昭和2年生まれの雑記帳

一市井人の見た昭和の記録。今は思いも寄らない奇異な現象などに重点をおきます。
       

お知らせ 1月9日

2016-01-09 | 昭和初期
新年おめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。
今年はまだ3編ほど続きがありまして、その後、再増補するつもりですが、初期のブログが消滅しているかもしれないことに気づきましたので、その対策から始めることになりそうです。とまれ、体は至極元気なのですが、毎日10時間近い睡眠が必要な身で能率が上がりません。時たま、「お知らせ」を覗いて頂ければ幸いです。よろしく。

<増補修正版 50>家庭的小規模校へ転勤

2015-09-02 | 昭和初期
この稿は全編の中で最もみじめで書きたくない稿であります。<増補修正版 50>家庭的小規模校へ転勤
            意外な結末!

 家庭的職場
 勤続32年の後、幼年時代から42年ほど過ごした阿倍野区の学校へ転勤した。昭和55(1980)年4月である。初任校時代よりも少人数のこじんまりとした、職員間は家庭的な雰囲気の学校だった。―ここでは遂に3年担任をしなかったので、卒業アルバムを貰えていない。ということは、学級数の記録も、職員の住所録も持たないという、多分一般の職場では考えられない結果になっている。前任校も全てそうだった。緊急連絡網としての電話番号の小片だけは持っている。―放課後暫くすると、お茶の時間と定めてあるかのように揃って紅茶などを飲んでいたのも珍しく思えた。ここでは生徒が入って来てもお構いなしで、生徒も不思議そうな顔はしなかった。それまでの学校では、朝と、昼食前に職員室内の3ヶ所位に大きな黄色いアルマイト製の薬缶がどんと置かれて、各自そのうすい番茶を飲むことに慣れていたから。

喫茶店 5時位にはほぼ全員が退勤することは、この学校で初めて体験したことである。帰途同僚に誘われて大阪市南部のターミナル阿部野橋の地下の喫茶店でコーヒーを飲むのも初体験であった。前任校でのパチンコと、若い時1回限りの遊郭冷やかし以外は全く寄り道はしなかった筈だ。この喫茶店は短時間の中にも2~3匹はゴキブリがうろうろし、卓上まで登ってくることもしばしばで、後記するもう2つの理由と合わせて大へん嫌だったのだが、毎日のように渋々付き合い続けたのだった。この友人は歯槽膿漏を患っていたのか、同行すると、悪臭が来て嫌だったが、気がつくと自分も同病を患っていたのだった。


教頭の懸念 授業を終えて職員室へ戻ると、いつも教頭席の近くを通って自席へ戻った。すると1歳下の女性の教頭がどうでしたとたいてい声をかけて来た。このことは4月中位続いたか。確かどの学級も今まで経験したことがない位静かだったのに、何故かなとは思わぬこともなかったが深く詮索はしなかった。何事も突き詰めては考えない性格かもしれない。ブログを書くことで、初めて深く考え直したことも多々あるし、後になって思うと、自学級の授業の後で主に尋ねられていたのかも知れない。
 
豹変 5月上旬位に遠足があった。その翌日から、突如自学級の授業が騒がしくなった。遠足の時、体調を少し壊していて、大きな声で指揮できなかったのが引金になったとしか考えられない。この日から、今までにない統制の取れない学級に豹変してしまった。授業中喧しくなったので、それを叱った叱り方が気に入らなかったのだろうかと今考えてみるのだが、騒がしいだけでなく、中には立ち歩いたり、それを叱りつけると、他の生徒が、黒板へ小物を力一杯投げつけることさえあった。私に当てるつもりはなかったとは思う。1生徒が出席簿に一杯落書きするという今までには経験のない陰湿な出来事もあり始めた。
 
前校長の言い残し そうなってから、親しくしていた同僚からか、教頭からか、初めて聞いた話がある。この学級は、1年生の時に、既に身長が170㎝位(2年では更に大きくなった)の少年を中心にして、手のつけられない粗暴なクラスとなっていた。定年に近い上品な、一流会社の重役夫人が担任を投げ出したので、定年退職することになった前校長が、彼なら大丈夫だろうと私を名指しで担任に指名して去ったとのこと。その前校長とは、私が新任の年に無謀にもしたデモ参加阻止の発言を支持してくれ、何年間も時間割編成を手伝った6歳ほど年長の数学科教員であった。
 
後悔 前述した通り、校務はやはり教務ではあったが、初めての年のせいで、少し暇がありそうだったので、新任の頃の気持ちに戻って、学級ではいろいろ本も読んでやり、話もしてやろうと考えていた。定年まで8年間をそのように過ごせればよいがとも思っていた。初対面の挨拶の折には余裕があることは分らなかった。分かってすぐにでもそのことを話しておけば全く違った結果が生じたかと思うが、後悔先に立たず。前任校の荒れた学級以上に統制できない授業は続いた。

 担任降年 1年経って、新年度の希望に1年担任を書いた。それまで、飛び上がりは何度かやらされたが、下りたことは1度もなかった。このブログの本編は、我が生涯の屈辱の記録で、書きたくない気持ちが山々なのだがそうはいかない。そして、2年目は1年生の副担任で、授業は1年4学級と難聴学級の1,3年ということになった。
難聴学級というのは、耳の不自由な生徒だけを集めた養護学級であり、各学年6人程度で、至っておとなしい生徒ばかりだった。この学級を教えるに当たっては、1~2回だったか、聴力についての講習を受けた。自分の声というものは、他人の声を聞くのと同じように、声帯の振動で生ずる空気の振動を鼓膜でも聞くが、骨伝導でアゴから響いてくる音が主になるとのこと。知らなかった。録音した自分の声の方が耳で聞く声よりも真に近いということである。もちろん、器械の性能にもよるが。

  辞表提出? 年度末についに辞表を提出した。辞めることに妻は猛反対で、私の両親や妹夫婦まで巻き込んで説得しようとしたが、とうとう断行した。妻には勤務が順調な時からも、勤務の話は余りしていなかったから無理はない。今のひとには申し訳ないが、もう1年辛抱して55歳になれば年金が下りるという年であった。もちろん、大阪の有名塾の常勤として働く手筈は調えた。履歴書と、持参した私の著書『パターン式中学幾何』とで即採用決定状態だった。手取は3分の2になるが―。採用テストはあった。数学と、他に1教科選択で国語を選んだ。問題は同塾が行っていた全国中学生対象の高校入学模擬試験から、恐らく一番難しかった、生徒対象としては失敗作のを受けさされた。一応全部できたと思うが、ミスがなかったかは気になった。後から入ったひとが、結果を事務の主幹に尋ねたと退職してから聞いたが後の祭り。社交というか、そういったフランクさが私には欠けているのだった。
 
辞表撤回 学校からも、担任を難聴学級に変えるからと引き留められ、遂に退職を思い止まり、塾の会長も就任を1年延ばしてくれた。退職を思い止まった時には知らなかったのだが、難聴学級担任となったことで、給与が1号上がり、確か、教員としては頭打ちの号俸となり、これは退職金にもそのまま反映することになったのだった。1年我慢してよかった。3年目は難聴学級の1年生担任で、授業は難聴学級全学年と2年普通学級2学級で、その両学級の副担任とも記録しているが、学級活動の時間に3学級同時に臨むことは不可能だから、何かを手伝ったのか。教材研究も3学年分必要だから相当忙しかったはずだが、全く何も覚えていない。老化が始まっていたか。まだ54歳であったのに。

