第7章 わが神霊雜記
2 どんな人が死後天国(極楽)へいけるか
多くの人々は、
死んでから極楽浄土へ
いきたいとねがっている。
しかしまた、
天国へ行けるような生涯を
おくるのはむずかしいこと
であると思っている人がある。
それは、第一何か宗教を
信じなければだめだし、
あらゆる誘惑にかち、
すべての慾望をすてて、
宗教的な人生を送らなければ
ならないからというのである。
そして彼らは、主として
富と名誉からできている
社会的な事物を退け、
佛様、人だすけ、永遠の生命という
ことについていつも敬虔な念をこらし、
神に祈り霊をとむらい、
社会のために尽くすことが、
天国へいける道であると考えている。
信心よりもおこない
けれども、私の知るかぎり
それは決してそうではない。
宗教を信じ神様を拝んだとて、
それは決して天国へいく法にはならない。
「こころだに まことの道にかなひなば
祈らずとても神はまもらむ」のごとく、
神の道にかなった生活、
正しい行ないをしていさえすれば、
神はそれに応じ
われわれを守り給うのである。
世の中のため、人のためにと思って
社会につくすのは決してわるいことではないが、
そこに人をたすければわが身がたすかる
という考えがある限り、
それは神霊的にはたいした意味はない。
世の中には、よく人だすけをする
という人があるけれども、
生きているのは自分であるから、
人をたすけるよりも
己れをたすけることである。
立派な社会人になれ
また人間は、一般の社会に住んで職業をもち、
その業務をつくし、社会的、道徳的
および知的生活を送り、
まず社会人としての生涯を
送らなければならない。
そうしてのち、
はじめて霊的生涯にめざめるのである。
これ以外に、人間に霊的生涯をつくらせ、
その霊魂に天国への準備をさせる
ことのできる方法はない。
人間が、自分の天職を全うし立派な
社会人としての生活を営まないかぎり、
ただ宗教を信じることだけでは、
それは土台のない家に住むようなものであって、
やがてその家はくずれさってしまうのである。
この世と人間の使命
人間は、社会的生活を行なうために
現界にでてきているのであって、
人間の霊的ならびに知的進化は人と接し、
学をおさめ業を果たすことによって可能となる。
人間は、道徳的ならびに知的進化のために
現界におりてきたのであって、
ただ霊的なものがそのもとであることを
忘れさえしなければよいのである。
だから現界では、霊的なことにのみ重きをおいたとて、
それは決して天国へ行くみちとはならない。
平凡な、ごくありふれた生活の中に
自分の業務を全うし、
自分の生活をささえて行く職務が
同時に世間の人々のためになり、
社会をよりよくするものであれば
理想的であり(これは決して立派な、知的な、
人々から尊敬されるような職業でなくてよい)、
よき配偶者を得、
人の父となり母となって
正しい子孫をつくり、
しかる後に自分のふるさとへ
帰る準備をするのである。
この世にいるかぎり、
人間はこの世に建設的な仕事に
たずさわらなければならない。
できたら、たとえ
どんな微々たるものでもかまわない、
どんなささやかなことでもかまわない、
この人がこれを行なったのだ、
あの人があれを作ったのだ
という業蹟をのこすことである。
それは、何も発明発見だけのことではない。
世にぜんぜん知られないことでもよい。
神仏を利用するなかれ
世の中には、よく神佛に対し敬虔であり、
それに祈り、祭ることによって一種の
自己満足をしている人もあるが、
それらの動機として事業がうまくいくように、
家内が無病息災であるようにというのがある。
しかしそれらは、あくまで自己中心的であり
神佛を利用しているにすぎない。
そしてもし、それに応ずる神佛があれば、
むしろそれは神名を詐称する動物霊または
低迷なる自然霊のしわざである。
真実の神は、
そのようなことに買収されはしない。
上のような信仰は、むしろしない方が純粋でよい。
「さわらぬ神にたたりなし」で、
自己利益のための宗教を行ずるものは、
あの世にいっても天国に入ることができない。
なぜならば、その心の奥には慾があり、
貪慾は地獄の住人の好むところだからである。
世を捨てなくてもよい
ついでながらいっておきたい。
よく敬虔、神聖の生活をするために、
独り世間をすてて行をしたり、
あらゆる慾から遠ざかって自らを苦しめたり、
人だすけばかりをその生涯にしたり
している人々がある。
彼らの中には、世間の職業から遠ざかり、
難行苦行をやっている者もある。
けれども、その奥には人をたすけて
自分がたすかりたい、自分の功徳に
あやかろうとする気持があり、
彼らはいつもその積徳によって
天国をえようとねがっている。
彼らは、本当の天国が
何であるかを知らないのである。
なぜなら、天国への道はそのような
功徳をすて去ったものであり、
天国の福音は人がそれぞれ積極的にはたらき、
その社会的義務を全うし、
それによって集積した善からくる
至福の中にあるものだからである。
このような人々は、
死後幽界へ入ったとき、
自分の所信とは全くちがった事物を
発見した人のように驚くものである。
そして彼らは、それらの福音を
うけることができないから、
そこを去って自分と同類の
霊たちの社会へと入っていく。
世間を離れ、自らを苦しめた
生活は死後もなお続き、
慾に走らんとする凶霊たちが
彼らをさそうことになる。
凶霊たちは、
神の真理を自我の念で瀆し、
この中に自身沈没してしまっているのである。
だれでも天国へ行ける
天国に入ることの生涯は、
世間をはなれて神佛をまつり、
人をたすけて難行苦行をする
生活の中にあるのではなく、
世間の中に生活し、
一切の義務、職掌、事業をはたし
その行動を「仁恵」たらしめるにある。
このような生涯はごく平凡なものであり、
決してむつかしいことではない。
課業(社会的修業)を欠いた敬虔(宗教的奉仕)
だけの生涯はむつかしい。
現界の人間は、
魂のふるさと(霊界)を
忘れないようにすればよいのである。
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