アマチュア作家の成り上がり執筆録

素人作家がどこまで高みに昇ることができるのか

【心に残る言葉】~名作、名言の数々~

 これまで生きてきた中で触れたたくさんの小説、詩歌、随筆。

 その中で、僕の人生に大きな影響を与えた、どうしても忘れられない本、心に残る言葉、心に響く言葉があります。

 今回、古今の名作の中からそんな言葉たちを紹介していきたいと思います。

 

 

 

小説(日本)

『蜘蛛の糸』(著:芥川龍之介)

 お釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっとみていらっしゃいましたが、やがて犍陀多かんだたが血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうなお顔をなさりながら、またぶらぶらお歩きになり始めました。自分ばかり地獄から抜け出そうとする、犍陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、お釈迦様のお目から見ると、あさましく思し召されたのでございましょう。
 しかし極楽の蓮池の花は、少しもそんなことにはとんじゃくいたしません。その玉のような白い花は、お釈迦様の御足のまわりに、ゆらゆらうてなを動かして、その真ん中にある金色のずいからは、なんとも言えないようなよいにおいが、絶間なくあたりへあふれております。極楽ももうひるに近くなったのでございましょう。

引用:『蜘蛛の糸』(著:芥川龍之介)

 

 これは、なんと言ったらよいのだろうか。
 ただの小説だといってしまえばそれまでなのだが、どうもこのお釈迦様には純粋に共感できないものがある。
 天上にいらっしゃる救い人たちは、こんな風に暇つぶしに蜘蛛の糸を垂らし、ああ、やっぱり沈んでいったか、あさましいものだ。ところでそろそろお昼時かななどと、そんなようなものなのだろうか。

 もしそうだとしたら、ずいぶんな話だと思う。
 芥川龍之介がどういう思いでこれを書いたのか分からないが、明らかにそういう思いを感じさせる文章だということは確かだと思う。
 とすれば、芥川龍之介も仏教の救いに違和感を感じていたのだろうか。

 現在、僕が書いている二つの長編は、神や仏と人間との対立を主眼においている。
 もしかするとそれを書くきっかけの一つは、この作品のこの部分に言い知れぬ違和感を感じたからかもしれぬ。
 救いとはなんだろう。救われるとはなんだろう。
 少なくても僕の考える救いとは、こんなお釈迦様の姿ではない。

 

蜘蛛の糸

 

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『人間失格』(著:太宰治)

「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」
 世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、
「世間というのは、君じゃないか」
 という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)

引用:『人間失格』(著:太宰治)


 太宰治の代表作「人間失格」のワンシーン。
 太宰治は人間の実相をえぐり取り、事も無げにぽいっと読者の前に晒すのがとても上手な作家だと思う。
 この場面でも葉蔵に忠告する堀木の、世間がゆるさないという言葉の本質を見事に言い表している。
 
 人はよく、世間がとか、普通はとか、常識的にとか言う。
 だがそこには何か自分が持つ不満や異論をあたかも人間全体の総意であるかのように見せかける欺瞞が潜んでいる。あるいは自分の方がマジョリティであり、お前などよりはるかに優越しているんだとというような響きを感じることがままある。

 やめろというなら、はっきりそう言えばいい。
 それを世間などという言葉をことさら持ち出して、自分は上手くその世間という言葉の蓑に隠れて人を批判する。
 それも人間の持つ醜悪な部分なんだろう。
 その醜悪な人間の一人であることを拒否したのが、葉蔵であり太宰なんだろう。
 人間失格。
 いったい、どちらが人間として失格だったのだろう。

 

太宰治

 

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『破戒』(著:島崎藤村)

「これから将来、五年十年と経つて、稀に皆さんが小学校時代のことを考へて御覧なさる時に――あゝ、あの高等四年の教室で、瀬川といふ教員に習つたことが有つたツけ――あの穢多えたの教員が素性を告白けて、別離を述べて行く時に、正月になれば自分等と同じやうに屠蘇とそを祝ひ、天長節てんちょうせつが来れば同じやうに君が代を歌つて、蔭ながら自分等の幸福を、出世を祈ると言つたツけ――斯う思出して頂きたいのです。私が今斯ういふことを告白けましたら、定めし皆さんは穢しいといふ感想を起すでせう。あゝ、仮令たとえ私は卑賤しい生れでも、すくなくも皆さんが立派な思想を御持ちなさるやうに、毎日其を心掛けて教へて上げた積りです。せめて其の骨折に免じて、今日迄のことは何卒許して下さい」
 斯う言つて、生徒の机のところへ手を突いて、詑入るやうに頭を下げた。
「皆さんが御家へ御帰りに成りましたら、何卒父親さんや母親さんに私のことを話して下さい――今迄隠蔽して居たのは全く済まなかつた、と言つて、皆さんの前に手を突いて、斯うして告白けたことを話して丁さい――全く、私は穢多です、調里てうりです、不浄な人間です」

引用:『破戒』(著:島崎藤村)

 

 人には貴賤の差別はない。
 僕たちはそう教えられてきた。
 だがその実、信じられないような差別があったことを知っているだろうか。
 穢多、非人。
 その人たちに対する扱いは、言葉にするのも憚られるほどだった。

 今、そういう言葉は消えつつある。
 だが僕たちは、そういう差別根性をいまだに持っていないか。その差別根性が社会で膿のように膨らんで、陰湿ないじめを生み出してはいないか。
 この作品を読んで、僕自身の中にもあった差別根性をえぐりだされた。そういうことを真剣に考えるようになった。

 そしてもう一つ、この場面。
 穢多であった教員の丑松が、子どもたちに自分の素性を打ち明ける場面。これを読んだとき、僕は丑松の心境を思って、しばし心が止まった。絶対にばらしてはならぬと親に言われ、ひた隠しにしてきた自分の素性。それをみんなの前で告げる。
 それはどれだけの勇気と覚悟が必要だったろう。

 

破戒

 

 僕はあるとき、自分の背負ってきた過去、誰にもいいたくない過去を付き合っていた女性に告げたことがある。
 それは本当に緊張した。
 好きだとか、愛しているなどという言葉を語るのとは全く異なる、あるいはそれを遥かに超える緊張だった。
 自分という存在を晒す、恥ずかしいこと、汚らしいこと、言いたくないことを全て晒す。
 もしかして、それを言うことができたのはこの小説を読んでいたからかもしれない。そしてそれを言うことができて初めて僕は彼女にきちんと向き合うことができたと思った。

 今こうして娘と三人で平凡な幸せを送ることができているのは、ひとえにこの丑松の覚悟を自分の種とできたからなのかもしれない。

 

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『門』(著:夏目漱石)

