今日はアルクラだった。
明け方はものすごい土砂降りで庭は湖になっていたが、起きた時には小雨になっていたので、念の為にセニアカーを充電したわけだ。
アルクラへ行く準備をする頃には雨もやみ、庭の水もかなり引いて、セニアカーが通れるようになったので、セニアカーで出発した。
アルクラに着くと、今朝はみんな早めに来て大混雑で、今日は一人だけ休んで他はみんな来ていた。
一人一人の名前を呼びながら、”おはよう”、と声をかけると、みんな明るく、”おはよう”、と声を返すので、楽しい一日が始まったわけだ。
今日のリハビリ担当は泰希だったので、人一倍力を入れてのリハビリはとても痛気持ちよくて、しかも両足ともかなり徹底的に曲げ伸ばし、更に揉むので、泰希に、”泰希のリハビリで、極楽みたいな天国の気持ちだよ”、と言ったのだった。
勿論、泰希も嬉しそうで、二人揃って喜んでいたのだ。
体重を測ったら68.7kgで、ま、かろうじて68kg台には戻ったので、あと3kg徐々に減らすつもりだ。
そして、一応65kgになれば満足で、ま、理想体重は63kgだけど、取り敢えず、まず65kg目指そうと思っているわけだ。
この前は70.3kgになっていて焦ったもので、ま、取り敢えず68kg台には戻したので、多少満足したのだった。
高校卒業35周年記念に、みんな集まってパーティーをした時には俺は85kgで、瀬名波よう子に、”エッ、美少年だった誠な”、と、いぶかられたものだ。
ま、生まれて初めて美少年と言われたのはとても嬉しかったが、反面デブになっていてガッカリさせたわけで、今ならせめて、”今もハンサムだね”、と言ってくれるのにと、いつか80歳記念とか、85歳記念とかで集まってもらって、ぜひ瀬名波よう子も呼びたいなーと思っている。
ま、高校3年の時にフラれた小禄栄子も、兼島とも子も久しぶりに会いたいし、残念ながら真栄城忠之は死んでしまったが、平良鉄彦にも会いたいし、上里隆盛にも会いたいもんだ。
勿論、下地敏彦にもまた会いたいし、もう会いたい人の名前を挙げたらキリがない程いっぱいいるわけで、ガンマー先生にも会いたいし、名前は忘れたが、よく議論をした国語の先生にも会いたいが、生きていれば100歳を越えているわけだ。
さて、ホイットニー・ヒューストンが死んでもう13年目だけど、ホイットニー・ヒューストンは、初めて日本に来たのは16歳の時だったそうで、10回も日本には来たらしく、ものすごく日本を愛していたらしい。
死んだ時48歳というので、生きていたらまだ60歳そこそこで、充分若かったわけで残念だ。
日本での食事が楽しみだったようで、是非中山(ちゅうざん)か、美ら美ら(ちゅらちゅら)かどちらかに来て、琉球料理も楽しみ、琉球民謡も楽しんで欲しかったなとつくづく思うわけだ。
本当に残念だ。
ちなみに、最近加持さんの友達が宮古島に来て、加持さんの案内で美ら美ら(ちゅらちゅら)に来て、食事を楽しみ、民謡も楽しんだそうだ。
俺まで嬉しくなるな。
みんな是非一度は、中山(ちゅうざん)を楽しもうぜ。
じゃあな。
2024年3月29日
人生波乱万丈!73歳脳出血後遺症と共に歩む中山誠氏の思い出話が面白い。
中山誠氏の思い出話しが面白い。本当に、相当面白いのだ。これだけの波乱万丈な人生を送ることができる人が、いったいどれだけいるのだろうか?そしてこの物語(思い出)には、戦後沖縄の歩んで来た歴史の中で起こる様々な出来事ともとても関連が深い。現代の沖縄史といっても過言ではないのか…