それからどうやって帰ってきたのかは覚えていなかった。
胸ポケットの中にはまた戻ってきた小さな時計と、未開封の清涼飲料水を携えて、表情にすっかり色を失くした男が無言で交番に帰ってきた。
「おかえり。お疲れさん。」
「持ってるんだったらそれ、ちゃんと飲めよ。」
吉岡に指さされた清涼飲料水が伊丹の指から指へ、手首から下へと大汗を滴らせている。
「返せたか?」
「・・・・・・。」
青白い顔で返事の代わりに時計を自分のデスクに放置し、動けなくなっていた。






「行かない方が良かったと思うか?」
「分かりません。」
「行ってお前は何か変わったか?」
「分かりません。」
「だったらもう、警察辞めるか?」
迫田の言葉は鋭さと迅速さを持って心臓のど真ん中に直撃したような気がした。
まだそこまでの考えに至っているつもりはなかったが、ズキリと痛みが走った胸の奥深くを見透かされていた。
「辞めてもいいぞ、別に俺はお前をとめる義務はない。そこまで優しくはないからな。」
「自分は・・・でも・・・ただ・・・。」
「辞めても良いがお前は【それまでの男】になるだけだよ。お前の居場所は【ここではなかった】それだけだ。まぁ早い段階でそれが分かっただけでも儲けもんだろ?・・・なぁ?伊丹?俺達の【仕事】はそういう仕事だ。分かって来たんじゃなかったのか?」
初めて見る迫田の【刑事】としての顔。
いつもの緩めの笑い皴がすぅ・・と引き締まり、鋭く相手を観察するものに変わっていく。
「分かって来たんじゃなかったのか?」
低い声が同じ言葉を繰り返した。
「・・・逃げるなんて俺は思ってやらねぇから安心しろ。」
「そうだな、俺もそうは思ってやらねぇよ。でもさぁ・・・俺はお前にもう一つだけ訊きたいかな?の、前に。お前にお客さんだぜ?」
吉岡の親指が背後を指していた。
「お客さん?」
名指しされるほど覚えられた人間では無いと思っていた伊丹の目に映ったのは、最近泣かなくなり、佛岬家に行く直前に通り過ぎて行った例の小学生だった。
「俺・・・?」
伊丹と目が合った瞬間、小さな少年の顔がふわりと安心したように笑顔を見せていた。
「どうしたんだ?」
「すみません、僕、公園で帽子を失くしちゃって・・・公園の掃除のおじさんに聞いてもそこでは預かってないって言っててもしかしたら、交番かもと教えてくれて・・・。」
「帽子・・・?あ。」
明らかに子供用の麦わら帽子がつい先ほど【吉田のばあちゃん】の手によって届けられていたのを思い出した、同時に伊丹の顔の横にそれが浮かんでやって来る。
「これじゃね?・・・ほら。」
それは吉岡が運んできたそれを伊丹は受け取る。
途端に少年は見る間に喜びの表情へと変化していった。
「それです!!ここに、僕の名前、あるから。」
小さな指が伊丹の大きな長い指の横にある縫い取りの名前を指差す。
背負ったリュックサックには全く同じ名前がマジックで書かれて張り付いていた。
「そうか・・・。」
ふと振り向き迫田と吉岡に無言で確認する。
「良いぜ別に。」
了解を得て伊丹は少年の頭に直接、帽子を被せてやった。
「もう忘れるなよ。預けに来てくれたばあちゃんにはお礼言っておくからな。」
「ありがとう!伊丹さん!!」
「・・・何で【俺】なんだ?」
ふと出た疑問に少年の円らな瞳がくるくると動く。
「だって・・・伊丹さん、刑事さんでしょ?前ここによく来てたおじちゃんが言ってたの聞いたから。刑事さんって困ってる人がいたら助けてくれる人って、教えてもらったよ?」
真っ直ぐすぎる言葉が、迫田の言葉と正反対の方向から伊丹を貫いた気がした。
「じゃあね!」
伸びきったゴムひもを顎にかけて、少年は手を振った。
膝を抱えたまま微動だにしなくなった男に気付かずに。
「・・・だってさ。小学生にしてみたら全部刑事さんなんだろうよ。」
クスクス面白そうに笑って吉岡は伊丹の頭の上から少年の背中を見送っていた。
「・・・俺も刑事になりたいなって漠然と思ってた時期もあったよ。でも、それって本当にぼんやりしてて。何がしたくてこの仕事に就いたんだっけ?ってここでお巡りさんしながら考えてたんだけど・・・俺がしたかったことって別に犯罪者を逮捕したり、捜査したりってのじゃなかったことに迫田さんと一緒に居て気付いたんだよ。それ以前の話。この場所で住んでる人たちと『平和だねぇ』って笑いながら過ごす時間を守りたいんだなって。」
必死で顔を隠し、自分の腕で視界を黒く染め、何も見えなくなったその中で、吉岡の淡々と紡ぐ言葉が耳だけじゃなく身体に沁みていく。
「・・・俺が訊きたかったのは・・・。」



