訪ねてみようと考えておりました今城塚古墳は大阪・高槻市にあるわけですけれど、高槻といえば…(と、思い浮かぶところはひとそれぞれながら)やはり高山右近ですなあ。キリシタン大名として知られる右近が高槻城の主であった時期には信長時代の安土に造られていたセミナリヨ(神学校でしょうか)を高槻にもってくるなど、信仰心の強さが伺えるも今の高槻に何かしらの痕跡を留めておりましょうか。そのあたりのことも出かけた先で…と考えておったような次第。で、その縁ともすべく、加賀乙彦の『高山右近』を読み進めておったようなわけなのですなあ。

 

 

ハードカバー版の本書についていた腰巻には「激動の戦国時代を揺るぎない信の道で貫いた高潔のキリシタン大名の生涯」とありましたけれど、フォーカスされているのはもっぱら後半生でして、キリスト教禁教を受けて明石六万石の領主から一転、流浪の人となった右近が加賀前田家に身を寄せて以降のお話でしたですね。いわゆる戦国大名として戦いに明け暮れていた時代のことは、時折振り返る回想場面のように出てくるだけでありますよ。

 

作者自身がキリスト者であるせいか、ここでの高山右近は極めて禁欲的で信仰一途の人ととして描かれていますけれど、高槻城主であったときには先にも触れたようにセミナリヨを設けるなどのキリスト教信仰のあまり、神社仏閣をないがしろにしたような一面があったことがWikipediaなどに紹介されていますけれど、信仰に対してもこのような熱はすでに失われて、内省する日々を送るようになっていたようで。

 

やがて、時代の主は秀吉から家康へと移りますけれど、キリスト教を禁教としてこれの撲滅を図るのは秀吉同様か、それ以上。結局のところ、加賀前田家からも立ち退かざるを得ず、京・大阪、長崎を経由して最終的にはマニラへと追放されることになってしまいます。ただ、大名として知られた人物なだけに、信仰のほどは広く知られているも、これを捨てよと拷問して強く迫るようなこと(一般庶民には多々行われていたことながら)無しに、国外へ追放となるのは、せめても配慮?だったのでありましょうかね。

 

同時期のキリシタン大名は他にもいるわけですが、天正遣欧使節を送り出した大友・大村・有馬の各家も息子に代替わりするといずれも棄教して、むしろキリシタン弾圧に転じたりもしていることを示されますと、右近の一途さがなおのこと際立ってもくるような。されど、こうしたことに素直に関心しかねてしまうのは、昨今どうも宗教への妄信が招く悲劇的な側面がマスコミを通じて巷間広く伝えられてきたりしていたせいでもあろうかと。「一途」の危うさをどうしても考えてしまうわけで…。

 

キリスト者としての右近の信仰を、いわゆるカルト的なるものと同列に捉えるのは「違うだろうなあ」とはいえ、人生後半生の右近がたどった流転は、ひたすらに神の元に行くこと、つまりは殉教することをこいねがうことで耐えていけたところもあるわけで、この忘我境とも言えるようなところに籠る頑なさといいますか、そして宗教の教えの側がそれをあたかもよいことのように導くとなれば、「うむむ…」と思うのは止む無しではなかろうかと。

 

同じキリスト教とはいえ、当時大航海時代のスペイン・ポルトガルが十字架を掲げて各地に出向き、現地の人たちの蒙を啓くかのような臨み方をしていたのとは、現代のキリスト教のありようは変わってもいるとは思いますけれど、こと宗教一般に「一途」さを求めるところに代わりはないような気もしますし。

 

しばらく前に読んだ和田竜『村上海賊の娘』では信長の本願寺攻めを扱っていましたけれど、もはや「極楽往生」しか念頭になくなった本願寺門徒たちの自らの身を全く顧みない戦いぶりに信長方は苦戦させられるのでして、ここでも人間の危ういところを思わざるを得ない。ついでにさらに不穏当かもしれないことを言えば、ナチス下のドイツの人々の熱狂もまた、似たものを感じたりするところです。「酔っている」とも言えるのでしょうなあ。

 

全くちなみにですけれど、本作の作者・加賀乙彦はキリスト者であると言いましたですが、これは遠藤周作の影響でもあるようで。遠藤が本格的に信仰を広めようとしていたわけでもなかろうとは、その著作に見る逡巡ぐあいを見ても想像されるところながら、一方で他者を改宗させる影響力もあったのですな。あたかも高山右近が黒田官兵衛や蒲生氏郷らをキリシタンに導いたように…といっては飛躍しすぎでしょうけれどね。

 

と、遠藤周作を引き合いに出したついでですが、加賀乙彦が(遠藤の影響はあったにせよ)自らの判断で自覚的にキリスト者となったのに対して、遠藤自身は自覚以前にすでにキリスト者になっていたのであって、これは自らよく語っていたようにサイズの合わない服を常に着せられているような違和感が抱いていたわけですが、加賀にはそうした煩悶、懊悩が無い分、キリスト教を「善きもの」として扱ってしまうところがあるのかもしれません。この一冊にも、そうした部分はあるのかもしれませんですね。

 


 

 

…というところで、また少々の間、山梨・小淵沢のアパートに退避することに。大阪・高槻行きを見送っておきながらなんですが、暑さ逃れはもとよりのこととして、明日(8/6)から近所で空き家の解体工事が行われることになっており、暑いに加えてうるさいとなれば、いっとき避難もしたくなるというわけでして。戻りの日を決めてはおらないものですから、取り敢えず来週の週なかくらいまで無沙汰をいたすことになろうかということで。ではでは、また後日に。