東京は緊急事態宣言下にありますけれど、いったん都県境を越えますと様相が異なりますな。
埼玉県もさいたま市ほかが蔓防の該当区域に入っているわけですが、
宣言との違いは休業要請の対象施設が異なっていることでもあり、美術館は開いているようで。
といって、のこのこ埼玉へ出かけてきたというのではなくして、これも緊急事態以前の在庫蔵出し、
うらわ美術館で開催中の「ミュシャ グラフィック・バラエティ」展を思い返してのお話でなのありますよ。
ミュシャ作品に目をとめるのは、1年半くらい前に大阪の堺アルフォンス・ミュシャ館を訪ねて以来でしょうか。
今回の展覧会でも、堺アルフォンス・ミュシャ館は展示協力しているようですなあ。
その他各所の協力も得て、思いのほか展示点数が多いなと思いましたですよ。
取り分けミュシャの作品をあしらった商業デザインといいますか、ビスケット缶やら香水瓶のラベルやら、
こまごましたものも含めて実にたくさんの製品にミュシャの図像が使われておりまして、
香水瓶のようなものは印象としてミュシャの絵との親和性があるようにも思いところながら、
食料品などの場合にはともすると、仮面ライダー・スナック状態になっていたかも。
(つまりおまけのカード欲しさに購入するも、スナック菓子自体は捨てられてしまうといったような…)
それだけミュシャ作品の人気、注目度が高かったことの証でもあろうと思いますですね。
街なかにポスターが貼られると、剥がされて持って行かれてしまうようなこともあったでしょうから、
それならミュシャ作品で飾られたものを端から販売すればいいとは誰しも考え付くところでしょうから。
とまあ、かようにパリで一世風靡したミュシャですけれど、今回の展示でその生涯をなぞったときに
転機は2度あったのだなあと気付かされたのですね。1894年と1908年です。
1894年には、パリに出てなかなか芽の出ないままに過ごしていたミュシャに
サラ・ベルナール主演作「ジスモンダ」の宣伝ポスターの依頼があったのですな。
(ミュシャに、といっても実際には印刷所への依頼であったわけですが)
ともあれ貼り出されて話題となるのが翌1895年、サラ自身も気に入って、
本人じきじきに6年契約を結ぶことになるのですから、1895年をこそ転機というべきかもしれませんですが。
その後のミュシャの活躍はいかにもミュシャと思しき図像の数々に見てとれますので、それはそれとして、
やがて人気は大西洋を越えてアメリカにも及び、ミュシャはアメリカに招かれることに。
1906年にはシカゴの美術研究所の講師ともなったそうな。
で、そうしたアメリカ滞在中の1908年、ミュシャはボストン交響楽団の演奏会を聴きに行く。
演目はスメタナ作曲の「我が祖国」であったということです。
予て祖国ボヘミアを意識した作品作りを考えていたミュシャにとって、
この曲が大作「スラヴ叙事詩」の制作に、大いに背中を押すことになったとなれば、転機ですなあ。
かつて人気を博した流れるような女性像ではなくして、
その後の作品には突き刺すような鋭いまなざしを持つ少女が描かれたりしているのは
作品でもって知られているとおりですが、見た目でいえば大いなる変貌を遂げたようにも。
ただ、ミュシャ自身の中にスラヴ叙事詩的なる作風の萌芽は眠ってはいても確かに存在し、
一般受けを意識したそれ以前の作風はテクニカルな巧さの発露であったのかも。
眠っていたものを揺り動かしたスメタナの、というより音楽そのものの力を感じたりするところでありますよ。
ところで、ミュシャの愛国心はボヘミア、その後のチェコの国への貢献という形でも現れておりまして、
紙幣や郵便切手にもミュシャの描いた絵柄が使われているとか。
お札の方は女性像ながら、切手はとても小さい普通切手で、描かれているのはお城だったり。
ミュシャが描いたことを知らされなければ、およそスルーしそうな地味な作品ですけれど、
そんなことにも厭わず取り組んだのでありましょうか。
数々の制作物の展示は、なるほどグラフィック・バラエティであるなと思った展覧会なのでありました。