2025年と日本の80年周期説

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とうとう2025年になってしまった。

 

この図は私が以前から考えていたもので、日本の近代史は80年周期で動いているのではないかと思い図に書いてみたものです。

 

2025年という年は、日本が戦争に負けポツダム宣言を受け入れることになった1945年からちょうど80年経過した年で、1945年と同じように周期の底に達するのではないかと予想していたのですが、現実としては石破小数与党政権という全く希望が見えてこない政権で新年を迎えてしまいました。

 

では、日本が戦争に負けた1945年からちょうど80年前の1865年はどういう時代だったかというとこの時は日本において明治維新が進行していた時期でした。

 

具体的に書くと1864年に禁門の変が起きて京都において幕府と長州藩が戦ってここではいったん幕府側が勝利を収めるのですが、1865年をはさんで1866年からの長州征伐で幕府は返り討ちにあい、1867年に大政奉還が行われて250年以上続いた江戸時代が終わってしまったのです。

 

現在から160年前日本を統治していた江戸幕府も現在の自民党のように崩壊寸前だったのです。しばしば現在を「新しい戦前」と表現する識者がいますが、実は「新しい幕末」と表現することも可能なのです。

 

次に注目して欲しいのはこの図の1865年と1945年のちょうど中間にあたる年である1905年です。

 

この年は日本がロシアとの戦争に勝利してポーツマス条約が結ばれた年でした。この時に日本は世界において軍事大国として認められることになり、それまでに明治維新の時に諸外国から結ばされていた不平等な条約もほとんど精算されることになりました。

 

しかしこのような栄光も長続きすることはなく、敗戦までの40年間国勢は徐々に衰えていったのでした。

 

戦後を代表する作家であった司馬遼太郎氏はこの図にあるように明治維新から日露戦争までの近代史についてはいろいろな小説で書かれています。代表作である『坂の上の雲』はこの1865年から1905年の上昇曲線をとても良く表現されていると思います。

 

しかし、司馬氏は1905年から1945年までのことについて小説を書かなかったことは有名ですが、徐々に衰退していく日本に対して希望の持てる話などは書けなかったのでしょう。

 

さて次に注目して欲しい年は、日本が第2次大戦に負けた年である1945年と今年の2025年とのちょうど真ん中である1985年です。

 

この年はプラザ合意があった年で、日本がアメリカに対して多額の貿易黒字を出していたために日本が円高になることを容認した結果、円が240円から150円まで買われることになり、この結果ドル換算でそれまでのGDPが1.6倍にも跳ね上がってしまいました。この会議で日本は世界的な経済大国として認知されるようになったのです。

 

日本が戦争に負けた後に総理大臣となった吉田茂が進めた政策が「吉田ドクトリン」ですが、この主義の背景には吉田の「イギリスの植民地であったアメリカがイギリスを抜くほどの経済大国になった」ことが念頭にあったといわれています。

 

確かにこの政策は爆発的に成功し、アメリカが本当に日本を脅威に思うところまでいったのですが(こんにちのアメリカのチャイナ・バッシングより激しかった)、プラザ合意以後長続きはせずに金融政策を間違えてバブルを発生させ、それが破裂して今度はデフレになってそれから30年間抜け出せないという悲惨な目にあったのでした。

 

さて先ほど紹介した作家の司馬遼太郎氏ですが、彼はこれまた戦後を代表する学者である梅棹忠夫氏と仲が良かったようで、東谷暁さんが書いた『預言者・梅棹忠夫』にこの2人が日本の高度成長時代を大変に好んでいたことを書いていますが、この本によれば両者とも80年代の後半ごろ(つまりプラザ合意以後)から日本に嫌悪感を持つようになってきたようです。

 

特に梅棹氏は1996年に「私は、太平洋戦争を起こし、負けて降伏したあの事態よりももっと深刻なのではないか、日本は再び敗戦を迎えたのではないか、そう考えています」と語っているそうだが、実際にそうなってしまっているのが2025年の現在です。

 

このように日本の明治維新からの近代史は大きな山が2つあるように書くことができて、最初の山は「富国強兵」という軍事大国主義の成功と失敗で、時代の中心にあったのは明治憲法であり、官僚組織の中心は帝国陸軍で、政党の中心は政友会でした。

 

1945年からの2つ目の山は「吉田ドクトリン」が示す経済大国主義の成功と破綻で、それは平和憲法下で行われ、官僚組織の中心は財務省(旧大蔵省)で中心の政党は自由民主党でした。

 

そして2025年には失敗の原因がようやく誰の目にも明らかになってきたというわけです。

 

2025年がこの図のように一つの周期の終わりの年とすると日本は次の山に移行することになります。次の山の課題は、それまでの山が「軍事大国」「経済大国」と続いたのでおそらくは「政治大国」を目指すことになり、2065年にその完成形が見られるかもしれません。

 

しかし、今年の日本の課題はそのような未来を語ることではなく、日本の衰退を加速させた財務省とそれを制御することができなかった自民党に対するけじめをつけさせる年になるでしょう。

