で人夫として働いていたとしたら、総掘りの時期は大正末期になり、総掘りの伝承時期の明治20年頃とは違いすぎるのである。また、この時期( 大正末期)は畠山清行が初めて敷島村に訪れた時期でもあり、その時でさえ、幕末期の事情を聴いたのは70歳過ぎの古老たちと4~50代の親から話を聞いた世代である。
TV番組では竪穴の大発見というフレーズをどうしても必要だったのかもしれないが、視聴者を騙すことに倫理的な責任は感じないのであろうか。当時コピーライターの糸井重里を発掘リーダーとして番組を構成していたが、糸井はこれくらいの簡単な計算をなぜ指摘して、青木老の件を没にしなかったのか。やはり、視聴率の事だけを考えた番組であったように思う。また、後々糸井は「 あるとしか言えない」などという書籍名でで発掘模様を記している。彼らの責任は重い。それは埋蔵金探しは子供たちの夢やロマンでもあるからだ。

では、水野智義が総掘りをした時に竪穴はなかったのか。狭い敷地内で見つからない訳がない。答えは二つ、総掘り時に竪穴もあった場合、もう一つは智義は総掘りの前に竪穴の事情を知っていた場合である。
竪穴の事情の場合、ではだれが穴を掘ったのか。
幕府が何らかの事情で掘った場合は智義が知り得ることはない。仮に山麓調査をして、偶然見つけた場合、伝承事として竪穴の周辺を総掘りしたとなるはずである。しかし、そうではない。
となると埋蔵金の発掘として誰かが先に掘り、智義はその事情を知っていたことになる。その誰かとは、先の章で記載した埋蔵金の詐欺事件の際かもしれない。又は新聞記事にあるような有志の集まりかもしれない。
しかし、その場合、掘った穴に埋め戻しをするかという疑問も残るが、水野が先人の掘り起こした周辺を掘る場合、残土を竪穴に埋め戻をした方が楽であることは間違いない。

 赤城山麓幕末事情
前橋から沼田藩に続く道は旧沼田街道であり、赤城山麓南面を走る。水野の発掘現場も街道から近い。
幕府は薩長との戦いの最終戦を日光東照宮と考えた節がある。その場合、通常の日光街道と沼田から片品―丸沼―菅沼―日光湯元から戦場ヶ原を抜けて東照宮に進む道を死守する事が第一となる。そして沼田からの場合、赤城山麓が最も敵を打ち迎える良い場所なのである。
県史はこう載せている。「 文久3年( 1863)夏、赤城山麓で桃井可堂が攘夷の挙兵を、また渋沢栄一らが高崎城や岩鼻代官所を襲撃するといううわさが流れ、岩鼻駐在を命ぜられた代官、小笠原甫三郎は猟師鉄砲隊の編成に着手し、村々の有力村民は講武所設置願を代官所に提出した。元治元年( 1864)11月の武田耕雲斎指揮の水戸天狗党の追討荷はその中枢機関として活躍した。慶応元年( 1865)12月、木村甲斐守が新規関東郡代として着任し、上野一国と武蔵五群を支配、それに一万石以下の旗本の知行所村々も管掌することになった。・・・」
この際の作戦として、山麓の沼田街道沿いに奇襲用の隠れ穴や武具や保管に穴を掘った記録がある。場所はやはり秘密であろう。しかし、薩長軍との戦いを考えるとその数や場所は相当なものではないか。

結論として、仮に小栗上野介の采配で金が埋蔵さてたのであれば、その理由の「 なぜ」「 どうして」を考えると、誰でも掘り起こせそうな、赤城山麓の穴は可能性が薄い。だだし、この周辺の穴を囮などに利用することは十分に考えられる。

 

宝の地図( 宝の隠し場所の地図)
宝の地図と言えば宝島の様な図案が目に浮かぶ。小さな島の絵図に山や滝や💀のマークが入り、海賊が隠したという定番である。しかし、よく考えてほしい。仮に、あなたが海賊で、ある島に強奪品を隠すとしたら、島の絵図に💀書くだろうか。島の地形は変わるものでもないし、隠した場所を覚えておけばいいのだからその必要はない。子々孫々に残すものでもない。それよりも必要なものは大海原に浮かぶ島の海図である。小さな島に隠すとしても世界中には何十万という島が存在する。仮に東シナ海という事でもどこかを拠点とした海図が必要なのだ。これが宝島の地図で、島が分かってもどこに隠したかは本人しか分からないようにするのではないだろうか。確かに隠し場所には何かの目印は必要なのだが、島だけの宝島の絵図はありえないのである。
畠山清行の日本の埋蔵金の下巻に出てくる、「日本にもあったキッドの宝」の話は、登場人物の語りが主体であであり、何ら証拠品を著者が見た訳でもない。昭和12年に外務省に送られてきたという、アメリカのトレジャーハンターのトカラ列島(宝島)の探索要望も、実際にあった話かもしれないが、小さな島の絵図( 自国のマガジンに載った絵図)をキッドの宝島と信じたアメリカ人がいて、それを探したいと要望したのであれば、相当おかし話である。
なぜかと言えば、トレジャーハンターの性格は独特の秘密主義であるからである。いずれにしても、宝島の地図で島の詳細は存在しないと思う。

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さて、埋蔵金の話に戻るが、日光の埋蔵金、赤城の埋蔵金に宝の地図はあるのか。
赤城の埋蔵金に伝説には、三枚の銅板絵図と巻物などが登場する。日光の埋蔵金はわらべ歌の中に地図が隠されている。私の知る限り、これらの絵図やわらべ歌を的確に解読した者はいない。
わらべ歌の信憑性は論外として、私は三枚の銅板絵図を本物とみている。本物とはどういう意味か。後々の盗掘者対策として人を騙すつもりでそれらしく作ったものではないという事である。その訳は簡素で難解な絵図には多くの知恵が入っており、そう簡単には作れないからである。これは絵図を解読した者でしか分からない結論である。

私は日光の埋蔵物も赤城山の埋蔵物も必ず存在すると確信している。日光については「 なぜ」が明確であることがその理由で、赤城に関しては曖昧な伝承事や詐欺事件に翻弄はされるが、唯一、銅板の絵図に信憑性があるからである。この銅板絵図が明治維新以降、発掘者を騙す為に詐欺師などが作ったものであるとする説があるが、そうであれば、その作者は気学や易学や遁甲を理解していなければならない、また、現地の地理も把握しなくてはならず、詐欺師など類では到底不可能と言えるのである。

お宝を探す上でもう一点とても重要な事がある。それは、埋蔵場所が先か地図が先かという事である。あなたが大切なものをどこかに隠すとき、まず隠し場所を探す事が普通である。これは、時代が変わっても状況が変わってもそう変わるものではない。仮に日光の場合、東照宮の鐘楼と鼓楼の間( 地下)に伏蔵を作り、そこに埋蔵する。中禅寺湖の二荒山中宮と寺ケ崎の中間地点に沈める。二象( 二蔵)が振り返る地点に埋蔵する。これもすべて場所が先である。

赤城山麓の場合はどうか。これも場所が先なのである。この場に導く為の必要ヶ所に目印( 塔や祠など)を作り、絵図や謎解きを作り、偽装も作ったのである。これは埋蔵地点に立つと分かる感慨深いものである。
この事をよく理解した上で、埋蔵金探しに挑戦してみると良い。その為に出来る範囲で私の解読を記載する。

赤城山麓埋蔵金の解読

七つの銅板絵図
畠山は八門遁甲の「 秘物埋蔵」法が一つの銅板ではなく、また「 割符」の事も考えると2~4枚あると推測して、双栄寺などを探索しているが、何も発見には至っていない。( 後に2枚の銅板が見つかり、現在は3枚が銅板図とされている。)
私が偶然発見したのはこの三枚の銅板絵図をトレッシングした時である。この時に、銅板作者の力量が並大抵のものではないことも確信した。
三枚の絵図とそれに隠されていた絵図を添付する。


 


 



 
 

源次郎の井戸と銅板の解読

源次郎の井戸から徳川家康の像が出たとされるが、一方で家康像ではなく諸葛孔明の像であるという人もいる。私の見解では出た像を問題にはしていない。また、実は何もなかったとしてもいいのだ。
問題は、この井戸が双栄寺から割り出す第一ポイントの一将であるかだ。ではなぜこの井戸が一将なのか。なぜ、わざわざ源次郎の井戸と決めて、源次郎と名乗った男が侍の集団に物資を供給したのか。私の知る限りこの事を解読した者はいない。
その答えはこの場所( 井戸の位置)の風化をなくし、この源次郎という名前を記憶させることに意味があったのだ。そういう意味では150年後の私たちがこの場所を源次郎の井戸と認識しているので成功している。

読者は徳川家康の正式名をご存じだろうか。それは、徳川次郎三郎源氏朝臣家康又は源朝臣徳川次郎三郎家康である。
すなわち源( ミナモト)次郎( ジロウ)は源次郎( ゲンジロウ)であり、家康で、間違いなく一将なのである。
第一ポイントはすぐに解読できる。しかしその意味を知れば銅板絵図に源次郎の井戸を隠し入れた作者がいかに優れた人物かは想像できる。

解説
銅板の十干、甲~丁の中で、隠れている数字は五だけである。
気学や易学でこの五の意味は中央であり、土であり、太極でもあり、物事の始まりの一、または一将と考えても良い。
すなわち隠れているのは将であり、一が重要な意味となる。
戊己庚の中で五が隠れているのは己である。
始めの一将を探すには双栄寺( 銅板の隠されていた場所)を起点( 中心)とみるのが妥当で、起点から己の方向は南南西の方角である。
距離をどう考えるか。これは一である。一町か一里かで考えると一町は河土手となるので、残るは一里だけである。
定規を当てて南南西を見ればその先には源次郎のが井戸がある。しかし、直線距離は3.2キロである。
そこでもう一度銅板を見直す「 右一二ト記シタルハ方度足斟ノ両用とトス」とある。
もしやと思い双栄寺から旧沼田街道を歩いてみた、すると曲がりくねった距離は源次郎の井戸まで丁度一里あったのだ。
足斟は街道を歩くることだったのだ。
一里とは3.927キロメートルの事である。( 3.927キロは1891年の度量衡法で定められた数字ではあるは江戸後期には1里36町2160尺の距離に定着されたものであり、大凡現代の数字と変わらない)
十干の己の意味は、紀であり糸のもつれを解す、己は謎解きの初めでもあるのだ。これで銅板上の双栄寺から源次郎に井戸にたどり着いたとは言えないだろうか。


 

銅板の数を分かり易く数字にしてよく見ると1~9までの
数字がすべて2回ある。これは繰り返しが2回、遁甲が2回繰り返されるという事である。
すなわち、太極の将も二つあるという事でもある。また、甲~庚の中に将を得て分かる七臣も隠されているという事である。
そして数の並びにも大きな意味がある。
甲 186
乙 297
丙 318
丁 429
戊 53〇
巳 64〇
庚 75〇

この数字は先の日光編でも添付した九星の運動法則( 遁甲の並び)で、すべての数字が西から東を意味している。仮に〇に1,2,3と入れても変わらない。
遁甲の並びとは上が南、下が北、右が西、左が東しである。


 

