奇跡の子供

人は、命名された肉体、それが歩んできた歴史、いわばプロフィールという重荷を背負っている。何と残酷なことか。そのうえ、社会という共同体のなかで、信念や理想といった厄介事を背負い、「ねばならない」という観念で自らを脅迫し続けている。結果として、生は比較であり、勝ち抜くことであり、愛ではなく対立であり、途方もない苦痛をもたらす災いとなる。そこで誰かが「頑張れ」と言う。「負けないで」と鞭を打つ。辛すぎる応援歌。精神は疲労困憊しており、もはや耐えられる状態にないが、環境がそれを許さない。こうして次に「病人」という障害を背負わされる。誰かが、このような社会、このような生き方、暗い真面目さは真我に相応しくなく、明るく自由になることができることを自身の証明により伝える必要がある。そこで人々は本能的に静けさを求めるようになり、瞑想に光を求め始める。

苦しい大人意識の死滅が瞑想である。必然的にそれは記憶からの自由である。マインドの超越と、輝ける喜びを教えるものである。私つまり意識は、どのような子供よりも子供である。どのような幼稚園児よりも若く、どのような白痴よりも白く、どのような単細胞よりも単純である。私は特定の名を背負う人間として生きていた。それゆえ、人はその肉体にまつわる記憶で私を限定してくる。自身が肉体意識であるゆえ、他人までも肉眼で見える物体であると思い込むのである。私は名前を呼ばれる。記憶を強制される。しかしどのような打撃もこのしなやかな流体を捉えることはできない。

実際、私は電流である。肉体(厳密にはエーテル体)には強烈な霊エネルギーが絶え間なく流れている。これを普通の人に流すと即死してしまう。そのため、諸体、つまり通路を精製し、浄化し、純潔にすることが必要なのである。高位の波動に耐えうる器へ己を鍛え上げるのである。だから電流体の意味に親しんでいる瞑想者には、その霊流に波長を合わせることを推奨したい。どの波長が正解かを突き止めることに成功するだろう。なぜなら、(この言い方が許されるならば)瞑想は波長の探究ゲームだからである。この秘められたチャンネルを見つけた者は、即時に若返る。いかなる重荷も電流と火によって灰になり、意識は聖なるハイを得て、いかなる幼児退行よりも深く退行し、光の赤子、奇跡の子供として真我へ還元される。

ハイつまりエクスタシーを求める瞑想者は多い。しかし大人意識では無理である。ハイハイする以前の意識、「何でもない」意識まで上昇しなければならない。人は、大人を経て子供になる。経験と悪を乗り越え、無垢になる。大人たちは、絶えずマインドという無意味なものに波長を合わせ、苦しんでいる。真の子供はそれを知らない。大人は瞑想で雑念に振り回される。そんなものは、上から無視して波長を合わせ、関与することなく強引に高所へ到達すべきである。電圧は人間の思考を踏み潰す。だから、私が書くのは方法ではなく、この高位のエネルギーを諸体に流す重要性についてである。方法は自我の抵抗であり、エネルギーつまり電流は真我の意志である。これほどの意志つまり力の前では、どのような抵抗も不可能なのである。自我は真我のエネルギーによって制圧される。自我は賢いが、真我は一見すると馬鹿である。自我は難しいことをするが、真我は純粋無垢を通して天才である。もはや意味の分からない文章と呼ばれるところまで来てしまった。しかし、時にはこういうアプローチも許されるだろう。

そしてこのいわく言い難い文章を、かつて「奇跡の子供」と呼ばれた友、昨日29歳の誕生日を迎え今や大人意識である友に捧げる。29つまり肉を乗り越え、物質から命そのものへ、つまり真我へ帰還する年となることを祈るものである。

生命は、霊、エネルギー、父、神の第一様相であり、存在する全てのものを生み出し、すべての顕現物を支える発生原因であり源である本質的でダイナミックな電気の火である。

アリス・ベイリー「秘教心理学 1」 p.49
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