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 それでは、次に、常夜灯のあります鞆の港に向かいます。

 ◆常夜燈

 --- https://tomonoura.life/spot/12679/ 鞆物語 ---

 鞆港西側の雁木の南端に立つ常夜燈(とうろどう=燈籠塔)は、何と言っても鞆の浦の1番のシンボルです。「安政六年己未七月」(1859年)に建造されました。
 南に弓状の港を有する鞆の浦は多島海の天然の良港で、豊後・紀伊水道がぶつかる瀬戸内海の中央部に位置し、“潮待ちの港”として栄えました。
 1826年、オランダ商館の医師・シーボルトは『江戸参府紀行』の中で「活気に溢れた町」と記しています。その港町の海上安全を支えたのが、この常夜燈なのです。

 ・“海上闇夜東西を失いし時”の燈台―海上安全のために
 竿柱の南面に「金毘羅大権現」、北側に「当所祇園宮」の石額を掲げていて、海上安全の守護神に対する寄進燈籠という形式をとっています。
 1871年の公文書に「油一日五勺、燈しん一日五厘」とあり、当時は油(ニシン油)の燈火で海を照らしていました。
 ◇石額の文字―金毘羅さんも祇園さんも海上安全の神様なんです

 ・江戸時代の港湾施設5点セットの現存は奇跡的
 江戸期の港湾施設である常夜燈、雁木、波止場、焚場跡、船番所跡がほぼ完全な形で現存しているのは、全国でも鞆港だけなんです。
 ちなみにこの常夜燈は、海中の亀腹型石積まで含めると10mを越す大きさで、港の常夜燈としては日本一。瀬戸内の誇れる景観です。
 ◇威風堂々、常夜燈のある景観―これぞ鞆の浦

 ・鞆の浦にはもうひとつ常夜燈があった!?
 現在残る常夜燈は、太田家(当時は保命酒屋・中村家)がある西町が勧請して寄進したものです。対して、反対側の波止の先端には大坂屋が寄進した唐銅燈籠(からがねどうろう)が建っていたといいます。明治15年の水害で流されたもうひとつの幻の燈籠。
 ◇この湾を東西から挟むようにふたつの常夜燈が…ロマンですね

 「いろは丸展示館」前には、さすがに観光客が多いようでしたネ。

 ◆いろは丸展示館

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 いろは丸展示館(いろはまるてんじかん)は、広島県福山市鞆町にある、備後灘で1867年5月26日に起こったいろは丸と明光丸の衝突事件の概要を展示する博物館である。1989年(平成元年)7月に開設された。

 ・概要
 展示館は鞆の浦のシンボル「とうろどう」(常夜灯)のすぐ手前に位置する、「大蔵」と呼ばれる江戸時代築の土蔵(国の登録有形文化財)を利用している。
 同館では、慶応3年(1867年)に備後灘で沈んだ「いろは丸」の引き揚げ物などの関連資料を、沈没状況のジオラマとともに展示、紹介している。
 2階には坂本龍馬の隠れ部屋が再現されていて、高知県の造形作家・岡本驍(たけし)の作による等身大の龍馬の蝋人形が置かれている。
 地元の鞆酒造株式会社が運営している。

 ・展示内容
 沈没状況のジオラマ - 海底20mに眠るいろは丸の一部を原寸の70%で再現 壁面のイラスト、ジオラマの造形は高知県の造形作家・岡本驍(たけし)の作。
 いろは丸より引き揚げられた陶器や部品
 坂本龍馬の隠れ部屋ジオラマ(現実に滞在した邸宅の桝屋清右衛門宅も福山市鞆支所隣に現存し、公開されている。)手に万国航法を持ち鎮座するは、高知県の造形作家・岡本驍(たけし)の作による等身大の龍馬の蝋人形

