昭和のボーリングブーム | 台場一丁目商店街プロデューサー久保浩の    昭和ダイアリー

台場一丁目商店街プロデューサー久保浩の    昭和ダイアリー

レトロブームの仕掛け人久保浩が「昭和」の時代の古き良き、暖かな日本人の心を伝えてまいります。

「ボーリングブーム」

 

第二次大戦終戦後、昭和21年横浜や座間などの米駐留軍のレジャー

 

施設としてボーリング場が復活し、日本人従業員らによって広まってい

きました。

昭和レトロ製作委員会         台場一丁目商店街自治会長     久保浩の平成と闘う日々

 

昭和27年東京の青山(現在は秩父宮ラグビー場)に民間商業施設初の

「東京ボウリングセンター」がオープンすると芸能人や著名人らがこぞ

ってプレーに興じました。この頃はまだ手動式でピンボーイと呼ばれるスタ

ッフが大勢いたそうです。各レーンにはスコア嬢が付き、スコアを記入す

るサービスもあったようです。


昭和レトロ製作委員会         台場一丁目商店街自治会長     久保浩の平成と闘う日々

 

なかでも大衆を魅了したのが、昭和45年8月21日に中山律子さんが達成

した、女子プロ初の公認パーフェクト。本人すら「300点なんて出ると思わ

なかった」と話すこの快挙は、テレビ放送され、ブームを過熱させた。ボウ

リング場は急増し、最盛期の昭和47年には、全国で3600センターを超え

ました。

昭和レトロ製作委員会         台場一丁目商店街自治会長     久保浩の平成と闘う日々
 

「トーナメントは年に70~80本、それにテレビ用の試合もありました。観客は

いつもすご い数で、帰りは裏口から出たことも」

しかし人々の熱狂は、昭和48年のオイルショックを境に一気に終息してしま

います。ブームはわずか数年のうたかたの夢のようだったようです。「でもね、

あの時代があったから、いまがあるんです」と中山さんは語っています。

その言葉どおり、昭和46年前後の大ブームを経て、ボウリングは市民権を

獲得し、誰でも親しめるスポーツとして、また手軽なレクリエーションとして、

日本に広く定着しました。

 

昭和48年(1973)のオイルショックをきっかけに急速に衰退してしまいました。

 

ボーリングも、再び人気が復活し、大会やTV番組もでてきました。


昭和レトロ製作委員会         台場一丁目商店街自治会長     久保浩の平成と闘う日々

 

昭和40年代のブームの時は予約も取れない人気ぶりで、子供だった私は

見るだけのレジャーでした。子供でも遊べたのは室内ゲームくらいでしたね。

 


昭和レトロ製作委員会         台場一丁目商店街自治会長     久保浩の平成と闘う日々

 

 

 

 

ご一読ありがとうございました!

 

 

 


昭和レトロ製作委員会         台場一丁目商店街自治会長     久保浩の平成と闘う日々励ましのclickを是非お願い致します!!m(..)m