ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

     

  祖国・日本を愛し、国旗・国歌を尊重しましょう!

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我が国の警察組織の威信を根底から覆す
 

 警察庁長官狙撃事件


が起きたのは、今からちょうど30年前の今日・1995(平成7)年3月30日のことでした。


国松孝次警察庁長官(当時)が出勤のため自宅マンションから出たところを狙撃され、3発の銃弾を浴びて瀕死の重傷を負ったこの事件に関しては、以前記事にしました。(
 

地下鉄サリン事件から僅か10日後に起き、また現場にオウム真理教のバッジが落ちていたため、捜査に当たった警視庁公安部は当初から同教団の犯行と推定。

事件前からマークしていた信者の巡査長を取り調べたものの、決定的な証拠が出なかったことで立件できず。

一方刑事部は強盗殺人未遂という見立てをしていましたが、こちらも決定的な証拠は出ず犯人の特定には至りませんでした。

上記過去記事をアップした2010年3月30日には、公安部長が記者会見でオウム真理教犯行説を強調。

更に翌2011年2月にも記者会見を行って捜査内容検証結果を公表・・・秘密保持を優先して裏付け捜査が遅れた等々、捜査に不備があったことを認めました。

従って現在に至るまで警視庁は真犯人を特定出来ていないのですが、今日はこの事件に関して真犯人を名指しする著書をご紹介します。


 『警察庁長官を撃った男』 

           (鹿島圭介・著 新潮文庫・刊)


   


2010年3月に単行本が出版され、2年後に文庫化された同著では、それまでマスコミには登場しなかったオウム真理教とは無関係な人物・Nを真犯人と名指しています。

 

昨年5月に94歳で死亡したNは、東大に入学した秀才ながら在学中に窃盗事件を起こし自主退学しており、銃器の知識・操作はプロ級。

 

そして1956年、27歳の時に銀行強盗に失敗した後警官を射殺し、無期懲役。

 

1976年に仮出所すると2002年に再び銀行強盗殺人未遂事件で逮捕されたこの男は、1995年に起き未だ犯人が特定されていない八王子のスーパーナンペイの強盗殺人事件容疑者にもリストアップされた、筋金入りの犯罪者。

そのNが自ら国松長官を狙撃したと告白し、犯人しか知り得ない情報を供述(秘密の暴露)をしているのです。

国松長官は約20メートル離れたところから拳銃で狙撃されていますが、4発中3発命中させる(残りの1発は故意に外した?)のは素人ではまず不可能。

また使用された拳銃コルト・パイソンやフォローポイント弾は国内で入手困難な代物ですが、Nは過去にアメリカでこの銃・弾丸を入手していることも分かっています。

その他この著作を読み進めると、このNは殆ど真っ黒・・・真犯人だと私には思えるのですが、警察はこのNから自白調書まで取っていながら、オウム犯行説を曲げていません。

確かにNが海に捨てたという凶器の拳銃は探すことは出来ませんが、他の事件では状況証拠の積み重ねだけで有罪にしているケースもあるのに、なぜ起訴しないのか?


国松長官を襲ったフォローボイント弾は、それ一発でほぼ確実に人間を死に至らしめる強烈な威力があるとか。

それを3発も被弾しながら、なおかつ病院で何度も心停止になりながら生き抜いたのは、警察トップとしての責任感と執念の為せる技といって良いでしょう。

首の皮一枚のところで身体を張って警察組織の威信を辛うじて保った国松長官に対し、真犯人がNであるという確証がありながらオウム犯行説を取り下げられない理由が警察(公安部)のごく一握りの幹部のメンツ・威信を保つためだけだったとしたら、誠にお粗末・本末転倒。

最初に犯人に目星をつけ、それに沿った証拠集めや解釈・作文をするという冤罪を産みやすい体質は、一向に変わっていないといえましょう。

また、Nの名前が大手マスコミからなぜ出てこなかったのかも不思議ですが・・・。

この事件や警察組織の内幕に興味のある方には、ご一読をオススメします。

 

 

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最近はプロボクサーやレブロン・ジェームスを筆頭にNBAなどのプロスポーツ選手の多くが身体に施しているタトゥー。

