※当サイトは記事内に広告を含みます

雑記を楽しむ

【異説・新説】桶狭間の戦いは、奇襲攻撃だったのか? 正面攻撃だったのか?

Created with GIMP

戦国時代と幕末は、歴史好きの鉄板ネタと言えるくらい昔から人気のある時代です。

また古今東西、市井の歴史好きの興味は、その時代の文化や風俗というよりも、もっぱら人物伝に偏っていますから、例えば戦国時代が好きな人なら、織田信長や豊臣秀吉、武田信玄や上杉謙信といった武将とその事績、幕末が好きならば坂本龍馬や西郷隆盛、土方歳三や高杉晋作など志士とその事績への関心が大半を占めます。

そして、興味が高ずると比較的メジャーな知名度の人物群から、知名度としては比較的マイナーな人物群へと関心の範囲が広がっていきます。

そうなると必然的に、彼ら歴史上の人物が戦った合戦や政争、闘争、彼らが関わった歴史上の事件の詳細や真相に興味の範囲が及んでいきます。

そうして年齢を重ねるほど、知れば知るほど、歴史好きの度合いが深まっていきます。

ですから歴史好きには、「ちょっと歴史が好き」という人はむしろ少なくて、皆、自分が興味のある人物群とその周辺史については、かなりなマニアになります。

差し詰め私もその一人で、酒席で歴史の話が始まると、興味のない人にはさぞかし苦痛だろうと思いながらも、ついつい前のめりになって話が長くなる傾向があります。

遠方に出張した折などに、一日の仕事を終えて居酒屋で一人飲みをする際には、歴史の謎解き本が一冊あると、それが最高の酒の肴になったりします。そうした酒肴にうってつけな戦国史について、つれづれと綴ってみたいと思います。

ということで、今回の酒肴の戦国史は、桶狭間の戦いから一席お付き合いください。

知っているようで知られていない桶狭間の戦い

桶狭間の戦いといえば、日本史にとりたてて興味のない人でも名称は知っているくらい、よく知られた合戦です。

しかし、合戦名がよく知られているのに対して、合戦の中身についてどれだけ知られているかと言えば、概ね「織田信長が上洛途上の今川義元を、奇襲攻撃で討ち破った戦い」くらいの認識に留まるのではないでしょうか。

実のところ、桶狭間の戦いがどのような戦いだったのかは、合戦の経緯を詳しく記した同時代の史料がほとんど残されておらず、よくわかっていないというのが実情のようです。

戦いがどの地でおこったのか、つまり桶狭間とはどの場所を指すのかについてさえ詳細な記述はなく、未だ定説はありません。

桶狭間の戦いに関する、唯一の一次史料とされているのは、織田信長の直臣だった太田牛一が記した「信長公記」ですが、その内容にも不明瞭な部分が多く、研究者の解釈の仕方によって様々な意味に取れるため、戦いの場所、経緯、そして原因に至るまで諸説入り乱れ、さながら謎解き合戦の様相を呈しています。

奇しくも、信長が最期を迎えた「本能寺の変」が、戦国史最大の謎になっていることを考えると、織田信長の生涯は、歴史の舞台に躍り出た最初の戦いと、歴史の舞台から消え去った最後の戦いが共に謎につつまれていることになります。

信長の足跡には、後世になって編纂された二次史料による伝聞・風説が多く残されている反面、同時代に書かれた一次史料による裏付けが乏しく、多くの謎や疑問が存在します。

このあたりが、いまだに信長が、歴史好きにとって最も興味をかき立てる戦国武将の一人たり得る所以かもしれません。

信長公記に記された合戦の経緯

まず、信長公記の記述をもとに、合戦のあらましを追ってみるとしましょう。

永禄3年(1560年)5月12日、駿河・遠江の太守今川義元は、四万五千の大軍を率いて三河から尾張に侵攻を開始します。鎌倉道を西上した義元は、同18日、尾張と三河の国境に位置する沓掛に到着。この日の夜、松平元康(徳川家康)に率いられた先発隊が大高城に兵糧を搬入します。

大高城は尾張南東部、知多半島の付け根に位置する伊勢湾に面した城で、元々は織田方の城だったのですが、数キロを隔てた鳴海城、沓掛城とともに今川側が調略によって乗っ取ります。

これに対して信長は、鳴海城を丹下・善照寺・中島の各砦で囲み、大高城の周辺を鷲津・丸根の各砦で囲んで封鎖するとともに、両城間の連絡を遮断して、兵糧を絶つ戦略をとりました。これによって鳴海、大高両城の兵糧はたびたび困窮し、この時も今川軍は大高城へ兵糧を入れる必要がありました。