銅板の解読②

七臣を探すには
銅板の戊己庚で数が続くとした場合の〇の部分がある。これを順に入れると1、2、3となる事は先に述べたが、この合計を6として考えた場合、甲から庚までに隠れていた数は5と6となる。この11という数も謎解きに絡んでくる。
甲から庚までを素直に七臣と考え、まず庚を探す。銅板方位図の庚の方向は北北東または北東である。これは一将( 源次郎の井戸)から沼田街道に進む方向である。丁度二里の所に十二山神社( A)がある。これで源次郎の井戸から直線的に双栄寺に向かう中心にある十二山神社( B)が意味ある存在になる。これは十二山神社( A)を探し出すヒントなのだ。
一は万物の始めで一里進み、今度は二里進んだことに意味があった。銅板秘文の『 右一二ト記シタルハ・・』とはこの意味もあったのだ。推論として、十二山神社( A)を一臣と考える。
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筆者はこの銅板から二つ目の将も残りの六臣も解読している。読者も分解した銅板絵図を参考にすると良い。きっと答えが出るはずである。
本来であれば本書に明記すればいいのだが、現地やトレジャーハンターに混乱を招くので割愛するが、記載できる範囲で付け加えるならば、銅板の中心は常に変化するという事が最大のポイントである。また、銅板に書かれている文字や記号は全て正確であるという事。
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残りの六臣を探すヒントとして、星座を参考にすると良い。当初、私は七臣を北斗七星に重ねて考えていた。訳は北極星を探す手段でもあるからだ。北極星、すなわち太極で全ての中心でもある。これは将( 徳川家康)と共通する。
「 東照宮再発見」の著者、高藤晴俊氏はその書籍の表紙に使われた、宵闇の日光陽明門と背後に鎮座する北極星について、こう述べている。幕府の聖地日光は、江戸のほぼ真北に位置する。そして、南面して建つ東照宮の陽明門の真上には不動の北極星が輝き。星々はこれを巡る。すなわち、江戸城・東照宮・北極星を結ぶ、南北軸線を中心にこの世の全ては運行するとの、壮大なコスモロジーである。
日光や赤城の埋蔵金を探索する上で、東照宮の意味を理解しておく必要がある。トレジャーハンターを目指すのであれば、是非一度、「 東照宮再発見」を読むと良い。
私が推理に用いたもう一つの星座図、それは高松塚古墳に残されていたものがヒントになった。特に北極星を囲む四輪( しりん)と斗( 北斗七星)の位置である。読者もよく勉強して理解して貰いたい。


 

銅板の解読➂
不動の三点を理解するには四柱推命学の三合を理解すべし。
三合とは円状の十二支が三角形で結びつく干支の組み合わせの事で、各々の意味がある。日光の章で申し上げた亀甲目も三角形が二つ重なったものである。
この銅板に隠された場所は榛名、武尊、赤城の不動のものと大いに係わりがある。という事は、水野家の伝承に出てくる児玉惣兵衛( 実名は不明)なる人物は的を得たヒントを水野に与えたことになる。となると、児玉が水野に与えた大儀兵法秘図書なるものの信憑性が高くなるのだが、筆者は拝見したことはない。しかし、その内容に出てくる鳳凰の事は承知しており二将を得た証にもなった。鳳凰は古くから霊長として鳥類の長であり、動乱の世を天下泰平に導く名君( 徳川家康)のシンボルでもあるのである。
日光の章で添付した徳川守護方位と三山の関連方位の図をご覧いただきたい。三山武尊の正反対の三角頂点に世良田東照宮がぴたりと位置する。ここは徳川の発祥地、すなわち始まりの一である。終わりがあり初めに戻る。これは遁甲の意である。私は何度かここの足を運んでいる。興味ある建物がある。また、明治の初期に涸れたとされた井戸もある。
世良田東照宮は江戸から利根川を上り、また水路もあり、容易に物資を運ぶことが出来る。世良田東照宮蔵説も存在する。


 


埋蔵地の推理

三つの銅板に多くの意味を込める。埋蔵金があるなしに関わらず頭が下がる。これだけの事は並大抵の者では出来ない。私は赤城山麓で二将の場所は突き止めている。ただそこが、銅板絵図などを解読した正確な場所であったにしても、果たして埋蔵金が出るかは分からない。掘ってみなければ答えが出ないのである。
謎解きには細かな観察が必要である。決して妥協してはいけないのである。誰も不思議に思わないことも考えてみると答えが見えてくる。例えば、銅板図2の方位図がなぜ正方形の形ではないのか、なぜ中の字が斜めなのか。などである。

夕暮れの赤城山麓、最後の解読
私は冬至の日も夏至の日もあえて選び何度か赤城山麓に行っている。
赤城山麓にある二将は【 ある地点】から夏至に日が沈む方向にある。
真夏、日が沈むと安堵の時間が訪れる。また、冬至の日は太陽が昇ると心身ともに温かくなる。東照宮( 徳川家康)は太陽神でもある。という事は冬至の日の出に意味があるのではと考えるようになった。
赤城山麓の1860年頃の日の出日の入りを調べてみると、冬至の日の出は6:50分頃である。日の出の方位角は118.6度である。夏至の日の入りは19:07分頃方位角は300.8度である。
冬至の早朝、謎解きの始まりである双栄寺に向かう。朝日が昇る時、その方向の谷合の遥か先には赤城山地蔵岳が見えていた。「 あっ」と声が出た。そうだったのか。冬至の日の朝日( 太陽)が当たる谷合の地にある双栄寺だからこそ、ここを始まりとしたのではないか。もしかしたら双栄寺の創建もそんな理由かもしれない。
であるならば、赤城山麓の埋蔵個所は全て偽装工作ではないか。その理由は、日光の埋蔵金で推理した3番目の埋蔵場所が、鶏鳴山から太陽の登る方向であったように、埋蔵金は赤城山にあるのではと推理したのである。
赤城山頂周辺には大沼という湖やその畔に赤城山神社もある。赤城山神社は先の項でも説明をしたが、東照大権現( 徳川家康)が祀られているが、方位に拘るのであれば埋蔵金は地蔵岳の真裏にある太陽のように丸い小沼に沈めるのが最も理にかなっている。金気は水を生じる事は先の項でも説明をしたが、金を水に沈める事は易学的にも正しい扱いなのである。
赤城山麓で偽装工作を仕掛け、同時に伊勢崎か前橋から赤城山頂に埋蔵物を運ぶ。埋蔵物は先の項でも推理した御神木に隠したり、神社に奉納する米や味噌でも疑われることはない。道路もあるし大八車を馬に引かすこともできる。赤城の山麓に油樽を担いで分け入ったとある伝承事よりも信憑性があるのではないか。
小栗上野介は三河以来の旗本である。根っからの徳川に仕えた武士である。知行地でもある上野( こうずけ)に存在する赤城山神社の周辺地理をを知らない訳がない。
小栗の才覚に近づいて考えると、国や民の事を考えて地金を埋蔵したのであれば、その隠し場所は侵略者や盗掘者が容易に近づける場所でもなく、また、盗むこともできない場所であった筈である。
湖に沈める。そんな発想が当時できるか。
ヘルメット式潜水器についてこんな記事がある。1820年にイギリスのゴーマン・シーベが水上から空気を送って潜るヘルメット式潜水器を発明し、日本では1854年( 安政元年)にロシア軍艦「 ディアナ号」が下田港で津波のために大破したときに、はじめてヘルメット式潜水器が使われた。
また、小栗はフランスの公使、ロッシュからこんな話も聞いていたのかもしれない。それは軍事用の潜水艦である。プロンジュール潜水艦は1863年4月16日に進水したフランス海軍の潜水艦。動力( 人力を使わない)で航行する潜水艦としては世界初のものである。
因みに小栗がロッシュと最後に会ったのは慶応3年( 1867年)6月2日の事である。
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結論を言うと銅板の謎解きは決して無駄ではないと思う。謎解きから得た、二将の場所にも必ず何かあると信じている。それは、赤城山地蔵岳から夏至の日に太陽が沈む方角にある【 ある地点】の延長線上の特別な場所に二将が存在するからだ。
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小栗はこんな言葉を残している。
「 病の癒ゆべからざるを知りて薬せざるは孝子の所為にあらず。国亡び、身倒るるまでは公事に鞅掌するこそ、真の武士なれ」

あとがき
宝探しや埋蔵金の話題が出ると今でもわくわくする。つくづく少年期の体験や書籍が潜在的に影響があるかよく分かる。赤城に初めて行った頃から、コナンドイル、HGウエルズ、ジュールベルヌなどを好んで読んだ。少年漫画と言えばスポーツものが主流の時代である。とにかく10歳から13歳ころまでは純粋な成長期だと思う。その後は多感になり、読み物の嗜好も変わり、山や海にあこがれ、恋もするようになる。それだからこそ少年期の3~4年が大切なのだ。
冒険漫画を読んだら外に出て遊んでほしい。スマホのゲームやTVのバライティに毎日の時間を取られることは大切な成長期には極力避けてほしい。子供達には少しでも現実の世界に飛び込んで冒険をして欲しいと思っている。本書はかなり難解なところもあるので、読まれた大人の方が少年期に戻り、お子さんを連れて未知の世界に出かける事を願っている。

 

 

[ 参考文献]

日本の埋蔵金・畠山清行
幕臣小栗上野介・木屋隆安
東照宮再発見・高藤晴俊
謎学の旅・日テレ出版
日本マザーグース・谷川俊太郎
国士大辞典・吉川弘文館
江戸時代における改鋳の歴史とその評価・大塚英樹
小栗上野介顕彰会機関誌
もう一人の明治天皇・水原柴織
小伝林鶴梁・坂口築母
日本語の謎を解く・川崎真治
武鑑
ウキペディア
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30年前、東善寺の村上照賢住職及び日光東照宮高藤晴俊禰宜( ねぎ)それぞれの方から丁寧なお手紙と貴重な資料( 私にとって)を頂いた。末筆ではありますがこの場をお借りしてお礼を申し上げます。
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赤城山の埋蔵金 補足
赤城山麓の埋蔵金伝説の銅板の解読で補足の説明をすると。
①一は万物の始めで一里進み、今度は二里進んだことに意味があった。銅板秘文の『 右一二ト記シタルハ・・』とはこの意味もあったのだ。推論として、十二山神社( A)を一臣と考える。これは一二( イチ二)と( ジュウニ)と解読するのである。
②赤城山頂周辺には大沼という湖やその畔に赤城山神社もある。赤城山神社は先の項でも説明をしたが、東照大権現( 徳川家康)が祀られているが、方位に拘るのであれば埋蔵金は地蔵岳の真裏にある太陽のように丸い小沼に沈めるのが最も理にかなっている。なぜ、丸い池を選ぶのか。これは相輪の考えを知る者であればおのずと得る結果で、榛名、武尊、赤城の三山の頂点にあれば、最も大切なものを置く場所でもあるのである。

本書の内容は物語調ではない。そのものズバリ埋蔵地点を導き出せるヒントを十分に考慮したものだ。あなたが、私同様に日光、赤城の「 ある地点を」探すことが出来た時、願わくば発掘前の一報をお待ちしております。私は協力を惜しまない。
                                              
                                           北村隆至    sensei0211@leaf.ocn.ne.jp              

追記 本書はアマゾン電子書籍でもご拝読が可能です。   「黄金の行方   徳川幕府の埋蔵金」  をご検索願います。                          

 

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黄金の行方 徳川幕府の埋蔵金 改訂版その2

2024-04-07 14:15:09 | 冒険探索

話しを小栗上野介に戻す

幕末の小栗は実に多忙である。いや、多才といったほうが良いのかも知れない。
造船所の建設、フランス語の伝習所、諸式会所創立、交易商社の建設計画など、どれを見ても今までにない新しい事であり、その仕事量は並大抵なものでない事が理解できる。
後に、この小栗の事を明治財界の巨星、三井の大番頭三野村利左衛門はこう言っている。
『 もし小栗上野介が明治時代に生き長らえていて、財政にかんする国務大臣として用いられたならば、わが日本は明治の初めから財政は整い、経済会は活気を興して、国家人民の為にどれほど幸福なことであったろう』。
私も同様の考えである。

