サン=サーンスのピアノ協奏曲。五曲ある協奏曲は、総量でベートーヴェンに比肩されます。その最初の全曲録音となった50年代のジャンヌ=マリー・ダルレの全集です。管弦楽はルイ・フレスティエ(指揮)フランス国立放送管弦楽団。ピアニストも難儀する高い技巧。作品は内容の空虚を指摘されることもあります。二歳でピアノを学び、三歳で最初の作曲。神童でもあったサン=サーンスは、職人的手腕で作品を生み出すことができました。ダルレはサン=サーンスにも学び、その優れた演奏技術を継承しています。ダルレの演奏で聞けば、ピアノの美しい音色と、楽器の性能を引き出し、典雅な作品の美を理解することができるでしょう。ベートーヴェンのピアノ協奏曲全集は、数多制作されていますが、サン=サーンスの五曲を全集制作となると限られたものとなります。リストに啓発され、自身も高い技巧をもったピアニストであったサン=サーンス。協奏曲分野では、フランス人の手になる初のものでした。自身がピアニストでもあったベートーヴェンは、基本的に自作の協奏曲の独奏者も自身がつとめていました。ナポレオンのオーストリア侵攻で、ウィーンにあったベートーヴェンは戦乱にまきこまれます。音楽活動はふるわず、「皇帝」で知られる一曲はその過程で生まれました。この初演は弟子のツェルニーが担っています。サン=サーンスの五曲の協奏曲はすべて作曲者自身が独奏者として初演をつとめることになりました。歌劇が席巻していたフランス音楽界。歌劇も多くものにしていますが、「サムソンとデリラ」一曲が知られるぐらい。フランス作家による器楽の振興を目的として国民音楽協会をたちあげました。第二協奏曲は各楽章の際立った性格を「バッハにはじまり、オッフェンバック」に終わるとされました。サン=サーンスを育んだ音楽界。その影響をたどることができるのです。

サン=サーンスはベートーヴェンの死後八年目の1835年に生を受けました。ブラームスの1833年の生年に近接します。長命を保ち、二十世紀を超えて1921年になくなります。27年も年の差があったドビュッシーが揶揄したのは、旧時代ともいえるその方法でした。一方、博識と経験は認めていました。協奏曲の作曲年、第一番(1858年)、第二番(1868年)、第三番(1869年)、第四番(1875年)、第五番(1896年)。第五番は、「エジプト風」の相性で知られます。幻想曲「アフリカ」などと並び、世紀末、エキゾチシズムの流行の最初期のものなのです。年代が広きにわたり、サン=サーンスがたどった時代を反映した音楽。そして、新しいものを入れながら常に前進していました。


 


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