自己肯定感という言葉を聞いたことがあるひとは多いと思います。明確な言葉の定義はありません。似たような言葉には、自尊感情、自己効力感、自己評価、自信などがあって、それらの意味が明確な区別なく使われているのが現状です。

 

たとえばテストで満点がとれたから君はすごいと子どもを褒めるとします。子どもだってそのときは喜びます。でもそれは同時に、満点でなければ褒められない、満点でない自分はダメだというメッセージを内包している可能性があります。

 

どんな点数であっても、そのために努力したプロセスを褒めるという考え方もあります。でもそれも、頑張らないあなたはダメだというメッセージを含んでいる可能性があります。

 

こういう愛情の示し方を、条件付きの愛情と言ったりします。

 

でも人間、どうしても頑張れないときもありますよね。そういうときでも、それはそれで克服しなければいけない課題だとしながら、それとは別の次元で、そんなダメな部分も含めて自分は自分なんだと、ある意味無条件にあるがままの自分を受け入れられるメタな感覚が自己肯定感なんだろうと私は解釈しています。

 

私の知る限りにおいては、自己肯定感とは、社会的地位とか実績とか他者からの評価とかにかかわらず、どんなときでも自分は自分でいていいんだと思うような、ほのかな安心感のことを指すことが多いと思います。

 

それが自己肯定感なのかという言葉の定義は別として、そういう感覚がわかるひとは多いと思います。その時点で、そのひとには自己肯定感があるということです。

 

自己肯定感と自尊感情は非常に似ていると私は思いますが、自分の尊厳はいかなる場合にも傷つけられる筋合いにないという感情が自尊感情だとするならば、自己肯定感にはもうちょっとゆるいニュアンスがあるように私は思います。

 

「いい学校に行っている自分はすごい」とか「有名な会社で働いている自分はすごい」みたいなプライドとは違うってことはわかるでしょうか。もしこれが自己肯定感なのだとしたら、受験に落ちたり、リストラされたりしたら、自己肯定感は木っ端微塵になくなってしまいます。それってはかないものですよね。

 

あるいは、自分は血のにじむような努力をして全国大会に出たんだとか、何日も連続で徹夜して完成させたプレゼン資料で大きな仕事をとったんだとか、だからやればできるんだという実績ベースの根拠のある自信は、大切とは思いますけれど、過去の実績を上回る大きなプロジェクトや難敵を前にしたら、根拠がなくなって、自信も役に立ちませんよね。

 

そういうのは相対的な肯定感だといえます。それに対して、一般に自己肯定感といわれるものは、絶対的な肯定感を指している場合が多いと思います。

 

実際、プライドは高いのに自己肯定感はめちゃ低いひとというのはいます。むしろ自己肯定感が高いひとは、他者への肯定感も高くなるため、プライドをふりかざすようなことはしないはずです。偉そうに肩で風を切ってあるひとほど自己肯定感は低いんじゃないかと私は思います。

 

だとすれば、自己肯定感を高く保つのに、成功体験なんていらないとわかると思います。何ができるかできないかとか、ひととの比較に関係なく、無条件に自分を受け入れてもらえる経験をたくさんすればいいのです。

 

親であるならば、子どものことをかけがえのない存在、いてくれるだけでありがたい存在だということが、疑いなく伝わっていれば、表面的な自信や自己効力感が低く見えても、その子の内側にある自己肯定感は十分に高いと思っていいと思います。

 

※2024年4月18日のFMラジオJFN系列「OH! HAPPY MORNING」でお話しした内容です。