三野村利左衛門
三野村利左衛門は、庄内藩士関口松三郎の子であり、幼少の折、木村利左衛門の養子になるが、7歳の頃より家出を繰り返し、14歳にして諸国を流転し千辛万苦した若者であり、放浪のあげく江戸で小栗忠高( 忠順の父 )にひろわれ、小栗家に奉公し、小栗上野介を幼少の頃より見守った一人なのである。
その後、25歳の時、小栗家の出入り商人菓子屋、紀伊国屋〈  紀伊国屋書房前身 〉に養子となり、11年目にして両替商の株を買い求め、いっそう商いに励み、44歳の時、当時勘定奉行の小栗のとりもちで、三井に入り、三井八朗右衛門の名代となるのである。
本章は度々横道にそれているように思われるが、私の推理、解読する埋蔵金説は、この三野村利左衛門が絡んでくるので載せたのである。利左衛門が小栗家の用人であった事は、三井銀行史に略歴と共に明記されている。
この三野村利左衛門の事は小栗が斬殺された後、妻道子が権田村から会津に逃れた語りにも登場する。
権田村から逃れ、会津に入った小栗夫人らの護衛隊は、横山主税常忠の家族に迎えられて保護された。主税は慶応3年のパリ万博の使節徳川昭武に会津藩士海老名郡治と共に同行し、フランスに遊学する。この前後に小栗上野介との交友が生まれたと思われる。閏4月29日に夫人らが到着したとき主税は、若年寄として白河表に進軍、5月1日に戦死する。会津城下も戦火が迫ってきたため夫人らは横山家を出て、南原の野戦病院に当てられていた農家へ避難する。
道子夫人は会津戦争さなかに南原の避難所で女児を出産、国子と名づけた。小栗上野介( 忠順 )の唯一の遺児である。出産後、難を避けるためかさらに南へ行き松川村で冬を迎えた。
南原、松川ともに、どこにいたのか詳細は判明していない。
会津戊辰戦争は会津軍の降伏で終わった。そのまま冬を越した護衛隊一行は翌明治2年春会津をたって東京へ出、さらに静岡まで夫人らを送り届けて村へ戻った。そのころ静岡には徳川家達に従って、旗本日下家へ婿に入った忠順の母邦子の弟(  忠順の叔父 )日下数馬やその息子寿之助、小栗又一の実家の旗本駒井家や、道子夫人の妹はつがとついだ蜷川家が神田から移り住んでいた。
道子夫人らはまもなく東京へ出て、三井家大番頭・三野村利左衛門の保護を受け、三野村が明治10年55歳で死んだ後は大隈重信夫妻が保護して、遺児国子は育てられたと、小栗上野介顕彰会機関誌には書かれている。
文中の「  さらに南に行き松川村で、」とあるが、これは東の誤りで、私には官軍の通り道の様な松川で約10ヶ月も居たとは思えない。「  どこにいたのか詳細は判明していない」ともあるが、ではどこか。さらに東に逃れ、恐らく、中村城下の相馬氏の庇護を受けていたのではないかと想像する。この相馬氏は小栗政寧( 小栗下総守)の家系( 実父 )であり、小栗上野介と小栗政寧は役職でも深い関係があり、また、個人的にも信頼関係があったと思われる。その理由の一つに、小栗政寧は長男の名前に上野介の幼名の「 剛太郎」を付けている事などもあげられるが、上野介が権田村に向かう少し前に小栗政寧との最後の会話をしていることからも想像できる( 慶応3年2月22日)。
話は逸れたが、三野村利左衛門がいかに小栗上野介を信頼し、大切にしていたかご理解いただけたかと思う。
*私が何か月も図書館通いをして調べた事が、今( 令和1年)ではその8~9割がインターネット上で可能であるので、小栗上野介に関しても情報が多く出ているので、より探求したい方は色々と調べてみる事をお勧めする。

何を
何を埋蔵したのか。先に記した水野家の伝承事の360万両や1000万両の説と共に埋蔵金の出所が幕末時の幕府御金蔵残金との説があり、御竹蔵( 隅田川沿いにあった幕府の資材倉庫)の17万5千両、甲府御金蔵の24万両の二説あるが、御竹蔵の方は、私も畠山清行著『 日本の埋蔵金』から得た知識しか持たず、調査もしていないが、特に畠山氏が文中に『 おとり』を仕掛けたとも思えないので、記載してある内容は幕末時からの伝承事に間違いはなさそうではあるが、果たして事実かは不明である。
 甲府の御金蔵の24万両についての内容だが、八重野充弘著『 徳川埋蔵金伝説』では、赤城村の埋蔵金発掘者、水野家二代目〈  義治〉の話しに出てくる、中島覚太郎〈  幕府小性四番頭 〉の伝えとして載せているものである。
その話しはと言うと、中島は彰義隊の精鋭隊長として上野で奮戦し、敗色が濃くなると甲府に落ちのびた。そして親交のあった甲府城代柴田監物と図って、御用金を榛名に移し、またそれを赤城に移したという下りである。
水野の話を柴田監物は甲府金番支配と八重野氏は訂正しているが、私の調べでは、役料三百俵の金番組頭である。
この話しを基に八重野氏は赤城埋蔵金解説をしているが〈  他の著書もこれに近い〉、だがこれが本当だとすると歴史が変わってしまう。
まず当時(  幕末期)小性四番頭には、中島という人物はいなし、また彰義隊が上野で奮戦する前に、板垣率いる800名の官軍が甲府城に入城しているので〈  慶応4年3月4日〉。彰義隊の敗色が濃くなる同年の5月以降に甲府に落ち延びることはできないのである。
そもそもこの著書の埋蔵金の話しが慶応4年になるのがおかしい。また登場人物の役職を理解していない(  架空の話しでも)。
読者は、柴田監物なる人物が組頭でも支配でも同じ様な気を持たれると思うが、支配は三千石高役料千俵であり、格がひとけたもふたけたも違う。
今で言えば高級官僚と役所の課長ぐらいの差がある。組頭役程度であれば埋蔵金の首謀者としては乏しいのである。
また八重野は著書の中で、中島なる人物の小性四番頭の役を軽視しており、情報源として格が低いとしているが、役の格としては三千石以上の旗本から選ばれ、君辺第一役であり、中島なる人物が仮にいて、もしその役であったとすれば軽視できないのである。
水野家の伝承の中で、幕末期に中島が住んでいたとされる神楽坂には、同時期で中島覚太郎なる人物はいないが、御小性という事で調べれば、御小性衆の役で中島泰之介(  役高は三百表)なる人物がいるが、埋蔵金推理の上で関係は薄い。
畠山や八重野の絡んだ水野家の伝承事は別の項に記載する。

「  埋蔵物」
私が推理する埋蔵金は小判ではない。仮に小栗上野介が絡んでいるとするならば小判の様な非効率的なものを埋蔵するはずがないからである。伝承事で、油樽に入れた小判を御竹蔵から船で隅田川を上り、利根川に出て、赤城まで運んだとか。夜な夜な油樽を担いで赤城山麓を分け入った。とかとあるが、なぜ油樽なのかの説明はない。一般的な運搬物で疑われないという事なのか。いかにもそれらしい。
小栗は金そのもの価値を十分理解しており、諸外国との不平等な兌換も理解している。そして、小判の価値も理解をしている。その小栗が、合金で嵩張る小判をわざわざ埋蔵するはずがない。それでは何か。埋蔵物は金の地金(  インゴット)と考えるべきで、形は現在のインゴットに近いと思う。
ではそれをどの様に運んだのか。ほかの方法もあろうかと思うが、金座から運ばれた地金を御竹蔵などで、木材の中に埋め込み、搬送したのではないかと推理している。当時の大工の腕であれば柱材の様なものに溝を掘り、同材で隠板を作ることは造作もないことで、この材木を幕府の御用物として、各地の神社仏閣に納めるものだとして搬送すれば、だれも目にとめないのである。この役目は油樽ではできない。
ではこの金地金を何時作ったのかというと、小判の改鋳時に他ならない。
(  安政・万延の改鋳)
幕末に行われた二つの改鋳、安政ならびに万延の改鋳は、幕末の開港とそれによって表面化する内外の金銀比価の乖離がもたらした我が国からの金貨の流出に対するための実施されたもので、幕末に実施された万延の改鋳は江戸期の貨幣史おいて再三にわたって見られたような幕府財政の立て直しや財政資金の調達を主たる目的としたものでも、あるいは元文の改鋳のような景気や物流の対策を目的したものではない。
日米和親条約で部分的に自由化された交易により、小判金貨が大量に流出したため従来より金の含有量を落とした小判を鋳造したものである。品位(  金の含有量比)は天保と安政と同じ57%であったが、大きさは安政小判の1/3と著しく小型化され純金量はわずか1.9g と最初の慶長小判の1/8まで減少した。ちなみに安政小判は総重量が9g 金の含有量は5.1g 万延小判は総重量3.3g 金の含有量は1.9gである。同じ1両でも金の含有量は3.2gも違うという事である。
分かりやすくすると、安政の100万両を万延の100万両にした場合、3.2×1000000=3200000グラムの金が余るという事になる。10キログラムの金地金で320本である。容積的には大きなものではない。いずれにしても当初から埋蔵の為に金地金をストックしたとは思えない。しかし、この頃から日本の貨幣は大きく品位が変わり、流通も大きくなる。また、小栗上野介が初めて勘定奉行に就くのもこの頃である。

「 江戸時代における改鋳の歴史」
幕末以前の貨幣改鋳においては、貴金属貨幣を基本通貨としながら、その量・質を通貨当局がフリーハンドで管理するために、国内の貴金属市場を外国のそれから隔離し、さらに国内市場をコントロールできなければならない。その意味で、開港以前において、目的や結果はどうあれ貨幣改鋳という政策手段が可能であったのは、それまでの鎖国体制下における金・銀貨の輸出規制がかなりの効果を発揮するようになっていたためといえるだろう。こうした改鋳の結果、万延元( 1860)年以降、ハイパーインフレーションが発生する。安政6( 1859)年の開港後、明治2( 1869)年までの間に、名目貨幣量は5300万両から1億3000万両と、10年以上にわたって年率9%近い比率で急激に増加する。この急激な貨幣供給量の増加が物価騰貴をもたらしたことは疑いない。
名目貨幣量とは、額面どおりのお金のことをいい、 名目貨幣量の数値に、物価の変動を考慮した数値を実質貨幣量という。 実質貨幣量は、名目貨幣量を物価で割って求め、 新古典学派では、経済政策で名目貨幣量を増やしても、物価が上昇するだけで、実質貨幣量は変わらない。
名目貨幣量とは金貨、銀貨、銭貨を合わせた数値である。この流通に両替商(三井など)がどの様に係わったか。
金貨、銀貨、銭貨の実際の流通実体については不明な点も多い。全国通貨といわれているこれら徳川政権の正貨が、具体的にどのような取引に用いられていたのか、あるいは中央と地方の間における貨幣の流通実体が如何なるものであったのかは定かでない。
また、江戸時代には、正貨に加えて地方における藩札の発行・流通がみられており、これらの使用実態をも踏まえて正貨の改鋳の効果を考える必要があると思われる。改鋳された貨幣が実社会に流通していく過程では、両替商が大きな役割を果たしていたことは間違いのないところであるが、具体的に旧貨幣の還収や新貨幣の発行にどのように関わっていたのかについては、必ずしも明らかにはできていない。
また、例えば金貨の改鋳についてみた場合、金の含有量を減らした部分には銀が増量される形で品位の改定が行なわれるが、そうなると、銀は如何なる方法で調達するのかという問題が生じてくる。金貨と銀貨の改鋳がほぼ同じ時期に実施されることは、このことと関係するのか、あるいは金座と銀座の間での銀の取引が行われたのであろうか。
日本銀行の金融研究所の刊行物の文言でも分かるように、両替商が貨幣の改鋳時における具体的に旧貨幣の還収や新貨幣の発行にどのように関わっていたのかについては、不明なのである。
私の推測では、三井などを筆頭に江戸の両替商が旧貨幣の還収に、関西地方に持ち合わせの銀貨を大量に供給し、金貨(  小判)と両替したのではないかと考える。金を集中的に江戸の集め、先の万延の改鋳を行い、余剰の金地金を保有する手段ではないかと思うが、これが埋蔵金に使われたのかは定かではないが、物理的な理論である。小栗上野介が日本の将来の事を考え、本気で埋蔵したのであれば莫大な金(  地金)を想像してもおかしくはない。因みに江戸時代の関西圏は銀の流通が主流であった。

