狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

改定版・沖縄県民斯く戦えり、大田中将の遺言

2021-03-07 12:49:14 | ★改定版集団自決

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過去ブログ県民かく戦えり! 大田実少将の遺言2006-06-22の再掲です。

             ★

組織が持つ現場と会議室の葛藤は遠く明治の時代から、先の戦争の軍隊組織においても見られた。

大本営は沖縄守備の第33軍で最強の師団と言われる第9師団を台湾軍に引き抜いて、沖縄戦の作戦に狂いを生じさせた。

62年前の沖縄戦で、現場の指揮官をしていた大田実海軍中将は、東京の会議室で現場に指令を出す海軍次官に遺言ともいえる長文の電文を送った。

今月の14日の沖縄タイムスは、戦地現場である海軍壕で自決した大田実司令官と戦没将兵4000人の慰霊式典を報じた。

太田実少将が豊見城の海軍壕で自決したのは1945年(昭和20年)6月13日。

毎年この日には遺族が集まって何故か密やかに慰霊祭が行われる。

現場の司令官や将兵の慰霊祭と言う理由で地元新聞の取り扱いは他の戦没者慰霊祭に比べて扱いが小さい。

沖縄戦で戦没した朝鮮人の慰霊碑でさえ建立して大々的に報じるのに。
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/6344846c2b9598aab
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しかも大田司令官が命を賭して東京の「会議室」に現場・沖縄の惨状、住民の命がけの協力を打電し、「県民斯く戦えり。 今後のご高配を」と結んだ事には新聞は一言も触れていない。

県民が戦争に協力したのは平和運動にはそぐわない」というのが地元メディアの大田司令官への冷遇の原因らしい。

平和学習として沖縄の戦跡を修学旅行に取り上げる学校が増えているが、沖縄戦の現場の報告を血を吐く思いで東京の会議室に報告して自決した大田司令官の終焉の地「海軍壕跡」は平和学習コースからは何故か外されている。

沖縄の戦後復興についても気にしながら自決した大田実司令官について沖縄のメディアは冷めたい。

沖縄タイムス 2006年6月14日(水) 
 
旧海軍司令部壕慰霊祭

 沖縄戦で、旧海軍司令部壕やその周辺壕などで亡くなった旧日本海軍関係者や現地招集された住民など四千余のみ霊を慰める「旧海軍司令部壕慰霊祭」(主催・沖縄観光コンベンションビューロー)が十三日、豊見城市の旧海軍司令部壕公園で開かれ、県内外から参列した約九十人の遺族らは献花や焼香をし、冥福を祈った。
 同ビューローの仲吉朝信会長は「尊い命や文化遺産が失われた悲しみは癒えない。戦争体験を風化させず、平和な沖縄を次世代へ引き継ぎたい」と述べた。

 夫が大田實司令官の四男だという大田昌子さん(59)は「国のためといえ、家族を残して先立たなければならなかった義父の気持ちを考えるとやりきれない」と話した
 


                   ◇

太田実海軍少将が打電した、遺言ともとれる長文の電文を下記に紹介する。

沖縄戦時の 沖縄県知事であった島田叡とは、戦闘の最中でも密接な連絡を取り合い、大田と島田は「肝胆相照らす」仲であったと言う。

大田が最後に残した電文中にある「県知事より報告せらるべきも」「本職県知事の依頼を受けたるに非ざれども」の冒頭文の文言は、本来民間人の苦労を伝えるのに最も相応しいのは、「県民に関して、殆ど顧みるに暇なかりき」と言った自分達軍人では無く、最後まで彼ら県民と共にあった島田達であるはずであるが、既に沖縄県庁の組織自体に通信能力が無く、やむを得ず大田が、行政官である島田に代わって県民の姿を伝えるという意思から綴られたものだと考えられる

