出エジプト記32:7〜10


"主はモーセに言われた。「さあ、下りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。
彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道から外れてしまった。彼らは自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえを献げ、『イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ』と言っている。」
主はまた、モーセに言われた。「わたしはこの民を見た。これは実に、うなじを固くする民だ。
今は、わたしに任せよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がり、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とする。」"


今日の箇所で一つ違和感を感じた主の言葉がある。


7節の「あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民」という言葉である。


本来は「主がエジプトの地から連れ上った主の民」のはずである。


なぜこのように主はモーセに語られたのであろうか?


解説にはこれはモーセが傲慢になっていないかを試すテストであったという風に書かれていた。


真意は分からないがこの後モーセは

"しかしモーセは、自分の神、主に嘆願して言った。「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。"
出エジプト記 32章11節

と話し、あくまでイスラエルの民をエジプトから導き出したのは神様あなたですよとモーセは言っているのである。


それは神様あなたが責任をもって始められたこの働きを最後まで責任をもってやり遂げてくださいというモーセの叫びであろうと思う。


"主が家を建てるのでなければ建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ守る者の見張りはむなしい。"
詩篇 127篇1節


働きを始めたのが人間なのか神なのか、働きを始めた者が最終的に責任を負う者なのである。


私たちは主が建てる働きの担い手として遣わされるのであれば、何も恐れる必要がない。


主がその働きの総責任者として導いてくださる。


主の御声に敏感であり続けたいと思う。