半ばファッション化している感がありますが、俗に(倶利伽羅)紋々ともいわれる

 入れ墨(刺青)

明治政府がこれを止めされるべく『入墨禁止令』を発布したのが、今から150年余り前の今日でした。


この入れ墨の歴史は古く、アルプスの氷河から冷凍状態で発見された約5,300年前の遺体〝アイスマン〟に入れ墨のような文様があり、また2,500年前の王女のミイラには、腕に施された入れ墨がほぼ完全な形で残っています。

また日本でも縄文時代に造られた土偶の体表に見られる文様は入れ墨と考えられており、魏志倭人伝にも倭人が入れ墨を施していたという記述が。

ただそういった古代の入れ墨は、個人の特徴を身体に刻むことにより個体の確認のため、あるいは入れ墨を施すのは身分の高い者だけだったといわれています。


しかし儒教が伝来した奈良時代に律令制が確立すると、入れ墨は刑罰として入れられるように。

 

江戸時代に入ると、前科者が〝入れ墨者〟と言われた反面、遊女がなじみ客の名を〝〇○命〟と上腕に彫ったり、経文や仏像を身体に彫り込む僧侶が登場。

末期には発達した浮世絵を装飾として身体に彫り込む者も現れ、同時に彫り師の技術が格段に進歩したそうな。

 

江戸時代の入れ墨というと、どうしても遠山の金さんの桜吹雪が頭に浮かびますが、実際に彫り込んでいたかどうかは分かっていません。

ただ彼には普段から袖がめくれ上がるとすぐそれを下ろすクセがあったともいわれており、やはり役人である以上、身体に彫り物があることは隠したかったのかも。

 

カッコよく右半身をはだけて「やいやいやい、黙って聞いてりゃいい気になりやがって・・・」な~んて啖呵を切るのは、どうやらドラマの中だけだった模様。

 

    

 

しかし明治時代に入ると、新政府は近代的国家体制の樹立を目指し、1872(明治5)年3月29日に発布した太政官令で入れ墨刑を廃止すると同時に、装飾目的であっても入れ墨を入れることを禁止。

(とはいえ、その間外国の皇太子などが来日時に入れ墨を入れています。
それだけ日本の彫り師の技術が高かったということなのかも。)

この禁止令が解かれるのは1948年のGHQ占領下でのこと。

しかしその後入れ墨を彫り込むのは、ヤ〇ザやマフィアの構成員がそれを誇示するため・・・というイメージが強かったことは否めません。

私が小学生時代に銭湯に通っていた時、幼稚園児くらいの子が

「このおじちゃん、背中に変な絵があるョ~。」

と指差して笑い、父親が慌ててその子を抱えて浴場から出て行ったのを目撃した記憶があります。

現在では銭湯はもちろん、ゴルフ場の風呂でも入れ墨を彫った人は入場禁止のところが殆どですから、こういった光景はまず見られないでしょう。

 

さて既に入れている方には愚問ですが、皆さんは自分の身体に入れ墨彫ろうと思いますか?

私は痛いことは嫌いですし、「親からもらった身体に傷をつけるな」と子供の頃から言われていたので、入れるつもりはなし。

それから「入れ墨を彫ると肝臓を傷める」って、映画『ミンボーの女』(1992年公開)の主役・井上まひるが言ってましたし。😅

若い方の中には、ファッション感覚でプチ入れ墨ならって思う方もいらっしゃるでしょうが、一度彫ったらそれを除去するとなると再び痛みに耐えなければならず、更に高額な手術費がかかることを覚悟しておいた方が良いでしょう。

健康保険も適用除外ですし・・・。

 

 

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古くはローマ帝国と秦・漢の時代からヨーロッパ・地中海と東洋(中国)を結び、多くの商品や文化を運んだ道、

 

 シルクロード

 

日本にも少なからず影響を及ぼしたこの遠大なる交易路に関しては、1980年に『NHK特集 シルクロード』が1年間にわたって放映されたことで一気に注目されるようになりました。

私も何回か番組を観た記憶がありますが、古代ロマンを感じる一方で果てしない砂漠をラクダなどを使ってゆっくりと運んだ昔の人々の勇気にはただ敬服したものです。

今日はこの『シルクロードの日』なのだそうです。

 

