何を教訓として学ぶのか?

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「話合いの時間を10分伸ばします」コンプライアンス委員のT先生の声が小さく響き渡る。昨晩は職員会議、会議終了予定時間を20分越えていたが僕らは話し合いを続けた。テーマは「静岡の事件から私たちは何を教訓として学ぶべきなのか?」園児への暴行や不適切な対応があったことも問題だが、それに気づきながら誰かに言えない相談できないという状況がだんだん明らかになってきた今、自分事として対話の時間を取ろうということになったのだ。まずはグループで話合い、そこで交わされた言葉を全員でシェアした。「お昼寝の時間帯に隣のクラスで子どもの泣き声が聞こえたとき、私も一人で子どもたちを見ていて助けに行けなかった。あとから大変だったねと声をかけたけれど・・・」「先輩である私が不適切な対応をした時、若手の職員が指摘できる関係性って・・・」「価値観や保育観の違いを言い合える機会も必要かも」「今までこうやってきたから・・・を当たり前にするのではなく絶えず点検し続けなければならない」

 

明確な答えが出たわけではない。でも、様々な不安や戸惑い、揺らぐ気持ちを真剣な表情で聞きあう姿がそこにはあった。僕は総括として「人は誰でも子どもをコントロールできない時には、自分のココロもコントロールできない状況になる。ご飯を食べてくれない。お昼寝してくれない。片付けしてくれない。話を聞いてくれない。何度も何度も友達のおもちゃを取ってしまう・・・これらの行為は子どもにとっては意味がある行為だが、子どもの状況を見ずに解決しようとした瞬間に子どもの行為はすべて『問題行動』となり、その行動をコントロールすることが保育士の仕事に感じてしまう。自分の正しさ(正義)を示すために行動し始めるたときには人は非道なこともできてしまう。大切なのは起こっていることを関係性の中で見ていくこと。モノとヒトの関係をどのようにしていくか問い続けるしかない。」社会は防止のための具体策を提示することを希望するのだろう。でも、感情労働でもある保育の営みを部分的に切り取り改善を目指すという単純な思考は別な問題を生む可能性もある。僕らは目の前に起こるすべての現象に対し、地味に対話を積み重ね最適解を求め続けるしかないのである。

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