「 何故」「 何のために」
では何故、何のために埋蔵をしなければならなかったのか。その答えを出すには多くの歴史を語らなければならないのだが、幕末史が目的の書ではないので、なるべく簡略して話を進める。
( 安政の五カ国条約)
条約の正式名称と調印日は日米修好通商条約( 安政5年6月19日)・日蘭修好通商条約( 同7月10日)・日露修好通商条約( 同7月11日)・日英修好通商条約( 同7月18日)・日仏修好通商条約( 同9月3日)である。この五カ国条約のきっかけとなったのはアメリカとの日米修好通商条約である。
アメリカ総領事タウンゼント・ハリスは幕府全権岩瀬忠震・井上清直と安政4年12月11日( 1858年1月25日)から15回の交渉を行い、自由貿易を骨子とする条約内容に合意した。これを受け、老中首座堀田正睦は孝明天皇の勅許を得るために安政5年2月5日( 1858年3月19日)に入京するが、天皇は3月20日( 1858年5月3日)に勅許を拒否した。一方幕府では、老中松平忠固が「 朝廷に屈することは幕府権威の低下につながる」として、無勅許調印を強行に主張し、大老井伊直弼も最終的にこれに同意、無勅許のまま日米修好通商条約は調印された。しかし、朝廷側から見れば違勅の状態にあった。
日本の財政( 幕府)とは無縁の優雅な生活をしている京( 京都)の公家たちは勅許を待たずに調印した条約は無効であるとしてこれを認めず、幕府と井伊の「 独断専行」「 無勅許調印」と非難した。その結果、公武間の緊張がいっきに高まり、ゆくゆくは安政の大獄や井伊直弼の暗殺などの事件となるのである。
この五カ国条約の大切なところはその日付である。イギリスから独立( 戦争で)したアメリカとの条約を一月も先行した事は、幕府にとってイギリスへの構えであった。また、その後も条約期日の最後の国フランスと軍事的( 軍備や軍隊組織の導入)に近くなるのもその表れである。
なぜか、欧米諸国が日本に迫り寄り来る中で、幕府が一番恐れていた国が英国であった。
( 侵略)
英国の侵略思想
七王国時代、アングロサクソンの有力な王たちは、他部族を支配するうえで「 アングル人の帝国」を名乗り、時折自らを皇帝と称した。ヘンリー8世時代、「 イングランドは帝国である」と1533年に宣言したのは、教皇の権力をイングランドから除くことを目的にしていた。こうしたインペリウムは、ヨーロッパ各地で教皇から独立せんとするために、または近隣勢力を征服するための大義名分として機能した。スコットランドを併合して「 グレイト・ブリテンの帝国」を築こうという主張は伝統的にイングランドのなかで存在していた。
アメリカ大陸植民地にはじまり、インド、アフリカ、オーストラリア、ニュージーランド、ハワイなどなど・・冒険家によるアメリカ大陸やハワイ諸島の発見などもゆくゆくは侵略征服が目的のもので歴史に語られる美談とは程遠いものである。原住民( ハワイアン、インディアン、アメリカインディアン、アボリジニなどなど)を虐殺し侵略を繰り返しました。そして植民地化したところに送り込まれたのがアフリカやインドの奴隷です。アメリカやインド、カリブ海諸島のプランティション働かされた奴隷は悲惨であった。
アフリカやインド、アメリカで特許会社( 東インド会社など)を作り、不平等や貿易を繰り返し、原住民や在来の王国を衰退に追い込んだのもこのイギリス商人たちである。無論、その後ろには大英帝国が君臨していた。反抗するものは暗殺や殺害、滅亡させられた小さな国も多くある。借金をさせ文明品を与え、土地や権利を支配する方法は今も変わらないところがありますが、インドなどはアヘンを作らされ、それを商人は中国侵略の為に使ったのです。それがアヘン戦争で、その後結ばれたイギリスと中国の天津条約は不平等条約の代表的な存在です。
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日英修好通商条約( 同7月18日)は大英帝国において、同条約の批准書の交換は、その交わされた1859年7月18日から、女王が、徳川将軍の領土において権能と管轄権を有することを意味したとあり、1859年3月4日付のロンドン・ガゼットに、次のことが英語で記されている。
「 1859年3月3日、バッキンガム宮殿の宮廷にて、枢密院における卓越した女王陛下より<中略>いかなる国あるいは女王陛下の領土外の場所においても、女王陛下が現在有しているか今後有することになる権能と管轄権を、これまでに領土の割譲や征服によって得たのと同様で且つ十分な方法で、保持し行使し享受することを、女王陛下にとって合法とする法が施行される。昨年の8月25日に女王陛下と日本の大君それぞれの全権公使によって署名された修好通商講和条約は合意されて結ばれた。前記の条約の批准書が交わされたら直ちに女王陛下は、日本の大君の領土において権能と管轄権を有するでしょう」

( 英国)
イギリスはどんな国と聞かれてあなたは何と答えますか。「 紳士の国」「 マナーにうるさい国」「 女王の国」「 ナショナルトラストの国」「 大英博物館」「 産業革命」....
ナショナルトラスト運動( 1895)という言葉を聞いたことがあると思うが、これは英国の産業革命時に起きた自然保護の運動である。一方では同時期に英国の侵略政策は過去最大のものになりつつある。歴史教科書では侵略を植民地政策とさも穏やかに書くが、植民地とは武力で他国を侵略し虐殺の繰り返しから略奪したものに他ならない。北米、アフリカ、インド、東アジア、中国、オーストラリア、ニュージーランド・・などなど。
この侵略から得た富で、城を作り、聖堂を作り、大庭園を造り、博物館を作り( 何れも18世紀後半)自国の自然を保護する。これが20世紀までの英国の姿である。
( 侵略の手段)
最も卑劣な史実としては薬物を使い侵略をしたアヘン戦争( 1839~1860)である。アメリカとの独立戦争後で北米の負担緩和の為、インドでアヘンを作らせ、清に売り、大量の銀を得て、尚且つ戦争を仕掛け,前代未聞の不平等条約( 南支条約)を結ばせた。その他の手段としては貿易を窓口とした商館や会社を相手国に作り、牙城を徐々に崩す作戦がある。連合国家(地方地方に領主が存在した日本のような国)と出来上がっている国にはこの方法が多く取られた( インドや東アジア)。
そして歴史にはどこにも登場しないが、自国の為に障害となる人物の暗殺や抹殺行為があった。20世紀の入ればこのような史実は少し明るみに出るのだが、19世紀以前は皆無である。それもそのはずで歴史は勝者の都合で書かれているからである。勝者が卑劣な汚点を史実に残すわけがない。
マラッカ海峡を支配し、香港やその他の港を清に開港させ、不平等条約を結ばせた英国が日本に狙いを定めないはずはない。アメリカやフランスも清に対し同様に条約を迫る。両国もまた日本に狙いを定める。
( 日本攻略)
日本からの富を独り占めしていたオランダの力が弱まり、イギリス、フランスが台頭を現してくる。イギリスは牙城を徐々に崩す作戦とる。これは同時にあいて国民を洗脳する極めて陰険な手段だ。オランダを巻き込み薩摩、長周、土佐などに狙いをつける。
洗脳とは何か。
「 日本においては幕府の他にミカド( 天皇)という大きな権威が存在し、有力大名( 薩摩藩・長州藩)はこれを支持して幕府を廃し、合議政体を作ろうと画策している」という諸外国から見た説があるが、これは間違いで、そもそもこの考えを洗脳したのがイギリスなのだ。その証拠にアーネストサトウ(イギリス駐日公使館の通訳官)が慶応2年に英字版ジャパンタイムスに匿名で載せた英国策論には「 将軍は主権者ではなく諸侯連合の首席にすぎず、現行の条約はその将軍とだけ結ばれたものである。したがって現行条約のほとんどの条項は主権者ではない将軍には実行できないものである。独立大名たちは外国との貿易に大きな関心をもっている。現行条約を廃し、新たに天皇及び連合諸大名と条約を結び、日本の政権を将軍から諸侯連合に移すべきである」。と載せている。が、これも洗脳をあおる一貫に過ぎない。日本語に訳されたものが各地の大名に伝わる事を意識してのものである。
歴史的に見ても、この様な洗脳諜報作戦の考えは以前から英国の考えであったことは間違いない。アーネストサトウは維新後も日本に駐在して諸々功績があるが、彼が英国へどのようの情報を流していたのかは歴史に存在しない。しかし、これは彼本来の考えではない。彼の主人であるラザフォード・オールコックやハリーパークスの考えである。  
現在もそうであるが相手国のスパイ活動をする場合、相手国にある治外法権の大使館や職員などが絡んでくることが多いのは事実である。

( 英国人  ラザフォード・オールコック)
オールコックは極東在勤のベテランとしての手腕を買われ、1859年3月1日付けで初代駐日総領事に任命される。彼の序業や功績はどうでも良いし、また史実も当てにならない。では人間性はどうか。これはオールコック自身が書いているので判断できる。私はインドや東南アジア、清を見てきた彼が、日本に対して異常に嫉妬したのではないかと判断している。彼の書いた『 大君の都』にはこう書かれている。
○このよく耕された谷間の土地で、人々が、幸せに満ちた良い暮らしをしているのを見ると、これが圧政に苦しみ過酷な税金を取り立てられて苦しんでいる場所だとはとても信じられない。ヨーロッパにはこんなに幸福で暮らし向きの良い農民はいないし、またこれほど穏やかで実りの多い土地もないと思う
〇日本が美しく、国民の清潔で豊かな暮らしぶりを詳述する一方で、江戸市中での体験から「 ペルシャ王クセルクセスの軍隊のような大軍でも編成しないかぎり、将軍の居城のある町の中心部をたとえ占領できたとしても、広大すぎるし、敵対心をもった住人のもとでは安全に確保し持ちこたえられるヨーロッパの軍人はいないだろう。
〇彼らは偶像崇拝者であり、異教徒であり、畜生のように神を信じることなく死ぬ、呪われた永劫の罰を受ける者たちである。畜生も信仰は持たず、死後のより良い暮らしへの希望もなく、くたばっていくのだ。詩人と、思想家と、政治家と、才能に恵まれた芸術家からなる民族の一員である我々と比べて、日本人は劣等民族である。
------------これがオールコックの本音と嫉妬である。
( 英国人 ハリーパークス)  オークスの後任の全権公使である。
1843年、15歳で広東のイギリス領事館に採用され、翌1844年、廈門の領事館通訳となった(この頃から領事ラザフォード・オールコックのもとで仕事をするようになった)。1854年、廈門領事に就任。1855年、全権委員として英・シャム条約締結。1856年、広東領事としてアロー号事件に介入。1860年9月、英仏連合軍の北京侵攻にあたり全権大使エルギン伯の補佐官兼通訳を務めたが、交渉中に清軍に拉致され翌10月まで北京で投獄された。長く中国で暮らして中国語に通じていたのが幸いし、日本公使に転任していたオールコックに認められて、1864年には上海領事となった。
このパークスの序業や功績、美談はどうでも良いし、また史実も当てにならない。ではどの様な人間性なのか。イギリスの駐日公使館の通訳、アーネストサトウ( ドイツ人の父とイギリス人の母)の書にはこう書かれている。
「 私とサー・ハリー( ハリーパークス)との関係は、たしかに楽しいものではありませんでした。アダムスもミットフォードも彼を良く思ってはいませんでした。これは主に社会階層の違いからくるものです。私もそのとおりだと思っていた。日本人の請願に対して、彼の荒々しい言葉を通訳しなければならなかったのは、ほんとうに辛いことでした。しかし、彼は偉大な公僕であった。
偉大な公僕とはイギリス女王の忠実な僕( しもべ)という事である。
このパークスらの洗脳諜報作戦により、洗脳された公卿や若い勤皇志士より、小栗上野介は命を落とすことになるのである。言い換えればパークスらによる暗殺なのである。
★慶応3年10月26日、アーネストサトウは小栗上野介に会いに来ている。話の内容は不明である。