今から125年前の今日・1900年3月28日、スウェーデンの探検家

 スヴェン・アンダシュ・ヘディン 

 

が廃墟となっていたシルクロード上の古代都市・楼蘭を発見したことに因むとか。

 

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      Sven Anders Hedin (1865-1952)


このヘディンという人物・・・日本ではあまり馴染みがありませんが、実は凄い探検家だったんです。

スウェーデンの中流家庭に生まれた彼は、隣国・フィンランドの探検家にしてスウェーデン王立科学アカデミー教授・ノルデンショルトが北欧から東アジアの最短ルート・『北東航路』を発見し1879年に日本に辿りつくという快挙に感銘を受け、生涯に渡って彼を師と仰ぎます。

またベルリン大学でシルクロードの提唱者として知られるリヒトホーフェンの指導を受けた彼は、中央アジアの探検を決意。

 

早くも20歳の時にペルシャやメソポタミアに旅行したのを皮切りに、1893~97年と1899~1902年の2回に渡り中央アジアのパミール高原やタクラマカン砂漠等を探検し、その間に楼蘭の遺跡を発見。

更に1906~08年にチベット高原一帯を探検し、カラコルム山脈に連なるトランス・ヒマラヤ山系をも発見。


それまで空白・不明だった同地域の探査に大きな足跡を残したのです。


彼の探検において特に興味を引くのは、楼蘭の付近にあるとされた塩湖・ロプノールに関する仮説。


この湖のほとりで栄えたとされる楼蘭が3世紀頃から始まった湖の乾燥化と共に衰退し、シルクロードの道筋も変わったといわれ、以来その存在が伝説化されたロプノールに関して、ヘディンは1934年にこの湖を発見し、

 

「およそ1,000年周期で南北に彷徨っている」

という湖移動説を発表したのです。 

 

この仮説を含め、自ら筆を執った冒険記が

 

 『さまよえる湖』 (中公文庫BIBLIO・刊)


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これを読むと、自分ではとても行けないアジアの奥地に身を置いたような錯覚に捉われます。

 

(※ただし現在ではロプノールは河床が干上がって消滅しただけと推測されており、移動説は否定されていますが・・・。)


その一方で彼は、あまりに探検に身を入れ過ぎて世情に疎かったのか、自身はユダヤの血を1/16受け継いでいるにもかかわらず、自身を厚遇してくれたナチス・ドイツを礼賛するなどして第二次大戦後母国スウェーデンで大きな批判に晒されてもいます。

そりゃ砂漠に何年も行きっ放しでは、激動のヨーロッパ事情など知る由もなかったでしょう。😣

 

考古学的ロマンを書き立てる〝シルクロード〟の旅・・・テレビ番組だけではなく、その地に半生を捧げた冒険家の足跡を辿ることで、別の楽しみ方が出来るかもしれません。


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今日は、かつて文部省唱歌にまでなったにもかかわらず、戦後教育では全く教科書に記載されなくなった大日本帝国海軍軍人、

 

 広瀬 武夫 中佐

 

の命日にあたります。

 

     

1868(慶応4)年に現在の大分県竹田市に武家の次男として生まれた武夫少年は、母と7歳の時に死別・・・祖母に厳しくサムライ教育を施されました。

 

9歳の時に西南戦争で生家は消失し、かつて坂本龍馬と盟友であった父親が裁判官として単身赴任していた飛騨高山に転居。

同地の小学校を卒業後そこで代用教員となりましたが、退職後海軍兵学校に入校する傍ら講道館で柔道を学び4段の腕前に。

 

      

                                16歳の広瀬青年

 

兵学校卒業後は海軍少尉に任官され、海門・比叡・筑波・扶桑 に乗船して太平洋での遠洋航海を体験、その間清水港では豪傑ぶりで鳴らした清水次郎長との交友エピソードも残しています。


日清戦争に従軍後、1985(明治28)年海軍大尉に昇進。

 

必ずやロシアと戦う時期が来ると考えた彼は、敵国を熟知する必要性を痛感し独学でロシア語を学び始めます。


その努力を評価され2年後にロシア留学生に抜擢されると、ロシア語を学ぶ傍ら軍事施設を見学するなどして同国の情報を収集。

 

