太田述正コラム#11239(2020.4.20)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第一章等』を読む(その20)>(2020.7.11公開)

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[ウジ(氏)とイエ(家)]

〇ウジ

 「日本の古代における氏(うじ、ウジ)とは、男系祖先を同じくする同族集団、すなわち氏族を指す。家々は氏を単位として結合し、土着の政治的集団となった。さらに、ヤマト王権(大和朝廷)が形成されると、朝廷を支え、朝廷に仕える父系血縁集団として、氏姓(うじかばね)制度により姓氏(せいし)へと統合再編され、支配階級の構成単位となった。・・・
 婚姻によって本来所属していた家族集団とは違う氏に属する家族集団に移ったとしても氏を変えることはなかった。・・・ただし養子縁組の場合はケースバイケースであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%8F

〇イエ

 「平安時代の貴族や武士では、血縁集団を区別するための氏(ウジ)とは別に、家族集団を区別するために家名ないし苗字を名乗るようになり、それが一般的に通用するようになる。・・・
 姓(氏)と名字(苗字)との違いは、姓=氏が天皇(朝廷)から賜ったものであるのに対し、名字は自らが名乗ったものであるということである。例えば、足利尊氏の場合、姓(氏)の「源」を使った場合は「源尊氏」であるのに対し、名字(苗字)の「足利」を使った場合は「足利尊氏」である。」(上掲)

⇒以上は、通説であるところの、「日本<の>・・・古代は「妻問婚」などの母系社会だった<が、>・・・主に長男である家長が家族を管理する家父長制ができたのは、律令制施行の影響があったと言われている。それが、「手柄を立てた者とその子ども」を重用する武家のシステムと合わさり、結果的に「父系の血統」が重視されるようになった。そして庶民に広がっていったのだ。それでも商家では、長男の出来が悪ければ、娘に商才のある婿を迎えていた。」
https://www.nippon.com/ja/features/c05604/
という背景の下での話、ということになる。
 私自身は、家父長制は、「律令制」だの「武家のシステム」だのが契機となって日本に根付いたのではなく、弥生人が、日本列島渡来の際に大陸から持ち込んだ家族システムであって、それが、日本列島の原住民であった縄文人の母系制と出会ったことによって、原住民の支配者となった彼らの家父長制が部分的に母系制化してしまっていたのが、「律令制」だの「武家のシステム」だのが契機となって、次第に、元々の純粋な家父長制へと回帰していった、と見ているところだ。
 その端的な証拠が、日本の支配者達には最初から姓ないし名字に相当するものがあったらしいのに対し、被支配者達には名前しかなかったことであり、しかも、その状態が、明治維新に至るまで維持されたことだ。
 これは、(縄文時代も一応そうであったところの)狩猟採集時代の人名に姓や名字がなかったことの名残・・残された縄文人であるとされるアイヌにも琉球人にもかつては姓や名字がなかったこと、更には、広義の狩猟採集社会であったとも言える遊牧民時代が長かったモンゴル人にもアラブ人にも姓や名字がないこと、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%90%8D
つい最近まで文字通り狩猟採集時代を生きていたブッシュマンももちろん同様であること、
https://minpaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=4158&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1
を想起されたい・・であると同時に、縄文人の個人の独立性(コラム#11226)を示すものでもある、と考えている。
 なお、天皇家が姓も名字も持たないのは、彼らの家が弥生人達の首長家であるだけではなく、縄文人達の首長でもあることを、縄文人達に対して訴えるため、あえて姓を棄てた、ということではなかったか。(太田)
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 「武官系武士と軍事貴族の違いは、前者が「将種」「武家」「累代の将家」などといわれるように、ウジからイエへの過渡期にあって、軍事部門を継続して担当しながら、本格的な「ツワモノの家」形成以前に文士のイエに転身していったのにたいし、後者は中世の武士のイエへと連続していった点である。

⇒前述したように「文士のイエ」への「転身」などなかったことはさておき、すぐ上の囲み記事からも分かるように、イエなるものは、いわばウジの細分化に過ぎないのであって、イエ自身もその後も使われ続け、豊臣のケースのように、その後も新たに天皇から下賜されたイエの呼称もあった(典拠省略)のですから、「ウジからイエへの過渡期」とはこれいかに?(太田)

 前者の家(ウジ)がまだ中世的なイエでないことと、前者の家系が中途挫折・転向した史実をもって、それ以前の武士を武士とは認めない意見があるが、納得できない。・・・

⇒同じく、「中世的なイエ」とはこれいかに?(太田)

 個々の家系の継続・非継続が問題なのではなく、武士が担い手を交代させながらも、ウジからイエへの変身を続け、その役割を増大させ、彼らを全体として再生産させる客観条件が生まれているかどうか、それがいえれば、武士の成立を論じてもよいと思う。」(56~57)

⇒しつこいようですが、「ウジからイエへの変身」とはこれいかに?(太田)

(続く)