 ◆鞆の港

 --- 福山市鞆町 ---

 瀬戸内の中央に位置する鞆は内海の潮の干満の分岐線にあたります。
 内海を航行する多くの船はこの潮に乗っての航法であったので「潮待ち」をここでおこないました。こうしたことが多くの伝説を生み、万葉集に歌われることとなり、中世から近世にかけて歴史上の舞台として度々登場してきたゆえんであるといわれています。
 この船着場の雁木は文化八年(1811年)に、常夜灯は(安政六年<1859年 再建>)に造られたもので、いずれも花崗岩製です。
 なお、船着場に臨む建物は背後の保命酒問屋旧中村家(県史跡鞆七卿落遺跡)に関連するものです。
 明治以降、鉄道の開通、汽船の就航等により「潮待ち」をする船もなくなってしまいましたが、今日でも、当時の港の活況を彷彿させる港湾施設がよく残っています。
 沖に突出する波止・常夜灯・雁木とよばれる階段状の船着場・港に面している豪商、廻船問屋とその土蔵等々、江戸時代の港町鞆の繁栄ぶりを示すものである。

 --- 2015年(平成27年)3月 福山市教育委員会 ---

 ◆太田家住宅・太田家住宅朝宗亭 鞆七卿落遺跡

 ・重要文化財 平成3年5月31日指定
 ・県史跡 昭和15年2月23日指定

 維新の夜明けも近い1863年(文久3年)8月18日、尊皇攘夷を主張する三条実美ら七人の公家は、公武合体派に追われ都落ちをしました。一行は、ここ旧「保命酒屋」に立ち寄り、その時、三条実美は、保命酒(竹の葉と表現)をたたえる和歌を残しました。主屋の太田家住宅と向いの別邸「朝宗亭」は、18世紀中頃~19世紀初期の建物であり、共に国の重要文化財に指定されています。
 『世にならす 鞆の港の竹の葉を 斯くて嘗むるも 珍しの世や』

 建物の2階軒先には「杉玉」が…別名 酒林(さかばやし)と呼ばれています。造り酒屋で新酒が醸造されると、緑の生き生きとした杉の葉で杉玉を造り、軒先に吊り下げて、新酒ができた事を知らせていたとの事です。

 ◆杉玉

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 杉玉(すぎたま、すぎだま)とは、スギの葉(穂先)を集めてボール状にした造形物。酒林(さかばやし)とも呼ばれる。日本酒の造り酒屋などの軒先に緑の杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを知らせる。「搾りを始めました」という意味である。

 ・概要

 <発祥>
 奈良県にあるお酒の神様を祭る大神神社の文化だったといわれる。大神神社では、毎年11月14日に「おいしいお酒ができるように」という願いを込めて杉玉を飾ってきたが、その習慣が江戸時代初頭から全国の酒蔵へ広まった。大神神社がある三輪山周辺にはスギが多く自生し、三輪山のスギは聖なるものとされているため、スギを使った杉玉ができたとされている。本来は三輪山のスギで作られた杉玉を飾ることが習わしだったが、現在では各地の酒蔵が独自に製造したり、業者に依頼して作っていることが多い。

 <意味>
 杉玉はおおむね2月~3月に飾られるが、この時期は新酒の季節であり、杉玉には「今年も新酒ができましたよ」という目印になる。吊るされたばかりの杉玉はまだ蒼々としているが、やがて枯れて茶色がかってくる。緑色(2月~6月頃)は新酒の季節、薄い緑(初夏~夏頃)は夏酒、枯れた茶色(秋頃)はひやおろしの季節というように、日本酒造りの時期と杉玉の色は同調しており、杉玉の色の変化がまた人々に、新酒の熟成の具合を伝える。

 今日では、酒屋の看板のように受け取られがちであるが、元々は酒の神様に感謝を捧げるものであったとされる。
 俗に一休宗純の作とされるうた「極楽は何処の里と思ひしに杉葉立てたる又六が門」は、杉玉をうたったものである。
 スギの葉は酒の腐敗をなおすからスギの葉をつるすという説もある。

 …と、こんな「杉玉」であります。
 残念ながらGONsanは、吊るされたばかりの、まだ蒼々としている杉玉は眼にした事はありませんネ(^-^;
 それでは、鞆の港を眺めながら雁木沿いに進み、次は、「円福寺」に向かってみます事に(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)