1899(明治32)年には駐留武官となってドイツ・フランス・イギリスを視察。

 

3年後の帰国時わざわざイルツークまで鉄道に乗り輸送能力を調べ、更にそこからは酷寒のシベリアを馬ゾリで横断し現地情報を収集。

 

ちょうどその頃、日本ではあの八甲田山の陸軍遭難事故があったのですから、それよりも過酷な条件の中16日で約2,000kmを走破したことは、実に驚くべき離れ業です。

 

そして彼の予想通り、やがて日露戦争が勃発。

 

戦艦 ・朝日の水雷長として出撃した広瀬大尉は、1904(明治37)年3月27日・・・ロシア艦隊の停泊する旅順港の入口に船を自沈させて動きを封じる決死の作戦実行部隊に志願。

 

第2回目の閉塞作戦は4隻の船を沈める計画であり、その中の一隻・福井丸の指揮官となって出撃。

 

そして一旦船を離れたものの、行方不明となった杉野孫七上等兵曹捜索のため帰船。

 

3度も船内を捜索したものの見つからず、仕方なくボートで離船した際に敵砲弾の直撃を受け戦死・・・まだ35歳という若さでした。

 

生涯独身で、部下への体面から女性とデートしても一切手を出さなかったという超硬派。

 

次郎長との付き合いや横綱・常陸山と義兄弟の契りを交わしたことからも、気骨ある人柄が偲ばれます。

 

その生真面目で職務に忠実な性格、そして我が身の危険を顧みず部下を探し回ったということで、彼は2階級特進で中佐となり日本軍初の〝軍神〟として崇め奉られました。

 

彼の壮絶な戦死はヨーロッパにも軍人の鑑として伝えられ、イギリス・ドイツでは絵葉書にもなり海軍士官教育の模範になったといいます。

 

また亡くなった後にロシア海軍軍人の娘・アリアズナ嬢との文通が明らかになりましたが・・・彼女は愛する異国人の悲報を聞きその場で卒倒、しかも以後生涯にわたって胸につけた喪章を外さなかったとか。

    

             

 

敵国の白人女性をそこまで惚れ込ませた広瀬中佐の人間的魅力は、その言動や逸話の数々から容易に想像できますが、彼の生涯については、この本によって詳細を知ることが出来ます。(

 

  『 広瀬武夫  旅順に散った「海のサムライ」   
          (櫻田 啓・著 PHP研究所・刊)

 

     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

私は常々不思議というか、不満があるのですが・・・なぜ現代の学校教育では、ケネディ大統領やチャーチル首相などの外国人や信長・秀吉・家康など中世の有名人・天下人を扱っても、広瀬中佐のように国の行く末を案じ部下を救うために自らの命を賭けた素晴らしい日本人を取り上げないのでしょう?

 

軍人だから、と言う理由で除外するのはおかしいと思うのです。

 

伝説に近い有名人だけでなく、人の道を貫き私たちと同じ世紀を生き抜いた人物とその生き様をこそ、未来を担う子供たちに教えるべきではないでしょうか? 

 

以前拙ブログでご紹介した、400名以上の溺れかかった敵兵を救助した工藤俊作中佐など、学校で教えない誇るべき先達の逸話を、私たちは子々孫々に語り継がねばなりません。(↓)

いい加減自虐教育から逸脱しなければ、子供たちが自分の国に誇りを持てなくなってしまいます。

 

最後に、お祖母様が広瀬少年に叩き込んだ 〝八か条〟 をご紹介致しましょう。

 

 ◆ 他人の悪口を言ってはなりません
 ◆ 嘘をついてはなりません
 ◆ 弱い者いじめをしてはなりません
 ◆ 人を軽蔑してはなりません
 ◆ 愚痴をこぼしてはなりません

 ◆ 人をねたんではなりません

 ◆ 約束は守らねばなりません

 ◆ 口にしたことは実行しなければなりません

 

・・・嗚呼、耳が痛い。😣

 

同郷の作曲家・滝廉太郎にとっても憧れだったという武人・広瀬中佐のご冥福を、尊敬の念と共に衷心よりお祈り申し上げます。

 

 