一方織田方では、18日夕刻に、丸根砦の佐久間大学、鷲津砦の織田玄蕃から清洲城の信長へ、今川軍が明朝、丸根・鷲津の砦を攻撃するというが注進が届けられますが、信長は軍議をするでもなく、もっぱら雑談をするばかりで、家老たちは「運が尽きれば知恵の鏡も曇る」と嘲笑しながら引き下がります。

翌19日早暁、今川勢は、松平元康が丸根砦、朝比奈泰朝が鷲津砦にそれぞれ攻撃を開始。信長は、この報を聞くや「人間五十年下天の内をくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」と有名な敦盛の舞を謡って、あわただしく出陣の支度をすると、世も明けきらぬうちに出陣し熱田へと向かいます。

この時信長に付き従ったのは、小姓衆5名のみだったといいますから、家臣も寝耳に水の行動だったようです。前日に家老たちを失望させた危機感の薄さとは打って変わっての迅速な行動からは、信長が家臣(に紛れている敵方の間諜)に知られぬよう、心中密かに「この時」を待っていたことがうかがわれます。

熱田神宮に着くと、鷲津・丸根両砦が落ちたとみえて、東の方から煙が上がっているのが見えます。海側の近道は潮が満ちていて馬が通れないため、信長と近習は内陸側の道を駆けに駆けて丹下砦へと向かい、そこからさらに佐久間信盛が守る善照寺砦に到達。そこで信長は軍勢を整え戦況を視察します。

これは、敵方に悟られずに自らの司令部を一気に前線近くまで前進させたということになります。

その頃、今川義元は桶狭間山に布陣、北西の方向に向かって陣容を整えて軍勢を休息させていました。丸根・鷲津両砦を早くも攻め落としたことに義元は「これに勝る満足はない」と言って謡を三番謡ったといいます。一方、大高城に兵糧を運び入れ、鷲津・丸根において奮闘した家康は人馬の疲弊を癒すため大高城に入城します。

この「桶狭間山」がどこにあったのかは、史料に具体的な記述がなく、今もってわかっていません。

信長が、善照寺砦まで進んできたのを見て、佐々隼人正、千秋季忠の両隊が三百ばかりの兵で義元の本陣に向けて進撃を開始。しかし今川軍はこれに一斉に襲いかかり、佐々、千秋の両将はじめ五十騎ほどが討ち死にします。戦果を確認した義元は、義元の矛先には天魔鬼神も堪えきれぬであろうと、たいそう上機嫌で謡を謡ったと信長公記には記されています。

佐々、千秋の両隊による進撃が、信長の到着を見て功を焦っての抜け駆けだったのか、もしくは身を伾しての陽動作戦であったのかは定かではありませんが、軍規に厳しい信長軍のことゆえ、おそらくは主君からの下知を受けての突撃であったのではないかと想像します。

この戦況を見て、信長は軍を中島砦へ進めることを下命します。善照寺砦の家老衆は「この先は道の両側が足が沈みこんでしまう深田で、一騎ずつしか道を通れないので少勢であることが敵にわかってしまいます。おやめくださいませ」と引き留めますが、信長はそれを振り切り兵二千ほどを率いて中島峠に進軍します。

信長が中島峠からさらに進軍しようとすると、家老衆は今度はすがりついて信長を止めようとしますが、信長は「敵は夜を徹して行軍し、大高城へ兵糧を入れ、鷲津・丸根で奮戦して疲れ切っている兵である。大軍といえども恐れることはない。運は天にあり」と言って山際まで兵を進めます。

この時、突然激しい雨が降りだします。織田軍の背面から降りかかった豪風雨は、石や氷を投げつけたように今川軍の顔に激しく打ち付けます。沓掛の峠にあった楠の大木が雨風に吹かれて東に横倒しに倒れ、あまりのことに「これは熱田大明神の神戦か」と兵たちが言い合うほどの激しい雨風あったといいます。

やがて空が晴れるのを見て、信長は槍を取り大音声で「すわ掛かれ、掛かれ」と突撃を命じます。織田軍が黒煙を立てて攻め掛かってくるのを見た今川軍は、水をぶちまけたように後方にどっと崩れ、弓、槍、鉄砲、旗指しものが散らばり、義元が乗っていた輿さえも捨てて総崩れとなって敗走します。