「書物を読むのはごく悪うございます。有体に云うと、読書ほど修業の妨になるものは無いようです。私共でも、こうして碧巌へきがんなどを読みますが、自分の程度以上のところになると、まるで見当がつきません。それを好加減に揣摩しまする癖がつくと、それが坐る時の妨になって、自分以上の境界を予期して見たり、悟を待ち受けて見たり、充分突込んで行くべきところに頓挫ができます。大変毒になりますから、御止しになった方がよいでしょう。もし強いて何か御読みになりたければ、禅関策進というような、人の勇気を鼓舞したり激励したりするものが宜しゅうございましょう。それだって、ただ刺戟の方便として読むだけで、道その物とは無関係です」

引用:『門』(著:夏目漱石)

 

 誰もが知る文豪の中の文豪。千円札でもお馴染みの夏目漱石。
 この方も名作がたくさんあるが、敢えてこれを選んでみた。

 これを読んでどういう感想を持つだろうか。
 この文章は、悟りを開くのに仏教の問答集など読むのは無駄だ、変に当て推量するようになって毒だからおよしなさいと先輩の僧が寺に来た主人公の宗助に教えているというものだ。
 だが僕にはなにかそれ以上の響きを感じてしまうのだ。

 僕たちは本を読んで、新聞を見て、テレビを見て、人の話を聞いて、何か実際見たり聞いたりしたようなそんな錯覚に陥ることがままある。
 そうした中途な知識をまるで血肉を削った体験で得た知識と勘違いして、あれはねとか、それはそういうものだなどと尤もらしく語ってしまう。

 おそらく漱石はそういう生半可な知識で終わるな、本当の知識や道とはさらに奥にあるのだと言っているような気がするだ。

 明治、大正という激動の時代を生き、日本近代文学の先駆けとなり、今では日本の文豪として最も世に知られるあの夏目漱石がそう語る。
 そこに僕は言うに言われぬ深みを感じるのだ。
 本を読み、そこで得た何かの思いを心に刻み、新たな人生を生きる。
 やはり本当のドラマは人生の中にこそあると思うのだ。

 

悟り

 

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『かのように』(著:森鴎外)

僕は人間の前途に光明を見て進んで行く。祖先の霊があるかのように背後を顧みて、祖先崇拝をして、義務があるかのように、徳義の道を踏んで、前途に光明を見て進んで行く。そうして見れば、僕は事実上極蒙昧な、極従順な、山の中の百姓と、なんの択ぶ所もない。只頭がぼんやりしていないだけだ。極頑固な、極篤実な、敬神家や道学先生と、なんの択ぶところもない。只頭がごつごつしていないだけだ。ねえ、君、この位安全な、危険でない思想はないじゃないか。神が事実でない。義務が事実でない。これはどうしても今日になって認めずにはいられないが、それを認めたのを手柄にして、神を涜す。義務を蹂躙する。そこに危険は始て生じる。

引用:『かのように』(著:森鴎外)

 

 近代になり、神や仏といった宗教や文化に根付いた風俗は、全て迷信として弊履のごとく投げ捨てられ、科学万能、合理主義が幅を利かせ始めた。
 その風潮は現代になっても留まらず、資本主義、物質万能主義、利己優先の風潮が蔓延している。
 森鴎外は、そのことを明治の時代に既に予見していたんだろう。

 正しいものが存在することを信じる。祖先の霊に静かに手を合わせる。人としてあるべき道を守る。

 神が存在する証拠は? 祈ってなんになるの? 法で定められているの? ばかじゃないの、そんなことして何か意味あるの? 

 僕だって、なぜと言われたら困る。
 だが僕はそれを守る。そのように生きる。
 それを捨てたら、僕は人間である価値を見失う。
 生きる意味を見失い。世界の美しさも感じなくなるだろう。

 

墓前で祈る

 

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『なめとこ山の熊』(著:宮沢賢治)

いくら物価の安いときだって熊の毛皮二枚で二円はあんまり安いと誰でも思う。実に安いしあんまり安いことは小十郎でも知っている。けれどもどうして小十郎はそんな町の荒物屋なんかへでなしにほかの人へどしどし売れないか。それはなぜか大ていの人にはわからない。けれども日本では狐けんというものもあって狐は猟師に負け猟師は旦那に負けるときまっている。ここでは熊は小十郎にやられ小十郎が旦那にやられる。旦那は町のみんなの中にいるからなかなか熊に食われない。けれどもこんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなっていく。僕はしばらくの間でもあんな立派な小十郎が二度とつらも見たくないようないやなやつにうまくやられることを書いたのが実にしゃくにさわってたまらない。

引用:『なめとこ山の熊』(著:宮沢賢治)  

 

 僕が大好きな宮沢賢治。
 心に残る言葉はたくさんありすぎて、逆に何を選んだらよいかと迷ったが、あえてこれを選んだ
 何がいいって、最後の宮沢賢治の吐き捨てるような言葉がいい。
 もし賢治が生きていたら、全くそのとおりだ、よく言ってくれたと声を大にして叫び、心からの拍手を送りたいところだ。
 だが人間の善性を信じる賢治の願いとは裏腹に、世界が進歩するに従って、こんなずるいやつらは消えてなくなるどころか、うじゃうじゃと増えてしまっている。

 今じゃテレビ、新聞、雑誌、そしてネットでも投資だ、運用だと、そんな情報ばかり溢れかえって、本当にうざったい。

 お金は確かに大事だと思うが、必要以上に金をため込んでいったいどうしようというのか。死ぬときには無一文であの世へ旅立たなければならないというのに。

 僕が書いた物語の一つに、この糞駄目みたいな社会をぶち壊し、金の亡者みたいなやからを一匹残らず駆逐して、清冽な風が薫る、希望と喜びに満ち溢れた新しい世界を作らんと誓うある男の物語があるが、そんな物語を書いた理由の一つは、この宮沢賢治の吐き捨てるような言葉に触発されたのかもしれない。

 そして僕の中には、その方がましじゃないかと思う心が確かに存在するのだ。

 

熊の毛皮

 

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『悟浄出世』(著:中島敦)

渓流が流れて来て断崖の近くまで来ると、一度渦巻をまき、さて、それから瀑布となって落下する。悟浄よ。お前は今その渦巻の一歩手前で、ためらっているのだな。一歩渦巻にまき込まれてしまえば、那落までは一息。その途中に思索や反省や低徊のひまはない。臆病な悟浄よ。お前は渦巻きつつ落ちて行く者どもを恐れと憐れみとをもって眺めながら、自分も思い切って飛込もうか、どうしようかと躊躇しているのだな。遅かれ早かれ自分は谷底に落ちねばならぬとは十分に承知しているくせに。渦巻にまき込まれないからとて、けっして幸福ではないことも承知しているくせに。それでもまだお前は、傍観者の地位に恋々として離れられないのか。物凄い生の渦巻の中で喘いでいる連中が、案外、はたで見るほど不幸ではない(少なくとも懐疑的な傍観者より何倍もしあわせだ)ということを、愚かな悟浄よ、お前は知らないのか。