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〝三代目が身上を潰す〟 という格言がありますが、これは洋の東西を問わない・・・いや世界的に有名な企業にも当て嵌まるようです。

 

〝G〟を2つ並べたロゴマークでお馴染みのブランドといえば、

 

  グッチ
  Gucci

 

これはグッチオ・グッチ(Guccio Gucci )が1923年に皮革製バッグの製造・販売する会社として立ち上げたのが始まり。

     

そして1953年に創業者グッチオが亡くなると、三男アルドが経営を引き継ぎ、女性服や靴・香水など扱い品目を増やして1970年代に事業を拡大させました。

しかし、良かったのはここまで。

80年代に入ると、アルドの息子即ちグッチオの孫・パウロが高級化路線に反発し独断で低価格ブランドを立ち上げます。

これに激怒したファミリーは、パウロを追放。

パウロは仕返しとばかりに1982年にテレビ番組で内情を暴露し、父親を脱税で告発・・・アルドは逮捕されてしまいます。

ここで後継者として白羽の矢が立ったのが、アルドの弟でグッチオの五男・ロドルフォの一人息子・・・つまりバウロの従兄弟にあたるマウリツィオでした。

(ロドルフォは元々俳優志望でハリウッドで働いていた時期がありましたが、そのコネでグッチ製品を映画の小道具として使わせ、これがアメリカの女性に好評を博したことからエリザベス・テーラー、オードリー・ヘップバーンらハリウッドスターやジャクリーヌ・ケネディら世界のセレブ御用達にした功労者。)

真面目な仕事ぶりを評価されていたマウリツィオでしたが、問題はその妻・パトリツィア。

実は彼女、将来ルドルフォが亡くなればその財産をマウリツィオが相続することを見込んで、彼に色仕掛けで接近したのです。

     

ロドルフォはそれに気づき、息子との結婚に猛反対。

しかしマウリツィオは美しきパトリツィアの誘惑に勝てず、父親の反対を押し切って結婚。

そして彼女の思惑通り、ルドルフォが亡くなり遺産を相続しましたが、野心家の彼女はそれだけで満足せず、社長夫人になることをアルド家のゴタゴタに乗じる形で画策します。

夫をけしかけて父親と衝突していたパウロから株式を買い取らせ、総株式の50%以上を手中に収めると、三代目社長に就任させることに成功。

見事社長夫人の座を射止めた・・・までは良かったのですが、その後彼女は勝手に自らデザインしたバッグを作らせるなど女帝ぶりを発揮。

その本性にようやく気付いたマウリツィオは、1993年に彼女と離婚。

そして真面目なだけで元々経営手腕の無かった彼が指揮するグッチの業績は低迷し、結局彼は離婚した年に全株式をアラブ資本に売却し、グッチの経営から離れることに。

これに収まらなかったのが、パトリツィア。

社長夫人の座を追われた彼女は、その復讐を果たすべくマフィアに元夫の殺害を依頼。

マウリツィオは今からちょうど30年前の今日・1995年3月27日・・・多くの人が行き来する路上で射殺されてしまったのです。

パトリツィアはマウリツィオ暗殺のわずか数時間後に裁判所に行き、マウリツィオの住宅などの差し押さえの申請をしたといいますから、何とも・・・。

犯人が分からぬまま数年が経過しましたが、暗殺の報酬(7千万円)に対する不満から実行犯が警察にチクッだことで事件の真相が発覚。

パトリツィアは逮捕され、懲役29年の判決を受け服役。

 

     

その彼女、実は15年ほど前に「外に出ても働きたくないから」という理由で、保釈を拒否すると発言。

更には「グッチ一族の一員として戻るのが夢」とも・・・呆れてモノが言えません。

世の男性諸氏、伴侶を選ぶ時はくれぐれも慎重に・・・って、私のような平民にそんな女性は近寄ってこないでしょうけど。😅
 

 

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皆さんは、大東亜戦争時における日本陸軍軍人、

 

 栗林 忠道 陸軍大将(※最終階級)

 

をご存知でしょうか?