2025年1月から始まったNHKの大河ドラマ『べらぼう』を見て思ったことがあったので少し書いてみたいと思います。

 

この時代劇は江戸中期にメディア王となった蔦屋重三郎を描いたものですが、田沼意次が老中として活躍した時を経て老中松平定信が行った寛政の改革が行われた時代にあたります。

 

寛政元年は西暦でいうと1789年になりますが、この年の7月14日にバスチーユの牢獄が襲撃されることによってフランス革命が始まりました。

 

またアメリカがイギリスからの独立に成功し最初の大統領選挙が行われジョージ・ワシントンが初代大統領になったのも寛政元年にあたる1789年でした。

 

このように蔦屋重三郎が活躍していた時代は日本国内でも世界においても激動の時代だったのです。

 

実はフランス革命とアメリカの独立革命には共通点があり、それはどちらともブルジョア階級(中産階級)が主導していたことでした。

 

ジョージ・ワシントンが寛政元年に初代大統領に選ばれた時、投票ができた人はアメリカの総人口の6%ぐらいだったそうです。

 

つまり白人でアングロサクソンでプロテスタントで男性である、かなりの財産を持つ人に投票権は限られていたわけです。

 

この6%という数字は日本が明治時代に最初に投票できた人の総人口1%と比べるとかなり高い比率ですが、これを完全なデモクラシーと呼べるかといえば、かなり疑問が残ります。

 

また、フランスでも寛政元年にルイ16世が行き詰まった財政問題で何らかの解決策を模索しようと休眠中だった三部会を開かせます。

 

第1部会はカトリックの聖職者代表で第2部会は貴族の代表、そして第3部会が平民の代表で、この第3部会が中心になって革命を進めていったわけですが、平民の代表という人たちはどのような人々だったのでしょうか。

 

ジェレミー・ポプキンスの『新しい世界の始まり』という本には次のように書かれています。

 

「第3部会に選ばれた600人の中で圧倒的な存在を示していたのは法律の訓練を受けていた者たちだ。218人は判事や下級判事の職を持っていた。そして181人の人たちは自身を弁護士と規定していたのである。」

 

「第3部会に所属する人たちは、農民や職人、労働者などの人口に占める圧倒的多数を占める者たちよりも経済的には豊かであり、多くのものはぎりぎりに貴族と呼べるかもしれない階級で、普通の貴族と親しい関係を築いていた者たちだった」

 

平民の代表とは言っているがほとんどの人が法律の資格をもっており、階級的には貴族の下だったけれど裕福なブルジョア階級の人たちだったのです。

 

そしてアメリカで投票権を持っていた6%の人達とフランス革命を推進した平民の代表者との共通した考え方はメリトクラシー(能力主義)でした。

 

出自によらず能力により人間は判断されるべきだという考え方は近代という時代の中でかなり重要な思想を占めると思われますが、フランス革命でもアメリカの独立革命でもこの考え方はかなりの比重を占めると思われます。日本でも明治の時代にはやった立身出世がそうでしょう。

 

というのも、フランスのロベスピエール(弁護士)などは一般の大衆までを加えた革命を考えていましたが、彼の思想は結局無差別テロに終わり、アメリカの場合も南部の白人の資産である奴隷には手をつけられなかったからです。完全な平等は不可能であり能力のあるものが統治すべきだという考え方に収斂していったようです。

 

翻って日本の場合を考えると田沼意次のやろうとしていたことは、このメリトクラシー(能力主義)にあったのではないかと私は考えています。

 

だいたい彼自身が旗本の身分から老中まで出世したわけですから自分の能力にかなりの自信があったのでしょう。

 

さらに彼は出自に関係なく能力で人間を判断したので平賀源内や今回の大河ドラマの主人公である蔦屋十三郎が活躍できた場所があったのです。

 

しかし田沼意次のメリトクラシーは既存の武士エスタブリッシュメントにしてみれば恐怖でしかないわけです。

 

このままメリトクラシーを認めてしまえば、いずれ能力のあるものが政治をやるべきだという話になり、そうなれば幕府の意義など簡単に消失してしまうのではないか、と。

 

現にそれは1789年にフランスとアメリカで起きたことなのです。

 

そこで寛政の改革で老中になった松平定信は徹底的に田沼的なるものを弾圧することになり日本は寛政の改革から80年間さらに江戸時代を続けることになります。

 

ちなみに寛政の改革から明治維新までが80年、明治維新から日本の敗戦までが80年、敗戦からちょうど80年が今年の2025年なのです。つまりおよそ今から240年前に寛政の改革がはじまったのでした。

 

ただメリトクラシーの問題と江戸幕府の問題は寛政の改革以降も残り続けます。

 

戦前に活躍した外交ジャーナリスト清沢洌の『日本外交史』という本にイギリスの外交官であり医師であったチャールズ・ウインチェスターが明治維新直前に幕府へ次のように提言しています。

 

