ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

イタリアの美のセンス … 早春のイタリア紀行(1)

2020年10月04日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

 (ヴェネツィア…1998年撮影のフィルム写真から)

   ※ アドリア海を航海してヴェネツィアに入ってきた商船は、ヴェネツィアの表玄関スキアヴォーニ埠頭に着く。船着場から望む対岸のサン・ジョルジュ・マジョーレ島は、その日のお天気や時間の移ろいのなかで微妙な変化をしながら一幅の絵となる。ヴェネツィアを訪れた旅人は、絵の中の人となる。

<1997年の最初のイタリア旅行のこと>

 イタリアに初めて行ったのは1997年。この時は急に、25年勤続の休暇を取れと言われた。それならと、日曜、祭日も合わせて8日間とし、たまたま目にした新聞広告を見て、えいっ、やっと、イタリア・ツアーに申し込んだ。

 イタリアを選んだのは、周りのヨーロッパ旅行経験者からイタリアが面白い(興味深い)と聞いていたから。

 急なことで何の予備知識も準備もなく参加した。『地球の歩き方』という本を手にするのも、この旅の後だった。

 世の中は「お客様は神様」という言葉が流行った時代だったが、旅行の間、小柄で、不愛想で、ぶっきら棒な若い女性添乗員が頼りだった。旅行中、彼女の笑顔を見たことは一度もなかった。だが、イタリアのどこかの街角とかイタリアの空港で、もしこの人とはぐれたら、子どものように途方に暮れるだろう。

 まだイタリア・リラの時代だった。

 ツアーの行程は、 [ ミラノ(泊) → ヴェローナ → ヴェネツィア(泊) → フィレンツェ(2泊) → アッシジ → ローマ(2泊) ]。

 正味5日間でつまみ食いのように次々と回るが、初心者にとって、ざっと見て回れて、格安で、取り合えずこれでいい。

 いずれツアーに入らず、自力で関空から出発する。そして、興味・関心のおもむくままヨーロッパの街を自由に、自分の足で見て回る。定年退職したらそういう旅に出ようと思っていた。高校時代からのあこがれだから、仕方ない。まあ、ぼつぼつと、ゆっくりでいい。

   実は、このイタリア・ツアーの2年前に、初めてのヨーロッパ旅行を経験していた。

 15日間の視察研修旅行で、ドイツ、スイス、フランスのローカルな都市を1都市ずつ訪問し、現地の関係者と交流した。

 このときは旅行会社の最優秀の添乗員が付いてくれていたから、一行は彼の後ろをひたすら付いて回った。

 研修とは別に土・日曜日には観光もした。バスの車窓から眺めたヨーロッパの牧歌的な田園風景や、訪ねたメルヘンチックな街並み、ゴシックの大聖堂の蝋燭の下で祈る人、ステンドグラスの宝石箱をひっくり返したような美しさなど、あこがれていたヨーロッパに深く感動した。空気に透明感を感じた。

 これが、私の最初のヨーロッパだった。

       ★

<イタリアの美のセンスはすごい>

 だが、2度目のヨーロッパの旅であるイタリア・ツアーに参加して、ドイツやフランスとは少し違う印象をもった。

 簡単に言えば (簡単にしか言えないのだが) 、壮大な古代ローマ文明はほとんど廃墟となり、中世のキリスト教世界が延々と続いたあと、時熟して14、15世紀に古代ギリシャ・ローマ文明の再発見があって、イタリアの各都市にルネッサンスの花が開いた ── それがイタリアである。

 今、私たちがイタリア旅行で見て回るのは、古代ローマ文明の少々の遺跡と、フィレンツェに始まりイタリアの各都市を彩ったルネッサンス文化、それに続くバロック文化の数々である。 

 そういうイタリアの街並みや、街を構成する建築物(大聖堂や宮廷や個人の邸宅や広場や橋など)、或いは広場に立つ彫像群、建物の内部を飾る絵画などを見て回っているうちに、ふと、天啓のように、フランスやドイツやスイスはヨーロッパの田舎なのかもしれないという観念がひらめいた。

 もちろん、近代化という意味では、今ではイタリアはすっかり後れを取り、一方、フランスやドイツやスイスは都会も田舎も豊かで透明感があり美しい。それに比してイタリアの街は、建物も古く、壁は汚れ、裏通りは言うまでもなく表通りもごみごみとして、車窓から見た農村も豊かとは思えなかった。