 娘の結婚 この学校での2年目に長女は見合い結婚をした。かなり前から、妻が娘1人の結婚にはこれこれの金額が必要だと言っていた。実は娘が貯めた給料などが相当あったことを知らずに、娘2人分の貯金はとてもないとの思いから、昼食は毎日、おにぎりとうどん。このおにぎりの包の開け方が今ほどには工夫できていなかった。ネットによると、コンビニが定着し始めた昭和60年頃、おにぎりの開封方法は各社で規格が異なり統一されていなかったとある。この記事は昭和55~57年のものである。学校近くのごく小さい食品店へ毎昼買いに走ったものだった。毎日のようにうな丼を取っているひともいた中でみじめな思いをした3年間だった。この栄養不足が次項の結果を招いたかと、今ひょっと考えたが、どうであろうか。
 
脚痛始まる
 突然両ひざが痛み出した。変形性膝関節症との診断。膝の屈曲部で、太ももからの骨をくるむように受けとる下側の骨の上部に、角(ツノ)状のとげが3本並んで上向きにできて、これが上の骨とこすれて痛むとのこと。歩いてはいけないと3病院で宣告された。と言っても、運転できないから通勤などで最小限は歩かざるを得ない。それまではよく歩いていた。エスカレーターは絶対に使わなかった。出勤時は短い脚で階段を2段跳びで昇った。土曜日の帰宅時は最寄りの駅からはバスに乗らずに2.5㎞位の道だから歩いて帰っていた。残念ながら、私の最終回の遠足、冬の金剛(標高1,125m)登山は10人ほどの生徒を連れてのロープウェイ登山となりはててしまった。

更に5年もするととげの部分が両脚とも1本ずつ減り,更に2~3年で全部すり減ってなくなり、その部分の痛みは全く解消し、いまだに、その部分には何の不自由もないという、どの医師も予言してくれなかった結果には至ったのだが。後年、両脚の、日によって場所を変える筋肉痛が始まり、今も悩まされ続けてはいるが。
 
再度の辞表
 翌年また辞表を提出した。また強く慰留された。前年度に過去最高難度の隔週交代可能時間割編集*を成し遂げているから、よけい必要とされたのだろう。今度は決意は変えなかった。
『47 唯一の3ヶ年持ち上がり 最活躍した1年生』に詳記。
 
退職挨拶 終業式の日は雨天だった。講堂があるのになぜか全校集会はせず、校長訓話などはマイクを通して行われた。私は教えていた在校生に最後の顔をさらさずにすんだ。マイクで簡単に挨拶して終った。思えば、初任校での就任式は、大勢の端に並んだものの、紹介されずに終ったのだった。               
                   
[終] 平成25年10月作成・27年8月修正

  他に少し片づけなければならない仕事がありますので、2週間ほど間が開くかも知れません。ご了承下さい。
昭和46年の出来事  

<増補修正版 49>同和教育校での苦闘 “目から火”の実体験

2015-08-31 | 昭和初期
<増補修正版 49>
         同和教育校での苦闘
            “目から火”の実体験

 不安的中 辞令は同和教育校に下りた。私の前任校と同じくかつては越境入学生多大で、大阪市の3大マンモス校の1つ、数学科の年長の同僚が教頭として赴任していた処だ。その彼が、私の勤務校の校長室へ入る姿を見た、前々稿に記した不安は適中した。通勤の電車も1度乗換えなければならなくなった。

 煙草荒らし 出勤初日、度胆を抜かれた。1時間目は空きで、一番広い職員室の中央部にいた。大方の職員は授業に出てがらんとしていた。するとである.3年生位のやゝガラが悪い女生徒が2人ドアを勢いよく開けて跳び込んできた。2手に分かれて、たちまち並んでいる机の引出を片っ端から開けて行った。煙草はないかと叫びながら。隣席の同年輩の先輩教師が小声で制止するので、黙って見送ってしまった。この子たちの顔はその後見なかった。生徒数が1.8千人程あったせいだろうか。職員数は前任校の隆盛の頃と変らず、百人程、学級数も40台半ば以上はあった。同和教育校ゆえに、1学級の人数は36名程度と少なかった。2人担任制で、1年目は担当副主任と、2年目は担当主任と組まされた。やゝ年下と年上とだったか。道徳の時間の同和教育は彼らがやってくれたので有難かったが、生徒からは軽く見られたことだろう。彼らは恰幅もあった。校舎は4棟に分れ、全て白亜の鉄筋で立派だった。他所ではまだまだ木造校舎の残る時代だったのに。金持ちの町として有名な南海帝塚山の駅から5百m位、一帯、立派な邸の前を通りすぎた所にあった。と呼ばれた人たちの大半はそこから奥2百m位の鉄筋のアパートというか、6階建ての今ならマンションという所に入っている家族の方が多かった。なぜかは知らないが、そこへ入らないで、玄関先に吊るした筵(むしろ)をくぐって入る粗末な小さな小屋とも言うべき家もごく少数あった。

同和教育校とは の家族が1世帯でも校下にある学校は同和教育校に指定されるfk。ここの学校のの生徒数はそんなに多くはなかったかと記憶するが、毎年私の組には1人いた。当時、同和教育校は大阪市に5~6校あったのだったか。大阪中央部の学校が特に荒れていることは聞いていた。私が東住吉区の数学科の専門委員だった時、年下の長年の相棒は、この学校へ生徒主事として栄転し、半年位で飛び降り自殺したと後に知った。彼の学校では全て平等で、校長室へも生徒の立ち入りは自由、校長の椅子も生徒用のだとは以前から聞いていた。私の学校では便所には職員・生徒の区別はない程度だったが。ちなみに数学科の専門委員は辞任を申し入れたが引受け手がいず、この学校で3年勤めた後に永年勤続の廃止制度が出て終った。その 間にも近畿と全国の大阪大会で研究発表をさされることがあり、何とかお茶を濁して終った。東京での発表の機会も1度あったが、内容にそれほどの自信もなく、他の専門委員に譲ったことだった。
 
予定の訪問時刻を知らせておくのだが、予定通り行かないで、だんだん時刻がずれてきた最後の方、やっと次の家に近づくと家へ駈けこんだ少女がいた。1万人近く教えた中で、この子は第1等級に礼儀正しく、言葉遣いがきれいで勉強もよくできた。この子の家はに属したのだが、の町も2つに分れていて、鉄筋住宅のある地帯よりは少し学校に近く、町の中にお寺があった処から“お寺派”と呼ばれていた地域である。この地域の人たちは立派に職業を持ち立派に家を構えていた。への補助金は受けていなかった。そうでない地域は、ごみ収集や、屎尿汲取りが公の仕事で給料がよいのか歓迎されていたようだ。私は翌年度は3年に上がることを拒否した数学科の年長者に代わって、その厄介な3年生の組に回されたので、この子とは無縁になったのだが、立派に準1流の公立高校へ進んだことを見届けている。

 殴られる方が悪い 1学期中の毎土曜日午後は同和教育についての研修会を、近隣同和教育校のどこかへ行って受けた。一番印象に残った内容は、生徒の場合、“殴られる方が悪い”ということであった。殴るにはそれなりの理由があるとのこと。運動場で生徒会長がの生徒に殴られている瞬間を3階から目撃した直後だったのでショックだった。告白するが,研修会の後、天王寺でパチンコをして,大抵は負かされて11時頃まで粘って帰った。体中煙草の臭いでムンムンしていたから、浮気ではないと安心していたと後に妻は語った。4年位して宿直制が警備員制に換わり、パチンコはぷっつり止めて老齢の警備員さんと碁を打つことに変えた。それまでの学校と異なり、他の誰1人、参加はおろか覗きにも来なかった。新しく変わった教頭には知られていたが、開き直った不貞腐れた気分でしていたことだった。