「 領地の民百姓に愛された二人の殿様 」
井伊直弼・1815~60
江戸時代後期の大老。近江国彦根藩主。文化12年〈 1815〉年10月29日、十一代藩主直中の十四男として彦根城内で生れた。通称は鉄三郎といい、柳王舎、柳和舎、緑舎、宗観、無根水などの号がある。
五歳で母を亡くし、17歳で父に死別したので、長兄の藩主直亮から三百表を与えられ、城外の北のお屋敷に移り住んだ。同13年11月本居派の長野義言とめぐりあい、師弟の契りを結んで以来国学に没頭した直亮の世子、兄の直元が病死したので弘化三年〈 1846〉江戸に出て世子となり、12月従四位下侍従に叙任、玄番頭を兼ねた。翌四年2月彦根藩は相州警備の幕命を受けたが、直弼は井伊家は京都守護の家柄と反発、以来老中阿部正弘と快しとしなかった。

寛永3年〈 1850〉九月直亮が国許で没し、11月21日遺領三十五万石を継いで十三代藩主となり、27日掃部頭を称した。直亮との間柄は冷たかったが、直弼は養父の遺志として、金十五万両をあまねく領内の士民に分配し、翌年6月初入部すると、直亮時代の弊政の一掃に着手した。
同6年6月江戸から帰国した直後、米国使節ペリーが浦賀に来航したが、彦根藩は相州警備を果たし幕府から慰労された。ついで出府、八月再度にわたり米国措置の意見書を提出したが、開国を主張する意見は、幕政参与に起用された水戸老侯斎昭の意見と相容れないものであった。翌安政元年〈 1854〉正月ペリーが再航すると、江戸城西湖間における斎昭と江戸詰諸大名との討議で、打ち払いを主張する斎昭と和平穏使論を唱える直弼ならびに佐倉藩主堀田正睦らとは激論し、この対決が後の政局に大きな影響を与えた。
前年11月相州警備から羽田・大森警備に転じ、安政五年四月京都守護を命ぜられた。斎昭との対立は、翌2年10月老侯の嫌悪する正睦を溜間詰から推して老中に就任させたことから抜き差しならぬものとなり、三家対立、溜詰対立へと発展していった。同4年8月出府して、米国領事ハリスの上府に反対していた溜詰大名の意見をくつがえし、12月米国の要求を容れるべしとの意見を連署して幕布に提出した。
このころから政治問題化した十三代将軍家定の継嗣に関し、血統論を唱えて紀州慶福を推し、南紀派の重鎮として、一橋慶喜を推す一橋派の福井藩主松平慶永・鹿児島藩主島津斎彬と対立した。
翌5年正睦が条約勅許秦請の為上京すると、これに先立って長野義言を入京させて廷臣間に運動させ、関白九条尚忠を幕府支持に立たせ、慶喜を将軍継嗣にしょうとする一橋派の運動を阻止することを得たが、ついに勅許を得ることに失敗した。正睦が帰府してから3日後の4月23日、大老に就任した。
6月19日井上清尚、岩瀬忠震にハリスと日米修好通商条約に調印させたが、これに先立って反対派に違勅の罪を責められると調印の中止を諫言した宇津木六之丞に対し、兵端を開かず、国体をはずかしめないためにもその罪は甘受するといい、また24日の三家押し掛け登城にも動せず、25日慶福を将軍継嗣とする旨を公表した。朝廷より三家・大老のいずれかを上京すべき勅定が下ったが、老中間部詮勝を上京させることにし、またこの前後、京都情勢を好転させるため、長野義言を二度にわたり上京させた。
しかるに8月8日密勅が水戸藩に降下しついで九条関白が排斤されて辞職のやむなきにいたると、ついに誇張潤色した義言の報道に惑わされ、反対派の陰謀を水戸藩の陰謀と信じ、9月近藤茂左衛門、梅田雲浜の逮捕を契機に安政の大獄を断行、翌六年にかけて反対派の諸侯・有司・志士を厳罰にした他、累を宮・堂上とその家臣に及ぼしたが、条約の許勅を得るにいたらなかった。
大獄では水戸藩への処罰がもっとも厳しく、さらに同6年12月、水戸藩に降下した密勅の返納を迫ったため、同藩激派を激奮させ、ついに万延元年〈 1860〉3月、水戸浪士を中心とする十八士に桜田門外で暗殺された。年46歳
以上が井伊直弼の略歴であるが、この内容から井伊の功績が伝わるものでもない。だがよく考えてほしい。結局、日本( 幕府と朝廷)は井伊が考えていた外交がなされていくのである。井伊の考えは幕府の安泰や朝廷の権力よりも、国や民の行く末を考えたのである。
この考え方が小栗に継承されない訳がない。また、小栗の国や民を守る考えを決定づけたのは安政7年( 1860年)、遣米使節の時と考えてよい。これは米国の工業力とかの見聞ではなく、米国からの帰り道にある。
小栗の心を固めたのはヨーロッパ、アフリカ、インド、中国、インドネシアを経由する過程で見てきた奴隷の姿ではないだろうか。足かせと鎖でつながれ、白人に鞭を打たれる黒人奴隷。縄で縛られ、中国人に鞭を打たれる東南アジア人。小栗に従事した権田村の名主( 佐藤)の世界一周日記にもその絵があるように、これを実際に見た小栗はこう考えたのではないだろうか。「 一つ間違えれば我が国の民も・・」
井伊直弼と小栗上野介。この二人が領地の民百姓に愛された殿様である事は私が言うまでもなく、現在もこの二人を称えるお祭りが地元にあることがその証である。
小栗は国と民を守るため、他国とのバランスを考えたり、借財をしたり、その借財で行く末の国力を願い、軍艦を調達したり、造船所の建設をしたのではないだろうか。国を守るために借財を考えたのであれば、民を守る黄金を埋蔵しても何ら不思議でもない。これが「 なぜ」「 何のために」の結論である。
小栗の言葉がある。
「 幕府の命運に限りがあろうと、日本の命運に限りはない」
「 一言で国を滅ぼす言葉は『どうにかなろう』の一言なり。幕府が滅亡したるはこの一言なり」
「 どうしても必要な造船所を造ると言えば、冗費を削る口実となってよい。横須賀製鉄所ができれば、幕府がほかに政権を譲ることになっても、土蔵付きの売家として渡すぐらい価値あるものとなり、名誉なことである」

「 小栗上野介の暗殺と明治維新」
小栗上野介の死について
殺人事件の犯人捜しは被害者が亡くなることにより一番得をするものを探すことである。
群馬県の権田村で新政府軍に反逆の意思がないことを唱えるも、家臣共に斬殺されてしまった小栗上野介。
得をしたものは誰か、斬殺の指揮執った東山道軍の軍監である大音龍太郎( 当時28歳、後の岩鼻県初代知事( 現群馬県))か、原保太郎( 当時20歳、後の山口県知事、貴族院議員)か、その上に立つ東山軍参謀の乾退助( 板垣退助)当時38歳か、または東山道鎮撫総督の岩倉倶定( 当時16歳)、倶経( 当時15歳)か、となるのだが、何れも得の内容は小さく、日本国にとっても大変重要な人物の抹殺には秤が小さい。また東征大総督の有栖川熾仁親王は論外であることはあえて理由は書かない。
とすれば、岩倉兄弟を任命した岩倉具視という事になるのだが、その岩倉を洗脳した人物がいるとみている。それは誰か、英国のハリー・パークスである。
パークスと岩倉具視の繋がりは歴史の上からも読み取れる。本書の読者も時間があればパークスと岩倉具視の繋がりを調べてみると良い。
パークス( 英国)にしてみれば小栗ほど邪魔な存在はいない。仮に幕府がなくなろうと新しい政権組織に小栗が入れば、薩長軍に肩入れをしてきた英国( アメリカも)にとって、自国の利益に莫大な損失となる。それは小栗とフランスの繋がりにより、日本でのフランスの存在が大きくなることである。
徳川幕府の幕末期において軍事的にもフランスとの繋がり主であった。幕府の軍艦や横須賀の造船所のフランスの技術である。その時の幕府側の最高責任者は小栗上野介である。
日本でのフランスの存在が大きくなること、それは女王陛下の英国にとって莫大な損失となるのである。当時の英国は植民地という名目で侵略や殺戮を繰り返して来たことは先の項で述べたが、正しく、そのターゲットに小栗上野介がなった訳である。そして、パークスらの洗脳諜報作戦により、洗脳された公卿や若い勤皇志士より、小栗上野介は命を落とすことになるのである。言い換えればパークスらによる暗殺なのである。
★明治維新の際に多くの幕臣が採用されたことはご存知の事かと思うが、薩摩や長州とて優秀な幕臣を掃いて捨てるようなことはしていない。その為の江戸城の無血開城でもあった。まして、小栗は徹底抗戦をしたわけでもなく、群馬の権田村に隠遁したのである。薩摩にしても長州にしても小栗上野介が新しい政府の為にどれだけ必要な人物か知らない訳がないのである。そう考えると、東山道軍の若い兵士たちがとった行動がどうも腑に落ちないのである。

【 書籍番外】
暗殺とか抹殺とか物騒なことで、そんな事がある訳がないという読者がおられたら、現代の世界中の情勢をよく考えて頂きたい。今( 令和2年)この時間にも行われているかもしれない紛れもない事実なのです。勿論戦時中の日本軍もした事です。我々の手の届く歴史の範囲で、田中角栄の失脚もロッキード社を使いアメリカが仕組んだことは誰もが熟知している事です。原因は独自の田中外交で、中国やソビエトとの電光石火の国交回復をしたことで、日本におけるアメリカの地位に将来的な不安を感じたからに他ならない。