 引用:『悟浄出世』(著:中島敦)

 

 中島敦と聞けば、誰しも「山月記」や「李陵」が頭に浮かぶだろう。
 もちろん、それらも素晴らしい作品だと思う。
 だが僕はある時期、ここに出てくる悟浄と同じような思いを持っていたことがあった。その時、たまたま読んだこの本の一節は鮮明に僕の心に響いた。

 そして今でもこの言葉は面倒なことや辛いことが迫ったときに、お守りのように心に浮かぶ。
 人生は時に辛く厳しいことがたくさんある。
 仕事に限っても、今日は行きたくないなと思うことは誰だってしょっちゅうあるだろう。でも案外行ってみれば、渦の中でバタバタとあがいているうちになんとなく一日が終わっているということも知っている。渦の中であがくこともそれほど大変ではなく、終わってみればある種の達成感やら満足感すら感じていることに気づいている。

 たまには逃げることを大事だろう、様子をみることも必要だろう。
 でもやっぱり、そこにぶつかっていかないと先には進めないと思う。
 僕は逃げて安心を求める人生を望まない。
 どうせなら全身でぶつかって、あがきにあがいて、その中にこそ自分の居場所と安心を見出したいと思っている。
 その心持の原点は、この文章にある。

 

悟浄

 

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『鬼平犯科帳(七 寒月六間掘)』(著:池波正太郎)

「つまりは、人間というもの、生きて行くにもっとも大事なことは……たとえば、今朝の飯のうまさはどうだったとか、今日はひとつ、なんとか暇を見つけて、半刻か一刻を、ぶらりとおのれの好きな場所へ出かけ、好きな食物でも食べ、ぼんやりと酒など酌みながら……さて、今日の夕餉には何を食おうかなどと、そのようなことを考え、夜は一合の寝酒をのんびりとのみ、疲れた躰を床に伸ばして、無心にねむりこける。このことにつきるな」

引用:『鬼平犯科帳(七 寒月六間掘)』(著:池波正太郎)

 

 ドラマでもお馴染みの鬼平犯科帳。
 大抵、小説を映像化すると矮小化する傾向が強いが、このドラマは原作の良さを余すことなく伝えて、さらに新規な面白しみを加えた傑作だと思う。

 

鬼平犯科帳

 

 まあ、ドラマの方の宣伝はさておいて――鬼平犯科帳は捕物帳だが、その実は人間ドラマだ。なのでそこには多くの身に染みる言葉がある。
 その中で、僕はこの言葉に限りない愛着を覚える。

 こんなことが、実は生きるってことの一つの答えだと思うからだ。
 理想に生きる、目標に向かって走る、正義のために戦う。
 それはとても大切なことだ。
 でもそれだけでは疲れてしまう。
 どこかで息を抜いて、のんびりと生を楽しむ。
 それもまた、生きるということの醍醐味だと思う。

 人生は、ずっと走り続けなければならないというほど辛いコースではない。
 たまには立ち止まり、風景を見たり、喉を潤して全然いいと思う。
 それは悪でも怠惰でもなんでもない。
 生きることを楽しむこと。
 それもとても大事なことだと思うのだ。

 

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小説(世界)

『カラマーゾフの兄弟』(著:ドストエフスキー 訳:江川卓)

「真理をあがなうために必要な苦しみの一定量が定まっているとして、その量を補うために子供たちの苦しみが必要だということになら、ぼくはあらかじめ断言しておくよ、一切の真理もそんな代償には値しないとね。要するにぼくは、例の母親に、自分の息子を犬に噛みちぎらせたあの加害者と抱き合ってもらいたくないんだよ。彼女が彼を赦すなんてもってのほかだ! もしそうしたいのなら、自分の分だけ赦すがいい、自分の母親としてのかぎりない苦悩の分だけ、加害者を赦してやればいい。しかし八つ裂きにされた子供の苦しみについては、たとえ子供自身が赦すと言っても、彼女には赦す権利がないんだ、加害者を赦すわけにはいかないんだ! だが、もしそうだとしたら、彼らが赦すわけにいかないとしたら、いったいどこに調和があるんだ? いったいこの世界に赦すことのできる人、赦す権利をもった人がいるのだろうか? ぼくは調和なんて欲しくない、人間を愛するからこそ欲しくないんだ。ぼくはむしろあがなわれなく終わった苦しみとともにとどまりたい」


(省略)


「ひとつ素直に言ってほしいんだが、ぼくが挑発的な質問をするから、答えてみてくれないか。仮におまえが、究極において全人類を幸福にし、宿願の平和と安らぎを人類にもたらすことを目的として、人類の運命という建物を自分で建てていると仮定しよう、ところがそのためには、たった一人だけだが、ちっぽけな、ちっぽけな一人の人間を責め殺さなければならないとする。それは、たとえば、小さな拳を固めて自分の胸を叩いていた例のあの子でもいい、そして、その子のあがなわれない涙の上にこの建物の土台を築くことが、どうしても避けられない、不可欠なことだとする、だとしたら、おまえはそういう条件でその建物の建築技師になることを承知するだろうか、さあ、嘘はぬきで答えてみてくれ!」

引用:『カラマーゾフの兄弟』(著:ドストエフスキー 訳:江川卓)

 

 言わずと知れた世界文学の最高傑作。
 おそらく世界中の人に文学の最高傑作を5作あげろと言ったら、最も多くカウントされるのが、この作品だと思う。
 今回、僕が取り上げた言葉は、カラマーゾフの三兄弟の次男で無神論者のイワンが末弟で信仰心篤いアリョーシャに問いかけるものだ。

 

カラマーゾフの兄弟

 

 イワンは神の世界を認めない。
 その理由の一番大きなものが、この言葉に凝縮されている。

 この世が神によって作られたとするならば、なぜ神は赤子や幼児まで苦しませなければならないのだろうかということだ。
 知識の実を食べてしまい、悪を知ってしまった大人はどうだっていい。
 だけど、赤子や幼児は違う。
 罪も穢れもなく無垢な状態で生まれてきた。なのにどうして、そんな子たちが大人の自分勝手な都合で苦しめられなければならないのだろう?

