ちょっと長いので興味のある読みたい人だけどうぞ。
ー2019年11月12日
題名「意識してしまう 差別心」ー
「意識してしまう」ことは
「差別心」に繋がる感情だったりするのかを
なんとなく散歩中に考えてしまった
というのも地元で
黒人の方をたまに見かけるのですが
今日もたまたま電車内で
黒人の方をお見かけする機会があり
(今、書いていて黒人って表現が
なんか既に刺のような気がしている)
仕事帰りに上司の方と
普通に日本語で会話されていました
流暢な日本語でお話されていたので
もしかしたら日本育ちだったりするのかもしれません。
これを書いていてわざわざ日記に
「この出来事を書くという自分の行為自体」が
何かしら歪な感が漂っている気がします
なんていうのかな
歩いていて肌の色の違いというのは
意識していなくても目に飛び込んでくるもので
ふと目線がそちらに向かってしまうような
そんな衝動が身体に走るのですが
これは自分の差別心が成す業なのでしょうか?
普段は目にしない対象を捉えた時に
異国の装束や人種の違いによる肌の色
障害を持っておられる方や
どこかしら目立つ怪我をされている方などを
ほんの少しでも意識してしまうような
そういう感情は
もしかしたら差別に繋がる
何かしらの要因に
なっているのではないか、と
自分の気持ちがわからない気持ちがします。
「気付き」という脳の反射があるとしたら
多分それなので、安心出来る気はするのですが
なんだろうな・・・
もしかしたら
「差別はいけない」とか
「差別しないで」みたいな
そういう言葉が先立って
自分の意識に原罪性を
付加してしまっているような気もします。
一個人の人生でその対象に
「差別」する機会などない状態から
歴史的な差別の事実に加え
進行形で「いじめ」や「差別」の例を
知らされてきてしまった以上
そして生活で関わることが無い状態では
いざ目の前に
「差別をしてはいけない対象(誰に対してもノー)」が
現れた時に
意識の持っていき所なんて
無くなってしまうような
そんな気持ちにもなります。
「外人の人がいたよ」なんてのも
「外人」が差別的である、ような考えも
耳にした事がある現状
普段のコミュニティ外の人を見つけた際
言葉にすることすら「悪」になってしまうような
そんな気もしてしまうのですがどうなのでしょう。
けどまぁ
本来「特に気にするような事柄でもないよ」
「意識すら必要なく当たり前の事だよ」
というのが「差別はいけない」に含まれる
本来のニュアンスだと思うので
多分なんか今日の自分は自意識過剰で勝手に
考え事していて気持ちが迷子になっただけかもしれません。
自分の中でまとまって来ました
「存在を認知しているのに
それでも頑なに存在を認めない」
これがどうやら差別なのかな。
勝手に納得してしまいましたが
恐らく今回の自分は「先入観を持つ」
己の自意識がもたらした勝手な忖度が
歪な遠慮になって頭をぐるぐるしただけな気がします。
自分はそもそも外を歩いていても
人の事はなるべく見ないように意識している程なので
(目線は足元か中空、目的の建物)
普段から他者が感じるであろう
目線の不快感に過剰対応しようと
これまた自意識過剰に振舞っているが故の
今回の謎の不安感だと思います
あと単純なコミュニケーション不足による
他者との距離感のブランクが
知識先行の先入観を頼りにしてしまう現状が
引き起こした思考迷路・・・と結論にしておきます。
(しかも無関係な人に対してだから世話ないです)
ーおわりー
↓今の自分がひとこと。
過去の文章を読んでいて文章の整合性は取れているのか
(唐突な結論が出てきているので
ちょっと無理のある文章かもしれない)
正直良くわからないけれど、思考を巡らして
自分なりの解答を導き出せるというのは
過去の自分が持っていた能力のひとつだったのかなと
なんとなく今、肯定してやりたい気持ちになりました。
それでここに記してみました。
乱文失礼しました。
それでは。