注:読みやすさを考え,原文漢字カタカナ混じり文を平仮名に直し,句読点を付加した。 これを筆者が更に読みやすく書き直した。

◆海軍沖縄特別根拠地隊司令官
大田実少将(自決後中将に昇進)海軍次官宛電文

昭和20年6月6日付け

「沖縄県民かく戦えり!」

「県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを!」

沖縄県民の実情に関して、報告は本来県知事より報告すべき事だが、県には既に通信力はなく、第三十二軍指令部(牛島中将の最高司令部)も通信余力がない。

県知事の依頼を受けたわけではないが、沖縄の現状を見過ごすに忍びないので、私大田司令官が知事に代わってご緊急に報告する。

敵が沖縄に攻撃開始以来、陸海軍とも防衛戦闘に精一杯で、県民を顧みる余裕は殆どなかった。

しかし、私の知る限り県民は青壮年の全てを防衛召集に捧げた。

残りの老幼婦女子は、相次ぐ砲爆撃で家屋と全財産を焼き出され、軍の作戦の邪魔にならない小防空壕に避難、しかも爆撃、風雨に晒される窮乏生活にあまんじた。

しかも若い婦人は率先して軍に協力し、看護婦、炊事婦はもとより、砲弾運び、斬り込み隊をを申し出る者すらあった。

所詮、敵が来たら老人子供は殺され、婦女子は拉致され毒牙にかかってしまうと、親子生き別れになり娘を軍営門に捨てる親もいる。

看護婦に至っては、軍移動に際し、衛生兵は既に出発した後なのに、身寄りのない重傷者を助けて、その行動は真面目で一時の感情で動いているとは思われない。

更に軍の作戦大転換があり遠隔の住民地区が指定されると、輸送力がないのにもかかわらず、夜間、雨の中を自給自足しながら移動するものもいた。

要するに、陸海軍が沖縄に進駐して以来、県民は終始一貫して物資節約を強要され、ご奉公の心を抱き、遂に勝利する事無く、戦闘末期には沖縄島は形状が変わるほど砲撃され草木の一本に至るまで焦土と化した。

食料は六月一杯を支えるだけしかないという。

沖縄県民はこのように戦った。

沖縄県民に対して後世になっても特別の配慮をお願いする。

打電を終え、大田実海軍少将はその一週間後、現場で自決する。

享年54歳。

なお現場の大田司令官が打電した相手、「会議室」の海軍次官・多田武雄(将官議員)は終戦の8年後、62歳で没している。

沖縄戦の現場で県民と共に戦い、県民の蒙った惨状を見かねて戦後の県民の行く末までも心配して「会議室」に報告後自決した大田実少将。

この大田少将に対する県民の態度は冷たい。 これも地元メディアの影響か。

戦後、日本軍批判の先鋒を担いだ「鉄の暴風」と言う言葉の原型は大田少将の「沖縄島は形状が変わるほど砲撃され草木の一本に至るまで焦土と化した」と言う電文に伺い見れる。

「鉄の暴風」で沖縄島の地形を変える程の焦土作戦を行こない無差別に住民を殺戮したのは米軍なのに、何故か戦後この言葉は日本軍人を糾弾するキーワードと化す。

県民は「鉄の暴風」の下手人の米兵の顔を直接見ていない。

米軍は沖縄住を日本人から分断する占領方針から沖縄住民には「優しく」対応するようにしていた。

沖縄住民は、やっと命が助かりほっとした時に、「優しく」年寄りや子供に手を差し伸べる米兵の顔だけを見ている。

自分達は安全な戦艦の中にいて、そこから艦砲射撃という「鉄の暴風」を吹き荒れさして住民を無差別殺戮した米兵のもう一つの顔を見ていない。

一方、自分達を守れず、食料補給もままならず、痩せこけて、圧倒的物量の米軍の前に醜態も晒しただろう敗残兵としての日本兵の顔を沖縄住民は現場で見ていた。

そしていつしか「鉄の暴風」を実行した米軍ではなく、そういう状況に沖縄住民を陥れた日本軍こそ敵だったと言う理屈に一気に飛躍する。

食べ物をくれた米軍は解放軍、「鉄の暴風」を防止できなかった日本軍は敵軍、という理不尽な論理だ。

その結果が、復帰後続く「物呉ゆしどぅ我御主」、「命どぅ宝」の伝説である。

県民と共に戦い、県民の行く末を案じつつ現場に散った大田司令官と海軍将兵の霊に、

合掌。

                   ◇

大田実少将の魂の叫び「県民かく戦えり。 」の電報・原文を煩雑を承知で下記に記録する。。(不明な箇所は□で表わしている。)