信長は「旗本はあそこだ、あそこへ掛かれ」と命じ、軍勢は東へ向かって攻めかかります。今川軍は三百騎ほどが円陣になって義元を守り退却しようとしますが、繰り返し攻撃されるうちに次第に兵が減っていき、ついには五十騎ほどになってしまいます。

信長軍の兵は我先にと義元に迫り、ついに毛利新介が義元を組み伏せ討ち取ります。義元の死により今川軍は戦意を失い敗走。信長軍は騎馬の先頭に義元の首を掲げ、もと来た道をとって返しその日のうちに清洲に凱旋します。

時代の転換点となった桶狭間の戦い

桶狭間の戦いの結果、今川氏の勢力は著しく後退し、西三河から尾張に一帯の支配権を失います。また、合戦によって甚大な人的・経済的損失を受けたことにより国勢が衰退し、後年の滅亡を招いたと言われています。

一方、大高城に入っていた家康は、敗戦が決まると戦場を離脱、今川氏への臣従で失っていたかつての本拠岡崎城に帰還し、その地を拠点に今川氏を離反します。

以降、松平家の旧領回復に乗り出し、桶狭間の戦いから2年後の永禄5年には織田氏と同盟を結び、三河統一を進めていきます。

家康との同盟によって東から侵攻される危険がなった信長は、以降美濃攻略を足掛かりとして、西方へと急速に勢力を拡大していくことになります。

桶狭間の合戦での劇的な勝利がなければ、家康が三河を領有することもなく、したがって織徳同盟もなく、信長は父信秀同様に、対今川氏、対斎藤氏との一進一退の両面戦を余儀なくされたものと思われます。

そうなると、少なくとも史実にある破竹の勢いの天下取りは無かったのではないか。

いずれにしても、桶狭間の戦いが、エポックとしての戦国時代を大きく転換させたことは、衆人の認めるところであろうと思います。

奇襲攻撃か正面攻撃か

ところで、冒頭に述べたように、桶狭間の戦いが具体的にどの地で、どのように行われたのかについて、その実態はほとんどわかっていません。

また、四万五千もの大軍(実数は二万五千程度とする説が優勢)に、なぜ、わずか二千ほどの信長軍が勝利できたのかについても、具体的にこれを記した史料は残されていません。

かつては、信長の勝因は「迂回奇襲攻撃」によるものだという説がいわば定説でした。

これは、旧陸軍参謀本部が1899年に「日本戦史・桶狭間の役」で提唱したもので、信長は義元の本陣を一挙に突くため、今川方に気づかれぬよう少数の兵を率いて善照寺砦から北に大きく迂回、折りからの激しい雨にも助けられ今川軍に察知されることなく本営に接近し、義元本陣を急襲、緒戦の勝ちに慢心して油断していた義元を討ち取った。

というものです。

しかし現在では、信長公記に「迂回」の記載が一切無いことに加え、小瀬甫庵の「信長記」など、粉飾が多いとされる軍記物を元にしているなどの理由で、参謀本部の迂回奇襲攻撃説はほぼ否定されています。

その端緒となったのは、1982年に刊行された藤本正行氏の「異説・桶狭間合戦」でした。

藤本説は、信長公記の記述を綿密に検討した結果、信長は中島砦から東海道を東に進み、その地に展開していた今川軍の前軍を正面攻撃して撃破、その混乱に乗じて義元が本陣を置く丘陵地を攻め上がり、結果的に義元を討ち取った。という説を展開しました。

信長公記の記述に忠実な解釈を加えたこの「正面攻撃説」が、現在では主流となっています。

ただし、藤本説が根本史料とする「信長公記 首巻」は、桶狭間の戦いに関する唯一の一次史料ではあるものの、織田・今川両軍の進撃経路、今川本陣の位置、今川前軍の動向など、信長が義元本陣を襲撃するまでの途中経過が総じて省略されています。

そのため、兵力差の圧倒的に大きい敵軍に対して、奇襲によらず、周到な作戦にもよらず、正面から当たってなぜ勝てたのか。という疑問はなお残ります。

正面攻撃が史実とするならば、今川前軍と奮闘し疲労した状態の織田軍が、高地を攻め上がって新手の今川軍になぜ圧勝することができるのか、

さらに高所に位置する義元の本陣からは下の戦況がよく見えていたはずであり、守るにせよ退くにせよ、対応は可能であったはずなのに、今川軍はなぜ突然のことに慌てふためいて「弓、槍、鉄砲、旗指しものを散らかし、義元の輿も捨てて総崩れとなって敗走」したのか、

