さてと、大阪・高槻市を時に自転車で走り抜け、時にゆらゆらと歩き周り、見聞きのあれこれを記してまいりましたですが、ようやっと終わりが見えてきました。で、ここでは高槻市のお隣、茨木市に足を延ばして出かけたところのお話でありますよ(といって、すでに自転車で訪ねた太田茶臼山古墳は茨木市だったわけですが…)。

 

まずは阪急京都線でもって高槻市駅からは特急(といっても、特急料金などありませんけれど)でひと駅お隣の茨木駅へ。こういっては何ですが、阪急の駅周辺だけの比較で言いますと、茨木市駅の方は何となく地味というか。印象としては高槻市駅近辺の方が、まだ些かの垢抜け感があったようにも思うところですが、全くの私見でありますよ。

 

ともあれ、目的地までは駅から歩いて15分ほど。駅前ロータリーからまっすぐ西へ向かってしばしのち、直交する通りを右折、北上するのですが、この北上ルートを「川端通り」と言うのだそうな。

 

 

奥に見える木立が緑地公園になっているのですけれど、かつて茨木川という川筋が今では細長い緑地となっているのであると。帰りがけには緑地内を歩いてみたですが、川だったというわりには周囲よりも高さがあるようでもあり、「こりゃあ、天井川だったのでは…?」とブラタモリ的な印象を得たのですな。実際に天井川だった茨木川は氾濫を繰り返して(何しろ水面が高いのですから)いたため、もそっと上流で安威川に合流させる付け替え工事が行われて、この部分は廃川となったということでありますよ。

 

と、かつてにせよ、川の端に沿った道だから「川端通り」であるのか、はたまた目指していた施設に関係があるのか。たどりついた目的の場所はかような建物であったわけでして。その名も茨木市立川端康成文学館と。

 

 

文豪・川端康成が大阪の人であった…とはほとんど意識していなかったものの、大阪市内で生まれた川端は両親と早くに死に別れ、現在の茨木市にあたるところに住まいしていた祖父の元で旧制茨木中学(今の高校ですな)卒業までを過ごしたのだとか。ま、そういうことなれば、茨木市にゆかりの文学館があっても不思議は無いとなりましょうかね。入口前にある石碑には、川端が幼少期から少年期を過ごした茨木を回想した一文が彫り込まれておりましたよ。

 

私の村は現在茨木市にはいってゐる、京都と大阪との中間の山裾の農村で、その山を深くはいれば丹波である。村の景色に藝はないけれども 近くに「伊勢物語」や「徒然草」に書かれた所がある。藤原鎌足の遺蹟も隣り村にある。 川端康成 随筆『茨木市で』より

ちなみに最後のくだりは、阿武山古墳(あのやまこふん)のことでありましょう。太田茶臼山古墳の北方の山中に造られた7世紀中ごろの円墳でして、発掘によって墓室内の棺から見つかった人骨は「60歳前後の男性とみられており、大化の改新で活躍し、大織冠の位を授けられた藤原(中臣)鎌足と考える説が有力です」と、今城塚古代歴史館での説明にはありましたなあ。

 

もちろん、人骨から推定される年齢・性別だけで被葬者が想定されているわけではありませんで、墓室内は漆喰で仕上げられ、棺は麻布を漆で塗り固めた夾紵棺(きょうちょかん)、副葬品として「華やかな錦の断片や玉枕、金糸の刺繍がほどこされた冠帽の残片が、みつか」ったという豪華さの故でもありましょう。

 

 

その冠帽の復元品が今城塚古代歴史館に展示されておりましたですが、中大兄皇子とともに「入鹿はいるか?」(笑)とばかりに押し入って蘇我入鹿を暗殺した乙巳の変の後、権力を極めた鎌足は、栄華の最中にかような帽子を被っていたのですなあ。今回は阿武山古墳まで足を伸ばせなかったのは、いささか心残りではありましたよ。

 

と、どうも話がすっかり川端先生から離れてしまいましたですね。ですので、茨木市立川端康成文学館での見聞はこの次に記すことにいたしましょうかね。