共著者・永田晃子さんの感想。
もう、胸がいっぱいです。ゼリーと過ごした日々が、こんな形で蘇るなんて、思ってもいませんでした。
「ゼリーちゃんのこと、まだ悲しみきれてないんじゃない?とことん悲しみきれば、上昇したりするものよ」とTOMOKOさんに言われたとき。
「悲しみきる」という言葉に、その日はピンとくる感覚がありませんでした。ゼリーとのお別れから、これでもか、っていうくらい泣いたし。ずっと辛くて悲しくて、どうしようもない日々だったのに。これ以上、どうやって?悲しみきる、って、どういうこと?そんな気持ちでした。
しばらくして、ゼリーとの思い出を本にすると決めてからも、振り返ることで襲ってくるだろう悲しみへの恐怖に心は揺れました。でも、結果として大切な思い出を形に残すことができました。本当に悲しみきった後に、深く癒されたことを感じています。」
ゼリーを支えてくれた錦戸先生
もし、あなたが動物と暮らしていて、その子が重い病気だとしたら。重症のゼリーを支えてくれた漢方が役に立つかもしれません。
跡継ぎのモナカも、漢方のお世話になっています。
当時の院長、難病専門の獣医師、錦戸正巳先生は亡くなられたそうです。しかし、その遺志を継ぎ、腫瘍、リンパ腫、心臓病その他あらゆる難病に苦しむ動物たちのための「ペット漢方研究会」は存続しています。
ご参考まで。
アニマルコミュニケーターが伝えてくれたこと
アニマルコミュニケーター、って聞いたことがありますか?
「動物と話せる女性ハイジ」の著者ハイジ・ライトなら、ご存知の方も多いでしょう。動物たちの声・感情を受け取り、人間が理解できる言葉にして伝える。人間の思いを、動物に伝える。相互コミュニケーションをサポートする能力の持ち主です。
当然ながら、この分野にも否定的な意見はありまして。飼い主側を催眠状態にして適当なことを言うとか、誰にでも同じ話をするとか。そういう人も、いるかもしれません。
でも、本物のアニマルコミュニケーターは、やっぱり素晴らしいのです。
晃子さんは、リオさんというアニマルコミュニケーターを通して、モナカと会話します。ある日モナカは、なぜ晃子さんのところに来たのか話してくれました。
ママのところに来るために生まれたんだよ。
すごく縁を感じたよ。
生まれる前に、ゼリーちゃんと会ってる。
生まれるとき、ゼリーちゃんに「ここだよ!」って背中を押されたの!
そのとき、不思議なことにゼリーが現れました。リオさんも驚いています。
あ!ちょっと待ってくださいね。
今、ゼリーちゃんとつながったんです。
ゼリーちゃんが、モナカちゃんを案内してくれたって。
「お空から、ママのところへ道を作って、こっちだよ!ってモナカを道案内したんだよ」ってゼリーちゃんが。
晃子さんは、感動で全身がヒリヒリするほどだったそうです。
リオさんを知りたい人のために、彼女の本を紹介します。動物好きな人だけでなく、生きづらい繊細さんにもオススメです。
「ライオンになるために人間で過ごしてみる」
HSPの私が動物とかかわることで自分らしさを取り戻した話
島倉りお
癒しの出版
校正の最終段階に入っても、晃子さんの涙は止まりません。誤字を見つけては涙。写真のレイアウトを修正しては涙。お世話になった方へ出版の連絡をしては涙。
日々刻々、ゼリーちゃんとの暮らしが、鮮やかに蘇るのです。
本を作ることは、基本的に根気のいる地味な作業です。発売日に向けコツコツと作業をこなす。その過程で、愛犬を失ったモノクロの悲しい世界が、淡く色づいていくようです。
切なさは消えないけれど、あの日の歓びが再び、キラキラと光を放ちはじめました。
共著と発熱
共著者の永田晃子さんと私は、長い時間を共に過ごしました。そして出版直前、同時にダウンしたのです。
高熱、全身の倦怠感、喉や頭の痛みを抱えながら、リモートで確認作業を続けました。画面越し、互いにやつれた姿ながら目の奥に力があった。
過ぎてみれば、これも記憶の宝、笑い話です。
私にとって、共著は新しい発見でもありました。
出版に慣れてしまい、いくつもの思い込みがで生まれていた。
晃子さんが「飾って、眺めて、ワクワクするような美しい本」にしたい、と言ったとき、私は少し驚きました。
Kindleのペーパーバックだから、そんなに立派な表装ができるわけもなく。
表紙は目立った方がいいけれど、飾ったときの美しさまで考えていなかった。
作家と編集者と校正者と、営業担当をひとりでやってきて、ずいぶん偏った思い込みができていたらしい。
気づいて良かった。また、誰かと一緒に本をつくりたいと、しみじみ思うのでした。
手放す
本をつくることは、ある意味、手放すプロセスでもあります。
吐き出すこと。書ききること。かっこつけてたら、最後まで書けません。
悲しみは、執着でもあります。
怒りも、固まった心の滓です。
しっかり悲しんで、自分の怒りを認める。
いっそ出版してしまう。
すると、いつの間にか執着を手放していた、ということになります。
というわけで、いくつもの執着を手放した私ですが、まだまだ心の滓は残っているようです。