 この言葉に反論できる人がいるのだろうか。
 僕は反論できない。
 僕の作品のいくつかでは幼児虐待の話が出てくる。
 それは全て、この問いと関わってくる。本当はこのテーマについてはもっと書きたいのだが、考えるだけで怒りがわいてきて、とんでもない文章になるので止めておく。
 

 だが最後に一つだけ言いたい。

 僕はどんな事情があれ幼児虐待するような人間を絶対に許さない。
 そんな人間は人間と呼ぶ価値すらない。
 これだけは、誰に何を言われようとも、僕という人間が生きている限り、絶対に変わらない。

 

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『ツァラトゥストラはこう言った』(著:ニーチェ 訳:氷上英廣)

「それにしても聖者は、森の中で何をしておられるのですか?」とツァラトゥストラはたずねた。
 聖者は答えた。
「わしは歌をつくって、それを歌う。歌をつくるとき、わしは笑い、泣き、唸る。こうしてわしは神を讃えるのだ。歌を歌い、泣き、笑い、唸ることによって、わしはわしの神である神を讃える。ところであなたはわれわれにはなんの贈物をしてくれるのかね?」
 このことばを聞いたとき、ツァラトゥストラは聖者に一礼して言った。
「あなたにさしあげるような何者があるでしょう! いまはあなたから何物も取らせないように、わたしをさっそく立ち去らせてください!」
 こうしてこの老者と壮者とは、さながらふたりの少年が笑うように笑いながら、わかれたのであった。
 しかしツァラトゥストラがひとりになったとき、かれは自分の心にむかってこう言った。
「いやはや、とんでもないことだ! この老いた聖者は、森のなかにいて、まだ何も聞いていないのだ。『神が死んだ』ということを」

引用:『ツァラトゥストラはこう言った』(著:ニーチェ 訳:氷上英廣)

 

 この本にインスピレーションを得て一編の物語を書いた僕にとって、この本はまるで宝の山だった。
 そこには数え切れないほどの珠玉の言葉があり、僕はいちいちそれにマーカーをつけたため、今ではこの本は真っ赤になっている。
 その中でどれを選択しようか悩んだが、結局これにした。

 「神は死んだ」と説いたニーチェ。
 恐ろしい言葉だ。でもそれは神を盲信し、教会に盲従したあの時代を突き抜けるためにはどうしても必要なことだった。
 今、人はようやく神から自由になり、人間の価値を認識できるようになった。

 でもニーチェは単に無神論を説いたのだろうか。
 僕はそうは思わない。
 ニーチェは神ではなく、神ではない別なものを人が生きる拠り所とすべきだと説きたかったのだと思う。
 それは一人の人間として高みに昇ろうとする意志であり、至難に挑まんとする心。
 ニーチェはそういう魂を持つ人間を超人と呼び、新しい世界の導き手として捉えていたんだと思う。
 ニーチェの言葉は現代においても、輝きを放っている。
 その言葉に僕たちが共感できる何かがあるからだろう。

 僕はこの本から多くを学んだ。
 僕は超人たりえる人間ではないが、超人が持つ思想を胸に抱き、日々前に進みたいと思っている。

 

ニーチェ

 

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『罪と罰』(著:ドストエフスキー 訳:工藤精一郎)

「(省略)ぼくはただ自分の根本思想を信じているだけです。それはつまり、人間は自然の法則によって二つの層に大別されるということです。つまり低い層(凡人)と、これは自分と同じような子供を生むことだけをしごとにしているいわば材料であり、それから本来の人間、つまり自分の環境の中で《新しい言葉》を発言する天分か才能をもっている人々です。それを更に細分すれば、むろんきりがありませんが、二つの層の特徴はかなりはっきりしています。第一の層、つまり生殖材料は、一般的に言うと、保守的で、行儀がよく、言われるままに生活し、服従するのが好きな人々です。ぼくに言わせれば、彼らは服従するのが義務なのです、だってそれが彼らの使命ですし、服従することがすこしも恥ずかしいことじゃないのです。第二の層は、みな法律をおかしています、その能力から判断して、破壊者か、もしくはその傾向をもつ人々です。これらの人々の犯罪は、むろん、相対的であり、千差万別です。彼らの大多数は、実にさまざまな形において、よりよきもののために現在あるものの破壊を要求しています。そして自分の思想のために、たとえ血を見、死骸をふみこえても進まねばならぬとなると、ぼくに言わせれば、ひそかに、良心の声にしたがって、血をふみこえる許可を自分にあたえるでしょう(省略)」

引用:『罪と罰』(著:ドストエフスキー 訳:工藤精一郎)

 
 このテーマは、作家一人につき一回にしようと思ったのだが、どうしてもドストエフスキーだけは、もう一つ取り上げざるをえない。
 なぜなら、上のラスコーリニコフが唱えた凡人・非凡人論こそ、僕が小説を書くにあたって、非常に大きな影響を受けた言葉だからである。

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『失楽園』(著:ミルトン 訳:平井正穂)

自分の命を愛しすぎても憎んでもいけない。だが、生きてる限りは生命を大切にするがよい。長く生きるか短命に終るかは、天に委ねるがよい。

 引用:『失楽園』(著:ミルトン 訳:平井正穂)

 

 思えば、僕はこの小説を読んでキリスト教史観や思想に興味を持ったのかもしれない。
 だが、このミルトンの作品は決してキリスト教に肯定的だとは思わない。最初読んだときは神に追放されたサタンの英雄然たる姿の方にこそ目を奪われた。
 それどころか未来を全て見通している癖に、弱い心が悪に染まるのを黙って見過ごしている神の方に嫌悪に近い違和感を感じた。

 この言葉は大天使ミカエルが人間の祖であるアダムに語った言葉だが、ある意味、凄く人間らしく聞こえた。
 100年にも満たない人間の命は、宇宙や地球の歴史から見れば塵のような存在かもしれない。だが、そうであったとしても命の尊さ、命の峻厳さを失ってはならない。
 そう教えてくれたような気がした。

 今、僕が書いている「リバイアサン」というダークファンタジーの根底にあるものは、この中から生まれたと思っている。
 そして、僕の生き方の根底にはこの言葉がある。
 生死は誰かが決めること。
 生きている限り、走り続ける。
 生きている限り、挑戦し続ける。
 そこに人間の価値があると僕は思っている。

 

失楽園

 

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随筆・詩歌・論説

『古今和歌集仮名序』(著:紀貫之)

 やまとうたは、人の心を種として、よろずことの葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。
 花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。
 力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神きしんをもあはれと思はせ、男女の中をも和らげ、たけき武士の心をも慰むるは歌なり。

引用:『古今和歌集仮名序』(著:紀貫之)

 

 古今和歌集。日本初の勅撰和歌集として紀貫之らによって編纂された和歌の書。
 この中には当時の優れた歌人たちが詠んだ歌が集められており、学校でも習うのでそのいくつかはご存じのことだろう。

 だが僕はこの序文の方にこそ惹かれる。
 この文章はとても不思議だ。
 普通であれば、天地の美しさ、荘厳さ、いわば自然に力があり、その力に動かされて言葉が出てくるような気がする。
 だがこの文では言葉に力があり、その力が天地を動かし、鬼神の心すらやわらげると言う。
 そして僕たち日本人は、そのことをなんとなく当たり前に受け入れている気がするのだ。

