「霊魂論」エチカ詳解173(生と死2)
誕生は「ひとの子」として生誕したナザレのイエスのみならず誰しもが運命に抗(あがら)うこを成し得ないものですが、所謂、植物の天災による死や伐採による死、人間の環境破壊からくる枯死(こし)若しくは動物一般の仕留めとしての終末と人間の「死」には、釈尊の前世の虎物語はあるにしても、人間だけに許された「自死」の特権が与えられています。スピノザの云う「目的的自由論」自由意思の否定も人間だけに許された「自死」には当て嵌められないという「死」の特異性が際立ちます。人間の誕生と其れからの生涯はスピノザが説く如く「絶対目的」を受け入れる見地に立つと自由意思の否定は一応に承諾できますが、人間の意思による「自死」は「絶対意思」の?制によるとは言えない筈です。倫理学を掲げるスピノザが絶対意思・絶対意識・絶対精神の完全体が冒すことは矛盾します。逆転して捉えればスピノザの云う「目的的自由論」自由意思の否定は人間の自由意思による「死」には妥当しないことになります。ならば「死」は自由を愛する人間のこよなき味方と云えます。しかし言わずもがな、「死」は誰しもが毛嫌いする存在です。存在といいますが「死」は存在するのでしょうか或いは無存在な名目上の存在なのでしょうか、人間が史上に理性を獲得した時よりの課題です。
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