 

C・イーストウッドがメガホンを取った映画『硫黄島からの手紙』 (2006年公開)で、渡辺謙さんが熱演した主人公

・・・といえば、お分かりいただけるかもしれませんネ。

 

アメリカ軍の本土攻撃を阻止すべく、太平洋の孤島・硫黄島を死守しようとした栗林大将が奮戦の末玉砕したのは、今からちょうど80年前の今日だったと推測されています。

 

     

 

1891(明治24)年に長野県埴科郡に生まれた彼は、1911年に旧制長野県立長野中学校を卒業。

 

実はこの学校、我が母校・長野県立長野高等学校の前身・・・つまり栗林大将は私の大先輩なのです。

 

その後陸軍士官学校等を経て、1923年に陸軍大学校を次席で卒業。


アメリカ・カナダの駐在武官となってハーバード大学にも留学した、陸軍では珍しい米国通であり開戦批判派だったそうな。

 

開戦後、1943年6月に中将に昇進すると翌年5月に父島・硫黄島を守備範囲とする第109師団長となり、翌1945年2月19日に硫黄島(↓)入り。

    

 

それまで恒常的に行われていた理不尽な体罰を戒め、理論的・合理的な戦術を用いて圧倒的な兵力を持つアメリカ軍を苦しめたのです。

 

駐留日本軍20,933名中、戦死者20,129名。 

 

死亡率96%(!)という凄惨な戦場でしたが、一方米軍の損害も死傷者合計で28,686名を数え、大東亜戦争において米軍の戦死・戦傷者総数が日本軍のそれを上回るという、稀有な例でした。

 

食糧・水が絶対的に不足する中で1945(昭和20)年3月26日、最後の兵力300名と共に総攻撃をかけ全員玉砕。

最後の総攻撃の際に師団長自らが突撃したのは、日本軍戦史々上初めてのことだったそうです。

 

有能な軍人だった一方で、アメリカ在任中や硫黄島着任後も奥様や1男2女の子供たちにこまめに手紙を書き続けた子煩悩な父親でもあった栗林大将の素顔を綴った、『散るぞ悲しき』梯久美子・著 新潮社・刊)という書籍があります。

 

大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したこの良書、現在は文庫版が発刊されていますので、皆様にもご一読をお勧めします。


    ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-散るぞ悲しき

 

映画が公開されるまで日本国内では殆ど無名だった栗林大将ですが、アメリカでは大東亜戦争時の日本軍人の中で最も優秀な指揮官として彼の名をあげる軍人・軍関係者が多いとか。

 

結果的に敗北したものの、援軍もないまま総面積僅か22K㎡の小島を日本軍の3倍もの兵力で攻撃を加えられながら、アメリカ軍の想定を遥かに上回って1ヶ月半も抵抗した戦術・指揮能力が高く評価されているからだとか。

 

絶望的な戦いの中、最期まで部下を鼓舞し先頭に立って戦い散っていった栗林大将の姿は、組織のトップに立つ者には学ぶべきところ大でありましょう。

 

玉砕決行の数日前、大本営に宛てた最期の訣別文に認められた辞世の句、

 

   国の為 重き努めを 果し得で 

        矢弾(やだま)尽き果て 散るぞ悲しき

 

溢れ出る総大将としての責任感と無念の想いに、私は涙を禁じ得ません。

 

あらためて郷里の誇る英霊、そして尊敬すべき母校の大先輩である栗林忠道大将閣下のご冥福を祈り・・・敬礼! 


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私が6歳になる直前に開催された、1回目の東京オリンピック。

 

白黒テレビで日本選手たちの活躍を応援していましたが、半世紀近く経った今でも何人かの選手の雄姿を記憶しています。
 

女子バレー〝東洋の魔女〟、重量挙げ・三宅義信選手、柔道・神永昭夫選手、マラソン・円谷幸吉選手・・・そしてもう1人、

 

 遠藤 幸雄 選手

 

今日は、同五輪で日本人初の個人総合優勝を成し遂げ、体操ニッポン黄金期の礎を築いた立役者の命日・十七回忌にあたります。
 

      ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

遠藤選手は1937(昭和12)年に秋田県秋田市で生まれました。

 

小学校3年生の時に母親を亡くし、更に父親が事業に失敗した関係で中学1年から養護施設で育ちました。


そんな彼を勇気づけたのが、体操競技・・・「かっこいい」と思って始めたそうですが、当初は鉄棒の蹴上がりさえ出来なかったというんですから、ちょっと驚き。😲


しかしメキメキ上達し、市内の大会では何度も表彰台に上がるまでに。

 