沖縄戦関係資料室http://www.okinawa-sen.or.jp/050707/index.html

 沖縄県民斯く戦えり

発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官

 左の電文を次官に御通報方取り計らいを得たし

 沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告せらるべきも、県には既に通信力なく、32軍司令部また通信の余力なしと認めらるるに付き、本職、県知事の依頼を受けたるに非ざれども、現状を看過するに忍びず、これに代わって緊急御通知申し上げる。

 沖縄島に敵攻略を開始以来、陸海軍方面、防衛戦闘に専念し、県民に関しては殆ど顧みるに暇(いとま)なかりき。

 然れども、本職の知れる範囲に於いては、県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ、残る老幼婦女子のみが、相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ、僅(わず)かに身を以って軍の作戦に差し支えなき場所の小防空壕に避難、尚、砲爆撃下□□□風雨に曝されつつ、乏しき生活に甘んじありたり。

 しかも若き婦人は、率先軍に身を捧げ、看護婦烹炊(ほうすい)婦はもとより、砲弾運び、挺身斬り込み隊すら申し出る者あり。

 所詮、敵来たりなば、老人子供は殺されるべく、婦女子は後方に運び去られて毒牙に供せらるべしとて、親子生き別れ、娘を軍衛門に捨つる親あり。

 看護婦に至りては、軍移動に際し、衛生兵既に出発し、身寄り無き重傷者を助けて□□、真面目にして、一時の感情に駆られたるものとは思われず。

 さらに、軍に於いて作戦の大転換あるや、自給自足、夜の中に遥かに遠隔地方の住民地区を指定せられ、輸送力皆無の者、黙々として雨中を移動するあり。

 これを要するに、陸海軍沖縄に進駐以来、終始一貫、勤労奉仕、物資節約を強要せられつつ(一部はとかくの悪評なきにしもあらざるも)ひたすら日本人としての御奉公の護を胸に抱きつつ、遂に□□□□与え□ことなくして、本戦闘の末期と沖縄島は実情形□□□□□□

 一木一草焦土と化せん。糧食6月一杯を支うるのみなりという。沖縄県民斯く戦えり。県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを。

                  *

★付録①;大田実少将自決前日、最後の電報

発 沖根 昭和20年6月12日 1335

一、朝来、敵戦車および歩兵、当司令部壕外に蝟集(いしゅう)し、煙弾を打ち込みあり
二、我方、およそ刀をもって戦いうる者は、いずれも敵に当たり、然らざる者は自決しあり
三、74高地2か月余りの奮闘も、本日をもって終止符を打つものと認む

発 沖根 昭和20年6月12日 1619
これにて通信連絡を絶つ

 

★付録②大田司令官の三女、愛子さんの歌

身はたとへ沖縄の野辺に朽ちるとも祖国守ると父は逝きにし

参考文献
『沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』、田村洋三、講談社文庫

 

【おまけ】

 

 

第32軍が沖縄に着任する以前から、大本営は、沖縄住民が戦禍にさらされるのを防ぐため閣議決定により県外疎開を決めていた。 だが県外疎開、実際は思うようにはかどらず、県内のより安全と思われる場所への県内疎開を余儀なくされた。