 合同保護者会 正式の会の名前は全く思い出せないのだが、住吉区で2校、隣接する住之江区で1校だったかの同和教育指定校の全教員・地域の全生徒とその親が私の学校に集っての会合が1学期半ば位にあった。主担と呼ばれる2人の若い学生上がりの男が、生徒に不満のある教員の名前を挙げよと呼びかけると、たちまち、数学科全員の名前が挙がった。前年の場合は1人1人檀上に上げられて、この先生について不満はないかと問いかけ、やはり、数学科全員がやり玉に挙げられたそうである。その後の主担の話がこうである。“H2O”なんてつまらぬことを教えていたら、窓ガラスを割って跳びだせと。完全に頭に来た。有名な植物学者 牧野 富太郎*は孫が1本の植物を示して、学校の先生はこれの名を知らなかった。お爺ちゃんなら知ってるねと言った時に、お爺ちゃんも知らない。もう1度先生に聞いてごらんと言って、教師にその名を伝え、教師を尊敬させた逸話を挙げて、 尊敬あってこそ教育は成果を挙げるのだと強く反論したのだった。その癖、主担らの口癖は、せめて、の中から医師を育てて欲しいというのだった。
 *文久2(1862)年~昭和32(1957)年。「日本の植物学の父」といわれ、多数の新種を発見し命名も行った近代植物分類学の権威。

 入込(入り込み)授業 週の授業担当時数は最初の2年間は今までより2学級少ない16時間と“促進学級”と名付けられた夜の解放会館での補習が6時間とで、今までより少し減少した。3年目からは、数学科24、他に道徳、学活各1時間程度で、今までと余り変わらなくなった。今までは3年生には5時間当てていたから、その場合は25時間だったが、それはなくなった。但し、“入込(はいりこみ)授業”というのができて、他教師が授業している教室で、練習問題を解く時は、主担者と共に机間巡視をして個人指導をすることになった。これは大声を出さなくてよいので、体力的に楽だったが、自分が入ってもらっている場合は、絶えず同科の教員に授業参観をされている訳で、精神的には少しきつかった。生徒を騒がせないための目的もあったろう。

 補習 週に2回位だったか、平日の夜、会館への子の個人指導に赴いた。数学科だけだったかと思う。国語科の教員は“識字教室”という名で、親たちに読み書きの指導に行った。いつの年のことだったか。私が担当した至って素直なおとなしい男子。顔も端麗。それはよいのだが、どうしても文章題から 2a+b の式が作れず、共に苦しんだ記憶がよみがえる。同じことは後に塾に勤めて、会長から特別に個人指導を頼まれた生徒でも経験した。苦い思い出である。多項式では、aやbの文字は 人や円などの単位と置き換えて、例えば、上の式は 2人+1匹(これ以上はまとめられない)と考えてみればよいとは教えていたのだが。

 塾問題 前記の側の主担は、度々、最低辺の子に焦点を合わせた授業をして欲しいと言い続けていた。その意味は分からないではない。しかし、前項のような生徒に焦点を合わせれば、授業は全く進まなくなってしまう。もちろん医師の卵の養成は無理だし、それでは大多数の生徒は放りぱなしになる。“能力別”学級編成が必要だと言ってたしなめられ、“習熟度”別と言い直さされた。しかし、それはやろうとしないものだから、やむなく、相当低い生徒にも理解できる授業を心がけた。できる生徒には“物足りない”処ではなく、既に塾で学習済で聞く気に慣れない授業である。調べた処、殆ど全員が塾へ通っていた。学校の授業に頼っていられないからだ。すぐ近所に「入江塾」というテレビでも報道された有名なエリート塾があり、灘高に大勢通るが、落ちた生徒は、合格発表のその場からすぐにバス(複数?)で鹿児島ラサール高校へ乗り込み、校内をデモして他校の受験生たちの肝を抜いたようである。その塾の生徒はこの学校にも、前任校にも1~2いたが、彼らはいずれも席を最後尾にとって黙々と高校程度のテキストの宿題を解いているから成すに任せていた。困るのは中程度の生徒である。塾で学習済であるから油断してつい雑談する。一言の私語も許されなかった学生時代を送った身には目について仕方がなく、つい叱っては嫌われて行くという常道にはまるのだった。この学校では、ごく一部の塾へ行っていない生徒だけが真面目な生徒であることが多かった。

 平穏な授業 夏のことである。廊下の通りすがりに開放された窓から、若い体格のよい温和な男性教員が自学級で社会科の授業をしているのを見た。生徒はざわざわとして、真面目に聞いている子がいるかどうかは分らない。しかし、彼は少しも動ぜずとうとうとしゃべり続けていた。何だか、声は生徒の頭越しに後ろの壁や窓外へ向けられている感じだった。私にはできない芸当だ。私語する生徒に一々注意するから嫌われるのだろうとは思ったが、最後まで直せなかった。

 台風の話 台風が接近した年があった。道徳、実は同和教育の時間1時間を、第2稿『室戸台風』の話に当てた。普段のこの時間はまるで聞く耳を持たない連中の多い学級であったが、この時ばかりは集中して最後まで聞いていた。ただ1人後端隅っこの生徒を除いては。放課後だったか、普段は避けようとする、そのの生徒が寄ってきて、あの話、面白かったそうなや。もう1ぺん聞かせてくれと言った。応じなかったが、それでよかったかどうかは今も分らない。

 授業・選挙監視 1度だけだったが、同和教育に熱心な労働組合の幹部が道徳の時間に、突然断りもなしに入ってきて、その時間中、教室の後ろにへばり付いていたことがあった。一般校での道徳の時間には、ここでは同和教育をすることになっていたので、守っているか監視にきたのだ。前項のことが聞こえたのか、普段からにらまれていたからかは分らない。それで思い出したのだが、労働組合だったかの役員選挙の時は、個室に1人ひとり入って、その男が右斜め後ろにいる位置で投票用紙に記入さされた。手元が見える完全な選挙干渉であるが、誰も非難の声は挙げなかったようだ。

 校長の椅子 驚いたことの1つに、職員会議の時に校長や教頭の定位置がないことがある。1番広い職員室へ小部屋の者は椅子を持ち寄って所狭しと陣取ることは前任校と同じだが、校長や教頭は中央辺りにはいるが、2人が並んでいる訳でもなく、適当に空いている所へ割込んでいるという感じだったこと。また、どのようないきさつからか、教員は日直をせず、校長・教頭が放課後開けっ放しの廊下の窓を閉めて回ったり、教頭がしばしば、ゴム長靴を履き、手にバケツやゴミ挟みを持って、運動場の水道付近にいる姿を見たことがある。この頃はもう、自分は全く管理職の柄ではないことは悟っていたが、これで、更に管理職への未練はなくなり、苦手な法律などの勉強をする気はさらさらなくなった。3年位後か、校長は市教委の指導室へ引き揚げ、教頭は他校の校長に栄転した。後を継いだ2人は共に屈強な感じのひとで、そんな姿は見せなかった。学校も少し収まってきていたかも知れないが。

 会議手当 月1回以上はあったと思う会議は毎回長引いた。延々と話をする若者が3人程いて誰も制止しなかった。その1人は学校側の同和教育担当者だった。正確なことは全く忘れたが、7時頃だったか、やっと話が尽きそうだと思いかけると、決まって新しい議題を提出する別の人物がいた。同和教育に関する会議には時間手当が出る規定になっていて、2時間(?)を超えると金額がぐっと増すので、それを狙ってのことに違いない。私は毎回、構わずに抜けだした。当時、南海線や国鉄はまだよかったのだが、それ以上遅くなると近鉄線への乗換えに、薄暗い始発駅で1人ぽつねんと30分位待機しなければならなかったのだ。この早退については誰にも文句は言われなかった。もちろん、早退部分の手当は請求していない。

