体験的直観

 自分では、「自開症」だと考えていた。思っていることを、けっこう口にしてきた自覚があって、およそ「自閉症」とは無関係だろうと、自分で自分を見ていた。
 ところが、先日「どっちかっていうと自閉症じゃない?」と家人から言われた。
「内向的だ」と、親しい人からも昔、言われていたことも思い出した。

 自分から見る自分と、まわりから見る自分は違うんだなぁ、と再確認する。
 ぼくの中では、「これだけ何か言った、自分を出した」と思っていても、「こいつはずいぶん自己に向かっているな」と、内面を見られていたようだった。

 人との関係はイメージから始まる。
 でも、イメージする相手が、現実の相手と全然違うことが判明した場合、一体誰と関係していたのか、わかったものではない。
「私の思うあなた」と「ぼくの思うきみ」が一致する時、あのパラダイスのような恋愛関係へ跳んで行けそうだ。
 その時、まるで理解し合えた、「自分のことをわかってくれる」存在となるだろう。

 人間どうしが、「わかる」「わかり合える」と言えるのは、相手と自分のイメージどうしが一致する状態である時だろう。想像と実像がかけ離れていると、「わからない」「わかり合えない」と言える。
 わかり合えていたのに、時間差で、わかり合えなくなったら、「誤解していた」と言う。

「体験的直観」を思う。
 たとえば「原発は危険だ」とぼくは体験的直観をする。その理由は、すべて後付けだ。先に直観があって、それをまかなうために理路をつくる。

 将棋の棋士が何時間も長考する。それも体験的直観から、始まっているのではないかと想像する。この手を指せばいい、と直観する。あの手がいいと、それも直観する。ここから、具体的に思考が始まるのではないかと思う。

 人間関係では、この体験的直観は「一目惚れ」「第一印象」になる。あとは、その確認作業になるだろう。
 だから「こんな人だとは思わなかった」などと言われると、言った本人もショックだったろうが、言われた方もショックを受ける。ぼくらの関係は、何だったんだろう、と、ひとりひとりの原点に立ち返る──