ただ当時の法体系でも軍が直接住民に疎開命令を出すことは出来ず、第32軍は「南西諸島警備要領」を作成し県知事に協力を要請し、知事は警察の組織力でこれに協力した。

沖縄本島では、島田知事と荒井県警部長が住民疎開に尽力したが、共に殉職し県民の恩人として今でも慕われている。

だが県知事や警察の疎開指導が届かなかった離島地域ではやむなく直接軍が疎開の指導をせざるを得なかった。

同じ疎開でも県が指導した場合は命の恩人と感謝され、軍が直接指導した疎開は「強制疎開」などと、住民を殺戮させるために疎開させたような書き方をするのが沖縄紙の特徴である。

八重山で疎開を指導した山下軍曹は戦後67年経っても、八重山マラリアで住民を虐殺した悪鬼として罵倒され続けている。 

だが山下軍曹も島田県知事も、故郷に家族を残し使命を帯び決死の覚悟で沖縄に赴任した善良な父であり、夫であり兄だった。 彼らは住民を安全地帯に疎開させるという思いは同じで、唯一の違いといえば、軍服を着ていたかどうかの違いに過ぎない。

八重山住民を「日本刀で脅し、マラリアの汚染地域に強制的に疎開させた」と喧伝されている山下軍曹が、1981年にひっそりと島を訪れた時、八重山住民は「・・・戦前の軍国主義の亡霊を呼びもどすように来島したことについて、全住民は満身の怒りをこめて抗議する」と抗議書を突きつけたという。

その後山下軍曹は2度八重山を訪れ、その度に罵倒され追い返されたという。 

なぜ山下虎雄軍曹は何度も島を訪れたのか。

山下軍曹が罵倒されるのを覚悟で3度も八重山地区を訪れたのは、自分が指導した疎開で不幸なことに多くのマラリアの犠牲者が出たことに対する贖罪の気持ちの表れではなかったのか。

山下軍曹にとって不幸だったのは、それこそ幸か不幸か、八重山地区は本島のような米軍による「鉄の暴風」に曝されることがなかったことである。

山下軍曹が八重山住民の虐殺を企む「悪鬼」ではなかった。

たまたま不幸にも八重山地区に着任したばかりに、疎開を自ら指導せざるを得なかった善良な日本人だった。

これは戦後3度も八重山地区を訪問した事実から窺い知ることができる。

その一方で同じ疎開でも、島田県知事、荒井県警部長に対する沖縄紙の記述は、彼らが軍人でないという違いだけで比較的まともである。

以下は大本営の密使  沖縄戦秘話3に加筆したものである。

     

大本営の密使  沖縄戦秘話3 2008-07-29

 

沖縄は地元出版の盛んな地域である。

沖縄戦に関する軍側から見た記録や住民側の記録が多数出版されて、地元の本屋の店頭を飾っているが、軍と住民の間に立って県民の安全確保のため奔走した県行政側から見た記録は極めて少ない。

県民の安全確保のため県内外の疎開を実行するため島田知事とコンビを組んで命懸けで尽力した荒井退造警察部長は「県民の恩人」として、島田知事と共に遺骨も無いまま、摩文仁の「島守の塔」に合祀されている。

万年筆県に寄贈へ 那覇市真地の「県庁壕」で発見(2008.7.27)