会議でよく同和教育論をとうとうと述べていた中の1人、新卒の女性は実績を挙げていての話かと思いきや、1学期で投げ出して沖縄だったかに帰り、塾の講師になったとか。

 順調な年も 最初の年の1年生の―金蒔絵の茶碗の家―の子には、新学年早々、私が若い時よくやった頭上で手首を1振りして拳骨をコツンと当てることはしたが、その後はそんなこともなく、5年目、2度目の3年担任の時などは、級風もよく、気持ちよく卒業させたことだった。卒業式の後、学級ごと出門の時に、前期学級委員長だった真面目な人物が胴上げさせて下さいと言ってくれたほどうまく行った学級であった。この年は進学指導係で忙しい見込みなので、2人担任を希望したのだが、抽選で外れ、希望には誰も応じてくれず、数少ない1人担任でこなしたのだった。

 目から火 ただ1人のの父親とは思わぬ出来事があった。2学期末位だったか。夜、の保護者と教員の全体懇談会があり、主に親の側から要請や苦情も出ていたのだったか。その内容は全く忘れたが、会が終りかけた頃、私の組の保護者が突然、うちの組の担任はよくしてくれる。何の苦情も聞かないと発言した。台風の話をもう1度せよとせがんだ生徒の親である。我が子の自慢をしたかったのだろうが、自分1人、よい子にはなっていられなくて、連絡はしていないが、これこれの問題があると言ってしまった。さあ、彼は怒った。その後のことは覚えていないが、会議が1時間程延びて、間に合うと思っていた終電車への連絡がだめな時刻となり、その夜は市内の父の家へ泊まった。翌日午前のことである。校長に呼ばれて部屋へ入ると、件の父親がいた。目礼を済ませた途端、いきなりガンと左目の上だったかを1発力一杯拳骨で殴られた。目の中で一瞬火花が数発きらめいた。私と同じ位に小柄な校長は制止の声も挙げずにおろおろと見ているだけであった。別稿で記したように、私の骨密度が格別高かったからよかったが。

 ビール瓶 3学期に上記の息子が何だったかの問題を起こしたので、今度は夜、家へ行って、息子のいる前で父親に連絡した。すると、父親は黙って物干し台へ上がって行った。ガチャンと音がしたと思うと胴を割ってささくれ立ったビール瓶の首を握って息子に向かう。あわてて後ろから抱きかかえて止めた。この時、ガンガン燃えていた縦型円筒形の石油ストーブに化繊のズボンが触れたかして少し痛み、捨てる破目になった。この時はそれで終ったが、後にまた、息子が撲りかかってきたことがあって、壊れた眼鏡のフレーム代千円は親から取り立てた。

生徒に組みつかれたりしたのは、これが4度目、最初は新米教師の頃でこれは記した。2度目は初任校半ばの組の、卒業して4~5年目位の同窓会のことだった。その組で一番のワルだった、見るからに凶暴な顔をしていた男であるが、これは誠に心外であった。彼の就職は係に任せておいては心もとないと、忙しかった年だったが、週末だったか、日曜日だったか、家の近所を自転車で走り回り、ついに就職先を見つけてやっていたからである。ただ、小学校の教員のように、時たま、卒業生を出すのであれば、その後の消息をこちらから訊いてもやれるだろうが、卒業生が余りにも多すぎて、気にはかかりながらもそこまでは手が回らなかった生徒は毎回いた。何か不満が生じていたのだろう。この時は驚いたことに、組で一番小さい男が止めに入って、やくざの組の名を囁くと彼はたちまちおとなしくなった。止めてくれたのは、以前記した、ベンチで凍死した男と共に結婚祝いにきてくれた男であった。

3度目は前任校最終の頃、大へんうまく行っていた3年の学級での卒業が近い放課後、なぜだか、突然、身長は私より少し大きい位だが、肥満体質の男子に胸倉を掴まれた。この時はすぐに体の大きい学級委員長が止めてくれた。日頃注意することが多かったので不満が溜まっていたのだろう。

 校務 最初の4年間は教育内容検討委員―これが一般校で言う教務部―など。後2年は進路指導。この時に作った生徒用のテキストが次の学校で喜ばれることになる。

 クラブ クラブは自分から進んで起こさなかったら、バドミントン部を1人で持たされてずっと続けさされることになった。部員は女子だけだったかと思うが、私と入れ替わりに転出した前任の若い女性の指導がよくて、区、市、府と勝ち進むものだから、シーズンの日曜日は何日も潰れた。転居したてで家でしたいことは山積しているのにもどかしい限りだった。バドミントンは家の前の道路で娘たちとよくやっていたから、せめて部員たちとやって腕を磨けばよいのだが、以前書いたように、転居早々の、1晩の急激な土運びですっかり肩を痛めたばかり。ただ、見守っているばかりのもどかしさだった。2~3年後には、これも前に書いた通り、無理やりソフトボールに参加さされて、ジャンプしてボールを捕ろうとした激しい痛みの後軽快し、参加できるようになったのだったが。6年目に市4位に返り咲いた。

 居眠り 前稿に記した出版の無理がもとで、糖尿病は進行していた。今は相当な過眠症であるが、前任校の途中から、既にその兆しは生じていた。前任校で輪番の職員会議議長を務めた時、長い意見を聞いている途中から眠ってしまい、終った後で簡単にまとめることができず、ごまかしてしまった苦い思い出がある。ここでも、少人数の委員会の途中で意見を問われ、眠る前までの記憶で返答したら、後で1人の同僚に数学科なのに、非論理的だと皮肉られたことがあった。正直に言うべきであった。

 大峰登山 この学校からの修学旅行は初め長野、後、北九州だった。林間学舎は最初の頃は御在所岳だったが、後半は洞川(どろかわ)*・大峰山*2だった。ここは若い時の学校からも何度も行っているが男子が登る女人禁制の大峰山(おおみねさん)には1度も登らせてもらえず、いつも、女子と女人大峯と呼ばれる稲村ヶ岳*3ばっかりだった。本当は稲村ヶ岳の方が標高も少し高く、路もだらだら長いのだが、特に希望を述べたこともないからか、そうだった。処が、珍しく大峰山へ回ることになった。それも先頭指導との指定であった。若い時から、遠足の時はいつも落伍する子がいないか気遣って、結果的にはいつもしんがりになっていた。ちょっとした山路の急傾斜で一跨ぎしにくい障害物横で引っ張り上げた小さい女子は数知れない。同僚にも、生徒たちにも、体力のない脚の遅い人間と思われていただろう。自分でも脚が速いとは思えない。直前の日曜日、近くの、小川をまたぐ、バスの陸橋へ登山靴を履いて行って、30段位だったかの階段を何回も登り降りしたことだった。こうして無事任を果たしたのだった。但し、今も付き合っている、その学校に定年までいた英語科の相棒が、にらみの利く人物だったから、我々より前へ出ようとする生徒を制止してくれたからうまく行ったのだが。
 *大峯山から発し熊野川の源流ともなっている山上川のほとり、標高約820m余りの高地に位置する山里で、その冷涼な気候から関西の軽井沢とも呼ばれる。
*2標高1,719m。奈良県吉野郡天川村に位置する。この一帯は古くから修験道の山として山伏の修行の場であった。道場としての大峯山は、単独の山を指す名前ではなく吉野山から熊野へ続く長い山脈全体を意味している。その中でも山上ヶ岳(旧名:金峯山)の頂上付近には修験道の根本道場である大峯山寺山上蔵王堂があり、山全体を聖域として現在でも女人禁制が維持されている。何十年も前だが、男装した女性が登山後に発覚して話題になったことがあった。      
 *3標高1,726m。大峯山に隣接する。


 転出 6年と1日以内に転勤すると、また同和教育校へやられるとの噂で、7年勤めて、昭和48年4月、3度目の転勤をした。当時も、その後もずっと親しくしていた同僚は2人とも定年まで居続けた。2人ともにらみの利くひとであった。前記英語科と社会科の教員である;

