旧東海道神奈川宿ウォーク延長戦、横浜道ウォーク_前編。 | かながわ検定横浜ライセンス1級に合格したのでブログ続けてみました。

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 横浜のご当地検定である「かながわ検定横浜ライセンス」は2017年3月の試験を最後に終了してしまいましたが、その名前を忘れない様にブログのタイトルに付けました。
    そして、いつの日か「かながわ検定横浜ライセンス」が復活してくれたらと思います。

 

少し前に旧東海道神奈川宿ウォークで神奈川宿を巡りましたが、今回はその延長戦という事で、

旧東海道と横浜港を結ぶ道である横浜道を歩きます。神奈川宿の西の端にあった上台橋から、

旧東海道を西へ進み、浅間下の交差点の少し手前に、旧東海道と横浜道の分岐点があります。

 

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◎よこはま道(横浜道、よこはまみち)

 安政5年(1858)6月の日米通商条約調印によって開国にふみきった幕府は、神奈川(横浜)の開港を翌年6月と定めた。しかし、ミナト横浜の町づくりは開港3ヶ月前の3月になって、やっと工事が始まった。当時は、東海道筋から、横浜への交通はまことに不便を極めたことから、幕府は、東海道筋の芝生村(現:浅間町のこの地点)から横浜(関内)に至る「よこはま道」と呼ばれる道路を開いた。これは、芝生から湿地帯であった岡野・平沼の各新田を経て戸部村まで1直線に通ずる道路を築くと共に新田間、平沼・石崎の三つの橋を架け、併せて戸部坂・野毛の切り通しを開き、野毛橋(現:都橋)、大田橋(吉田橋)を架けたものである。記録によると、当時の橋の幅は3間(約6m弱)で道路もおそらくこれと同程度の幅員であったものと考えられる。なにしろ、工期3ヶ月の突貫工事であったことと、橋材が杉と松を使用した仮普請であったことから「3年ももつまい・・・」と噂されたが、それでも戸部村までの経費で、4470両かかった。新開地横浜への主要路として大いに賑わい栄えたこの道筋も、時代の移り変わりと共に大きく変わり、わずかに住時の面影をとどめるのみとなった。    西区観光協会 軽井沢自治会 浅間町1丁目町内会

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 歩道上には、旧東海道と横浜道を示すプレートが並んでいます・・・ ↓

 

    横浜道の説明が記された記念碑には・・・ ↓ 横浜道が描かれた浮世絵が展示されています。

    一番手前に新田間橋、その向こうに平沼橋、さらにその向こうに戸部坂が描かれています。

    

       最初は細い道ですが、すぐに大通り(新横浜通り)と合流します・・・ ↓

       

          大通りを進んで行くと、新田間橋がありました・・・ ↓

          

新田間橋は関東大震災で落橋・・・ ↓ 現在の橋は昭和二年七月竣功の震災復興橋梁となります。

 

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◎新田間橋(あらたまばし)

 東海道と開港場横浜とを最短距離で結ぶ横浜道の最初の橋で、新田間川に架かっています。開港後の錦絵などには反り橋として描かれていて、その偉容を示しています(長さ十間、幅三間)。横浜道は開港場へのメインロードで、多くの人がこの橋を渡って往来しました。大正12(1923)年の関東大震災によって落橋しましたが、震災復興事業の一環として再建され、昭和2年2月に竣工しました。(橋の銘板には昭和二年七月竣功と記されている)

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 さらに大通りを進んで行くと、平沼橋がありますが・・・ ↓ 平沼橋は渡らず、脇の細い道を進みます。

 

    平沼橋の脇の細い道を進むと、元平沼橋がありました・・・ ↓ 右上に写っている平沼橋は、

    後から架けられた橋で、こちらの元平沼橋が元々は平沼橋と呼ばれていた橋になります。

    

       橋を渡ると、再び横浜道の浮世絵がありますが・・・ ↓ その先は線路に阻まれ進めません。

       

          仕方がないので戻って、平沼橋を渡ります・・・ ↓

          

平沼橋の上から元平沼橋を見降ろしています・・・ ↓ 線路の向こうに横浜道は続いています、つづく。

 

旧東海道〓fab44〓横浜港