「万年筆を多くの人に見てもらうことが義務」と語る荒井紀雄さん=東京都日野市
「県庁壕」で発見された万年筆

 【東京】沖縄戦中、県民の県外、北部疎開に尽くした荒井退造・県警察部長の遺品とみられる万年筆が、近く遺族から県に寄贈されることになった。万年筆は昨年12月、那覇市真地の通称・県庁壕(シッポウジヌガマ)で見つかり、6月に東京の遺族に届けられた。
 長男の荒井紀雄さん(75)=東京都=は「この万年筆が父の物だと断定できるわけではないが、大変な犠牲を生んだ沖縄の惨禍の『証言者』だ。多くの人々に見てもらえることが、私の義務だと思う」と話している。
 万年筆を見つけたのは「県庁壕」の発掘・調査を続けている知念賢亀さんと繁多川公民館「壕プロジェクト」のメンバーら。壕内の荒井部長室前の地中から掘り出した。
 戦時中の県職員や遺族らでつくる「島守の会」を通じて送られてきた万年筆を調べたところ「並木製作所」(現・パイロットコーポレーション)が1932年発売の製品と類似。当時の標準品が3円から5円だったのに対し、見つかった万年筆は16円程度で売られていた。元県職員の板良敷朝基さん(「島守の会」顧問)は「部長以上の高官しか持っていない代物」と説明しているという。
 昨年手術を受け、通院を続けている紀雄さんは「父は生前、『家族が私の骨を拾ってくれる』と語っていたという。骨は戻らなかったが、万年筆が息子の元へ戻ってきたと父は思っているかもしれない。私も生きていて良かった」と語っている。
 「県庁壕」は、米軍が沖縄本島に上陸する直前の45年3月末から5月末までに県警察部が避難していた壕。4月から島田叡(あきら)知事も合流した。荒井部長は島田知事とともに5月末に本島南部へ移動。6月26日、知事と摩文仁の軍医部壕を出た後、消息を絶った。(小那覇安剛)


                                           ◇

 

■「狂気は個人にあっては稀なことである。しかし集団・民族・時代にあっては通例である」■ (ニーチェ )

この言葉は昨年、沖縄タイムスと琉球新報の沖縄二紙が「11万人集会」で県民を扇動していた頃、何度も当日記で引用させてもらった。

沖縄二紙は、狂気に満ちたキャンペーンを張って、「県民大会」に反対するものは県民にあらず、といった狂気に県民を追い込んでいた。

職場等でも異論を吐くものは、「あいつはヤマトかぶれ」だと後ろ指を指されるような異常事態だったと知人の一人は当時を振り返る。

個人的にはごく常識的な人物が、一旦なんらかのグループに属すると往々にして狂気に走る。

そしてその背後に新聞の扇動がある。

そんな例は歴史を紐解けば枚挙に暇がないほどだ。

軍情報局から日本敗戦間近の情報を得ていたにも関わらず、朝日新聞は、終戦の前日の8月14日の社説で、従来の「国民扇動」の論調を変えることが出来ずに、「敵の非道を撃つ」といった勇ましい記事を垂れ流し続けていた。

 

■昭和19年12月の「県民大会」■

昭和19年の12月8日、「日米戦争決起大会」(県民大会)が沖縄の各地で行われていた。

その当時の沖縄の雰囲気も、今から考えると狂気に満ちたものといえるだろう。

大詔奉戴日といわれたその日の「沖縄新報」には次のような見出しが踊っていた。

けふ大詔奉戴日 軍民一如  叡慮に応え奉らん

一人十殺の闘魂  布かう滅敵待機の陣

終戦の8ヶ月も前の記事なので、「沖縄新報」が、朝日新聞のように、敗戦間近の情報は得ていた筈はないが、見出しと記事がやたらと県民を煽っていることが見て取れる。 

昭和19年12月の大詔奉戴日は、二ヶ月前の「10・10那覇大空襲」の後だけに、県庁、県食料営団、県農業会などの各民間団体が勇み立って、沖縄各地で関連行事(県民大会)を開催しているが様子が伺える。

ちなみに大詔奉戴日とは、日米開戦の日に日本各地の行政機関を中心に行われた開戦記念日のことを指し、真珠湾攻撃の翌月の1942年1月8日から、戦争の目的完遂を国民に浸透させるために、毎月8日が記念日とされた。

そして、同記事では「鬼畜米英」についても、各界のリーダーの談話を交えて、次のような大見出しを使っている。

米獣を衝く  暴戻と物量の敵を撃て

お題目で獣性偽装   野望達成で手段選ばぬ

泉県知事の談話なども記されているが、那覇市の各地で檄を飛ばしているのは軍人ではなく、民間団体の責任者である。

挺身活動へ  翼壮団長会議

県翼賛壮年団では、各郡団長会議の結果、団の強化を図り下部組織へ浸透を促し活発な挺身活動を開始することとなり幹部並びに団員の整備、部落常会との渾然一体化などを確立することに報道網をはって志気昂揚に全力をそそぐことになり、・・・>(沖縄新報 昭和20年12月8日)