 死去 先に挙げた同和教育の権化みたいな中年教師・私の授業を観察した中年教師・同和教育主坦で間もなく他校の校長に栄転した私の2年目の相棒・同和教育には中庸だったかと思うが、ボクシングが強いとかで、生徒ににらみを利かせていた体格のよい生徒指導主任、この4人は、定年早々位に相次いで亡くなられた。激務がさせた結果であろうか。合掌! 一番滔々 (とうとう) と会議を長引かせていたやゝ若手の美術科教員だけは消息を知らない。

  ここからは私的な話が多くなります。適当に飛ばし読みして下さい。

 転宅 以前にも記したが、この年の年末、遂に奈良県西部、西大和ニュータウン*に引っ越した。両親の近くにいつまでもいてやりたかったが、現JR阪和線の上に高速道路を付けるとの話で、四方を排気ガスの道路で囲まれることになり、その頃器官が弱かった長女のことを考慮して決断した次第。大阪の地は狭かったが交通至便であったので、幸い、高く売れ、建築費には事欠かなかった。
 *昭和38年2月、 関西電力・近畿日本鉄道・大和銀行・日本生命が連携して開発。同タウンの計画人口は3.5万人であったが、昭和51年2月.2.8万人に引き下げられた。当初1家族5人の想定を4人に引き下げたからで、少子化が始まった時期だったのか。町の住人は、上記4社の社員が断然多かった。

 オイルショック 折しも、年初から第1次オイルショック*が始まった。土地探しを始めた同時期である。なぜか知らないが、先ず、チリ紙払底の嵐が全国を吹きまくった。買い占めの行列姿がよくテレビに出た。土地探しに初めて同地を訪れた時、まだ家がまばらなニュータウンの駅前の煙草屋でならと尋ねてみても1束も買えなかった。品不足は次いで色々な物資にも及んだ。玄関のタイルも、工事を急いだので、希望の色を諦めさせられたり、トイレの給・排水管は間もなく錆が浮かぶ粗悪品だった。転居の日には新居の隣人の勧めで、これもなぜか知らないが醤油を少々買い込んで行ったことだった。
 *オイルショック(和製英語)は、昭和48(1973)年と昭和54年に始まった(ピークは55年)。原油の供給逼迫および価格高騰と、それによる世界の経済混乱である。世界同時不況とも呼ばれた。

 転校 この年の春、長女は高校進学、転校しないですむようにJR線から近い学校を選んだ。中1の次女の学校は、初任校で長らく一緒に教務もし、共に旅行もした先輩が校長になって赴任したばかりだったが、2年生に上がる時に地元校へ転校させた。
 
 
 土地造成上の法律 選んだ土地は両面道路で南側は道路と同じ高さで、そちらを表とするように計画されていたが、果樹栽培の面積をできるだけ広く取りたくて、地面からの高さが2~3mある傾斜のある道路に面した北側を玄関にした。この方が駅にも近かった。これがSハウスを恨む原因になるとは露思わなかった。表側は希望した以上に立派な厚い岩の崖で土地を囲み、門内、道路に並行して上がる階段は指定していたより広くて、庭をできるだけ広く取りたい当初の希望には合わなく、鯉を飼う池は諦めたが、その方が家の格が上がると結果的には喜んでいたのだった。処がである。36年後、庭仕事をしていて、突然の脚の痛みに襲われ、庭で30分間も立ち上がれずにいて、今までの果樹等の枝に登っての作業を諦めマンションへの転宅を決めた。果樹栽培とは書いたが、火山灰の庭土の一部しか取替えなかったので成績は不良だった。専門書まで読んで手は尽くしたのだが。








家を売りに出した処、早速買い手が着いた。大阪の医師だった。処がである。医師が調べた処、道路際の2mを超す矩(ノリ) の部分はコンクリートにするか、もっと傾斜を着けなければならず、我が家は不法建築であるとてたちまちキャンセルされた。言われてみれば、落成後に業者から渡された設計図の下端にずらり並んだ認印欄の1ヶ所だけ押されていなかったことには気づいていたが、それがそれほど重要なこととは思いもしなかったのだ。無知であった。もちろん、発覚後、プレハブの一流メーカーSハウスには強行に掛けあったが、新規購入者が造成し直す場合にのみ保障すると逃げ切られてしまった。不本意であったが、同席させた税理士資格を持つ娘婿があっさり条件を呑んでしまったので、腰砕けになってしまったのだった。玄関の崖石や階段の幅が指定よりも広かったのは,検査条件に近づけようとの苦肉の策だったのかと後から思った次第である。医師の時の値段を一挙3分の1値下げするとたちまち売れてしまった。


 交通事情
 入居した当初は、近鉄田原本線の駅まで徒歩で15分、これが30分に1本だったかで朝は超満員。自分の胸と前のひとの背中に挟まれた弁当箱等を入れた鞄は、手を離していても絶対に落ちなかった。1駅間の乗車で現JR王寺駅、間もなく1日の乗車人数が10万人を超える駅だ。前年にディーゼル車から変ったばかりの快速電車に乗って2駅で新今宮。南海高野線に乗換えて帝塚山へ。ここで当初2回だったか、間違って急行に乗ってしまい、堺から引き返す馬鹿をやったことだった。その近鉄線にも2度ばかり乗り遅れて、線路に沿った直線経路がなく、ぐっと迂回して小走りで30分程かかって王寺駅へ。もちろん、大の遅刻であった。駅前にタクシーはなかった。

国鉄スト多発 西大和の地に越した年、昭和48(1963)年の春から国鉄ストが頻発したようだ。転居したのは年末で、正直な処、それ以前のことは覚えていない。国鉄(日本国有鉄道)職員の給料も一般より低かったようだが、労務環境の改善は目標ではなく、自民党政権を崩壊させて、社会主義政権を樹立させることが目的だったとネットからは読める。これは中曽根内閣が昭和62年、国鉄をJRとして6つの会社と1つの貨物鉄道会社などに分割し民営化するまで続いたように思う。
 
他社線回りの惨状 国鉄のストの日は大へんだった。王寺駅から、当時でも国鉄でなら30分もしないで南海戦への乗換え駅まで行ける処を、近鉄生駒線という大部分が単線のローカル線(当時は確か30分に1本だった?)を40分位かかって北上して生駒(現住地)で乗換え西行、難波でまた乗換えて“コ“の字形に南行。最初の線の電車が大変だった。間もなく1日に10万人利用するようになる王寺駅の乗客の大半が殺到するのだから。駅ではロープを張って1列に並ばされ、改札では一定人数ごとに入場制限されるが、それでも、小型車両にぎゅうぎゅう詰め、4両連結位だったか。運よく座席に座れても膝の上まで前に立った客の膝がごりごり押して来るし、顔の前まで、そのひとの胸が覆い被さってくる。大抵は自分がその位置で、背中から押しまくられて前のひとの頭上に屈み込む姿勢で両手を伸ばして窓ガラスで支える。窓枠の位置にあたれば幸いなのだが、そんなことはなかった。ガラスが割れないか冷や冷やものだった。事実1回だけだが、近くで割れる音を聞いている。振り返って見ることもできなかった。

バス開通 2年近くして王寺駅と町の間の低地や小川をまたぐ陸橋ができてバスが開通。当初2年間は途中の白鳳女子短大等何もなかったので王寺駅まで直通状態5分となった。我が家から徒歩6分の所に停留所ができた。しかも、王寺駅からその停留所までが最低料金で、各方面行きの全てのバスが通るのでその3年位後、人口が増えてからは昼間でも毎時10分毎の発着となったのだった。そのバス停の北側すぐ背後はカラスが群集する竹林だったが、切り開かれて京大・東大合格率で有名な、塾不要でも知られる西大和学園高校が開校したのだった。我が家の2階、北側の窓からは遅くまで電灯が灯っている教室の窓が見えるようになった。昭和61年のことである。

