非国民通信

ノーモア・コイズミ

因果応報、しかし珍しいケース

2021-07-25 21:30:37 | 社会

小山田さんのいじめ問題 海外メディアも相次いで詳報(朝日新聞)

 東京オリンピック(五輪)開会式の作曲担当としての参加辞退を表明したミュージシャンの小山田圭吾さんをめぐっては、海外メディアも過去のいじめ問題に大きく注目して報道していた。

 英テレグラフ紙は17日、小山田さんの一連の行動を「ぞっとするような虐待」と表現。過去のいじめについて知的障害のある同級生に対し、「他の生徒の面前で性的行為を強要」「排泄(はいせつ)物を食べさせた」「障害のある同級生を箱に閉じ込めた」などと詳細に伝えた。

 

 さてオリンピック関係者の過去の問題行為や発言を巡る辞任劇が相次ぐところですが、いかがなものでしょうか。本当に非難一色だった森喜朗の女性蔑視発言(参考、ミソジニストの沈黙)とは違いこの小山田氏に関しては一定の擁護もあり、前者を気の毒に感じないでもありません。ただここに来て森喜朗の「名誉最高顧問」就任案があるそうで、実現すれば一周回って面白い気がしてきました。

 それはともかく、「他の生徒の面前で性的行為を強要」「排泄物を食べさせた」など行為の内容が具体的に報じられるのは珍しいですね。この種の報道は問題があったと伝えられるのみで、紙面に載るのはソフトな部分だけ、記事を読む限りでは大したことは行われていないように印象づけられるのが一般的ですから。

 新聞紙面に載せられないような言葉で誰かを罵っても、それは新聞には載らない、あくまで報道されるのは新聞に載せられる範囲の「お行儀の良い発言」だけで、読者には「何が問題なのか?」と疑問を抱かせる、それが大手メディアの常でした。ゆえに週刊誌やスポーツ紙などで情報を補う必要があったわけですが、今回は珍しく本当に問題であることが伝わるように報道されています。

 1996年にO157集団食中毒が発生した際、後に否定されるも当初はカイワレ大根が感染経路とされ、生産農家が多大な風評被害を被ったことがありました。カイワレ大根が原因となった可能性を発表した当時の厚生労働大臣である菅直人はカイワレ大根を一気食いするパフォーマンスを披露して信頼回復に努めたわけですが――小山田氏も報道陣の前で排泄物を食べたら良かったのではないでしょうかね。

 なお小山田氏の「いじめ」と、それを武勇伝としてメディアで得意げに語っていたことについては、「その時代の価値観」云々と評する人もいます。確かに旧日本軍の侵略行為を「当時は合法だった」として正当化する人も少なくありませんので、このロジックを今回の騒動に当てはめる人がいたとしても驚くようなことではないのでしょう。

 あるいは小山田氏への批判を「超法規的リンチ」などと呼ぶ、ちょっと足りない人もいるわけです。ただ犯罪ではなく「いじめ」としてカウントされる時点で法により裁かれる対象から外れる以上、時効も懲役による償いもまた対象外です。「いじめ」という法律の埒外の行為に手を染めたのならば、その報いが法的な枠組みの外から降ってくるのは、残念でもないし当然という他ありません。

 いじめと犯罪を分けるものは、どこにあるのでしょう。「他の生徒の面前で性的行為を強要」「排泄物を食べさせた」云々は法にも触れますけれど、同じことをやって刑事罰を受ける人もいれば「いじめ」として容認される人もいるわけです。私の小中学校時代も暴行や窃盗、恐喝や器物損壊は日常茶飯事でしたが、逮捕者は一人も出ませんでした。行為そのものの性質は、あまり重要ではないことが分かります。

 いじめが成立する上で重要なのは「周囲の支え」ではないでしょうか。孤立した人間が個人的に誰かに暴行を働くのであれば、ましてやそれに何らかの処罰が下されるのであれば、それが「いじめ」と呼ばれることはありません。そうではなく、周囲の賛同を得た人間が誰かに暴行なりを加え、教員などもそれを黙認する、こうした条件が揃ってこそ「いじめ」が成り立つわけです。

 

教師がクラスの「いじめ」への対処を誤ってしまう理由。(Books&Apps)

「いじめってクラスの雰囲気が悪くなる、みたいに思ってる人多いでしょ」
「うん」 
「あれウソ。少なくとも教師の側から見ると、むしろいじめがあった方がクラスの雰囲気がよく見えたりする」
「え」
「いじめてる側、あるいはいじめを黙認してる側からすると、少なくとも主観的には「共通の敵」に対して結束してるわけでしょ。いじめの声だって、表面的には「笑いが絶えない明るいクラス」に見えたりするんだよ。
 だから、教師がちゃんと見てないと、「いじめが発生してるクラス」を「仲良く協調出来ているクラス」に誤認したりする。ヘタをすると、いじめられてる子を先生まで異分子扱いしたりする。それでいじめられてる子はますます絶望する」

 

 たぶん、小山田氏が在学していた当時のクラスも、被害児童以外の視点からは「笑いが絶えない明るいクラス」であったろうことは想像に難くありません。教員からも「仲良く協調出来ているクラス」であり、その中心に小山田氏は存在していたのでしょう。小山田氏は賞賛されこそすれ、非難された記憶はなかったものと推測されます。

 だからこそ、後々のインタビューで自慢気に語ってしまったわけです。障害を持ったクラスメイトへの蛮行を恥じるべきこととして糾弾され、学校からも処分を下されて育ったならば、秘すべきこととして認識していたかも知れません。しかし、ひたすら周囲から自己肯定感を伸ばされて育った人間にとって、自らの過去は誇らしいものでしかなかったのでしょう。

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