当時の決起大会に参加した人の話によると、興奮して演壇上で「抜刀して」県民を扇動していたのは軍人ではなく民間人であったという。 

例えば座間味島の日本軍はこれに参加しておらず、那覇から帰島した村の三役から、那覇市での決起大会の状況を辛うじて知ることが出来たいう。

では、その頃、沖縄配備の第23軍は一体何をしていたのか。

 

■第32軍は県民疎開をどのように考えたか■

ウソも繰り返せば真実となり、根拠の無いスローガンも繰り返せば歴史となる。

連日沖縄の紙面で踊る、「日本軍は住民を守らない」

という左翼の主張は、昭和19年の夏から大本営と沖縄配備の第32軍が沖縄県民の安全を守るため、県や警察と協力し、県外疎開に必死の努力をしていたという歴史的事実には全く目をつぶった、「反日運動のために捏造されたスローガン」にすぎない。

戦時中といえども法律の下に行動する軍は、当時の日本の法の不備に悩まされていた。

日本は過去の戦争において常に戦場は国外であり、そのために昭和19年の第32軍沖縄配備の時点で、国民を強制的に疎開させる法律を備えていなかった。

ドイツやフランスのように国境が陸続きの大陸国では、戦争といえば国境を越えて侵入する敵軍を想定するが、四面を海に囲まれた海洋国家の日本では、敵の自国内侵入は海上での撃滅を想定しており、地上戦を考えた疎開に関する法律は整備されていなかった。

第32軍が沖縄に着任した昭和19年当時、

何と、戦時中であるにも関わらず当時の日本には、現在の平和な時代でも具備している「国民保護法」(平成16年6月18日 「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律」)に相当する法整備がなされていなかったのである。

そのような状況で沖縄防衛を任される第32軍が沖縄着任に先立って最も憂慮したのは、米軍の上陸により沖縄住民が戦火に巻き込まれることであった。

■県民疎開は大本営の発想■

昭和19年7月1日、大本営の後宮参謀次長は、関東軍司令部から参謀本部付きとなっていた長勇少将を特命により沖縄に派遣した。 その特命の目的は食糧不足のための兵糧の研究が表向きであったが、その他にもう一つの重要な任務を命じられていた。

同じ年の8月10日に第32軍司令官、牛島満中将が沖縄に着任するが、その一月前の7月1日に沖縄に着任し、長少将が真っ先に行ったのが住民の県外疎開調査のための県内視察であった。 

既に第32軍の参謀長を拝命していた長少将は、調査結果を第32軍司令官渡辺正夫中将(牛島司令官の前任)に報告し、司令官は陸軍省に県民の県外疎開について具申し、それを受けて7月7日に県民の県外疎開の閣議が決定される。

沖縄配備の第32軍は、長勇参謀長の沖縄着任(正式には昭和19年7月8日 )の一日前には、法整備の不備だった「県民の県外疎開」を着任前に閣議決定させるという素早い動きをしていたのだ。

大本営は米軍の沖縄上陸は必至と予測し、牛島満司令官着任の一ヶ月以上も前の昭和19年7月1日に長参謀長を沖縄に派遣したが、

これと連動した内務省防空総本部も救護課の川嶋三郎事務官を沖縄に派遣し、県民疎開の閣議決定の下準備をさせていたのだ。(「消えた沖縄」浦崎純著・1969年)