 [サティ]オープン反対運動 バス開通後3年位したかも分からないが、近鉄の駅と我が家との中間地点にスーパー「サティ」がオープンした。町の目抜きの場所で、何だったかの公共施設予定地として開けてあった所だ。スーパー建設には町を挙げての反対運動が起こった。しかし、間もなく音楽を流さない、バルーンを上げない等の条件で妥協した。私は、それまでのスーパーを1ヶ所しか知らないが、田畑の向こうに遠方からでもそれと分かるように、垂れ幕を吊るした何本ものバルーンを立ち昇らせ、大音量で音楽を外へ流していた。反対運動を起こしたひと達は、それを嫌ったのだろう。条件を容れて上品なスーパーが誕生し、間もなくその隣や向いには工具や園芸用品のキッコリーや映画館もできて大層便利になった。後には我家から徒歩10分圏内にやや小型のスーパーが更に2店出た。それまでにあった小売店が何軒も潰れたのは気の毒であったが。パチンコ店だけはない。町の中央部に、小・中学校が隣接している為もあろうが、大約12平方kmもの土地であるから、普通ならできるのだろうが、当初から規制があったのだろう。至って静かな大阪のベッドタウンである。

                [終](平成25年8月作成・27年8月修正)

昭和46(1971)年の出来事

01/23 テレビ「8時だヨ!全員集合」が視聴率50パーセント。
02/22 成田空港公団、第一次強制代執行開始(~3.6)。
03/04 富士急電車とトラック衝突。電車脱線、17人死亡。
03/05 大阪刑務所内で印刷の阪大・大阪市大の入試問題売買発覚。
03/06 アサヒ玩具、「アメリカンクラッカー」発売。
03/26 東京都の多摩丘陵に大規模開発された「多摩ニュータウン」入居開始。
04/03 毎日放送・NET(現・テレビ朝日)系で『仮面ライダー』放送開始。
04/11 第7回統一地方選拳。
04/16 天皇・皇后、広島原爆慰霊碑に初の参拝。
04/27 防衛庁、第4次防衛力整備計画(四次防)原案発表。
05/14 群馬県で8人の女性を暴行殺害、山中に埋めた大久保清逮捕(大久保清事件)。
05/19 沖縄で沖縄返還協定粉砕ゼネスト、7万5000人参加。全国217カ所で抗議行動。
05/31 「毎日新聞」連載の横山隆一「フクちゃん」終了。
06/05 熊本市のネズミ講、第一相互経済研究所を脱税容疑で強制捜査。
06/17 沖縄返還協定調印。
06/27 第9回参議院議員選挙。
06/30 富山地裁、イタイイタイ病第1次訴訟判決、原告側勝訴。
07/01 環境庁発足。
07/03 東亜国内航空「ぽんだい号」、函館郊外横津岳に墜落、68人全員死亡。
07/17 江夏豊、プロ野球オールスター戦で9連続奪三振を記録(パはノーヒットノーラン)
07/20 東京・銀座にマクドナルドの1号店が開店。
07/30 岩手県雫石上空で全日空機と自衛隊機が衝突、162人死亡。
08/16 ドル・ショック。米国のドル防衛措置発表で東証ダウ株価大暴落。
08/28 対ドル・レート、変動相場制へ。
09/00 日清食品が「カップヌードル」を発売(カップめん)100円。
09/16 成田空港第2強制代執行。農民学生ら各所で抵抗、警官3人死亡。
09/29 新潟地裁、阿賀野川水銀中毒訴訟で原告勝訴の判決。
10/10 NHKが全時間、総合テレビの番組をカラー化。日本テレビもこの年に実現。
10/21 沖縄協定批準に反対の第1波全国統一行動。6百ヶ所150万人参加(11.19第2波、53.2万人参加。)日比谷松本楼全焼)。
10/25 近鉄大阪線総谷トンネルで特急電車が正面衝突、25人死亡。
11/11 川崎市で人工ガケ崩れ実験中、失敗し15人が生き埋め、死亡。
11/20 日活、ロマンポルノ路線の第1「団地妻 昼下がりの情事」など2本を封切。
12/18 土田警務部長宅に小包爆弾、夫人即死、四男重傷。
12/24 東京新宿の派出所で鉄パイプ爆弾爆発、12人負傷。

●世相 婦人警官制服,ミニスカートに/ディスカバージャパン/Tシャツとジーパンスタイル定着/爆弾事件続発/スマイルバッジ/アメリカンクラッカー
●歌謡曲
1 わたしの城下町 / 小柳ルミ子 
2 知床旅情 / 加藤登紀子 
3 また逢う日まで / 尾崎紀世彦 
4 花嫁 はしだのりひことクライマックス
5 さらば恋人 / 堺 正章 
6 17才 / 南 沙織 
7 京都慕情 / 渚ゆう子 
8 雨の御堂筋 / 欧陽菲菲 
9 砂漠のような東京で / いしだあゆみ 
10 雨がやんだら / 朝丘雪路 
11 昨日・今日・明日 / 井上 順 
12 女の意地 / 西田佐知子 
13 空に太陽がある限り にしきのあきら
14 真夏の出来事 / 平山三紀 
15 さいはて慕情 / 渚ゆう子 
16 あの素晴らしい愛をもう一度 / 加藤和彦と北山修 
17 生きがい / 由紀さおり 
18 ざんげの値打ちもない / 北原ミレイ
19 戦争を知らない子供たち / ジローズ
20 夏の誘惑 / フォーリーブス 
21 ふたりだけの旅 / はしだのりひことクライマックス 
22 翼をください / 赤い鳥 
23 別れたあとで / ちあきなおみ 
24 潮風のメロディ / 南 沙織 
25 誰もいない海 / トワ・エ・モワ 
26 熱い涙 / にしきのあきら 
27 青いリンゴ / 野口五郎 
28 月光仮面 / モップス 
29 中途半端はやめて / 奥村チヨ 
30 水色の恋 / 天地真理 


こぼれ話⑫  英字の筆記体

2015-08-12 | 昭和初期

   こぼれ話⑫  英字の筆記体


「今の子は筆記体を知らない」との記事を『読売ファミリー(2012.6.6号)』紙で読んで驚いた。20歳の息子が筆記体を見て「草書で書いた古文書のようだ」と言ったという。平成14年からの「ゆとり教育」以来とのこと。円周率を「3.1」としか学ばなくなってしまった年代の話で、立腹しかけたが、筆記体は本場米国でもサイン以外には殆ど使われなくなっているとのことでまた驚いた。印刷技術の向上や、諸機器の登場が原因とのこと。

私たちの頃はさっとブロック体を学んですぐに筆記体に取り組んだと思う。4本の細い横線が引かれた練習帳を15度ほど机と傾斜して右側を上げて置くのが先ず印象に残った。Gペン*と呼ぶ平たいペンで、文字により、中1段だけに納めたり、あるいは上2段、あるいは全3段を使用したりと、中学生になったんだとの新鮮な感覚を覚えたことがよみがえって来た。
Gペンを使うためには小さなインク瓶を持参したものだ。ちなみに、その頃の(安物?の)万年筆はすらすらとインクが出なくて、授業の始めにインクを出そうと振ることが多いものだから、床はインクが飛んだシミで点々だらけ。中には大きく振る馬鹿者がいて、制服の背中に縦か斜めに点々が付いている友人が何名もいた。私もその1人だった。
 

 *もともと英字を書くのに使われたペンである。おもな特色は軟らかいことで、この軟らかさは文字に強弱をつけやすいものとなっている。迫力が出やすいため、漫画、特に劇画に利用されることになったとのこと。Gペンの「G」に関して、“Wikipedia”によると昔はAペンからZペンまで作られていて、良質なGペンだけが今も使われている」という説もあるが、それが真実かどうかは定かでないという。

