今からちょうど80年前の今日・1941(昭和16)年11月26日(日本時間・27日)・・・その11日後に行われた真珠湾攻撃から日米開戦に至る決定的な出来事がありました。
それは、当時の米国務長官コーデル・ハルが野村吉三郎駐米大使・来栖三郎特命大使に、 いわゆる
ハル・ノート
Hull note
正式名称 『合衆国及日本国間協定ノ基礎概略』 を提示したのです。
※コーデル・ハルに関する過去記事は、こちら。(↓)
それまでの我が国は、国際連盟を脱退後に軍部の独走で満州など中国大陸進出を進め国際社会から孤立を深め、その制裁措置としてABCD包囲網を敷かれ、石油調達の道を閉ざされていました。
エネルギーという生命線を絶たれた日本は、その制措置解除を目指してアメリカと交渉を重ね、甲・乙案などを提示し最大限の譲歩を表明。
しかしこの日提示されたハル・ノートには、過去の交渉をひっくり返す無茶な要求が列記されていました。 その主たる内容は、
1. 日本軍の支那、仏印からの無条件撤退
2. 支那における重慶政府(蒋介石政権)以外の政府・政権の否定
(日本が支援する南京国民政府の否定)
3. 日独伊三国同盟の死文化(同盟の一方的解消)
これは日露戦争・第一次世界大戦以降、日本が多くの犠牲を払って手に入れてきた権利・権益をほぼ全て手放せ、という高圧的なもの。
この文書に関しては、極東軍事裁判で判事を務めたパール氏が、
「アメリカが日本に送ったのと同一の文書を他国に送れば非力なモナコ公国やルクセンブルク公国でさえ必ずアメリカに対して武力をもって立ちあがっただろう」
と言及し、また
「ハル公文はアメリカ当局の予想によれば、交渉が決裂して戦争になるとして万事を準備したのち、日本側の受諾せざることを予期したものであって、日本に全面降伏か戦争かを選択せしめんもの」
と当時の東郷茂徳外相の手記に記されている如く、実質的には最後通牒・・・いや、戦争に追い込むための挑発だったと言えます。
ハル・ノートの1ページ目
我が国としては、供給を絶たれた石油資源を東南アジアに求める他なく、同地域の国々を植民地として支配している欧米諸国を駆逐し独立させるため、戦争に突入せざるを得ませんでした。
しかし既に暗号を傍受していたアメリカは連合艦隊が真珠湾を急襲することを予め察知していながら、国威高揚と開戦の大義名分作りのため敢えて攻撃させた、といわれています。
つまり日本はアメリカの術中に見事ハマッた、と言えましょう。
そして近年、驚くべき事実が明らかになりました。
それは・・・ハル・ノートはハル国務長官ではなく、財務次官補ハリー・D・ホワイトが書いた、ということ。
Harry Dexter White
しかもこのハリーなる人物は、ソ連のスパイだったのです。
(彼は告発を受けた数日後に服毒自殺。)
つまり日米開戦はソ連のスパイによって仕組まれた、というわけ。
これらの史実を通じて言えるのは、〝外交では資源と情報を掌握し強力な武力を保持する国が勝つ〟ということ。
残念ながら現在の日本はそのいずれも心許ない限りですが・・・。😰