2019年10月7日の記事について、追記をしました。
全くの別件で作業をしていたところ、過去に別媒体で記録していたユングの言葉を見つけ、すぐに上記エントリ記事を思い出しました。

記憶に残っていたユングのこの言葉を念頭に記事を書いた当時は、それをどこで、なにで読んだかを見つけ出すことができず、引用文として挙げることができなかったのですが、今日、それこそ偶然に出てきて、本来の作業を放り投げて思わずこちらに時間を割いてしまいました。



あと、もう一つ気になったこと。
今日は124年ぶりに「2/2の節分」だそうです。
ユング心理学では数字にも象徴的な意味を見出しますが、昨年からのコロナといい、やっぱり「新しい節目」なのだろうか、と思わざるを得ません。


ちょうど最近読んでいたユングの著作からの引用で、今日は終わります。


私の言う心理学は経験科学です。
私もまた心理の動きを観察します。

そこでは、人は途方もない力をもつ自律的要因を扱うのであって、ただそれらの力の振る舞い方を研究するだけです。
天空の星の軌道を変えられないのと同じように、心の動きの軌道を変えるなどとは考えられません。
心(プシケ)は私より大きいのであって、私の掌の中におさまりはしません。

人間の生活について考えてみればおわかりのように、心理というのは最強の要因なのです。

私たちの理論的立場からすると、無意識が何をやろうとしているかを見て取ることは不可欠です。
そしてこれは、内なる声に神的な価値が帰属されていることを認めるべき事態です。
神的な力の顕現があるとき、それは自然現象の範疇のもとでくるのではなく、心理的事実として現れるのです。
人間の生活が劣等的であるとき、意識的な意志が乱されるとき、そこには神的な介入が見られます。無意識を通じての仲裁、強い力を通じての介入です。

原始の宗教的現象をふたたび体験するためには、その働き方に対する先入観がまったくない状態に戻らなければなりません。そこには善も悪もありません。(略)何にせよバイパスがあるかぎり、服従ということはありえないからです。


神は自分の好きな姿で現れることができます。


夢分析〈2〉 (ユング・コレクション)
C.G. ユング
人文書院
2002-06-01