明治維新
「明治維新の勝てば官軍の浪費を見れば分かる国内事情」
その筆頭が岩倉使節団である。私が推理したあの岩倉具視の外遊である。
明治4年( 1871年)11月12日( 陰暦)に米国太平洋郵船会社( 英語版)の蒸気船「 アメリカ(英語版)」号で横浜港を出発し、太平洋を一路カリフォルニア州 サンフランシスコに向った。その後アメリカ大陸を横断しワシントンD.C.を訪問したが、アメリカには約8か月もの長期滞在となる。その後大西洋を渡り、ヨーロッパ各国を歴訪した。
使節団はキュナード社の蒸気船オリムパス号に乗船して、1872年8月17日にイギリスのリヴァプールに到着した。ロンドンから始まり、ブライトン、ポーツマス海軍基地、マンチェスターを経てスコットランドへ向かう。スコットランドではグラスゴー、エディンバラ、さらにはハイランド地方にまで足を延ばし、続いてイングランドに戻ってニューカッスル、ボルトン・アビー、ソルテア、ハリファクス、シェフィールド、チャッツワース・ハウス、バーミンガム、ウスター、チェスターなどを訪れて、再びロンドンに戻ってくる。1872年12月5日はウィンザー城ではヴィクトリア女王にも謁見し、世界随一の工業先進国の実状をつぶさに視察した。1873年3月15日にはドイツ宰相ビスマルク主催の官邸晩餐会に参加。
ヨーロッパでの訪問国は、イギリス( 4か月)、フランス( 2か月)、ベルギー、オランダ、ドイツ( 3週間)、ロシア( 2週間)、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア( ウィーン万国博覧会を視察)、スイスの12か国に上る。帰途は、地中海からスエズ運河を通過し、紅海を経てアジア各地にあるヨーロッパ諸国の植民地( セイロン、シンガポール、サイゴン、香港、上海等)への訪問も行われたが、これらの滞在はヨーロッパ各国に比べ短いものとなった。
当初の予定から大幅に遅れ、出発から1年10か月後の明治6年( 1873年)9月13日に、太平洋郵船の「 ゴールデンエイジ」号で横浜港に帰着した。留守政府では朝鮮出兵を巡る征韓論が争われ、使節帰国後に明治6年政変となった。
元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものとなる。一国の政府のトップがこぞって国を離れ長期間外遊するというのは極めて異例なことだったが、直に西洋文明や思想に触れ、しかも多くの国情を比較体験する機会を得たことが彼らに与えた影響は大きかった。また同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍し、日本の文明開化に大きく貢献した。しかし一方では権限を越えて条約改正交渉を行おうとしたことによる留守政府との摩擦、外遊期間の大幅な延長、木戸と大久保の不仲などの政治的な問題を引き起こし、当時「 条約は結び損い金は捨て 世間へ大使何と岩倉( 世間に対し何と言い訳)」と狂歌に歌われもした。
使節団のほとんどは断髪・洋装だったが、岩倉は髷と和服という姿で渡航した。この姿はアメリカの新聞の挿絵にも残っている。日本の文化に対して誇りを持っていたためだが、アメリカに留学していた子の岩倉具定らに「  未開の国と侮りを受ける」と説得され、シカゴで断髪 。以後は洋装に改めた。
総勢106人が1年半、不平等な兌換の国々を豪華な土産を持って豪遊して来たのが岩倉使節団。
どれだけ国費を使ったのか想像できない。東山道鎮撫総督の岩倉倶定( 当時16歳)、倶経などは江戸無血開城の後に早々とアメリカに留学( 退避とも考えられる)をさせている。
使節団中には優秀な留学生もいたのだろうとは思うが、豪遊には間違いない。そこそこの頭の切れる子を1年半も先進国を見聞させれば、役に立つ人間になるのは当たり前の事である。
華々しく日本の夜明けの様に歴史では教えるのだが、華族や貴族、その恩恵を受けたもの、維新の改革で莫大な利益を得てた商人、勤皇の志士で若くして地位を得たものなどなど、それ以外の民はどれだけ苦しい生活であったのかは歴史では習わない。ドラマの「 おしん」の様な貧しく、娘や息子を売らなければ生活できない人がどれだけいたか。新しい政府が英国思想で他国を侵略していき、何百万の兵士の犠牲の上で得た将軍が神格化されていくのである。
この様な日本国民の差別や貧困は第二次世界大戦後まで続き、良い意味でアメリカの介入にて本当の民主主義が取り入れられるようになる。
国体変革( 象徴天皇制、国民主権)、戦争放棄、基本的人権の保障、地方自治の確立など画期的内容をもつ 新憲法の制定、特高( 特別高等警察)・内務省の解体、農地改革、財閥解体、婦人参政権の確立、家父長制的家族制度の廃止、労働者の基本的権利の保障、男女共学の単線型六三三四制の創設などである。これらは、日本人自らの手では実現しえなかった改革であり、占領という戦争状態の継続下で初めて行われえたと言える。
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畠山の著書の日本の埋蔵金の中に東京日日新聞の『 維新前後』『 戊辰物語』で官軍の美談( ?)として出てくる江戸城無血開城の時、官軍の請取委員が各奉行所の管理する千両箱に目もくれず、処理は奉行所の幕臣に任せたとあるが、そんなことは絶対にありえない。官軍が幕府の資金を当てにしない訳がないのでる。岩倉の豪遊のしかりであるが、参考までに薩長軍も大阪城に入城した時、大阪で富商より軍資金を集めている。その金額は383万両にもなっている。返す当てのない借財ではあるが、勝ったからにはそれに見合う物が必要な事は誰でも分かる事である。
江戸城無血開城の際、幕府の金庫である御竹蔵に残金が17万5千両しかなかったとあるが、これもすべて薩長官軍側の報告である。
赤城埋蔵金説のここまでの記載で、なぜ、誰が、何を、何のためにをご理解頂ければと思う。

赤城山の埋蔵金伝説
赤城山麓の埋蔵金の話は水野家の伝承から始まるのだが、その伝承事の解説と明治維新前後~初期の事を明記する。
「  水野家の伝承事」
水野家の伝承事はおおよそ下記の様な事柄である。
徳川幕府の勘定吟味役だった義父の中島蔵人から『 埋蔵金360万両は井戸を掘ればわかる』と聞いた水野智義が赤城山の現地調査を開始したのは明治15年。智義は慶応4年、17歳で彰義隊に加わったとあるので、この頃は32~33歳になっている。
現地調査をした智義は、赤城山麓で炭焼きをしており、敷地に井戸を所有する角田源次郎を知る。その源次郎は幕末に赤城山麓で何らかの作業をしていた武士の集団に物資の調達をした際、物品の出入りを書き留めた「 買上覚え帳」十数冊を持っていた。のちに智義はその帳簿を譲り受け、埋蔵金の確信を得る。( 畠山著「 日本の埋蔵金」に写真有)
明治19年頃から赤城山麓の本格的な発掘調査を始めるが何ら成果がない。
明治23年 赤城山麓で偶然出会った児玉惣兵衛( 児玉広則とも藤原広則とも)なる人物からから埋蔵地点のヒントを得る。「 深さ」「 赤城、榛名、武尊山の不動の線に心せよ」「 角田源次郎の井戸に気を付けよ」の三点である。
児玉は埋蔵金( 源次郎の井戸の)の見張り役とされており、児玉は中島蔵人の同志として智義は聞いている。
同23年 源次郎の井戸より黄金の家康像を発見する。
明治24年 赤城山麓の双栄寺から出た銅板を譲り受ける。
同24年 今際の際の児玉惣兵衛から「 大儀兵法秘図書」を渡される。
この秘図書は八門遁甲で書かれており、埋蔵金の場所が書かれているとされている。
------以後昭和13年までの75年間赤城山麓にて埋蔵金発掘の手掛かりはない。
昭和13年 赤城にて埋蔵金探索を始めた三枝茂三郎がやはり伝承事で埋蔵金場所の目印とされていた「 庚申塚」を発見。
昭和17年 智義の次男、水野義治( 二代目)の協力者の角谷雅勝が三州たたき( 昭和30年代ころまで玄関の土間などに使われていたモルタルの様なもの)で出来た「 亀の形」を赤城山北麓地中にて発見。
昭和33年~36年 三枝が地下200尺( 60メートル)前後の場所で三州たたきで出来た塞ぎ塀( 三枝は宝庫の扉と称していた)を発見。
昭和38年 智義の三男、水野愛三郎が「 亀の形」から3尺のところで「 鶴の形」などを発見。
*3尺が正しければおかしな事なので30もしくは300尺の誤りか畠山の囮文章である。
以上が水野家の伝承事と周辺の発掘事情である。
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水野家と中島蔵人についてはこう伝承している。
維新の前、中島蔵人が勘定吟味役として全盛のころ、その邸の斜め向かいに水野健三郎という旗本屋敷があり、健三郎は九州久留米の旗本の生まれで、縁あって沼津十万石の水野家の分家の水野勇之進( 住所は牛込藁店)の養子婿入りしたとあり、妻豊が早死したので後添い( 静)をもらい、鉱太郎、鉦乃助、お園、英之極の子をなし、安政4年に病死とある。
この英之極が水野英之極智義である。
その後、この静と中島蔵人( 中島も妻を早くなくし、重太郎という子がいた)が結ばれたとある。
「 発掘品のタイミング」
畠山は昭和元年の頃、初めて赤城山麓の敷島村に訪れ古老などに聞き取り調査をしているが( 勿論水野にも)、年齢的( 20歳)にも埋蔵金に興味を持った青年の域からは出ておらず、本格的に自身が実測調査をした訳ではない。
畠山氏が踏み込んだ調査をして行くのは恐らく「 埋蔵金物語」を執筆した昭和14年の2~3年前からだと思う。これは三枝氏の発掘のタイミングに合っている。次作の「 ルポルタージュ 埋蔵金物語」昭和36年刊行も同様である。一方、明治以来75年も何ら発掘成果のない水野氏が、畠山氏の刊行物のすぐ後に発掘品を得ることは事は何かの偶然であろうか。
「 水野家伝承事の検証」
本書で起債する水野家の伝承事のすべては畠山の著書『 日本の埋蔵金』によるもので、本当のところはとなると判断がつかないが、それでは前に進まないので、まずは著書に基づいて検証する。著作には盗作を避けるため囮の文章があると書かれているが、それも合わせて検証したい。
水野家が直接発掘したのは、明治23年の家康像〈 児玉の直接的なヒントによるが〉と、昭和38年の鶴、梵字だけであり、実に75年間のブランクがある。これは何を意味するのか。
私がどうしても納得のいかない事がある。それは児玉のヒントの内容と、銅板の発見と入手の順番である。
児玉のヒントとは『 めざす物はこの深さだ』と示した約二間( 3.6M )の深さと、『 赤城、榛名、武尊山を結ぶ不動の線に心せよ』『 角田源次郎の井戸に気をつけよ』である。
この『 源次郎』がおかしい。そもそも水野義治は『 井戸を掘れがわかる』という言葉を聞き赤城に乗り込んできている。赤城に移り4~5年途方に暮れていたにせよ、当時山麓の聞き込みをすれば源次郎の井戸はあったはずである。その水野にあらためて直接的な「 角田源次郎の井戸」とヒントを与えたとは思えない。
この児玉からのヒントが事実であれば、中島蔵人から聞いたとされる『 井戸を掘ればわかる』が怪しげなものとなる。
そう考えると、中島からの言葉があったとすれば『 幕府の御用金は赤城山麓に埋蔵した』という内容で、児玉のヒントも『 源次郎の井戸に気をつけよ』ではなく、『 双栄寺に心せよ』ではないかと思う。なぜならばこの埋蔵金の謎解きが偽装にせよ、双栄寺が起点となり、謎解きが始まるからである( 私の銅板から解読した「 一将を得る」とは双栄寺から源次郎の井戸を示すものである)。
「  角田源次郎から入手した買上覚え帳 」
武士の集団から帳面をつけるよう言われたとあるが、仮に埋蔵金の埋蔵作業であれば理解しがたい。秘密裏が欠ける。また、炭焼きを生業としている源次郎と達筆な覚え帳とはあまり結びつかない。
群馬県勢多郡津久田村( 現、渋川市赤城町)の出身で日本文学者の角田柳作の生家の資料を見ると覚え帳同様の帳面が何点かある。しかしこれはあくまでの豪農の家産形成に係るもので、ある程度の教育を受けたものでなければ記帳は無理ではないだろうか。
物品の調達能力からからしても源次郎は津久田村同様に角田の姓が多い沼田城下の商人の手代などではないかと推理する。それは同村内で源次郎の縁者の記録がない事でも推測できる。また、実際の埋蔵や偽装工作にしても地場の代官や沼田藩が多少なりとも協力をしなければ到底無理なことではないかと思う。

