宣伝屋というものは突拍子もないことを考えます。「妻の日の愛のかたみに」の柳川
ロケや、撮影前に起こったヒロインのもとご亭主から悪人に描かれているのではない
かのクレーム、そして問題解決なとが重なり、船越英二さんとは一緒に苦労した仲間
でした。
その後、月に一回開催される宣伝会議で東京撮影所に行くと、丁度「野火」(市川崑・監
督)が撮影中で、セットで役になり切るために断食してひょろひょろで頑張っている英ち
ゃんに会いました。
私は「英ちゃんがこんなに頑張っているのだから、私も何か特別な宣伝を編み出す!」と
約束して帰福。それから考えたのが、旧日本軍の戦車を街頭宣伝車に仕立てて街を走
ることでした。永田ラッパならぬ中島ラッパと笑われましたが、九州のある炭鉱で砲塔を
外した戦車をブルトーザーとしてまだ使っているとの情報をキャッチ、借り出しに成功、ベ
ニヤで砲塔を作りました。「野火」宣伝旗をたなびかせ、私が砲塔から半身をのぞかせて
博多の街をゴーゴーと走る・・・そこまでは良かったのですが、早速警察から呼び出されて
大目玉。車両の道路一時借用の手続きはしていたのですが、キャタピラで道路を著しく
傷つけてしまったのです。警察もまさか本物の戦車を走らせるとは思っていなかったらし
く、注意は受けましたが始末書さえ書かずに済みました。良き時代だったと思います。
いま思い出すと、半分はなんと馬鹿バカしいことをやったもんだと苦笑もしますが、それが
映画の宣伝屋なんだよとも思っています。
一度もお目にかかれずに50年が過ぎた訳ですね
私も九州に呼んでいただけたなら もっともっと良い思い出をたくさん作ってくださった事と思います
中島さんのように俳優女優の為に とことん情熱をかけられる方に出会えていたら…
また 人生が違っていたのかもしれませんね…
お会い出来るまで50年かかりました
でも お会いできて良かった…
南美川 洋子
船越英二さんの素晴らしい代表作でもありますが、また船越さんの素敵なお話・思い出をこれからも宜しくお願い致します(^_^)
本作並びに中島様考案のキャンペーン戦略は、後年の他作品にも影響を与えたような気がしてなりませんね・・。
結城昌治さんの原作で
新藤兼人先生他の脚本・深作欣二監督
丹波哲郎さん主演の
「軍旗はためく下に」(1972年・東宝&新星映画社)
は「野火」を意識・越えるような作品を目指されたのではないかと思え・・。
テレビ朝日&石原プロの
「西部警察」の記念すべき初回(1979年・渡辺拓也監督)は、
伊藤雄之助さん扮するフィクサーが軍事クーデターを企て、配下に米軍の戦車をジャックさせ都内にパニックを引き起こし、自衛隊の治安出動を扇動させようとするポリティカルフィクションでしたが、
当時、モスクワ五輪の放映権絡みで、ソ連ともパイプのあったテレビ朝日の三浦甲子二専務は
実際にソ連製の中古戦車を日本に持ち込み、撮影に使用するべく奔走したようですが、
色々な壁があり、結局、石原プロの小林正彦専務が日本国内のメーカーに懇願し、
特注で重機を改造し撮影されました。
この時、やはりキャタピラーは道路を傷付ける為に控えて欲しいと、撮影に際して警視庁から指導があったそうで、車体はタイヤ製で製作。
許可された撮影場所以外は、全て大型トラックに乗せて慎重に移動されたそうで、
ひょっと致しますと、この時の福岡での前例が映画・警察関係者の方々に浸透されていたのかも知れませんね・・(^_^;)
なにわともあれ、中島様の当時の御苦労・偉業は皆様にも衝撃だったでしょう。
そして、南美川様の御言葉には胸が熱くなりますね・・。
当時の中島様が永田社長のもっと近い側近・進言出来るお立場にいらっしゃれば、
南美川様始め、多くのスターの方々、そして大映の命運も違っていたかも知れません・・。
凄いですね。
旧日本軍の戦車、なんて
男性でなければ思いつかない発想に思いました。
船越さんは、
中島さまのご著書や、ブログで度々登場されますが
いつも穏やかな品格のある風情を漂わせておられますね。
「男はつらいよ」シリーズで
渥美清さんの寅さんから、
『パパ、パパ』と慕われる役を演じられてましたが
私は、この時の船越さんが一番好きです。
お久しぶりです。
10/17の舞台挨拶は素敵な一日になりますよう、私も願っています。
大映時代の私は、あれだけ本社や撮影所に行っていて、なぜ出会わなかったか、
貴女と紺野ユカちゃんもそうですが、不思議でなりません。
でも後からでも仲良くお話が出来るようになり、欲を言えばキリがないので、
そう思うようにしています。
まだまだこれからです、お互いに頑張りましょう。年末には大映会もあるので
必ず上京しますし、作戦を練りましょう。どうか元気でいてください。
英ちゃんはすべからく常識人で素敵な男でした。