佛岬家を出てすぐの塀に、飲み物を買いに出たきり戻って来なかった娘の姿があった。
伊丹が出てくるのを待ち構えていたのだろう、近くの自動販売機で買ってきた清涼飲料水をぐいと押し付ける。
「・・・どうぞ。」
「・・・。」
「・・・受け取ってくれないと困ります。私も母も飲みませんから。」
不機嫌そうに無理矢理伊丹の手の中にそれを捻じ込んだ。
「どう見ても、伊丹刑事さんじゃありませんよね?」
「え?」
「父です。父が貴方の事を話す時は必ず伊丹刑事って言ってました。だからてっきり刑事さんとばかり思っていたんですけど・・・。」
ほんのりと影のある目が上下して、何か品定めをされているような気分がして居心地が少々悪い。
「・・・すみませんでした。」
様々な思いが綯い交ぜになり、伊丹は立ったまま深々と頭を下げた。
「何に対して謝るんですか?謝るんだったら私じゃないでしょう?勝手に呼んでいたのは父ですから、それに対する謝罪でしたら結構です、それとも・・・別の事に対して謝ってるんですか?」
「大変、申し訳ございませんでした。」
なおも謝罪を口にする伊丹に娘・・・知里は瞬間、柳眉をこれ以上にないくらいに上げる。
「謝ったら許されると思って仰ってるのであればこれ以上は無用です。私は貴方を決して許さない。貴方が時計をあの瞬間に返そうとしてくれていたら、父は今もここに居てくれたのに、母も父の持ち物を全て捨てなくてよかったのに、今のこの瞬間も!!!父は!!生きていたかもしれないのに!!!絶対に許さない!!私は!!!!貴方の事を一生許さない!!!」




「許されなくてホッとしたか?それとも、許されてしまって・・・後悔だけが残ったか?」
後ろの方から迫田の声がまた飛んでくる。
「分かりません・・・。」
絞り出した声は掠れて、伊丹が作り出したブラックホールの闇の中に消えていく。
「分かりません、何も・・・分かりません。」
「そうか・・・じゃあ悩み続けろ、時間はたっぷりある。ずっとずっと、悩み続けろ。俺もまだ、答えなんか出た事ねぇよ。」
「・・・許されたのかも分からない・・・でも、許されなくて・・・安心したわけじゃない・・・俺は・・・ただ・・・自分は・・・。」



知里は息もつかずに全てをぶちまけた後、真剣に伊丹を睨んでいた。
いつの間にか握りしめていた両の手の拳は、彼女の横でブルブルと震えて、今にも伊丹に掴みかからんばかりだ。
「一生・・・許さない!」
もう一度、吐き捨ててそれから。
「だから・・・貴方は、ちゃんと【伊丹刑事】になって下さい。」
「・・・っ?!」
「そして、一生、父の事を思い出し続けてください。母は今日、ここから離れます。父の持ち物を全て捨てたとしても、あの人は父の事を忘れることはしない。そんなの無理ですから。母に何を言われたのかは私は・・・・・【知りません。】けれど、貴方もあの場所から何処か違う場所に行く時も、そこからまた違う場所に・・・行く時も・・・決して父を忘れずに覚えておくこと、私が一生貴方を許さないと言ったことも、覚えておいてください、その・・・時計と一緒に。伊丹刑事、になって下さい。それが貴方に対する恨み言です。・・・さようなら。」