こういった疑問に関して藤本氏は「義元の討ち取りは偶然と幸運の産物だが、人間のやる戦争とはそういうもの」という見解で、その結果、この「なぜ」を解明すべく、藤本氏の正面攻撃説に異議を唱える研究者によって、様々な新解釈が提唱されるに至っています。

乱取り状態急襲説と正面迂回併用説

そうした新解釈の代表的なもののひとつが、黒田日出男氏が提唱した「乱取り状態急襲説」です。

信玄・勝頼期の武田氏の軍学書である「甲陽軍鑑」の記述に基づき、緒戦の勝利に油断した今川軍が、乱取り(戦地近くの農家・商家などでの略奪)に熱中して散会した伱に、接近した織田軍に急襲されたとするものです。

甲陽軍鑑には、桶狭間の戦いに関して次のような記述があります。

信長の兵は七百ばかり、義元は二万あまりの兵を率いて出陣した。信長軍は、駿河勢があちこちに乱妨取りをしに散った伱をうかがって、駿河勢に交じり味方のふりをして近づいた。義元が道の側の松原で酒盛りをしているところに、信長は討ちかかり、ついに義元の首を取った。

合戦の後、もしくは進軍途中で、兵士が物や人を略奪する「乱妨取り(乱取り)」は、戦国時代には通常のこととして行われていたようで、これを目的に軍に参加する農民も多かったといいます。

また敵地で拉致した人を売る人身売買も、当時は普通に行われており、今川軍でも当然のように行われていたものと考えられますから、信長公記に書かれている、緒戦の勝利に悦に入る義元の様子からしても、乱取りが許され、酒盛りが行われたとしても不自然ではないと考えられます。

甲陽軍鑑が近年史料として再評価を得ていることを鑑みても「あり得る話」であり、また、正面攻撃の不自然さへの疑問に対し、黒田説は説得力のある回答のひとつになっていると思われます。

同じく、従来の迂回奇襲説を否定しながらも、正面攻撃説に対する疑義を解明しようとしたものに、橋場日月氏が提唱した「正面迂回併用説」があります。

信長公記の「沓掛の楠が風雨で横倒しになり、これは熱田大明神の神戦かと兵が言い合った」という記述に注目し、信長軍の別働隊が沓掛方面にも進軍していたと指摘、加えて、江戸時代前期の著述といわれる「松平記」に「善照寺の砦から二隊に分かれ、一隊は今川前軍に攻めかかり、もう一隊は油断している本陣に鉄砲を撃ちかけた」とあることから、織田勢が軍を二つに分けたと推論しています。

橋場氏は、中島砦を出た信長率いる本隊が、今川前軍の全面に攻め寄せ、善照寺砦から別れ鎌倉道を東進した一隊、すなわち楠が風雨で倒れるのを目撃した一隊が、背後から義元本陣を突いたとしています。

兵法において、別働隊を動かし敵の虚を突くのは戦術の常道であることに加え、数に劣る信長軍が、もっぱら正面軍のみで今川勢を攻撃するのは不自然であるように思われるため、この説にも説得力があります。

加えて、この別動隊を率いていたのが、信長の重臣や主将の中でただ一人「天理本信長記」(信長記の写本のひとつ)に記載がない、柴田勝家だという推断には、歴史好きの心を躍らせるものがあります。

新説・諸説を読む楽しみ

桶狭間の戦いの真相についてはその他にも数多くの諸説がありますが、信長公記に明確な記載がない以上、新解釈は公記に記載のない部分を、後世の記録から補完して推論することになるため、記録の信用できる部分と信用できない部分の選択と比重が論者の主観によって異なります。

そのため、各説一定の説得力を有する反面、信ぴょう性の検証において常に嫌疑を差し挟む余地が残されることになります。

藤本説に異論を唱える新説を読んで「なるほどそうかも知れない。きっとそうだ」と思った後に、藤本氏のそれら新説に対する反論本を読むと「確かにそれはそうだ」と納得し、また新説本を見つけて読んでみると「これが真実に一番近いかも」と感心する。

その繰り返しが歴史好きの楽しみでもあり、史実が不明瞭な桶狭間の戦いの魅力でもあります。

また、歴史上の有名な出来事にいわゆる「陰謀説」は付きもの。

桶狭間の戦いの場合、本能寺の変ほど陰謀説のバリエーションはなく、もっぱらその主役は松平元康(徳川家康)になりますが、あながち荒唐無稽とは言い難い信憑性があり、良質の推理小説ばりに読みごたえのある著述も多く、興味のある方はぜひ一読されることをお勧めします。

最後までお読みいただきましてありがとうございました。

-雑記を楽しむ