余談になるが、商業学校入学時に、英訳の時間は先ず発音記号から入った記憶が強い。筆記体より先だったように思う。既稿で記したように英作文を学んだ担任は一生で最悪の教師だったが、英訳の先生の授業には感謝している。音程には弱い自分だが、工専での僅かばかりのドイツ語の時間に、英語より少し気取って読んだ処、奥様がドイツ人の先生に発音を誉められて、もう1度読まされたのは私1人だけだったということもある。音程には相当弱い私なのにである。

                              〔平成24年6月作成・27年8月修正〕




<増補修正版 48> 機器の発達と計算尺・速記術

2015-08-09 | 昭和初期
<増補修正版 48> 機器の発達と計算尺・速記術
       参考書出版で覚悟の発病

小型計算尺 
テレビが相当普及するようになってからも、それに登場する研究所や工場現場の技師の胸ポケットには決まって小型の計算尺が覗(のぞ)いていた。ポケット用計算尺の細かい目盛りを読むためのカーソル*は凸レンズになっていた。戦艦大和の主任設計者は昼間、造船所で当時の計算機で行った計算を、夜は自宅で計算尺を用いて検算に努めたということである。

現在の小型計算機が普及するまでは、計算尺は本当に便利なものだった。対数の理論を利用して、掛け算や割り算を、計算尺上では、長さの足し算(継ぎ足し)や引き算(差し引き)に変えて読むだけで操作は至って簡単、特に比例計算の便利さは電卓の及ぶ所ではない。ただ、計算尺が電卓に席を譲らざるを得なかったのは,精度(有効数字の桁数)がせいぜい3(~4)桁であるという点にあった。計算尺上の目盛りを目で読むという所が致命的な弱点であった。なお、加減算は全くできない。
*C尺とD尺等、異なる尺度の目盛りを一致させるために透明版の部分に縦線を1~2本つけた補助具。
写真 計算尺 大小4種(ポケット用はない) 


計算尺の原理 下図は計算尺のD尺とC尺とで、2×3と計算して答の6がD尺に表された処を示している。普通の物指でこのようにすると、2+3となるのだが、対数目盛(左端が1)であるので、掛け算が行われるのである。上側のK尺にはD尺の立法値を目盛ってあるので、カーソル線だけ合せれば、C尺をスライドさせる必要なく答を読めるようになっている。比例計算も次々に答が出せる。
  


計算尺クラブ ここからは私の体験談である。私は奉職12年目に学校新聞からやっと解放されたとたんに、時の数学科主任に頼まれて計算尺クラブを起こした。以後ずっと週2回講習や練習を行なった。昭和34(1959)年のことである。その4年前から「大阪市立中学校計算尺大会」というのが行われていて、それに参加するためにである。最初の年は、3年生14学級(位)の各クラスから数学の成績トップの者男女各2名を強制的に参加させてくれた。どうしてそんなことができたのか、今不思議に思っている。大会参加はその中の数名だが、指導期間が短かったせいもあり、残念ながら、参加20余校中で10位くらいだったか。選手5人位の合計点を競う団体競技での話だ。その時の各個人の得点で同時に個人順位も定める。指導法は暗中模索、序々に改良を加えていったものだ。翌年は希望者だけの募集で新人ばかりながら19校中7位。授業が2年生担当だったので、部員は殆どが2年生だった。翌々年は、2年から上がったクラブ員で、一旦3位に上がったが、次年度また新人2年生で9位に落ちる。これが、前述した初任校最後の学級の生徒たちだ。

入賞への工夫 そして、年度末、前稿に記したように突然、隣のマンモス校への転勤がきまる。次の学校では、初めから計算尺クラブを起こした。前任校のクラブ員たちが計算尺クラブを存続させたことも前稿に記した。しかし、3~5年目は希望者が少なく、数学クラブの中の1題材として計算尺を扱う程度になっていた。その学校で6年目、やっと新工夫をした。9級から名人までの段級位制を布いた。全くの初心者の得点を9級、商工会議所全国大会個人1位者の成績より少しだけ上の得点を名人として、その間を対数的に、下位の得点差は少しだが、上位ほど得点差を大きく定めた。これで、部員は発奮した。私は、書物で手法を学んだだけで、器用なほうでもないので、たちまち、生徒に追い越されて行った。クラブの時間は、「始め」、「止め」の指示のためにずっとストップウオッチをにらんでいなければならず、自分は練習しなかったのだから。時計番を交代制にして、自分も練習すればよかったと後から考えたものだった。そして、その年すぐだったか、ついに、大阪府商工会議所主催の中学生コンクールで、団体市2位・個人1位。更にその翌年は、団体府2位・個人新記録1位の成績をあげた。2年から3年へと上がった同メンバーによる成果であった。昭和43,44年各11月のことである。

先見性 しかし、間もなく、まともには喜んでいられない事態となる。家庭用電卓がぼつぼつ普及して来たのだ。コンクールも、たしか、その年限り位で廃止された。私は、その優秀な成績をあげてくれた生徒に今も2つの点で、たいへん責任を感じている。1つは、計算尺の将来に対して、先見の明をもたなかったこと。家庭用電卓の普及はある程度は予想していたが、まだまだ先のことと踏んでいたのだ。もう1つは、彼の高専(5年制)志望に口をはさんで、大学進学(計7年)を目指して、普通科高校を勧めたこと。彼は2年生の時、私のクラスの生徒で、特に数学科の成績が抜群の生徒だった。翌年、組替えで、私とは全く関係のないクラスの生徒になっていたのに、廊下で呼び止めて尋ね、彼の進学方針を変えてしまったのだった。彼が大学進学後に、数学部へ入ったと知らされて、しまったと思った。その頃はまだ数学科卒は就職率が低いことを知っていたからだ。しかも、彼が大学を卒業する頃から不況の波が押し寄せて来て、彼の就職は不本意な結果となった。もう2年早く高専を出ていれば、結果は異なったものとなっていたろう。担任外の生徒に進学指導をしたのは、後にも先にもこれ1回だが、申し訳ない思いは消えることがない。

ここまでの、この手記は大分前に作成してあって、被災体験記と共に彼にメールで送った処、優勝したことは今でも誇りだから気にしていないとは言ってくれたが。その彼が勧めてくれたことで、このブログが誕生したことを付記する。

速記記者 ここで話が変わる。テレビの国会中継では、発言者用演壇のすぐ横の特別席で、速記をとるひとの姿や、交代のため待機するひとが映されるのがおなじみになっていたが、平成19年頃から姿を消した。コンピューターの音声認識システムが発達して、通常の質疑なら7~8割の語彙認識率に達してきたから、速記による議事記録は廃止されたようである。平成22年のネットの広告で、なお、衆議院速記士は公務員であり、速記技能検定1級必要とあったが。
※読売新聞大阪版ではコンピューターの音声認識システムは、全国で20以上の自治体が配備、大阪府は平成20年から試験導入し、速記士を2人から1人に減らしたとのこと。(21年6月記) 


速記料金
 ネットによると、方式に関わらず速記料金は1時間2.6万円程度である。速記したものを普通の文章に戻すには、その5倍の時間が必要とされるから、これは6時間分の報酬と考えるべきである。時給2.4千円強という処だ。他に派遣料1回1名につき6千円必要という規定もある。国会では1週間のうち2日は会議で速記し、残りの日は清書に当てるとある。年収は5百万円。月42万円(30代前半)ともある。公務員なので勤続年数によって昇給し、トップクラスの速記士になると年収1千万円以上。民間の速記士事務所とフリー契約して働く場合は年収400万円程とある。速記の方式は規定していない。何式であれ、読める文にすればよいのだ。

