ミスリードもりもりの作品。
単純に騙されたのが冒頭の投身自殺だか事故だかと、母性についての記事を追う教師。
途中で気づくまではまんまと術中にハマっていた。
ラストは一応大団円。
だけどほんとかな?腑に落ちないな。あれはあれでいいの?
思いながら読んだあとがきでやっとすっきりした。
あとがきが素晴らしい。頭弱な読者にやさしい解説。
これは「信用できない語り手」のミステリーとして読めばいいわけね。
それならわかる。
わかる、というか、いくつかの解釈が許されるってことだと思う。
芥川龍之介『藪の中』同様に、語り手は真実を語っているつもりかもしれないし、言うこと言わないことを取捨選択しているかもしれないし、嘘をついているかもしれない。
そう思ってまた読むと面白い。
あとがきを読んでからの再読で二度美味しくいただけた。
残酷な二択問題が出てくる。
倒れた箪笥の下敷きには母親と娘。
燃え盛る炎が迫る。ルミ子は母親を助けたい。
祖母である母親は孫に生き残って欲しい。
「やめて。やめなさい。どうしてお母さんの言うことがわからないの。親なら子どもを助けなさい」
「イヤよ、イヤ。私はお母さんを助けたいの。子どもなんてまた産めるじゃない」
ルネサンスの女傑カテリーナ・スフォルツァの逸話を思い出した。
ジローラモが暗殺された際のエピソード(伝説?)は有名である。カテリーナと子どもたちは城外で反乱側に捕えられた。しかし、城の守備隊は降伏しなかった。そこでカテリーナは反乱側には守備隊を説得してくると言って、子どもたちを残し城に入っていった。彼女が城に入ったまま出てこないので、反乱側は人質の子どもたちを殺すと脅した。すると、カテリーナは城館の屋上に立ってスカートを捲り上げると「子どもなどここからいくらでも出てくる」と叫んだのだった。これには反乱側もあっけに取られた。やがて援軍が到着し、反乱は鎮圧された(ただし実際に城壁の上でスカートを捲り上げたかは疑問も残る。城壁の上からでは反乱軍まで声が届くはずがなく、また逆に弓矢で射られる可能性もあるためである)。
カテリーナ・スフォルツァ Wikipedia
言うほど「子どもなどここからいくらでも出てくる」ものでも「いくらでも産める」ものでもないホモ・サピエンスとしては、(種の繁栄を考えたら)できる限り子ども優先して生かす方がいいと思う。物語の主題とは関係ないけど。
鬼子母神の逸話の如く、子どもが何人いようとそのうちの1人だって失って平気な母親はいない、というのが‘母性’の通説ではあるけれど、理想論でもある。
夜叉毘沙門天(クベーラ)の部下の武将八大夜叉大将(パーンチカ、散支夜叉、半支迦薬叉王)の妻で、500人(一説には千人または1万人)の子の母であったが、これらの子を育てるだけの栄養をつけるために人間の子を捕えて食べていた。そのため多くの人間から恐れられていた。 それを見かねた釈迦は、彼女が最も愛していた末子のピンガラ(嬪伽羅、氷迦羅、畢哩孕迦)を乞食(こつじき)に用いる鉢に隠した。彼女は半狂乱となって世界中を7日間駆け抜け探し回ったが発見するには至らず、助けを求めて釈迦に縋ることとなる。 そこで釈迦は、「多くの子を持ちながら一人を失っただけでお前はそれだけ嘆き悲しんでいる。それなら、ただ一人の子を失う親の苦しみはいかほどであろうか。」と諭し、鬼子母神が教えを請うと、「戒を受け、人々をおびやかすのをやめなさい、そうすればすぐにピンガラに会えるだろう」と言った。彼女が承諾し、三宝に帰依すると、釈迦は隠していた子を戻した。
鬼子母神 Wikipedia
ルミ子の“愛能うかぎり大切に育て”たというのは間違っていない。
“能うかぎり”の限度ギリギリまで愛していたと思う。
“無償の愛”が注げなかったとしても“能うかぎり”は。
祖母(無償の愛)ールミ子ー清佳ーお腹の赤ちゃんと続く『母と娘』の物語。
ルミ子と清佳はおばあちゃんを「無償の愛をくれた人」と認識していたけれど、本当に無償だっただろうか。
ルミ子は自分を母親の分身だと思うほど、母親離れできない娘だった。自分が清佳を産んで母になっても、娘として母親の方ばかり見ていた。
清佳は自分に関心の薄い母親ルミ子より、優しい祖母に素直になれた。懐いていた。おばあちゃんが大好きだった。
無償の愛の人は、娘からも孫娘からも絶大な愛情と献身を浴びていた。
あれだけ優しくされれば、認めてもらえば、与えるのも容易い。
ルミ子は清佳を愛していなかったわけじゃない。
清佳もルミ子を愛していなかったわけじゃない。
それぞれのやり方で愛情を表現していた。
愛されたい、褒められたい、優しくしてほしいと切望して。
ただ、ふたりの思いはすれ違い、投げかけられた愛情はどちらも一方通行だった。
愛しているのに愛されないと絶望していた。
私はこんなにも愛しているのに。
わたしはこんなにも愛を求めているのに。
すれ違ったまま、清佳は母親になろうとしている。
「愛能うかぎり」とは口にせず、愛して、愛して、愛して……わたしのすべてを捧げようと思っている。
方向は違うけど、「母と娘」だけしかいない世界で愛にがんじがらめではどうしたって息苦しいんじゃなかろうか。
すべてを捧げようなんて思わず、母でも娘でもない自分の部分で我が儘なくらいが、お腹の赤ちゃんだって気楽に生きていけるんじゃないかな。
読んだ人それぞれの解釈がゆるされる作品だと思う。
真相はどうなのか、みなさんも読んで、考えてみてほしい。
わたしなりの謎解きは↓リブログ元に記してあります。
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