 言霊とか言葉の力とか、そんな大層なものでなくても、挨拶や感謝の言葉を口にすることの大切さを、僕たちは自然と教えられてきた。

 たった一言の言葉が人を動かし、人と人とをつなぎ、世界を変えるきっかけになるかもしれない。

 だからこそ、言葉は大切だ。
 だからこそ、いい言葉でいい文章を書きたいと思う。
 この日本という国に生まれ育ったものとして、言葉を大切にし、後世に語り継いでいきたいと思う。

 

古今和歌集仮名序

 

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『隠された十字架 -法隆寺論-』(著:梅原猛)

私はこの原稿を書きながら、恐ろしい気がする。人間というものが恐ろしいのである。仏様の頭に釘を刺し、しかもそれを何らかの技術的必要のように見せかけて、けろりとしている人間の心が恐ろしいのである。このような恐ろしいことなしに、政治は可能ではなかったのか。このような恐ろしいことなしに、日本の国造りは可能ではなかったのか。

引用:『隠された十字架 -法隆寺論-』(著:梅原猛)

 

 この著者のことを知らない人は多いかもしれない。
 この人は作家ではない。哲学者であり仏教学者だ。
 だがこの人は歴史に対する多くの仮説を打ち立てて、日本の歴史学界に波紋を呼んだ。
 そのうちの一つがこの著書で、おおまかにいえば法隆寺は聖徳太子を讃える寺ではなく、聖徳太子が怨霊として祟らぬよう鎮めるために時の権力者が作らせた寺ではないかという仮説を述べた本だ。

 そして上にあげた部分は、法隆寺の夢殿に安置してある救世観音が実は聖徳太子を模して造られたのではないか、それなのにその仏像の頭にわざわざ釘を刺して光背を掲げさせている。それは恐るべきことだ、本当に恐ろしいことだと著者が恐れおののいているところなのである。

 

法隆寺 救世観音

 

 僕は基本的にこの仮説を信じている。
 だからこそ、この文章に著者と同じ恐ろしさを感じるのだ。
 仏像の頭に釘を刺す。
 普通、そんなことをするだろうか。
 しかもこの救世観音は作られて以来、布でぐるぐる巻きにされ、ずっと秘仏とされてきた。
 明治の世が始まり、フェロノサが明治政府の役人とともに法隆寺を訪れ、嫌がる僧たちに無理やり開かせたのがこの仏像なのだ。

 この後この仏像は鑑賞対象となったが、詩人であり彫刻家でもあったある芸術家もこの仏像に強烈な違和感を感じた。
 それは少し前に紹介した高村光太郎である。
 高村光太郎がこの仏像について書いた言葉も大変印象的でなので、せっかくなのでここで紹介しておく。

「(省略)あの御像は確かに聖徳太子をお作りするつもりで拵えた作だと思う。長く考えながら拵えた作ではない。夢中になって拵え、かかりきりで一気呵成に仕上げた作だ。あの難しい時代を心配されて亡くなられた杖とも柱とも頼む聖徳太子を慕って、何だって亡くなられたろうと思う痛恨な悲憤な気持ちで居ても立ってもいられない思いに憑かれたようになって拵え、結果がどうなろうともそれを眼中にいれないで作られたものであろう。それは非常にあらたかなものである。自分で彫って拵えたろうけれども、その作者ですらそこに置いては拝めないように怖い仏であったろうと思う。御身躯は従来通りに作ったけれども、お頭は聖徳太子を思いながら拵えたのであろう。……普通の仏像と違って生物の感じがあり、何か化身のような気が漂っている(省略)」
 

 

 僕もこの本を読んだのちに、一度、法隆寺の夢殿でこの仏像を見たことがあるが、そういうことを読んだからなのか、少し気味が悪いような感じがしたのを思い出す。

 少し話が飛んだが、著者はこれを時の権力者が聖徳太子の怨霊を封じるためにつくりあげたものだと説く。
 二度とこの世に出てこないように、死んだ聖徳太子に模した仏像を作らせ、その頭に釘を打って、ぐるぐる巻きにして暗闇に閉じ込めたのだと。
 もしそうだとしたら、それはなんとも恐ろしいと思う。
 そんなことをしておきながら、権力者たちはけろりとして和歌を詠んだり、気に入った女と日々の逢瀬を楽しんでいたのだろうか。それが政治というものなのだろうか。 

 だが僕が恐れるのはそのことだけではない。
 もしかしてそれは今の時代にいたっても、変わっていないのではないかと思うからだ。
 国民の平和を守るため、安心して暮らせる社会をつくるため、そんな御大層なお題目を掲げた今の政治の中にも、奈良・平安の頃のような陰湿で恐ろしいものがあるのではないかと思ってしまうのだ。
 そして、それは実在すると僕は感じている。 

 

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『堕落論』(著:坂口安吾)

戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。

引用:『堕落論』(著:坂口安吾)

 

 この言葉は勇気づけられたというのではないかもしれないが、心に残る言葉だ。
 坂口安吾は、戦争に負けて精神的に堕落する日本人に警鐘を鳴らすつもりで書いたのかもしれないが、僕はこの中に人間というものの本質が潜んでいると思う。
 そして、この思想は今の僕の中で大きな意味を持ってる。
 
 僕は、人の心に正義や良心があると信じている。
 だが人は、正義や良心を知るには、まず不正と悪を知らなければならないのではと思う。
 放蕩を尽くし、汚辱を愛し、ごみだめのようなところで魂を無為に過ごす。
 恐ろしいことだ。
 だがその先に美しい蓮の花が咲いているような気がするのだ。
 深淵を覗き込んだからこそ、蒼天にたどり着こうとする意志が生まれるんじゃないかと思うのだ。
 この世界が不条理で不公平で汚濁にまみれていると悟ったとき、この世界を変えんとするエネルギーが生まれるんじゃないかと思うのだ。

 歴史上の偉大な指導者たちは、もし生まれたときから何不自由なく幸せだったら、後世に名を残す偉業を成し遂げただろうか。
 僕はそう思わない。
 不正や貧困、人の悪意の中で偉大な思想を生み、それを実現していったんだろうと思う。

 いま、この世の中にも目をそむけたくなるようなことが存在する。
 僕はそうしたものに限りない怒りを覚える。
 その怒りは、その現実をリアルに知っているから生まれる。

 

堕落論

 

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『道程』(作:高村光太郎)

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出來る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた廣大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の氣魄きはくを僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため

引用:『道程』(作:高村高太郎)

 

 日本人でこの詩を知らない人がいるんだろうか。
 僕は、この詩を生み出した高村光太郎と同じ日本人であることを誇りに思う。

 この詩の一行一行に人間のあるべき姿が刻まれている。
 この詩の背後から薫り高い香気のようなものが立ち昇っている。

 この詩を読むだけで魂が震えるような感動を覚える。
 この詩を見ただけで新たな一歩を踏み出す勇気が湧いている。

 この詩はあらゆる人にとって価値があると思うが、とりわけ10代、20代の若い人たちに捧げたい。
 若い魂は未踏の道を選択すべきだ。
 あえて困難な道を選択すべきだ。
 その先にこそ、輝かしい未来と栄光が待っていると僕は信じる。