「代理公使ウィンチェスターの如きも、日本において中間階級の擡頭が必至のものと考へ、幕府の採用すべき政策として『封建貴族と半独立諸侯による同様な政治組織は、数世紀以前には仏国、英国にも存在してゐた。然し政府は常備軍の建設により、而して彼等の人民の商業と交通を制限することによつてではなく、中間階級の形成に助力を与へることによつて、彼等の地歩を贏ち得、而してそれを支持した』と欧洲史の示す事実を引用して、同じやうな政策をとることを勧告した」と書かれていた。

 

80年前に寛政の改革で弾圧したものを反省してもう一度田沼的なるものをやり直せという指摘だったのですが、江戸幕府はそれができていたら80年前にやっていたとこのありがたいアドバイスを拒否します。

 

その結果、江戸幕府はちょうど80年前にフランスのブルボン王朝が貴族より階級が下であった法律の資格を持つものによって終わりを迎えたように、生まれながらの武士である上士階級の下に存在する下士階級によって葬られることになったのです。

 

田沼意次も『べらぼう』の主人公である蔦屋十三郎も多才であった平賀源内も世界史的には最先端を行っていたものの、日本史的にはあまりにも早すぎた。

 

彼らが80年後の明治維新以降に生まれていたらおそらくはハッピー・エンドになったと思われるが、そうはならないのが辛い。

 

慶應大学の田中教授は今回のイランの大統領選挙で穏健派のペゼシュキアン氏が選ばれたことについて選挙結果が操作されたのではないかと疑っています。

 

私はそこまで断言することはできませんが、なぜペゼシュキアン氏のような人物が大統領候補になれたのだろうという疑問を持っていました。

 

アメリカの政治学者であるフランシス・フクヤマは『政治秩序の起源』という本の中でイランの憲法について少し書いている部分があるので、それを引用しながら今回のイランの大統領選挙について考えてみたいと思います。

 

「イランの1979年憲法は最高指導者に裁判権だけでなく実質的な行政の権限も付与している。彼は革命防衛隊や準軍事組織のバシジ隊を指揮することができる。;選挙で選ばれるように運動をしている候補者に対して、積極的に介入して候補をおろすこともでき、明らかに自分に有利なように選挙を操作している」

 

フクヤマはイランにおいて選挙が操作される可能性を指摘している点はさすがですが、普通のアメリカ人がイランに対して考えていることは民主化や国際協調を求める国民の願いに反して悪辣な指導部が強硬派を無理やりに当選させるというイメージですが、今回の選挙は田中教授曰くイランの上層部が積極的に穏健派のペゼシュキアンを応援したようなのです。

 

なぜイランの宗教指導者であるハネメイはそのようなことをしたのでしょうか。

 

フクヤマは後段でその理由を示唆しています。

 

「ビスマルクの憲法やそれを真似た日本の明治憲法のようにイランの憲法はある一定の行政の権限を皇帝ではなく聖職者の階層にあたえている。しかし日本やドイツのようにこの行政の権限が腐敗して憲法に規定されている聖職者が軍を指揮するのではなく軍による聖職者の支配を増大させている。」

 

やはりハネメイ氏は軍に対する統率力を弱めている可能性があるのです。だから現在イスラエルが戦争している状態でイランが革命防衛隊の強硬一辺倒でいってしまうとイスラエル(及びアメリカ)と戦争になる可能性があるので、今回の大統領選挙では穏健派を通すことにしたのでしょう。

 

果たしてアメリカとイスラエルが穏健派のペゼシュキアン大統領にどのように応えるのかは現時点では全くわかりません。

 

ただ最近の出来事を振り返れば、イランの穏健派に鉄槌を加え強硬派を勢いづかせたのはアメリカの方でした。

 

イランがきっちりと守っていたオバマ大統領時代にできた核合意(JCPOA)を一方的に破棄して更なる経済制裁を加えたのがトランプ大統領でした。その結果で大統領選挙に強硬派のライシ氏が当選したのです。

 

もう一つ例を挙げれば、2001年にアメリカが同時多発テロをビン・ラディンが率いるアルカイダから受けた時に、イランのハタミ大統領はアメリカに協力して隣国であるアフガニスタンの情報を詳しく流してあげたりして、かなりの協力が進んだそうです。

 

ところがブッシュ(息子)大統領が突然、北朝鮮、イラク、イランを悪の枢軸とかと言い出してこの協力関係を台無しにしてイランの反米派を盛り上げることをやってしまいました。

 

だから今回イランが穏健派を大統領に選んでもアメリカがそれに応える保証は全くないのです。

 

追記

 

『ニューヨーク・タイムズ』の記事によれば、ハネメイ氏の宗教行事に参加したイランのペゼシュキアン新大統領はハネメイ氏と一緒に大広間を歩いたそうで、このようなことは過去30年間なかったそうです。

 

さらに穏健派のペゼシュキアン氏はイランのガーディアン・カウンシルによって国会議員と大統領の候補になることを禁止されていた人物だったのですが、昨年の冬にハネメイ氏が介入してその禁止を解いたことも書かれています。

 

やはり何らかの理由から最高指導者は穏健派に肩入れしたことは間違いなさそうです。

 

https://www.nytimes.com/2024/07/16/world/middleeast/ira-new-president-profile.html