そして将来を考え技能を身につけようと秋田工業高校電気科に進学した彼の運命を大きく変えたのが、同郷の先輩・小野喬選手でした。
 

1956年のメルボルン五輪で日本初の体操金メダルを獲得した小野選手の鉄棒演技を観て感動した遠藤選手は、高校3年の時にインターハイで個人総合2位となって東京教育大学(現・筑波大)に進学し、体操競技に専念。

 

在学中も奨学金とアルバイトで生活するという、現在の学生には考えられないような苦労を経て卒業後日大助手となった彼は、ローマ五輪(1960年)の代表選手に選ばれて憧れの小野選手と共に出場し、見事団体総合優勝を果たしました。


そして迎えた4年後の東京五輪では小野選手が果たせなかった個人総合優勝を成し遂げて金メダルを獲得。


体操選手としては大柄な体格を生かし、頭のてっぺんからつま先までピンッと伸びた演技は、まさに〝美〟を感じさせる優雅なものでした。

 

確かに技術的にはアクロバット的な現在の体操に比べてシンプルなものですが、後輩の元世界チャンピオン・加藤沢男選手は遠藤選手が開発した鉄棒の『前方開脚浮腰回転倒立』 ・・・通称〝エンドー〟について


「発展・展開の可能性をたくさん秘めた技で、体操競技をより豊かにした」


と、その応用性を高く評価しています。

 

しかし個人総合を決めた最後の鞍馬では、ソビエト選手を大量リードして9.00を出せば良いという楽な展開だったにもかかわらず途中尻もちをつくなどミスを連発。


10分以上にわたって審判団が協議するという異例な展開を経て出された得点が9.10・・・まさに薄氷を踏む勝利でした。

 

金メダルがかかった一発勝負の演技でのプレッシャーは、俗人の理解を超える壮絶なものなのでしょうネ。

 

次のメキシコ五輪でも若手選手をまとめて団体3連覇に貢献した遠藤選手は、現役生活通算で五輪・世界選手権合わせて金8・銀7・銅2…合計17個ものメダルを獲得。

 

引退後も後進の指導にあたり、体操協会専務理事やJOC理事などを歴任、1999年には国際体操殿堂入りも果たしました。


      ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

抜群の実績を持ちながらも決して偉ぶらず常に笑顔で人と接し、相手が面食らう程の冗談好き。

 

音楽も大好きでカラオケに行くとマイクをなかなか手放さなかったという遠藤さんが食道ガンで72歳の人生に幕を下ろしたのは、2009(平成21)年3月25日のことでした。

 

一時期低迷を続けた日本体操界も内村航平選手の活躍やリオ・東京・パリ大会で男子個人総合3連覇を果たすなど見事復活を果たしたことは、天国から見守る遠藤さんにとって大きな喜びだったことでしょう。

 

〝体操美〟を追及し続け、日本のお家芸を支え続けた苦労人のご冥福をお祈り致します。🙏

 

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今風に言えば、まさに〝天王山〟・・・今からちょうど840年前の今日・1185年3月24日、源氏と平家の最終決戦となった

 

 壇ノ浦の戦い

 

が行われました。


かつて栄華を誇った平氏でしたが、頼朝率いる源氏軍に押され、1183年には安徳天皇を奉じて都落ち。

 

1184年2月・一ノ谷の戦い、1185年2月・屋島の戦いと敗北を続けた平氏は、(現・山口県下関市にある)彦島に追い込まれました。

 

そしてこの日、源氏約840隻・平家約500隻の大船団が壇ノ浦で激突。

    

   


当初は水軍の強い平家方が優勢でしたが、海流の強い関門海峡で潮目が変わると一転して源氏方が攻勢に転じ、敗北を悟った平家の兵士や女性は次々に海中に身を投げたとか。

 

平家の総大将・平宗盛と子・清宗は引き上げられ、後に斬首。

 

また6歳の幼き安徳天皇は崩御し、三種の神器のうち宝剣が海中に没したと伝えられています。

 