 僕はこれを読んだ大学生の頃、アパートを出て晴れ渡った青空に朝日が昇るのを見ると、よくこの詩が浮かんだものだ。そして山中鹿之助ではないが、我に七難八苦を与えたまえと心の中で叫んだものだ。

 天は僕が願ったわけではないと思うが、その後、非常に困難な道を僕に与えた。
 僕はそれをなんとか乗り切り、今、こうしてここにいる。
 そしてその困難な道を歩いてきたことが僕の人生の大きな糧になっている。

 僕は今でも、未踏の道を歩きたいと思っている。 
 たぶん、死ぬまでそうありたいと願っているような気がする。

 

道程

 

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『春望』(作:杜甫)

 国破れて山河在り
 城春しろはるにして草木深し
 時に感じて花にも涙をそそ
 別れを恨んで鳥にも心を驚かす
 峰火ほうか三月に連なり
 家書萬金ばんきんあた
 白頭はくとういて更に短かし
 べてしんえざらんと欲す

引用:『春望』(作:杜甫)


 この有名な詩は中学の時、僕が初めて学んだものであり、いまだに最も心惹かれる漢詩です。
 戦により荒廃した街並み、しかし山や川は何も変わらぬようにそこにあり、春を前に草花もいよいよ深く生い茂っている。
 戦争を知らない僕ですら、ありありとその情景を感じられ、おそらく戦争に負けて帰ってきた日本兵も、焼け野原と化した故郷とともに変わらぬ姿で聳える山々や、往古の姿で流れ続ける川を見て涙を流したろうと思うのです。

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宗教

『地蔵和讃』(作:空也 伝)

 これはこの世の事ならず
 死出の山路の裾野なる
 賽の河原の物語
 聞くにつけても哀れなり
 二つ三つや四つ五つ
 十にも足らぬみどり子が
 賽の河原に集まりて
 父上恋し母恋し
 恋し恋しと泣く声は
 この世の声とはこと変わり
 悲しさ骨身を通すなり
 かのみどり子の所作として
 河原の石を取り集め
 これにて廻向えこうの塔を組む
 一重組んでは父のため
 二重組んでは母のため
 三重組んでは故郷の
 兄弟我身と廻向して
 昼は一人で遊べども
 陽も入相いりあいのその頃は
 地獄の鬼が現れて
 やれ汝等はなにをする
 娑婆に残りし父母は
 追善作善ついぜんさぜんの勤めなく
 ただ明け暮れの嘆きには
 むごや悲しや不憫やと
 親の嘆きは汝等が
 苦患くげんを受くる種となる
 我を恨むることなかれ
 黒鉄の棒を差し延べて
 積みたる塔を押し崩す
 その時能化のうげの地蔵尊
 ゆるぎ出でさせ給ひつつ
 汝等命短くて
 冥土の旅に来るなり
 娑婆と冥土は程遠し
 我を冥土の父母と
 思うて明け暮れ頼めよと
 幼きものをみ衣の
 裳のうちにかき入れて
 哀れみ給うぞ有難き
 未だ歩まぬみどり子を
 錫杖の柄に取り付かせ
 忍辱慈悲にんにくじひのみ肌に
 抱き抱えて撫でさすり
 哀れみ給うぞ有難き
 南無延命地蔵大菩薩

 オン カ、カ、カ、ビ、サンマ、エイ、ソワカ

引用:『地蔵和讃』(作:空也 伝)

 

 これは言葉というより、全文そのままである。
 だが僕はこの中からこの言葉などと一部分だけ抜き出すことなど到底できない。
 これはこのまま全てが、一つの言葉だと思う。
 これを作ったのは空也上人だとも言われているが、誰であれこれを作った方は、人の悲しみを知り抜いた方だったんだと思う。

 我が子を失う。
 それは、人生最大の凶事だと思う。
 個人的な話で恐縮だが、僕の妹は初児を死産で亡くしてしまった。
 その時、ベッドの上で死んだまま出てきた赤子を胸に抱いて、ずっと泣きぬれている妹とその側で悲しみに耐えている夫の姿は今でも脳裏に焼き付いている。
 自分に置き換えても、もし大事な大事な愛娘を失うようなことになったら、僕は生きていられるんだろうかと思う。
 子どもが死んだという記事を見ただけで、親御さんの心中を思い胸が痛くなる。

 だがこの和讃では、親の嘆きや悲しみこそが幼子の魂が成仏するのを妨げ、鬼どもに虐められる因だと説く。
 だから無用に嘆くのはやめて、幼子が天に旅立てるように祈りなさい。あなたの代わりにお地蔵さまが幼子を抱きかかえて守ってくださるのだからと諭す。

 なんと悲しく、辛く、だが優しさに満ち溢れた和讃なんだろうと思う。
 僕は別にどこの宗派の信徒でもないが、このお地蔵様の姿と教えには深く頭を垂れて、手を合わせて祈りを捧げたいと思う。
 この和讃を一人でも多くの人に知ってもらいたいと思う。

 

地蔵和讃

 

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『秘蔵宝鑰』(著:空海)

 三界の狂人は狂せることを知らず
 四生の盲者は盲なることを識らず
 生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く
 死に死に死に死んで死の終りにくら

引用:『秘蔵宝鑰』(著:空海)

 

 この文章、非常に印象的なフレーズで、一度読んだら忘れられないんじゃないだろうか。 
 空海和尚は密教の祖というだけでなく、筆や歌もよくし、文章にも通じた当代きっての才人であり、なんと日本初の小説ではないかと個人的に思っている三教指帰さんごうしいきという書物までも書いているが、この文章を見ると、改めて空海の凄さ、人を惹きつけてやまないその言葉の魅力に圧倒させられる。

 

空海

 

 人というのは自分たちがどこから生まれたのかも知らず、自分たちがどこにいくのかも知らず、何も知らぬまま死んでいく。

 まさにそのとおりだろう。
 生きる意味を死ぬまでに悟れるのか、そもそも生きる意味なんてあるんだろうか。
 そんなことに振り回され、結局、分からずじまいで死を迎える。
 そんなことの繰り返しなんだろう。

 この文書をもってきたからと言って、僕は別に密教を信仰しているわけではないし、どの宗教にも特別の思い入れはない。
 だが、無神論者とは違う。
 なにか特別な、人智を超えるものがきっと存在し、この世界にはきっと意味があるに違いないとは信じている。
 でもそれを見つけられるかどうか、おそらく見つけられず、同じように死んでいくんだろうと思う。

 ただ最後の刻を迎えたときに、こうありたいと思うことが一つだけある。
 それは、人生いろいろあったけど、まんざら悪くなかったなと笑って死にたい。自分の歩んできた人生に納得してこの世を去りたいということだ。