「なぁ伊丹?」
吉岡がぽん、と蹲ったままの伊丹の肩に手を置いた。
「お前は・・・何になりたくて、この道を選んだ?」










「え?それだけ、ですか?」
芹沢はたった二口、紅茶を口にしただけで話は終わってしまったことに、ぽかんと口を広げて右京を凝視する。
「ええ、それだけです。」
知っていることを話してくれた右京の方は、淹れただけで手も付けていない。
「・・・いやいやいやいや、紅茶一杯分も無いじゃないですか?」
「だから言ったでしょう?僕が知っているのは、然したる情報では無いと。」
まだゆらりと湯気が流れているカップをソーサーに置いて、芹沢は思わず苦い笑いを零す。
「いや、ちょ、ちょっと待って下さいよ。それだけって・・・それは無いでしょう?杉下警部。だって・・・。」
あまりの事に、それ以上は口をパクパクさせて発する言葉を探すが、さすがに芹沢も何も出てこない。
そのくらい、想像していた以上に右京の情報量は圧倒的な少なさだった。
「もう一度、言いましょうか?」
「いえ、結構です・・・。」
何度も言われなくても一発で覚えられる。
「伊丹先輩が交番勤務時代に出会った人の形見をずっと持っている。それだけですよね?」
「ええ。僕は詳しい事は聞きませんでした。話してくれた・・・亀山君は全て知っている風でしたけれどね。僕には詳しいことは何も。」
手元にあったミルクを落とし、くるりとティースプーンでひと回しして、やっと一口目を右京は口に含んだ。
「一つだけ詳しい事を言えるとすれば、遥か昔、まだ亀山君が捜査一課に所属していた時代、事件がらみでは無いのですが何かやるべきことを明日やれば良いじゃないかと伊丹刑事に言ったのがきっかけで大喧嘩になったそうです。彼の口と態度の悪さはいつもの事だと思いますが、それを踏まえたとしても相当な剣幕だったそうですよ?・・・しばらくして、伊丹刑事が亀山君に珍しく謝ったそうですが・・・その時に話を聞いたそうです。そう考えると、伊丹刑事が僕とは違う意味で細かいところが気になる事、気になることを決して後回しにしない事はその話の件から来ているのかもしれませんねぇ・・・。僕は想像の域を超える事は出来ませんけど。」
「・・・話してくれる時が来るのは・・・絶対に無い様な気がしてきました。」
芹沢は琥珀色の鏡を広げたカップの中に浮かぶ、自分の顔を覗き込んだ。
自分で思った通り、頼りないことこの上ない、情けないツラで眉も口端もしょんぼりと下がり、出てきた溜息がその姿を揺らして掻き消した。
「そうでしょうかねぇ?・・・僕はそうは思いませんよ。」
「・・・気休め言うのは杉下警部らしくありませんよ。」
「・・・ええ、僕は気休めは言いません。本当に思っていることしか口にしない主義です。亀山君は優しい嘘は得意でしたけどね。」
「え・・・?」
顔を上げた先、衝立を挟んで向こう側、右京は懐かしそうにコーヒーメーカーから立ち上る薫りを眺めていた。
「そろそろ戻った方がよろしいかと思われますよ。」
ここに来た時と同じ調子のまま、右京は微笑み芹沢を促した。



【伊丹刑事】となってから、もう随分過ぎていた。
あの日から自分は何か変わったのかだろうか?
そして、あの日に【分からない】と繰り返したことの答えは出たのだろうか?
「出てないな・・・何にも。」
様々な経験をし、悔しい思いも苦しい思いも一通り感じて、出会いも別れも繰り返し、もう二度と会えなくなった人間もいる。
追いかける事件は次々と発生し、いちいち考える時間が無い、それは間違いなく伊丹の【言い訳】にすぎなかった。
頭の片隅に必ずあった【時を刻むことを忘れた懐中時計】を伊丹が見る事をしなくなったのは、これを見る度に彼女の、彼の、彼等の、あの子の、悲鳴に思いに優しさに怒りに、押し潰されてしまいそうだったから。
蹲ることはしてはならない、それだけが伊丹が決めた事だった。
そうしたら最後、もう二度と立ち上がれなくなりそうで、【刑事】になった時、動かない時計を手に立てた誓いを守り続ける。
いつの日か出るかもしれない答えを見えない相手に叫ぶその日まで。
「・・・俺は、ちゃんと・・・やれてると思いますか?ちゃんと・・・これから先、やれると思いますか?貴方が想像していた俺に、なれてると・・・思いますか?」
初めて伊丹は尋ねていた。
出来る事なら、生きている彼にそれを尋ねたかった。
笑って教えてくれただろうか?
まだまだ足りないと分かっていても、伊丹を肯定してくれただろうか?
「・・・今更だ。」
はっと苦笑いを吐き捨てた、その時。

カチリ。

ハッキリと耳に直接、降ってきた感覚があった。
「・・・?!」
覚えがあり過ぎる音だった。
最期に一回だけ、初夏の日に聞いた。
ここまで彼の事を初めて思い返した自分の幻聴と聞き捨てるには大きすぎる。
手の中にあった懐中時計に微かな感触を覚えて、ぶわりと汗が噴き出した、
しゃらしゃらと鎖が不規則に踊る。
面白いぐらいに震えていた指で竜頭を一度だけ押した。





伊丹の手の中で、時を刻む仕事を再び始めた存在がある。
秒針は勿論、短針も長針も全ての活動を停止し、永遠に【その瞬間】だけを閉じ込めたままの筈だった。
実際、本当に閉じ込められたまま存在していた。
19時29分 15秒。
時は動き出した。
今まで頑なに、まるでその時間から【誰か】がやって来るのを信じていたかのように。
気の遠くなるような長い長い時間、愚直に待ち合わせの場所で待ち人を探していたように。
カチリカチリと、時間を刻み始める。
彼が言っていた。
彼女も言っていた。

この時計は【2人で刻んでいく時間】と。

気が付けば伊丹は手すりに沿ってズルズルと座り込んでいた。
動き始めた彼等の時間を手に。
もう二度と止まる気配を見せないそれを握り締めて、ふわりと空に向かって微笑みを浮かべていた。
一筋の涙を拭う事もせぬまま。