緊急閣議決定で法的根拠は得たが、第32軍の県外疎開の実施にはさまざまな困難が伴った。

今の時代で安易に想像し、軍が圧倒的権力で有無を言わせず県外疎開を命令し、実施したわけではなかった。

県民の県外疎開を管轄する政府機関は内務省防空総本部であった。

当時の法律では空襲に備えて県外疎開を強制することは防空法に規定があったが、

沖縄の場合のように地上戦に備えて非戦闘員を強制的に疎開させる法的権限は持っていなかったのだ。

当時の沖縄の状況は新聞の勇ましい扇動報道に乗せられた各民間団体の「軍人より軍人らしい民間人」の狂気が巷にあふれ、

県外疎開の必要性を説いても、それに真面目に耳を傾けるものは少数派で、県外疎開は卑怯者と後ろ指を指される有様だった。

県外疎開を民間人に直接命令する権限の無い第32軍は、民間人の安全を管轄する県に協力を求め、

県は警察の持つ組織力と機動力によることが最適と考え県外疎開の担当部署を警察部と定めた。

現在のような平和な時代の後知恵で、

「軍の命令は自分の親兄弟を殺害する」ほど圧倒的で不可避であったと「沖縄タイムス史観」は主張するが、

実際は軍隊は住民に直接命令をする権限を持たず、住民の安全を確保するための県外疎開にせも県や警察機構の協力を仰がなければ実行できなかったのである。

 

警察部長として県民の県内外の疎開に尽力し、最後は南部で戦死を遂げた荒井退造氏が、冒頭記事の荒井紀雄さん(写真)の父君である。

 

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本日公開 (宝味)
2021-03-07 15:07:00
■「米軍(アメリカ)を最も恐れる男 その名は、キンペイ」
■「北京(Beijing)を最も畏れる男 その名は、タマキン」

中共ウイルスの感染拡大という思いもよらぬ事態に見舞われた2020年、主流メディアの捏造や隠蔽で、選挙はいかようにもどこにでも連れて行かれることを改めて意識した。果たして、私たちは、どれだけこの教訓を学んだといえるか。米大統領選の出来事は決して昔話ではなく、すべて「いま」を問いかけている。

香港に刻まれた『生きろ』の言葉に見る絶望と希望。そして、臓器を取り巻いた人々やその家族、あの地獄を生き抜いた人々の証言などから、中共とは何か、かつて支那や朝鮮がどんな姿形をしていたのか、多くのものが見えてくる。

歴史は、そのまま今の私たちがいかにあるべきかを教えてくれている。「赤紙である朝日新聞は戦争を煽り、沖縄を鉄の暴風にさらした。戦後はギブミーチョコレートと言わんばかりに米国が与えた憲法から甘い汁を吸い、我が国を危険にさらしている」
沖縄から学童疎開の象徴は雷撃で撃沈の対馬丸。その、学童以外の乗客の身分を知りたい。マスコミが報じることがなかった。 (坂田)
2021-03-07 21:36:22
沖縄戦の結果ばかりが糺されるが、守備隊が大敗した経緯が根底に在ること。

