四谷見附と、島崎藤村旧居跡と、心法寺(その1)と ~東京都千代田区の史跡・寺院・街並 | 九州下町おやじの珍道中

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2020年12月中旬、仕事で、東京都千代田区麴町方面に出かける用事があって、その途中、少し散策して来たんですよね。

 

 

この日、JR地下鉄四ツ谷駅から、四谷見附橋を渡って、麴町方面に進みます。

 

 

 

 

四谷見附橋欄干上の外灯。

 

 

 

四谷見附橋は、以前レポしています。

 

 

四谷見附橋の以前のレポ

 

 

 

 

 

 

 

四谷見附橋の下、JR中央線の線路は、かつてのお濠の跡なんですよね…

 

 

 

 

四谷見附橋の側面は、レンガ積みになっていました。それもイギリス積み…古いものなんですね、やっぱり…

 

 

 

 

四谷見附橋の東側、麴町側に渡り、四谷駅前交差点を左折すると、大きな石垣が見えて来ます。この石垣辺りは「江戸城四谷見附跡」。この石垣の上に、四谷見附御門があった訳です。

 

 

 

 

その石垣に近づいて…大きな切り石が使われていますね~

 

 

 

 

四谷御門の石垣の先にも、石垣は続いています。

 

 

 

 

この石垣の東側、道路を挟んだ向かいには、古そうな煉瓦塀が続いていて…このレンガ積みもイギリス積みですね~♪

こちらは、「カトリック女子修道会 幼きイエス会(ニコラ・バレ)」。カトリック教会の修道院になるんですね。この隣には、雙葉中学校・高等学校がありますもんね~

 

 

 

 

この奥の路地の住宅街、とある建物の塀に、史跡案内板を発見。

 

 

 

 

こちらは「まちの記憶 1937年 昭和十二年 島崎藤村旧居跡」。

昭和12年から6年間ここに住んでいて、「巡礼」や「ふるさと」などはここで生まれました。

 

 

 

 

六番町の路地から麴町大通り(新宿通り)に出ると、「千代田区町名由来板 麹町六丁目」という案内板があって…

江戸時代以前、この辺りは矢部村または横山村と呼ばれていましたが、徳川家康公が江戸に入った後に町屋となり、麴町となりました。

 

 

 

麹町と名付けられた由来については諸説あり、町内に「小路(こうじ)」が多かったためとも、米や麦、大豆などの穀物を発酵させた「麹」をつくる家があったためとも、また武蔵国府へと向かう「国府路(こうじ)」があったからともいわれています。

江戸時代には、現在の麹町大通り(新宿通り)沿いに町屋がある他は、寺社地と武家屋敷があり、安政3年(1856)には、常仙寺心法寺尾張名古屋藩徳川家中屋敷四ツ谷御門などがありました。

常仙寺は、別名「寅薬師」と呼ばれ、境内の様子が「江戸名所図会」にも描かれています(明治の末に杉並区へ移転)。

慶長2年(1597)に開山したとされる心法寺は、現在も町内にあり、信仰を集めています。

明治時代に入ると、印刷所や旅館、麹町勧工場などが立ち並ぶ商店街となりました。

 

 

 

案内板の下には、安政3年(1856)の絵図も掲示されていました。

尾張名古屋藩の中屋敷の敷地がデカいこと!

 

 

 

 

麴町大通りから延びる路地の奥にお寺があって…こちらが、先程の案内板にもあった「心法寺」。

 

 

 

 

境内を進んで、本堂。

 

 

 

 

本堂の近くには、覆い屋と宝篋印塔があって…

 

 

 

 

覆い屋の中には、お地蔵様がいらっしゃいました。頭の上や足元は白くなっていますが…

 

 

 

 

こちらは、「塩地蔵尊」。墓地の六地蔵とともに、200年以上前の麴町の史料にも記されている歴史あるお地蔵様なのですね~

 

 

 

 

心法寺」の由緒書き。

浄土宗の寺院で、現在の千代田区内では墓域を有する唯一の寺院です。

もともと心法寺は、推古天皇の頃に三河国に開かれた寺院で、当寺の寺号は「秦法寺」とされていたといわれ、慶長2年(1597)江戸麹町の地に2,000余坪の寺地を受けて改めて、心法寺を起立しました。

 

 

 

心法寺に伝えられる本尊「木造阿弥陀如来坐像」は、像高109.0cm(3尺5寸9分)、ヒノ材寄木造りで漆箔を施し、12世紀最末から13世紀第一四半期までの製作と考えることができます。

すなわち本像の像容・面貌は平安時代後期11世紀に仏師定朝が完成した定朝式に基本的にしたがうものですが、胸腹部など厚く量感をもった体躯などには、鎌倉時代初頭に成立した新様式の影響がうかがわれますが、後頭部、左腕の一部と右腕の全部など補修部分が多く、製作当所の像容をかなり損ねており、製作年代の確定を困難にしている点も否めません。

 

紙本着色仏涅槃図」も伝わっていて、沙羅双樹の下で釈迦が入滅する姿を描いた仏画。

縦182.7cm、横158.4cm。

図中に「伯喬図」との落款があり、伯喬は、「武江年表」元文元年(1736)8月の記事に「品川(北番場)大竜寺に、呉道子の筆南海補陀山鎮海寺立石観世音像を写して碑を立つる」とあり、享保・元文年間(1716~1741)に作製された作品であると思われます。

 

 

 

境内を進むと、真っ赤な紅葉が植わっていて、その下に、何やら置かれているようです。

 

 

 

 

覆いをかけられた梵鐘もあって…

 

 

 

 

由緒書き「銅製梵鐘

延宝4年(1676)に鋳造されたもので、開山当初からの鐘が破損したため、再鋳造されたとする説もあり、鋳造者は、神田鍋町(現在の神田鍛冶町3丁目)に居住した御鋳物師の椎名伊豫藤原吉寛です。

 

 

 

庚申塔

ここ心法寺の庚申塔には、日・月、青面金剛像、二鬼、三猿、二鳥が刻まれていて、側面の銘から宝暦2年(1752)に奉献されたと考えられますが、奉献の由来など詳細は不明です。

 

 

 

こちらがその庚申塔。結構古いものなんですね。状態もいいようです♪

 

 

 

 

古そうな手水石も…

 

 

 

 

この手水石の由緒書き「水盤」。

銘文によると万延2年(1861)2月に檀家である稲垣氏が寄進したもので、心法寺住職在誉上人が京都からの帰途に旧地である三河国(幡豆郡宮崎庄あるいは額田郡宮崎)に立ち寄って、「開山歴代の花崗石八角の墓碑」と「稲垣氏より寄進の大浄水盤」を造らせたという説もあります。

 

 

 

 

石灯籠。

 

 

 

 

古そうな石仏もあって…正徳5年(1715)の銘がありますので、昔の墓石のようです。

 

 

 

 

こちらも古そうで…

 

 

 

 

「その2」に続く。

 

 

 

 

島崎藤村旧居跡

東京都千代田区六番町13-10

 

 

心法寺

東京都千代田区麹町6-4-2

 

 

 

 

 

 

 

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