サッカー・ファンならば皆さんご存じ、イングランド・プレミアリーグに所属する
マンチェスター・ユナイテッドFC
1878年にマンチェスターの鉄道員が中心となり、ニュートン・ヒース・ランカシャー & ヨークシャー・レイルウェイズFCとして創立された同チームは、今でこそ世界有数の人気を誇る超名門。
しかし同チームには、、ここに至るまでに多くの困難がありました。
チームの破産や第二次世界大戦中の空爆による本拠地スタジアムの破壊などですが、中でもチーム消滅の危機に直面したのが今から65年前の今日・1958年2月6日に起きた痛ましい事故。
その3年前から始まったヨーロッパ・クラブ選手権(チャンピオンズ・カップ)に当時黄金時代を迎えていたマンUは、当時孤立主義を掲げていたイングランド・サッカー協会の警告を無視して強行出場。
ユーゴスラビアの強豪レッドスター・ベオグラードと対戦し、ホームで2-1で勝利した後2月5日敵地に乗りこんで引き分け、準決勝進出を決めました。
すぐに自国プレミア・リーグでの試合が組まれていたマンUは、英国欧州航空のチャーター機で帰国の途に着いたのですが、給油のため立ち寄ったミュンヘンのリーム空港で悲劇が待っていたのです。
その日ヨーロッパ全土を大寒波が襲い、滑走路に降り積もったシャーベット状の氷雪の影響でチャーター機は離陸することが出来ず、滑走路を突き抜けて空き家に衝突し大破。
乗員・乗客44名のうち23名が死亡する惨事となったのです。
搭乗していた選手17名のうち、大黒柱ダンカン・エドワーズを含め8名が死亡し2名が再起不能という、マンUは実にチームの7割近い選手を一度に失ったのです。
当然の如く、残った控え選手で戦ったチャンピオンズカップ準決勝は敗退。
しかし奇跡的に生き残ったマット・バスビー監督とボビー・チャールトン (※後にデビット・ベッカムを見い出した名選手) が中心となって若手を育成しクラブを再建。
事故から10年後には悲願のチャンピオンズカップを獲得、初めてイングランドのチームとして欧州制覇を果たしました。
現在でもマンUの本拠地オールド・トラフォードの東スタンドには犠牲者を追悼する祈念碑と事故時間で止まったままの時計が掲げられているそうな。
名門チームが出来上がるまでには、多くの人々の犠牲と努力と執念があったわけです。
この事故を教訓として、現在ではプロスポーツチームの飛行機移動は万一に備えて2グループ(以上)に分けるケースが多いとか。
しかしいずれにせよ、こんな事故は起きて欲しくはないですょネ。