江戸川教育文化センター

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「諸国民」の意味するもの~改めて憲法前文を読み直す~

2020-09-14 | 随想
 8月の末になって、安倍首相が辞任を表明した。
7年8ヶ月の長期政権だったが、それは「憲法と立憲主義の破壊」の歩みだった。
付け加えて第一次安倍政権による「教育基本法改悪」と「教員免許更新制導入」は、その地ならしだったと言える。

 「憲法の破壊」は、安全保障の問題だけではない。
近代国家の柱としての「法治主義」をも破壊したことを忘れてはならないだろう。
人事によって法解釈を捻じ曲げた「集団的自衛権の容認」。
「森・加計・桜」や「go toキャンペーンの丸投げ」などの、「お友達優遇」は、平等や透明性を担保する「法治」ではなく、恣意的に行政を動かす「人治」にほかならない。

安倍政権を擁護する人は、「三権分立は香港にはない」「三権分立はブルジョアのイデオロギーだ」と言い放ち、中国共産党、習近平政権の香港政策を擁護した林鄭月娥行政長官を批判できるのだろうか?


 先月15日に、千鳥が淵戦没者墓苑で行われた「戦争犠牲者追悼、平和を誓う集会」に参加した。
平和フォーラムの藤本共同代表らが「誓いの言葉」をのべ、献花を行ったのだが、その時に「なるほど!」と思ったことがあった。
憲法前文についての話である。
高学年を担任した教員は覚えている方が多いだろうと想像するが、次のようなくだりがある。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

この部分について、「平和ボケだ」とか「現実は甘くない」などの批判をする人がいる。
確かに、片やトランプ、片やプーチン・習近平(なんなら、石原慎太郎とか)など、強硬姿勢を売りにする政治家が跋扈しているので簡単な話ではないが、アンダーラインに注目して欲しい。
平和を愛する「諸国民」とある。

「諸国家」でも「各国首脳」でもないのだ。
戦争になれば、戦場に駆り出され自らの命や家族の命を失うことになる「国民」なのである。
その「公正と信義に信頼する」ことこそ、本当の「安全保障」だと憲法前文は規定したのだ。
その根底には、直近の戦争で敵も味方も多くの命が奪われ、国土が破壊され灰燼に帰すという経験によって「二度と戦争はゴメンだ!」という強い思いを日本人が共有したということがあるだろう。


 この集会で社民党の福島瑞穂さんは、次のように述べた。

戦争ほど大勢の人の命と人生を根こそぎ奪い、破壊するものはありません。
戦争ほど人の人生を根本的に変えてしまうものはありません。
戦争ほど基本的人権を侵害し、環境を破壊するものはありません。
戦争ほど被害の回復が困難なものはありません。
そして、戦争は間違いなく政府の行為によって起きるものです。
だからこそ憲法前文は政府の行為によって、再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定するとしています。
政府が愚かにも戦争しようとしないように、主権者である国民がしっかりしなければならないとしているのです。


 この「国民がしっかりしなければならない」ということの中に、なぜ「諸国家」ではなく「諸国民」なのか。
「諸国民を信頼する」とは、どういうことかを考えるということも含まれるのではないだろうか。
今更であるが、憲法学習のヒントになればと思う。


-K.H-

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