 だから後悔したくない。
 夢や希望を捨てたくない。
 結果はどうでもいい、その夢に向かって、必死になって頑張ってみたい。
 自分の人生に後悔しないために。

 

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その他

『出師の表』(作:諸葛亮公明)

 臣りょう言す。
 先帝創業未だ半ばならずし、中道に崩殂せり。
 今 天下三分して、益州疲弊す。
 此れ誠に危急存亡のときなり。
 然れども侍衛の臣、内におこたらず、
 忠志の士、身を外にわするるは、
 蓋し先帝の殊遇を追いて、之を陛下に報いたてまつらんと欲すればなり。
 誠に宜しく聖聴を開張して、以て先帝の遺徳をおおいにし、
 志士の気をおおいにしたまふべし 。
 宜しく妄りに自ら菲薄し、喩えを引き義を失いて、
 以て忠諫の路を塞ぎたまふべからざるなり。
 宮中府中は、もとに一体り、
 臧否ぞうひ陟罰ちょくばつして、宜しく異同あるべからず。
 若し姦をとがを犯し、及び忠善を為す者有らば、
 宜しく有司に付して、其の刑賞を、論じたまひ、
 以て陛下平明の治を昭らかにし、
 宜しく偏私して、内外をして法を異にせしめたまふべからざるなり。

引用:『出師の表』(作:諸葛亮公明)

 

 これを読んで涙しないものは忠臣に非ずと言われた、名文中の名文。
 僕はこれを中学生時代に吉川英治の三国志で読んだ。たしかその中でも上にあげた原文のとおり書かれていた気がする。

 策謀渦巻く戦国の時代、英雄・豪傑たちの物語に血を熱くして、本が擦り切れるまで何度も何度も読んだ記憶がある。だからこのくだりになると自然に目頭が熱くなって、どうしようもなかった。

 出師の表はこの後に続きがあるので興味ある人はぜひ全文読んで欲しいが、書かれていることは、先帝劉備玄徳の知遇に応えんと、弱国であるにも関わらず、大国である魏への出兵にかける蜀の丞相、諸葛亮孔明の悲壮な決意と劉備の遺児劉禅に対して噛んで含めるように国王たるものの行いを教える深い情愛である。

 劉備は死ぬ間際に公明にこう言ったそうだ、もし息子の劉禅に皇帝の資質があるなら、補佐してやってほしい。しかし劉禅が補佐するに足りない人物なら、君が代わりに国を治めてほしいと。

 王位を狙って親子、兄弟同士ですら殺し合うあの時代にあって、これはほとんどありえない言葉である。

 そして残念なことに劉備が危惧したように劉禅は暗愚であったとされる。どうせ親父には勝てないなどと自分を卑下し、安逸に走る風があったようだ。

 そんな劉禅に対して、それではいけない。耳に痛いこともしっかり聞いて立派な王になって、公正な政治を行い民を慈しみなさいと、自身が王に取って代わるなど思いもせずにまるで父親のように諭している。
 それが涙を誘うのだ。
 大義を掲げ、大恩あるもののために命を削り、その子の行く末を我が子以上に案じている。

 今、政治家の資質がいろいろと取り沙汰される。
 その政治家を選んだのは我々国民であり、全ての責任は自分たちにあるのは良く分かっている。
 だからこそ言いたい。
 世界が分断し戦火が絶えない現代は当時の三国時代にも劣らぬほど、混迷を極めている。だからこそ諸葛亮孔明とまではいかなくても、強い信念を持ち、その信念をなさんするならば死をも辞さない覚悟で政治に当たって欲しい。
 そういう政治家を僕は支持する。

 

出師の表

 

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『史記』(著:司馬遷)

 或ひと曰く、「天道に親無し。常に善人に与す」と。
 伯夷はくい叔斉しゅくせいの若きは善人と謂いふべき者か非か。
 仁を積み行ひの絜きこと此くの如くにして餓死せり。
 且つ七十子の徒、仲尼ちゅうじは独り顔回がんかいを薦めて学を好むと為す。
 然るに顔回やしばしば空しく、糟糠そうこうすら厭かずして、つい蚤夭ようせいせり。
 天の善人に報施ほうせすること、其れ何如ぞや。
 盜蹠とうせきは日に不辜ふこを殺し、人の肉を肝にし、暴戻恣雎ぼうれいしき、党をあつること数千人、天下に横行するも、ついに寿を以て終はる。 
 是れ何の徳にしたがふや。
 此れそのゆうも大いに彰明較著しょめいこうちょなる者なり。 
 近世に至り、操行不軌そうこうふき、もっぱら忌諱きいを犯すも、終身逸楽富厚しゅうしんいつらくふこうに、累世絶えず、或いは地をえらびてこれを蹈み、時ありて然る後に言を出し、行くにみちに由らず、公正に非ずんばいきどおりを発せざるも、憤に遇ふが若き者は、数ふるに勝ふべからざるなり。余はなはだ惑へり。
 あるいは所謂いわゆる天道是か、非か。

引用:『史記』(著:司馬遷)

 

 義人が餓死し、人殺しが天寿を全うする。
 悪行をなすものが一生裕福に暮らし、常に正しい道をあるかんとするものが思わぬ災難にあうことは数え切れない。
 俗にいう天道というものは、はたして正しいのか、正しくないのか。

 

伯夷叔斉

 

 この司馬遷の問いと同じ思いを持つものは、現代にもたくさんいるんじゃないだろうか。
 かくいう僕も同じ問いを持つ。
 天道といってもいいだろうし、神はいるのかといってもいいし、そもそも神の道は正しいのかといってもいいだろう。
 そういう意味では、昨日のカラマーゾフのイワンの問いと似たような問いであろう。

 善は報われ、悪は罰せられる。
 正義が実現し、不正は放逐される。
 そう思いたい。
 だが現実がそうでないことは、皆さんもよくご承知だろう。

 でも、だとしたら、人はなんのために生きるんだろう。
 たまたまこの世に生まれ、死ぬまでの間、暇つぶしのように生きるだけなんだろうか。
 そうは思いたくない。
 絶対にそうは思いたくない。
 だからこそ、生きる意味を知りたいと思う。
 それこそが、僕が書く作品の根底に連なるテーゼである。

 

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『沖縄県民かく戦えり-第062016番電-』(発:大田実中将)