結局、終戦を早めた原因が日本軍参謀本部の軍人勅諭に在ったこと。

参謀が死ぬことを兵に教示したが、戦闘では意に反して虜囚になることが必ず在る。

その際、虜囚兵が尋問にどう対応して良いか判らず、日本語が堪能な米軍将校の尋問に素直に“積極的に”答えてしまった。

その“自供”に苦悩して、後で自殺した将校が一人いたとのこと。

豪州収容所で尋問様子をレーコード記録していた。

NHK終戦番組で鮮明な録音を聴いた、尋問の米軍将校が日本兵に敬語を使っている。口調が穏やかで、供述に身を入れて“伺っている”姿勢で在る。

これなら、“安心して”しゃべってしまうわけさ。

この様にして、沖縄守備隊の全貌が侵攻前に丸裸にされていたこと。

だから、ガタルカナル島陥落の半分の月数で沖縄が落ちた。

それと、米軍の反撃開始の西太平洋島嶼戦闘第一号で在ったタラワ環礁、小島だから2時間で陥落の見積もりが征服まで2日間掛かったこと。

米軍死傷者が3300人と驚くべき被害で在った。

こんな小島で1000人も20歳前後の海兵隊員が戦死したなんて、本国の母親が知ったらどうなる。報道管制されて報道されなかった。

然も、降伏を勧告しても今さら無駄な万歳攻撃を仕掛けて玉砕を選んで来る。

米軍が悩んだのが「なぜ日本兵はたった一人の男のために死ねるのか」で在った。

結果、米国政府が結論付けたのが、日本軍参謀が軍人勅諭に武士道を導入したのが原因で在るとした。

武士道 例えそれが主の命令なら、主の目の前で割腹出来る覚悟を持った武士の矜持を現わします。

なお、島嶼戦闘で日本兵の骸を調べたとき、日本兵の独特で奇妙な癖が判ったこと。

一兵まで所持品に「手紙、写真、手帳、メモ紙、絵図、通達文、組織図、基地図解(武装、兵員、弾薬、兵坦の配置図)」機密情報を持っていたこと。

そして、日本兵虜囚の信頼に足りうる証言を基に沖縄守備隊陣容が侵攻前に判っていたこと。

それを基に、予め偵察機が本島の精密写真を撮り座標地図を作成していたこと。

座標地図 偵察写真に網の目を帖る、一つの升目ごとに縦ABCDE・横12345の番号(縦横180mの升目)を付したのが座標地図で在り、艦砲射撃は本島に先に上陸侵入した偵察部隊員の指令で座標番号に従い行う、正確だ。

陸自155mm榴弾砲射程30kmの照準、メモリ回転角度を一度カチッとずらすと着弾位置が1mずれる。艦砲と同じく曲射砲ですが精密着弾です。

砲撃地を指令する隠密の偵察部隊 陸上自衛隊にもいますよ。2名1組で大きな偵察機器を抱えて最前線に侵入配置に就く一番危険な任務隊員です。

そして、沖縄侵攻前に米海軍を悩ます特攻機の存在、これも米国デュポン財団が解決してくれた。

デュポンが世界初の近接信管付の砲弾を開発した。

製造を担ったのが軍需工場に動員されたヤンキー娘たちだった、その工場で組み立ての写真を見た。

近接信管 特攻機の半径10m圏内に近接したら感知起爆して、その破片で特攻機を壊す優れものだ。

この近接信管で特攻機が無力化された。特攻急降下に移るのが高度2000mで在るが、その2000mに下降した時点でみんな撃墜されてしまった。

この理由を日本政府が知ったのは戦後の進駐軍の耳打ちで在ったこと。現場の「不思議だ」の声が参謀本部に届かなかったのだろうか。

そして、インパール作戦失敗前からの参謀本部の不幸が追い打ちを掛けてしまったこと。

参謀本部の陣容が既に兵坦出自の将校が一人も居なくなっていたこと。参謀全員が現場叩き上げのイケイケドンドンの将校ばかりで在ったこと。

だから、困ったときの精神論で在る大和魂で行けが戦略と言うものにまかり通ってしまったこと。

沖縄地上戦でも参謀本部が足らぬところは大和魂で行けで在り、戦略がないから、最初から沖縄守備戦略が崩壊していたこと。

大和魂で行けと命令された現場、そこまで言われたら死ぬしかないだろう。

然も、結果が、非戦闘員の大量巻き添え死と来た。

然るに、地上戦終結後に牛島少将が死後に中将昇進していたこと。結果が大失敗なのに、なんで昇進させたのだろうか。

インパール敗戦もそうだった。一兵に渡されたのが小銃弾200発入りの一箱だけである。これで英国軍を駆逐しろと命じた。敗戦後の南方軍司令官が栄転したこと。無能な幹部も軒並み昇進した。

そうすることで、天皇陛下にインパールも沖縄戦も経緯を正しく上奏する責任から逃れた参謀の自己保身で在った。

その前から、軍法会議がなし崩しになり現場の人権がないがしろにされていたこと。作戦失敗の責任を糺す機関が日本軍から無くなってしまったこと。

今の自衛隊も世界の軍隊の中で唯一軍法会議がない摩訶不思議な軍隊で在ることを国民が知ろうともしない現実、不幸が繰り返される危険が在ること。

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