しばらく前にDiscovery Channelで放送された『プラスチック物語 地球の危機との闘い』というドキュメンタリーは、予て海洋汚染だけに留まらないプラごみのありさまを気にかけていただけに、想像を上回る量が大洋を漂っていることが見てとれたのですなあ。それらは海を漂うばかりか、波に揺られて陸地にも到達するわけですけれど、例えばフィリピン、例えばインドネシア、そういった地域で沿岸部一帯に夥しくまとわりついたプラごみの数々は、どうしたってこのままでいいとは思えない現実を突きつけていたりもするのですよね。

 

日常的に使うモノや食品などなど、どれもこれもプラ包装がされており、買ってきたとたんにこれを破って中身をとりだし、包装材は全てゴミになるということが世界中で行われているわけです。リサイクルの名の下に分別をするのはもはや当たり前にもなってきていますけれど、その分別の仕方はかなりその人任せで、ゴミ処理場で受け入れる側としては、結局のところ改めて分別しなおさなくてはならない。と言いますのも、例えばガラス瓶やアルミ缶のように、リサイクルの結果として元のままの瓶や缶に生まれ変わるものとプラスチックは完全に異なるからでありますね。質的に劣化して全く別ものに生まれ変わるプラスチック。結局その後は埋め立てるか燃やすしかなくなり、燃やしても有害物質を放出して小さくはなるものの決して土に還ることはない…。

 

こうしたことを見聞きするたびに「できるだけプラごみはでないように…」と思えど、スーパーに行けば日々に使うものはおよそその全てがプラにくるまれて、選択の余地もない現実に打ちのめされたりもするのですよね。やっぱり作っている側が変わってくれないと…と他人のところにボールを投げて、漠と毎日を過ごしていく。噫…。

 

とまあ、そんなことに思い巡らしたりしておりました折も折、昨日放送(再放送ですね)のEテレ『サイエンスZERO』で取り上げていたのは「“宇宙のゴミ”スペースデブリに挑め」と。「デブリ」という言葉は、福島第一原発の廃炉処理に関わってよく耳にするところとなっていますけれど、「スペースデブリ」なんつう言い方もあったのですなあ。これがいわゆる「宇宙ごみ」であるとは?!です。

 

予て「もしかしたら…」とは僅かながらも疑問に思っていたことが、「やっぱり…」であったことが番組では紹介されておりましたですね。例えば宇宙探査のために打ち上げた探査機が遠く遠く旅をして遥か彼方の星の映像を送ってきたりするわけですが、結局こうした探査機は遠く行き過ぎて、役目を終えれば果ての知れない宇宙空間をひたすら漂う存在になっていくのでよね。これって、海は懐深いのだから多少のゴミを捨てても差支えなかろうてな思いと同じなんではと、常々思っていたわけでして。

 

遥か遠くであればまだ現実的な影響はありませんけれど、もそっと近しいところ、地球をぐるぐる回る衛星軌道上に実はたくさんのスペースデブリがある(細かく数えれば億単位にもなるようで)となれば、先に見た、プラごみに埋め尽くされたフィリピンの海岸線を思い浮かべてもしまうのでありますよ。ただ、スペースデブリの何がよろしくないのかとなりますと、現役で使われている衛星にぶつかって不具合を引き起こしたりすることにもなるようで。国際宇宙ステーションのように大きなものは、スペースデブリの的になりやすいようですね。宇宙飛行士の野口さんが「やば!」という実体験を語っておりました。

 

地球上にあって、今の生活は何くれとなく衛星のお世話になっておりますなあ。通信も衛星、カーナビも衛星、お天気も衛星といった具合に。衛星も機械ですのでやがては交換となって、新しいものが打ち上げられることで、地球上でヒトさらに便利になる…のですけれど、役目を終えた衛星は?…。大気圏に突入して燃え尽きてしまうものもありましょうけれど、軌道上をすさまじい速さでぐるぐる回り続けるものも数多ということで。

 

結局のところ、人間に便利だからと言っていてはなくならないのは海のゴミも宇宙のゴミも同じように思えましたなあ。こうして、インターネットを利用していること自体が衛星のお世話になっている。キーボードを叩きながらドリップパックのコーヒーを飲むごとにプラごみが生じる。どうすりゃいいのさ思案橋…と往年のムード歌謡の一節を口ずさんでお茶を濁すにしかないのでありましょうか。いやはや何とも悩ましく思う今日この頃でありますよ。