前々から気になっていたドキュメンタリー映画であったものの、何せ3時間半近い長尺ものだけに常日頃は「どうしようかなあ…」と。さりながら、図書館関連本の『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』という一冊を読んだところでもありますので、いよいよ思い切って(笑)。『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』という一作ですが、ちなみに「エクス・リブリス」とはラテン語由来で「蔵書票」のことだそうですな。

 

 

ドキュメンタリーですので、ひたすらにニューヨークの図書館で行われているさまざまなことを写し取っているわけですけれど、ここでまた日本の、というか近所の市立図書館(しかも分館ですが…)を思い浮かべてみますと、貸出・返却(英語ではこれをチェックアウト・チェックインというようですな)の受付、新蔵書あるいは返却図書の配架くらいしかないんでないの…と思ってしまうところながら、冒頭に登場するのはレファレンス・サービスのようす。やはり図書館の大きな役割のひとつが機能しているのであるなと思い知ったような次第です。

 

今やインターネットを通じてたいていのことは調べられると思ったりするものの、どうやらちょこっとネットで検索すればいいてな話はないようっですなあ、レファレンスの真髄は。思い出してみれば先に読んだ校正にまつわる『文にあたる』の著者は校正者となる以前には図書館に勤務していたそうで、レファレンスに寄せられた問い合わせの一端を回想していましたけれど、その問い合わせというのが「男はタフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない」という一文の出典を尋ねるものであったというのですなあ。

 

常識的には(と、これがいかに思い込みであるかはすぐに思い知らされるのですが)レイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説で主人公の私立探偵フィリップ・マーロウが吐いたひと言ではないか、おしまい!となるところが、調べてみればそうではないようで。最終的には角川映画が映画『野生の証明』のキャッチコピーとして作り出したものであると。もちろん、そのヒントとなったのはチャンドラーの小説『プレイバック』なのですけれど、都合よく改変されていて、『プレイバック』を初めて邦訳した翻訳家に言わせると、訳語としては小説の含みとはニュアンスが異なる…てな指摘が掲載された本が見つかったりもしたのであるという。いやはや、裏をとることは簡単ではありませんですね。

 

と、話が脱線しましたですが、ニューヨークの図書館(とその数々の専門性ある分館を含めて)で展開する数々のイベントは、図書館の本質は奈辺にありやと考えさせられるものであったのですな。かつてはもっぱらに書籍を通じて情報にアクセスしていたわけで、その公共的な器として図書館がある。今でも当然に書籍は大事なものではありますけれど、情報へのアクセスはもはやデータ化されてもいる。そうなると、単に本を開くというのではない方法が必要になる。従来とは異なるリテラシーが必要になるわけで、そうしたリテラシー教育といったものも図書館が担っている上、インターネット環境が自前で用意できない人ように機材の貸出まで行っているとは。

 

さらには、イベントと開催される内容が実に多岐にわたっていて、作家を招いた講演会あたりは当然として、PC教室、音楽会、ダンス・レッスン、さらには就職の世話まで、日本で考える図書館の常識(?)を大きく覆すものがたくさん実施されているわけです。背景としては、ひとえに今の社会を生きていくために当然に必要なあれこれに関する情報提供を一手に引き受けましょうという姿勢ですかね。ともするとレクリエーションでないの…と思えるものも、結局とところそれを切り口にものごと深く知る、リベラル・アーツの涵養が図られるということになりましょうか。「NYPL=New York Public Library(ニューヨーク公立図書館)」の「パブリック」の意味合いが上っ面でないことに思いを致すところではなかろうかと。

 

ただ、「パブリック」であるが故に基本的にはニューヨーク市から財政支出で予算が組まれるものの、それだけでは絶対的に足りないとして、民間から寄付をいかに集めるかにも腐心している。これも図書館の使命を全うするための重要な仕事であるというのですね。前提に寄付文化が根付いていることはあるにせよ、日本の図書館には無い発想でしょうなあ。とにもかくにも、刺激的なドキュメンタリーでありましたですよ。図書館のイメージが変わること、必定です。