「-左の電を、次官にご通報方、取り計らい得たし。
沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告せらるべきも、県にはすでに通信力なく、三十二軍司令部もまた通信の余力なしと認められるにつき、本職県知事よりの依頼を受けたるにあらざれど、現状を看過するに忍びず、これに代わって緊急ご通知申しあぐ。
沖縄県に敵攻略を開始以来、陸海方面とも防衛戦闘に専念し、県民に関してはほとんど顧るに暇なかりき。しかれども、本職の知れる範囲においては、県民は青壮年の全部を防衛召集にささげ、残る老幼婦女子のみが、相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ、わずかに身をもって、軍の作戦に差し支えなき場所の小防空壕に避難、なお砲爆下をさまよいありたり。しかも若き婦は率先軍に身をささげ、看護婦、炊事婦はもとより、砲弾運び、挺身斬り込み隊すら申し出るものあり。しょせん敵来たりなば老人子供は殺されるべく、婦女子は後方に運び去られて毒牙に共さるべしとて、親子生別し、娘を軍の衛門に捨つる親あり。
看護婦に至りては、軍移動に際し、衛生兵すでに出発し、身寄りなき重傷者を助けて共にさまよう、真面目にして一時の感情に走らせたるものとは思われず。さらに、軍において作戦の大転換あるや、自給自足、夜のうちに、はるかに遠隔の地方の住民地区を指定せられ、輸送力皆無の者、黙々として雨中移動するあり。
これを要するに、陸海軍沖縄に進駐以来、終始一貫、勤労奉仕、物資節約を強要せられて、ご奉公の一念を胸に抱きつつついに・・・(不明)・・・報われることなく、本戦闘の末期を迎え、実状形容すべくもなし。一木一草焦土と化せんとす。食糧は六月いっぱいを支えうるのみなりという。沖縄県民かく戦えり。県民に対し、後世特別のご高配を賜らんことを」

引用:『1945年6月6日夜の大本営海軍次官宛ての電文-第062016番電-』(発:大田実中将)

 

 

電文

 

 僕は歴史が好きだった。
 でも学校時代、太平洋戦争について学んだことと言えば、軍部が暴走して日本を戦争に陥らせたこと。日本が真珠湾でアメリカを奇襲したこと。ミッドウェイ海戦で転機を迎えたこと。原爆を落とされ降伏したこと。この間、国民が大変な生活を強いられたことなど、ある意味、起こった事柄や抽象的な事象でしかなかった。
 現代日本に最も大きな影響を与えた事件であるにも関わらず、日本がどう戦ったか、どんな人がいたのかほとんど知らなかった。
 だが大学やその後いろいろな本や資料を見て、この戦争を日本人がどんな思いで戦ったのかを知った。

 ほとんどの人は日本軍などと聞けば、拒否反応を示すだろう。確かに軍部が犯した罪は計り知れない。そのことについては一切弁護するつもりはない。
 だが軍部が悪だからと言って、全ての軍人が悪だったのだろうか。
 僕はそうは思わない。
 日本のため、家族のため、愛する人のために、命を捨てて戦った人が数え切れないほどいたと思う。それは招集された人であっても、軍人であっても同じだったと思う。

 この電文は、日本で唯一の地上戦に見舞われた沖縄の人々が日本のために必死になって戦い抜いたことを中央に知らせるものである。
 この電文を打ったのは大田実という海軍の少将であった。
 彼は、この時代なら、ましてこのような状況下であれば必ず打つはずの天皇陛下を称える言葉は一切使わず、またこの電文も本来であれば県知事が出すべきであるが、もはやその力も手段もなく、やむをえず自分が現状を伝えるのだと端的に述べている。
 そしてただひたすら沖縄県民の奮闘と努力の様子を詳細に伝え、最後に、死を賭して戦った沖縄の人々に対して後世格別の配慮をいただきたいとだけ願っている。
 
 この電文を戦争賛美だという人もいる。
 人は人、誰が何を思い、何を考えるかはそれぞれが考えることだと思うし、僕も別にこれを読んでくれた人にどうしてくれなどというつもりもない。

 ただ、心の底から考えて欲しいのだ。
 今からたった八十年前に、あの沖縄で何があったのかを、そこで日本のために戦った人たちがいたのだということを。そしてそれを考えさせてくれる電文を打ってくれた大田少将という人がいたということを。

 大田少将は六月六日にこの電文を打ち、六月十三日に戦死された。大田少将の娘さんが送った一句でこの話を終えたいと思う。

 身はたとへ 沖縄の野辺に朽ちるとも 祖国守ると父は逝きにし

 

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『I Have a Dream』(演説:マーティン・ルーサー・キング・ジュニア)

I have a dream that one day on the red hills of Georgia, the sons of former slaves and the sons of former slave owners will be able to sit down together at the table of brotherhood.
I have a dream that one day even the state of Mississippi, a state sweltering with the heat of injustice, sweltering with the heat of oppression, will be transformed into an oasis of freedom and justice.
I have a dream that my four little children will one day live in a nation where they will not be judged by the color of their skin but by the content of their character.
I have a dream today!
I have a dream that one day, down in Alabama, with its vicious racists, with its governor having his lips dripping with the words of "interposition" and "nullification" -- one day right there in Alabama little black boys and black girls will be able to join hands with little white boys and white girls as sisters and brothers.
I have a dream today.

引用:1963年8月28日に行われたワシントン大行進の際に行われたマーティン・ルーサー・キング・ジュニアによる演説

 

 言葉とは紙に書かれたものばかりではない。民衆に向かって放たれた言葉もまた心に残る言葉となる。
 過去、そうして放たれた言葉のいくつかは、まさに偉大な言葉として紙に記録され後世に語り継がれてきた。僕はまだライブでそうした魂が震えるような言葉を聞いたことはないが、過去に録画されたものというなら、この演説が一番心に残っている。

 人種差別撤廃を訴えたキング牧師。
 白人たちによって侵略され、白人たちのために作られたアメリカという新たな帝国。
 その中で黒人や肌の色が違う人種たちはずっと差別を受けて支配されてきた。
 それはおかしい、それは間違っていると、キング牧師は説いた。

 上の文章の大意はこうだ。
 私には夢がある。
 いつか牧場で働く奴隷の子どもと牧場主の子どもが兄弟のようにテーブルに座ることができる日が来ると。
 不正と抑圧で焼け付かんばかりのミシシッピ州ですら、いつか自由と正義のオアシスに変わるだろうと。
 私の4人の子どもたちが、いつか肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に住むだろうと。
 邪悪な差別主義者たちのいるアラバマでさえも、いつか黒人の少年少女が白人の少年少女と兄弟姉妹として手をつなげるようになるだろうと。

 もちろん、今も差別は根強く残っている。
 だがこの演説はアメリカを変え、世界を変えた。
 それから46年後、アメリカ初の黒人系大統領が生まれたとき、この演説を聞いた20万人の観衆は何を思っただろう。世界は何を感じただろう。


 言葉は世界を変える。
 まさに人類史に残る言葉であったと思う。

 

キング牧師 ワシントン演説

 

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 ここまで読んでくれた皆さんの心の中にも忘れられない言葉があり、人生に大きな影響を与え、成長の糧になったんだろうと思います。

 その言葉をどうぞ、いつまでも大事にしてください。

 

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