 しかし、それでも …… 洗練された美的センスという意味において、フランスやドイツは、未だにイタリアに追いついていないのかもしれない、と思った。

 イタリアの街角の広告用の絵や写真、ショーウインドウの飾りつけなど、目にするものが全てが、安普請かもしれないが感覚的に美しい。

 ローカルな宗教都市・アッシジで目にしたキリスト教関係の小さな土産物ショップのショーウィンドウのセンスは、パリの高級ブランド街のショーウィンドウのセンスに勝るとも劣らない。

 イタリア在住の作家・塩野七生さんのエッセイを読んでいると、時々、「その方が官能的ではないですか」などという言葉が出てきてどきっとするが、確かにイタリアの感覚的な美は、官能的なのだ。

 パリの星付きレストランが値段の分だけオシャレで美味しいのは言うまでもないが、イタリアのごく庶民的な店のパスタの味は、少々誇張すれば3千年の歴史を感じる。 

       ★

<フランソワ1世とレオナルド・ダ・ヴィンチ>

 (フィレンツェ/1997年のフィルム撮影から)

※ 写真左手の奥にフィレンツェを代表する大聖堂サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母堂)が見える。この大ドームは、フィレンツェに始まったルネッサンスの最初の大傑作だった。

 1515年、フランスのフランソワ1世は大軍を率いてルネッサンスのイタリアに侵攻し、ミラノ公国を占領。さらにフィレンツェ共和国に圧力をかけてきた。商工業者がつくったイタリアの都市国家の2、3千人の傭兵では、大国フランスが動員した大軍の前に全く手も足も出なかった。

 しかし、一方でフランソワ1世は、初めて目にしたイタリア・ルネッサンスの壮麗な建築物、彫刻や絵画の数々、古代ギリシャ・ローマ文明から得たルネッサンス的教養の新鮮な豊かさ、それに洗練された料理の味などに完全に圧倒されたのだ。自分たちがいかに大軍を率いた田舎者であるかを思い知らされた。

 翌年、彼はレオナルド・ダ・ヴィンチをフランスに招き、進んだイタリア文明の後を駆られたように追いかけ始めた。ダ・ヴィンチに対しては、彼がロワール川のたもとで死を迎えるまで、敬愛をもって遇しつづけた。

 フランス料理だって、その母体はイタリアから招いたイタリア人シェフたちである。

 英国やドイツや北欧諸国のルネッサンスは、フランスよりもさらに遅れた。

       ★

<パリの美しさは19世紀にできあがった>

  現在のローマ市は、古代都市ローマの上に、ルネッサンス・バロックの街として再開発された町である。

 フィレンツェやヴェネツィアは、毛織物業や銀行業、或いは、ガレー船で地中海に乗り出した商人たちがつくった新興の町だったが、その経済力が成長し頂点に向かっていく過程で、ルネッサンスの美しい街並みがつくりあげられていった。

 一方、パリが美しい街になるのは、19世紀のことである。

 地方から流入する人々によって、パリの町は拡張しスラム化していた。

 パリの道路は馬車がすれ違える広さで、道路の中央部は凹み、生活ごみがたまっていた。フランスにはトイレがなかったから、ヴェルサイユ宮殿の庭園でさえ、夏になると臭かったという。ルイ14世のヴェルサイユ宮殿でさえそうなのだから、ましてパリの街では、夜になるとマンションの窓からオマルの中が道路へ落とされた。それでも上品なマダムは、「落としますわよ」と下の闇に向けて一声かけた。夜、道を歩く人は、足元と頭上に注意する必要があった。(このあたりの事情は、玉村豊男『パリ 旅の雑学ノート』が面白い)。

 パリが今のように整備されていくのは、皇帝ナポレオン3世が、1853年にパリの県知事としてオスマン男爵を任命してからだ。シャンゼリゼ大通りやリボリ大通りが開発され、美しい公園も配置された。建物の高さもそろえられて、計画的に整然とした街並みが造られた。1889年にはエッフェル塔も建てられた。

(冬のシャンゼリゼ大通りと凱旋門/1998年フィルム撮影)

 もちろん、この大開発事業の過程で、多くの庶民は強引に立ち退かされた。権力が絶対的に強くなったときでなければ、整然とした街並みはつくれない。

   (早朝のパリ/2005年フィルム撮影から)

 いつの時代にも、「反権力」の立場に立ち、圧政にノーを言って庶民から拍手を受ける人もいる。

 しかしまた、時に政治は強いパワーを発揮して、目の前の大衆の利益に迎合せず、未来の国民のために投資することも必要だと考える人もいる。

 歴史の中で、人の考えはそれぞれだ。

 かつてオスマン帝国の大軍の包囲に耐えたウィーンを囲む分厚い城壁が撤去され、華麗なリング通りになったのも19世紀。

 フランスもドイツも、イタリアと比べると、新興国なのだ。

 

            

 

 


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