「 諸々を加味して推理する」
水野は先ず、『 双栄寺に心せよ』から、寺の役僧を拝み倒して独自で境内を探索したか、共に探したかして、まず銅板を手に入れた。しかし、この難解な銅板の絵図や文字を全く解読( 理解)できなかったのではないだろうか。それどころか、銅板の中の偽装工作でもある赤城津久田原に発掘者を執着させる簡単な偽装すらもたどる事もできかったのではないだろうか。そんな水野を見て、発掘者を赤城山麓に誘導するため、児玉は二度目のヒントを与えたのではないだろうか。それが『 源次郎の井戸を掘れ』ではないかと思う。
実はこの銅板、偽装工作へ導く作為も書かれており、双栄寺から源次郎の井戸にたどり着くことは難しくないのだ。この作為に色々な人が翻弄されたことはここに記載するまでもない。しかし、赤城山麓に埋蔵金があるとすればこの銅板は唯一の手掛かりであることは間違いない。畠山もこれは見抜いており、学術調査と偽って割符の銅板探しに双栄寺の天井の中まで調査をしている。
そしてまた、児玉が今際の際に「 大儀兵法秘図書」を水野家に渡し残したのも、今以上この場所に執着させる為ではなかろうかと思う。なぜ執着させるかは二通りの考えがある。いつまでも偽装に翻弄させること。そしてこの埋蔵金話が長きにわたり伝承されることである。そういう意味ではこの児玉惣兵衛なる人物の策は成功していることになるが、私は児玉自身も埋蔵場所は知らなかったのではないかと思っている。

「 水野健三郎と中島蔵人」( 文政武家事情)
作り話をする場合、すべて嘘をつく事は難しく、少しは本当の事があるものである。
私はこの真実を捜してみた。そして埋蔵金話をどうして知り得たかを推測した。これを徹底して調べたからこそ、その後の埋蔵金調査に没頭できたのである。

文政6年〈 1823年〉
七番組大御番頭、永井信濃守直方配下、組頭水野健三郎という者がいる。住所は牛込小日向小石川の内、三百石高、役料百俵の幕臣である。決して旗本ではない。
この人物は、畠山清行著の『 日本の埋蔵金』にさし絵で出ている水野健三郎としている画像の人物ではない。それは衣装である素襖と侍鳥帽子より判明する。この衣装は布衣以下三千石以上と三千石以下御目見以上勤仕の者と決められた身成である。そして、同時期には三千石以上の旗本に水野健三郎名は存在しない。

 

天保4年〈 1833年〉
組頭水野健三郎の近所に〈 牛込神楽坂小日向の内〉御勘定吟味役御殿詰頭を務める中島平四郎という者がいる。        
天保14年〈 1843年〉
中島平四郎は依然として同職にあるが、水野健三郎は同年の武鑑には載っていない。中島は、天保九年に同牛込内にて転居している。〈 この年以前に水野健三郎が没か?〉
水野家伝承事が正しければ水野の妻と中島の再婚はこの時期かと思われる。その際に中島は水野家に越したことが推測できる。以後、中島は佐渡奉行、御徒組頭を務め慶応2年まで同職にある。
私は水野家に埋蔵金の話しが伝わったとすれば、この中島平四郎の関係からと見ている。後に詳しく記載する。
この実在人物等を伝承事内容と確信しているのは、名前、住所、役職、家族事情からしても伝承事に実在のものを近づけるのであれば、この二人の他には幕末存在しないからである。   ただ一つ水野家伝承事と、どうしても合わない事がある。それは水野智義の年齢である。私は水野健三郎の死を天保9年前後と見ている。( この年以前の武鑑にも既に水野の職制は載っていない。)仮に子供がいたとしても幕末には33~35歳ぐらいであり、水野家の伝承事に出てくる、幕末期の水野智義〈 16~17歳〉とはあまりにも年齢が違ってくるのである。
水野健三郎と中島平四郎の子を調べているが、智義なる名前を今以て見つけていない。ただ智義の語りで父とされる水野健三郎は、幕末この水野健三郎ただ一人なのである。そして義父となった近所に住む勘定吟味役の中島とは、この中島以外に考えられないのである。現在の水野家初代の智義がどうして中島平四郎に近付けたかが疑問である。もしかして、智義は智義を知っていたのかも知れない。
幕末、中島は65歳の高齢である。老い先短い老人が「 身内を知っている者」仮に智義の友に昔話のように埋蔵金の事を語ったとしても、不思議ではない。
又、この中島が本物の智義の養父であれば、本当の水野家の家財を所持していても不思議ではない。そして中島没後に家財が「 身内を知っている者」に渡ることも十分考えられる。
横浜の赤城山埋蔵金詐欺事件( 別項記載)もこの語りを聞いて中島の名前を騙ったの者の仕業であるかもしれない。この事件後、ほとぼりが冷めるのを見て、自らも赤城にも行ったのではないかと見ている。この時期はかなりの人が赤城山に埋蔵金探索に入り込んだとされているからだ。 この詐欺で得た金さえあれば、十分調査出来たはずである。
本題の戻るためこれ以上の詮索はここで終止するが、幕末の混乱期、人の名前を騙ったり、人の家系を自分のものにすることは、造作もなかった事を記しておく。

赤城山埋蔵金詐欺事件
中島蔵人や水野健三郎、水野智義の名前は後々の別の埋蔵金詐欺事件にも登場する。聞書き猪俣浩三自伝の中の「 赤城山埋蔵金事件」である。この事件の主人公である。
「 聞書き猪俣浩三自伝の中の赤城山埋蔵金事件」
事件の主人公である猪俣浩三( 弁護士)の師、関儀一郎が詐欺容疑で裁判沙汰になったのは、元はと言えば昭和3年に雑誌で発表された水野智義の一代記が発端である。
すなわち「 赤城山埋蔵金事件」に登場する中島蔵人も水野健三郎、水野智義も鉄道工事受注の話も、慶長大判の話も、360万両埋蔵金も、甲府城御金蔵の金財埋蔵の件もすべてが二代目水野義治の語りが元で何ら根拠がないのである。
猪俣氏が事件の発端である水野家の埋蔵金物語を検証したものでもなく、事件の記録( 記憶)を語っただけであり、自身が赤城山の埋蔵金を調査したわけでもない。ただ関儀一郎が埋蔵金のとりこになり、詐欺まがいをした事は事実であり、その為、裁判官などと同行して榛名山中腹を実証検分したようである。
参考までにこの事件の公判の陳述に登場する、中島蔵人と水野智義( 初代)は叔父甥の間柄である。
中でも、水野智義が埋蔵金発掘を始めるきっかけとなったなった鉄道工事に関する詐欺事件の事を下記の様に記載をしているが、この内容も辻褄が合わない。すべては義治の語りなのだ。
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「 明治の初年頃、横浜東京間の鉄道工事を請け負った中島蔵人という男がいた。彼は小栗上野介の家来で、その出納役を勤めていたという過去があったという。中島蔵人は工事を請け負うにあたって、慶長大判一枚を手付金代わりに渡し、顧問役のお雇い外国人を喜ばせて、首尾よく許可を受けたとのこと。その西洋人が補償金として、さらに慶長大判を求めてきたので、中島は赤城山に赴き、埋蔵金を掘りだそうとした。けれども、宝の場所が発見できず、詐欺罪で、お雇い外国人から訴えられた。
★お雇い( 御雇)外国人( おやといがいこくじん)とは、幕末から明治にかけて、欧米の技術・学問・制度を導入して「 殖産興業」と「 富国強兵」を推し進めようとする政府や府県などによって雇用された外国人。
結局、中島蔵人は、横浜の牢屋に、2年ばかりぶち込まれた。その間のごたごたで中島は甥にあたる水野智義に、金銭上、多大な迷惑をかけた。明治8年に、中島は京橋の旅籠屋で、零落のうちに死んだ。しかし、その臨終の席で、枕頭に坐した水野智義に、中島は重大な秘密を明かした。
さて、苦しい末期の息の下から漏れた、意外な告白とは・・「 自分は勘定奉行直属の配下であった。だから、小栗上野介のやったことは何でもよく知っている。元治元年( 1864年)頃、小栗は江戸城にあった360万両の大判小判を、深夜ひそかに運び出した。大伝馬船八艘に積み込み、利根川を上ると、上州倉賀野と川俣との中間地点で陸揚げした。小栗がその金をどこの隠したかは存ぜぬ。だが、赤城山中だという事は確かな伝聞だ..」
この詐欺事件が横浜の新聞に出たという事が事実であれば、中島蔵人という人物は中島平四郎の役職を騙ったの者の仕業であるかもしれない。
畠山もこの横浜の詐欺事件の事は『 日本の埋蔵金』に書いているが、その内容は明治六年の東京日日新聞( 本書に添付)にでた赤城山麓で西洋の井戸掘り機を用いて埋蔵金発掘を試みた三四名の記事と混同している。ただ言えることはこの記事にあるように、この時期はかなりの人が赤城山に埋蔵金探索に入り込んだようで、詐欺師が出てくるのも当然かもしれない。