そしてこの前は息子さんに会いましたが好青年で、皆でいい息子さん
だと褒め合いました。
英ちゃんの代わりに息子さんがより成功して欲しいと大映関係者のほとんどが
思っている筈です。
戦車の話はもう笑い話になれました。
前にも書きましたが、船越英二さんは素敵な人でした。
息子に厳しかったようですが、全ての事情が今になって判るような
気がします。
今ではいい息子になっていますよ。私たちもこれから応援しますので、
宜しくお願いします。
素敵なお話ありがとうございます(^_^)
小生、一昨年御逝去された偉大なアナウンサー
小川宏様にもお世話になっていたのですが、
小川様も船越さんは本当に素敵なお優しい方だと仰っておられました。
映画界の方々とも親交の深かった小川様は船越英二さんや宇津井健さんらとも仲良く御一緒にお食事されたりしていたようです(^_^)
余談ですが、フジテレビ「小川宏ショー」には大映関係者の方々が、ゲストとしてかなり生出演されておりまして、昭和41年のビートルズ来日の際には
「永田雅一社長のビートルズ観戦記」として、永田社長が有識者代表のお一人として、ビートルズ論を語っておられたようです(笑)
(永田社長からビートルズコンサートの思い出は伺っておられますでしょうか?(^_^))
船越さん、勝さん、田宮さん、宇津井さん、本郷さんら素晴らしい方々が「初恋談義」
「朝の応接室」「御存知ですかこの人を」等の人気コーナーに御出演されているのですが、フジテレビさんにはアーカイブがどれだけ保存されているのか・・(~_~;)
小川様に生前、ゲストの皆様の思い出を伺った事があるのですが、どうしても20年近い毎朝の生放送だっただけに、具体的な詳細・記憶が薄れてらっしゃり・・。
「総太郎さんから伺い、こちらが思い出す位なんですよ(^_^;)」と仰っていました。
「小川宏ショー」の最終回(1982年3月31日)をファンの方がYouTubeにアップしてくださっておりまして、
船越英二さんも駆けつけておられ、スタジオ・雛壇で小川様を暖かく見守っておられますので宜しければ・・(^_^)
船越さん・小川さん、きっと天上でも再会なさっておられるでしょう・・。
御子息の英一郎さんには近年、杉良太郎さんのパーティーでお目にかかったのですが、本当に紳士で暖かいお人柄を感じました(^_^)
英一郎さんは杉さんを「親方」と呼んで慕ってらっしゃるのですが、
小生ごとき一般ファン・素人に対してまで、
「親方がいつもお世話になっています(^_^)」
と笑顔で丁寧な御挨拶をしてくださり、恐縮するばかり(^_^;)
杉さん始め映画関係者の皆様は、
「船越英一郎さんは他人の悪口を一切仰らず、いつも、スタッフ・共演者の方々に暖かい心遣いをされる人格者」旨。
人間誰しも、悲しく苦難の状況もございますが、英一郎さんならきっと神様やお父上・船越英二さんからの暖かい御加護がある筈と信じております・・。
素晴らしい俳優として、これからも御活躍・御健勝をお祈りしております。
おつかれさまです
福岡の街をホンモノの戦車が走り回るなんて今ではとても考えられない位の衝撃的なPRです。
宣伝部員としての けんさんのアイデアと行動力の賜物ですね。
(以前、こちらのブログで この写真を拝見して良く確認せずに「九七式中戦車」と書き込んだのですが、良く見たら「九五式軽戦車」ですね。
私の早とちりでした、訂正してお詫び致します)
船越さんと共演されたミッキー・カーティスさんは今もお元気ですが、当時からスリム過ぎる位痩せて居てそのまま「敗残兵」の役が出来そうですね。
現在もスリムなままのスタイルを保ってらっしゃいますが。
反対に極限な飢餓状態の役作りの為に何日も断食して撮影に挑んだ船越さんは本当に大変だったと思います。
根性無しのワタシにはとても出来ません。(^。+;
所で先日、上京して、けんさんから以前、ご紹介頂いた 元大映の櫻井さまにお会いし、大映時代の会社の様子、システム、全国の館主さん達との関係、組合の事、永田社長のエピソード等、貴重なお話を沢山伺えました。
けんさんのブログ 楽しみにして居りますので これからもよろしくお願いしますです。
ビートルズについて永田社長から聞いた覚えはありませんが、
テレビにまででて語ったとは本当に驚きました。でも微笑ましいお話ですね。
船越家は色々あったようですが、英一郎さんが本当に活躍するのは
今からです。私も陰ながら応援している一人です。
桜井氏や巻さんと会ったり、貴兄は大映準社員ですね。(笑)
もと大映の人たちが、みんな歳をとり、亡くなる方も多い中で、
頑張ってくれているお二人なので、大映会は私も微力ながら協力しています。
戦車のこと、有難うございます。仰るように何とかして本物に街を走らせて
みたかったのです。勇ましかったですよ。