(※以後昭和中期に至るまで、この海域で操業する漁師たちは、安徳天皇を弔うため正座して釣りをしていたとか。)

 

ただ共に身を投げた建礼門院(平清盛の娘で安徳天皇の生母)は源氏方に救われた後に出家・・・以後30年近く、59歳まで生き延びましたが。

 

結局平家方の殆どが命を落とし、この戦いを以って平家は滅亡。

   ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

一方勝利を収めた源氏方でも、一連の平家との戦いのヒーロー・源義経が京都凱旋など目立つ行動をして頼朝を激怒させ、後に討伐されるきっかけを作った戦でもありました。

 

ところで余談ですが、上の画像をご覧いただくと赤と白の旗が描かれているのがお分かりいただけると思います。

 

 平 家 = 赤 (天皇・貴族を象徴)

 源 氏 = 白 (神を象徴)


なのですが、一説にはこれが現在も使われている〝紅白戦〟のルーツだそうな。

 

ではなぜ〝赤〟が〝紅〟なのか?

 

それは〝赤〟を音読みすると「赤貧」・「赤裸々」など裸という別の意味を持つため避けられ、〝紅〟を代用したのだとか。

 

・・・でも不思議ですょネ。

 

壇ノ浦では白が勝ったのに、今では白(男性)は赤(女性)に頭が上がらず。

 

そして降参して上げるのは白旗ときているんですから。白旗

 

一体、いつから白は敗者の象徴(?)になったのでしょう?😰


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今日は、かつて東映ヤクザ映画で活躍した・・・というより、私のような昭和世代の方には『刑事コロンボ』 の主役ピーター・フォークの吹き替えでお馴染みだった

 

 小池 朝雄 さん

 

の命日・没後40周年にあたります。

                          
     

 

小池さんは1931(昭和6)年の東京生まれ。

都立青山高等学校卒業後、1950年に文学座附属演劇研究所に入所し、役者の道を歩み始めました。


文学座を選んだのは、当時読んでいたお気に入りの小説の作家・久保田万太郎さんがおられたからだったといいます。

しかしその文学座が1963年に分裂すると、彼は劇団・雲の創設に参画。

 

更にその雲が分裂すると、新たに結成された劇団・昴へ・・・同劇団の中心俳優として活躍しました。

 

ただ私個人としては舞台俳優というよりは、映画やTVドラマで活躍されたというイメージが強いです。

東映のヤクザ映画『仁義なき戦い』シリーズでは常連でしたし、TVドラマでは『ザ・ガードマン』や毎週欠かさず観ていた 『キイハンター』、更には『大岡越前』や『子連れ狼』、『Gメン’75』等々、ヤクザから刑事・社長まで、様々な役柄をこなして数多くの作品の脇をしっかり固めていました。

そして何といっても小池さんの名をメジャーにしたのは、『刑事コロンボ』。

コロンボ刑事役のピーター・フォークも小池さん同様性格俳優だったことも相まってか、小池さんの吹き替えは見事にハマッていました。       

     

 

後年字幕版の刑事コロンボを観た時、ピーター本人の声が思いの外甲高くて幻滅してしまったのは、それだけ小池さん=コロンボというイメージが固まってしまっていたからなのでしょう。

 

また個人的には、『フレンチ・コネクション』(1971年)のジーン・ハックマンの吹き替えも印象に残っています。

 

そして小池さんのコロンボ・シリーズ最後の吹き替えとなったのは、1983年に日本テレビで放映された『黒のエチュード』の120分ノーカット版。
(※NHKで1972年に放映されたのは約73分の短縮版。)

 

その僅か2年後の1985(昭和60)年3月23日、小池さんは肺不全で天に召されました。

まだ54歳の若さ・・・俳優としてはまだまだこれからという時だっただけに、訃報を聞いたときは驚きました。

 

実は小池さん、意外なところで歌手として声を遺しています。

それは人気アニメ・あしたのジョーのエンディング・テーマ 『ジョーの子守歌』。(

 

 

「ウチのカミさんがねェ・・・」

 

NHKで刑事コロンボの放送当時、学生だった私にはピンとこなかったこの名セリフ・・・今では常套句として使う年齢になったことをかみしめつつ、名脇役のご冥福をお祈り致します。🙏


 

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