明治6年、西洋式の掘削機を持ち込み赤城山麓で埋蔵金を掘った記事
 


「 語り」
伝承事を語った二代目水野義治とはどういう人物なのか。時代は少々違うのではあるが、私が小栗上野介を調べるにあたり参考にした本がある。木屋隆安著『 幕臣小栗上野介』である。その木屋氏が時事通信前橋支局長時代、水野義治氏に会った時の談話を著作に載せている。
『 著者も前橋在勤時代、取材の為に二度ほど義治翁をたずねたが、最初のときは話しを聞いているうち、本当に胸がわくわくした。囲炉裏にほたをくべながら、義治翁が一片の土のかけらを大事に取り出し、「おぬしはわりと信用できそうじゃから教えてやるが、この土くれはの、〃三州たたき〃ちゅう物だ。徳川家築城の秘伝の一つで、粘土と赤土、それにしっくいを混ぜてこね、そして焼くんじゃが、こね具合、焼き方でこんなにコンクリートより固いものができるんじゃ。江戸城蓮池御金蔵の壁も、これでつくってある。ちとやそっとの爆弾を仕掛けてもピクともしない。わしはこの〃三州たたき〃を実は昨日やっと掘りあてた。隠し金蔵の壁というわけじゃ。ここさえ破れば小栗さんが隠した黄金はわしのもんになるんじゃ。よいか、お主、決して誰にもしゃべるじゃないぞ」。…と打ち明けられた時には、心臓が早鐘のようにときめいた。恐る恐る、「 それでお金はいつごろ出るんですか」とたずねたら、義治翁は鋭目つきでジロリと周辺を見回し、「 そうよのう、あと一週間くらいじゃ」と教えてくれた。
それから七日後、筆者は食料品やお酒をしこたま買い込み、義治翁の世紀の大スクープ記事の〃独占取材〃かたがた陣中見舞いに出掛けた。その時である。筆者がまるでタイムトンネルをくぐっているかような錯覚に陥ったのは。
義治翁が七日前と全く同じ動作物腰で筆者に接し、表情もしゃべる内容もまるっきり同じだったのである。
義治翁が小用に立ったすきに、筆者は素早く件の〃三州たたき〃を欠いて、その小さな破片をポケットにしのばせた。後で、その土くれを群馬大学工学部で分析してもらったところ〈 炭を焼く時窯底にできる土のかたまり〉と判明した。そこでひそかに義治翁の掘った穴を調べたら、いずれも以前炭焼き窯のあったところということが分かった。がっかりしたが〈まあそんなことだろう、でもあのじいさんにとっては掘ることが生き甲斐なんだから〉と、それっきり赤城村の津久田原のほうへは足を運ばなかった。義治翁のことも埋蔵金のことも頭からはなれ、小栗上野介のその人のほうに関心が移りはじめていた。
それから半年くらいたった冬の夜、前橋市の郊外敷島公園にある筆者の家へ、突然義治翁がたずねてきた。いちおう応接間に通したら、いきなり彼は懐から紫色のふく紗で作った刀袋を取り出し、「 有体に言うが、資金難になったのじゃ。大きな声では言えぬが、ついに今日隠し金蔵の外壁を掘りあてた、これは〃三州たたき〃ちゅう壁のかけらじゃ、今一歩のところで資金が切れた。そこで相談じゃが、この先祖伝来の国光の短刀を十万円で売りたい。お主も知っての通り、わが先祖は四千二百石取りの三河の大旗本じゃ。じゃからこういう名刀もあるんじゃ。二百万は軽いこの国光、どうじゃお主買え」といって、ふく紗袋から一振りの短刀を、土くれとともに筆者の前にほうりだした。銃砲刀剣類登録証はもちろんないが、ナントカに刃物で、断わるとこの老人何をしでかすか分かったものではない。第一、筆者の家を捜し当てたことも薄気味悪かった。不安になったので青い顔をしている家内に、あり金全部持ってくるように言い付け、筆者も財布の底をはたいた。全部で八万五千円。黙って渡すとちゃんとえ、「 ふん、一枚たりんのう、まあええわ、その刀手入れを怠るな」・という下りである。
当然、刀は国光ではなかったそうだが。読者はこの水野義治をどのように思われるであろう。
先に記載した『 徳川埋蔵金伝説』の著者八重野は、この義治の話しを主体にしている、また同様に義治の話をもとにした上毛新聞の『 赤城埋蔵金物語』も参考にしている。八重野がこの義治に会っているのが昭和46年。木屋氏が会っているのがそれ以前の40年頃である。おかしな言動が悪化していないとは誰が言えよう。
参考までに畠山清行のルポルタージュ 埋蔵金物語も義治の語りが元ではあるが、これも昭和36年頃の話なので昭和40年頃の義治とそう変わりはないのかと思うが、畠山は昭和初期から赤城を訪れており、義治の事を理解した上で書籍を書いているのだと思う。また、昭和48年刊行の『 日本の埋蔵金』の内容は、三代目〈 義治の弟〉愛三郎が初代智義の日記など再度見直したものを聞いて参考にしたと言われるが、これも誇張が多く嘘偽りも多い。TBS同様に当然畠山は「 脚色だらけの伝承」に気がついていたと思うが、そのまま書いた事が畠山氏の『 おとり』であるかも知れないと私は思っている。

「 水野家の伝承事に出てくる林鶴梁について」
TBSが埋蔵金発掘番組を放映中、長尾三郎著『 対決』の中心人物、中居屋重兵衛(横浜の大商人)を埋蔵金に関わりがある人物としたり、長尾の林鶴梁考察を取り上げ、埋蔵金輸送まで林の関わりがあるとしている。
長尾の著では「 林鶴梁は元々長野豊山、松崎慊堂に師事した儒学者で、その学識、文才はつとに知られ、水戸の藤田東湖、相沢正志斉らとの知友関係から徳川斉昭の信頼が厚い。その一方で蘭学系の川路聖謨、のちには越前の橋本左内らとも交友があり、幅広い人脈を保っているが、傲ることがない態度からは若かりし頃、麻布あたりで林鉄蔵と言って恐れられた侠客だった事は誰も信じられなかった....」とあり、この内容を元に中居屋の絹の商いルートが利根川を使った群馬―横浜とした上で、埋蔵金の運搬はそのルートであり、人夫は群馬の侠客の大前田栄五郎の配下を使い、林鶴梁に関係すると述べている。
〈 林鉄蔵〉如何にも強面の名前のように聞こえ、若かりし頃名乗っていたと書かれているが、林鶴梁は侠客でもなければ、鉄蔵は若い頃だけの名前ではない。鶴梁は13歳で井田蘇南を介して幕臣中山彦左衛門宅に在して勉学を始めている。また、17歳で長尾赤城に師事し、友人藤森天山もこの時期に得ている。19歳で藤森らと【 今人詩英】などの出版しており、その後長野豊山、佐藤一斎、松崎慊堂に師事している。その後27歳で谷町同心となっている。鉄蔵という名前だが伊太郎が幕臣として使う名前であれば、鉄蔵は通称である。その証拠に奥火之番に昇進した天保13年の36歳の時でさえ廣益諸家人名録には、儒学道 鶴梁名長孺...麻布片町林鉄蔵とある。
私にとって長尾の林鶴梁の認識度合いなどどうでも良いのだが、こと埋蔵金を絡めて語るのであれば史実も調査せず、小栗上野介~林、小栗~村垣淡路守~中居屋~佐久間象山~林、井伊~中居屋~勝海州などと人脈を安易に結びつけることは避けてもらいたいのである。おそらく鶴梁が侠客であったと言う内容も「 近世上毛偉人伝」「 上野人物誌」「 上毛外史」などからの抜粋だったと思う。先にも記載したが、明治維新後に書かれた書籍は「勝てば官軍何とかで」廃藩置県で地方に赴任した官軍( 薩長軍)上がりの歴代の知事史同様に地方史の虚実を理解して置く必要がある。

ここで林鶴梁の略歴について述べると、 国史大辞典にあるような鶴梁は旗本の生まれではない。本名西川伊太郎上州群馬萩原の地主の生まれである。
幼少の折、玉井宿の井田家に預けられ井田蘇南に師事、12歳の時に大病して一命を取り留め、医術に感動し二宮東貞に医術を学んでいる。その後、井田の口添えで江戸に出て、幕臣中山孫左衛門宅に在し勉学する。援助もあり時俗御家人の株を買い、林の姓を名乗るようになるのである。
 また国史大辞典には辞職後も藤田東湖、藤森天山、橋本左内らとの交わり、尊王攘夷を唱えたとあるが、鶴梁が辞職したのは正確には明治元年幕府寄合衆の職である。仮に学問所頭取被仰付だとしても、御免した元治元年12月12日( 1864年)だとしても、すでに3人とも亡くなっているのである。どうしてこのようないい加減なことが載っているのか。これが歴史学の偉い先生の監修なのだからあきれてしまう。
鶴梁は前記のように旗本でもなく特に大きな後ろ盾があったわけでもないが、確実に出世していることは間違いなく、その役職を見てもやはり逸材であったことは分かり、学識に優れていたことも分かる。が、どうも私には中泉代官以降の行状が気にかかるのである。鶴梁の人物像として参考にさせていただいた「 小伝林鶴梁」の著者坂口築母は、このようなことを述べている。「鶴梁は江戸にあって仕事の度に単身任地に着くという生活であった。ただし不思議なことに安政の大獄に連座し処刑される同胞を任地にあって 知る運命は一体何を意味するのか。この際、摩憶測は慎むべし」とある 。
実はこの事、私が推理する重大な裏付けとなった。また、坂口はこの柴橋代官後の鶴梁の行状は定かではないとも言っている。これは鶴梁日記が文久元年1861年以降欠本しているためであり、その意は不明である。1861年と言えば万延改鋳の頃で、私が推測した地金を残した時期と同じである。
また、坂口は袖珍有司武監( 元冶元年版)によるとして、鶴梁の昌平坂学問所の役職を載せている。儒学者衆7名。教授方出役 林国太郎ほか。学問所頭取 林伊太郎ほか6名。伊太郎( 鶴梁)は和宮付き兼任。
私は坂口とは違う見方をしている。埋蔵金を推理する上で重要な事と思えるのは橋本博編の大武鑑参考よると、学問所頭取が学問所世話心得頭取とあり、上記7名のほかに、栗本瀬兵衛、新見相模守、が見られることである。
この栗本瀬兵衛は上野介の兄弟子( 艮斉塾)であり、最も親しい間柄の人物である。
また、こちらの武監には昌平学問所の教授方出役の役職もなく、林国太郎の名前もない。学問所世話心得頭取の役職が、麹町善国寺の創設した学問教授所にあるので、鶴梁も国太郎もこちらの所属ではなかったのかと思う。いずれにしても人間関係を調べるには細かな注意が必要である。
よくある埋蔵金説の中で林鶴梁が井伊直弼の腹心であるなどと言っているがとんでもないことである。方や彦根藩の藩主であり林鶴梁は一介の幕臣である。何らかの繋がりがあるなら必ず中に入る人間がいるはずである。
ただ私が調べた範囲では小栗上野介と林鶴梁は直接的に関係のある命令系統でも不思議ではなくこの可能性を調べてみることが大切なのである 
林鶴梁は文久三年、河津三郎太郎が新徴組支配を転役して、代わりに支配となる時、河津と松平上総介、岩田緑堂、安井息軒等を浪士統制の目的で召し抱えとなるよう登用しいている。 この新徴組の大きな後ろ盾となっている酒井左衛門尉は上野介ともつながりがあり、また河津三郎太郎こと河津駿河守( 伊豆守)は後の外国奉行、外国事務総裁、勘定奉行( 並)であり上野介を慕う後輩なのである。そして鶴梁と上野介の繋がり推理する上で重大なことがもう一つ。実は鶴梁( 伊太郎)が幼くして過ごした玉村は小栗家知行地だったことである。すなわち村人である伊太郎にとっては小栗家は御領主様なのである。

林鶴梁と上野介
さて逸材なる上野介は誰に師事したかと言うと、8歳の頃より安積艮斉塾( 小栗邸内にあった)にて和漢、洋学を受けている。いかに非凡であったかは、前記の御両番( 今の上級国家公務員試験)入りを21歳で果たしているのだからお分かりと思う。家庭に恵まれていたこともあるが、父忠高の役柄を抜いてしまう度量は幕府困難の時節柄からして見逃すことはできない。
そしてこの父忠高もあるいは人間関係で埋蔵金に絡んでくるのではないかと私は見ている。忠高は幕末下記を歴任している。
天保14年1843年 御使番衆
弘化4年1847年御留守居番
寛永4年1851年御持筒頭
寛永6年1853年新潟奉行
寛永7年1854年御持筒頭
この翌年、安政2年1855年上野介が小栗家を継ぐのである。
井伊直弼、林鶴梁、中島平四郎、水野健三郎が忠高と同年代であり、職制がどういう人間関係になっているのか理解しておくことが本書での埋蔵金推理解説のポイントでもある。
特に忠高が新潟奉行の時、同時期における中島平四郎の幕府職が佐渡奉行というところである。
上野介の師、安積艮斉を中心に儒学系図を考察すると重要なことが見えてくる。上野介の人間関係と共に添付する。

 
黄金の行方 徳川幕府の埋蔵金 改訂版その3に続く

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