先に『倭国の古代学』を読んで、日本の古代は分からないところばかりであって、だからきっと面白いのでもあろうかと思ったところでして。いろいろと想像を巡らせる余地があるからで、小説家であればその想像をさらに逞しくして物語にしてしまうこともできましょうけれど、学者の方々はそうはいかない。史料を批判的に見つめることで、「果たしてこうであると言えるか」を詳細に検討せねばならんのでしょから。

 

とはいっても、どうしても思いついたことを補強する方向で史料を読んだりしてしまうこともあるようで、学説の変遷などにそうしたところが垣間見られもしますし、また現に都合よい?陥穽に落ち込んでしまうこともあるのでしょう。とかく謎多き存在として取り上げられる継体天皇の出自などについては以前にも『謎の大王 継体天皇』、『継体天皇と朝鮮半島の謎』の2冊を読んだりしましたけれど、改めて別の見方があろうかとこのほど手に取ったのが『継体天皇と即位の謎(新装版)』なのでありました。

 

 

「謎が多い」ということはいろいろと想像を巡らせたくなるところでしょうし、学術的には研究の余地ありということになりましょう。本書の後ろの方には、継体天皇の出自や即位のプロセスに関する説が数多展開されていることが紹介されておりますけれど、それも戦後の話…とはずいぶんと最近でもあるような。まあ、言われてみればなるほどですけれど、戦中・戦前に万世一系の皇統への疑義をさしはさむようなことは思いついたとしても口にすることはできなかったでしょうから。

 

それだけに、当初出てきた説は地方豪族による王家簒奪てな話でもあったようで。いわゆる『記紀』は継体以降の皇統によって編纂されたものですから、その正統性を応神五世孫という系譜の中に示して「一系」感を醸しているとなれば、もっとも想像を飛躍させた形が王家簒奪とも言えましょう。ただ、これはやはり想像の域を出ないところでして、かといって応神五世孫ということが確かなのだとも言い切れず。そのあたりは、新しく文字情報の得られる考古史料でも出土しない限り、確かめようがないことなのかもです。

 

そんな中でもっぱら展開されるのは文献解釈ということになりまして、どれのどの部分に信憑性ありと判断し、何のどこに偽り(後世のつじつま合わせとか)ありとするのか、意見が分かれるところなのですなあ。地方出?の継体を即位させるに影響力を発揮した氏族として、古代近江に勢力をもっていた息長(おきなが)氏に求める説もあれば、本書のようにそれに疑義を呈するものもあるわけで。

 

ただ、継体天皇は近江で生まれ、越前で育ったとされて、ともすると大王位に担ぎ出されるまで大和中央とは無縁であったと言われることが多いところながら、すでに仁賢天皇の時代には大和・意柴沙加宮(忍坂宮)にあって朝鮮半島外交などの一翼を担っていたと見ることもできるようで。なんとなれば、継体の父系はそもそも摂津に拠点があり、近江やまして越前のように中央から決して遠からぬ場所に勢力があったとも。

 

摂津高槻にある今城塚古墳が今では継体天皇の王墓であると学術的にはほぼほぼ認識されていて、近くにある太田茶臼山古墳(これを宮内庁では今でも継体天皇陵として管理しているようですが)を継体の父・彦主人王の墓(また別説として曾祖父・意富富杼王の墓)と見ることは、先の説と大いに関わるところでもあるわけですね。

 

継体天皇は即位後20年ほども大和の中央部に入れずに、その北西辺で遷宮を繰り返しながら遠巻きにようすを窺っているふうであるのも、父祖の勢力が摂州にあったとなれば、そうかもしれんなあと思ったりもしようかと(なぜ中央に進出できなかったのか?はともかくも…)。

 

という具合に多くの学者が侃々諤々、自説を展開しているあたり、素人でも想像を逞しくできそうな気がして(何も根拠はありませんが)、興味深いところなだけにちと今城塚古墳を訪ねてまいろうかと算段しつつ読んでおりましたよ。以前、久しぶりの「ひとり旅を8月のあたまに目論んでいる」てなことを申しておりましたが、それがこの目論見であったわけで、日々コロナの蔓延状況を気に掛けつつ、出かけるかやめるかを考えておりましたが、とりあえず今回は自主規制的に延期することに。ちと波をやり過ごしてからそのうちに、ということで(残念…)。