  速記の歴史 日本では田鎖綱紀が明治15(1882)年に田鎖式を発表したのが最初であるが、英国ではその280年も前にジョン・ウィリスによって、既に提案され、その20年後に『速記術』(Art of Stenography)が出版され、近代速記の父と呼ばれている。そして明治23年、帝国議会が開設され、議会速記が必要とされる時代を迎えた。帝国議会の貴族院・衆議院が議事の進行等について定めた規則には「議事速記録ハ速記法ニ依リ議事ヲ記載ス」との規定が置かれ、議会開設直後の第1議会からの発言が速記記録されることになった。当時は参議院式・衆議院式・中根式・早稲田式があったようである。このうち、現在新聞などで広告を見るのは早稲田式だけだろうか。早稲田式は通信教育に力を入れているようで、録音機器が発達した現在でも速記術は、並んで活躍しているようである。録音機器の方は、それを記事に直す“録音起し”が仕事で、やゝ特殊のワープロで速記する業者もあるようだ。

録音機は相当前から発達していたのに、どうしていつまでも速記術だったかというと、両者とも記録するのは簡単なのだが、それを文字に直すのがたいへんなのだ。録音機の場合は、聴き書きしていくため短時間ずつ機械を停めたり、進めたりが、瞬間停止ができなくていちいち必要な場所へ巻き戻す手間が相当厄介なはずだ。ひょっとして今はできる機器があるのだろうか。速記した文書は、それを見て普通の文字に書き直して行くのだが、速記文字は線の水平や垂直方向の20度ほどの角度の違いや、長さの違いによっても読みが変わるため、急いで書くと、どうしても読み直せないことが起こる。記憶が消えない間に書き戻しておかなければならない。
 
速記文字とは 私の学んだ方式は中根正親が大正3(1914)年に発表した中根流の流れを汲む“学生用”と銘打ったものでノートに収まりやすいように工夫されたというが、それでも「電気計測」を続けて書くと、後に記す短縮法を利用しても、縦に4行分は必要になる。2、30年も前にテレビで見た新聞記者は、ごく短い立ち話での取材で、次々と紙をめくっていた。1枚当たりに書ける字数は極めて少なかったと思う。以下に私の学んだ「武部式学生速記」の一部を紹介する。

基本文字 4または8mm程度の直線または曲線で、傾斜のあるものは20度または45度とする。


覚え方 私は速記文字を、平かなの中の1画と見ることですぐに覚えた。

(右図左端2つ参照、図の太線部分が“あ”と“た”の速記文字である。実際は普通の太さで書く)しかし、書いた文字を読むことはできなかった。モールス信号でも、打つのは下の行に添えたような覚え方が着いていたので、面白くすぐに全部覚えられたが、聞いて、すぐに文字に戻せるのは僅かしかないだろうと思う。

モールス信号(いろは文字の“い”から“へ”までと覚え方)

    イトー  ロジョーホコー  ハーモニカ ニューヒゾーカ  ホーコク  ヘ



しかし、いずれも読解にはまた別の工夫がいることに気づいた。1つ上の速記文字の図に戻るが、左から3つ目と4つ目で、それを示した。“あ、な、し”・“ふ、か、た”のようにして覚えられた。しかし、それは私の場合の話で、世の中には、記し方を覚えれば自然に読めるひともいるのではなかろうかと考えもする。若い教師の時の他級の生徒で、英語の辞書を覚える尻から1枚1枚むしり取って食べたのがいると聞いたことがある。“公害”の語がなかった時の話で、彼のその後の健康が心配なのだが、私など1枚だけでも覚えきれないのに羨ましい限りだ。囲碁や将棋の棋士も何十手も先まで読めるそうだ。私は入れ混じった配石なら、4,5手目も怪しくなるというのに。「上見れば上には上のあるものよ。笠着て暮せ 己が心に (道歌) 」の心境である。若者には聞かせてならぬ歌詞を若い時から知っていたものだ。少々脱線、多謝!
 

漢語の短縮
 2音の音読み漢字は、2音目が次のどれかになるものが多い。[イ、ン、ツ、チ、ク、キ、ウ]。これらの音に対応する記号として、それぞれ、円、小円、小楕円、小間隔、小突起、はみだし小円、弧を1音目の記号の頭に付けることで文字を2分の1近くに減少させて書く。   
右の例を見て頂きたい。             
(左から)関係  確実  印刷  納税

         
 速記術の効用 1 私は速記術を、終戦直後、学校が殆ど休校状態だった時に、1冊の本で独学したのだがその後の人生で随分役立っている。

終戦後間もなく、学校は再開されたが、書籍払底の時代、3年間(授業は正味1年半)で教科書またはプリントのあった科目は各1教科だけ。他は全て書物の口述筆記授業だった。初めは、級友同様、全言走り書きして、帰宅後何とか、清書らしきことをしていたが、往復とも、空襲被害のために所々で電車線路未回復のため、歩いてつながなければならない時代、通学時間多大でたいへんな難行だった。

そこで折角の速記文字の併用を決める。ゆっくり読んでくださるので、全言速記は簡単なのだが、そうすると、前述の通り、日がたつと殆ど読めなくなる危険性大である。そこで、くり返し出てくる術後と、多用する接続詞や長い常套句などだけを速記文字で表すことにした。一部思い出せた例を次にに示しておく。 
   なければならない   ことである     ものである    によって   けれども
 
   

                                
速記術はできるだけ速く書く必要があるので、線は短い方がよさそうなのに、ここの例では、特別に長い線が目をひくだろう。これは、短い線ばかりを書き続けると指が萎縮して強張るのを防ぐための工夫である。時々は、指をのびのび動かせてやることも必要なのだ。
 
上述したように、基本文字は、ちょっとした角度や長さの狂いで、後で読めなくなる危険大だが、私が利用した程度の種類なら、他と見誤る恐れはなかった。筆記時間に余裕が生じて、理解しながら書くことができ、たいへん助かった。ただし、ノートを級友に貸すことが出来ないので、自分も借りにくいということはあったが、幸い1人だけは気持ちよく貸してくれて欠席もしない真面目な友人がいて助かった。大分前に記した、数学の時間はいつもピンポンで負かされていた友人である。彼は30代で亡くなった。合掌。

  速記術の効用 2 速記文字は今も大いに重宝している。それは複数のキャッシュカードで暗証番号を使い分けているので、カードの裏に堂々と暗証番号を記しておけることだ。高齢で記憶力が低下してきている昨今、大いに助かっている。カードによって番号を取り違えることがないし、仮にカードを盗まれることがあっても安心だから。速記術は学ばなくとも、独自に数字だけの暗号文字を作成されておけば便利であると提言する。作成に当たって、次のことなど参考になるだろうか。子供の頃、理髪店の数字の符牒は算用数字の形から、1はシャー、2はのん、3は耳、4はヨット、5は寺などとしていると読んだことだ。実際に使われたのを1度だけ耳にした記憶がある。

  参考書出版・発病 昭和40年、幾何の参考書兼問題集の出版を思い立った。翌年度の担任除外を願い出た処許された。マンモス校に転勤して、2年生、3年生と2年間担任を務めただけだったが、校長が指導主事から来られた学者風の方で、校長会が発行し始めた教員の雑誌に投稿を勧められ、早速実践記録など2点を応募採用されて認められていたからかも知れない。幾何は,新制中学校発足当初の4年間は扱わず、次の7年間は“相似”まで。自分自身が商業学校で1年間だけ、ごく簡単に“平行四辺形”の入口までを学んだだけだったのを、中学校の指導要領が高度化するにつれて、昭和33年度から初めて“円”も扱うようになっていた。自分自身が勉強して会得した、証明問題の着眼点の分類化を、前に記したブロック共同研究の「補助線の引き方」も添えて出したかった。研究発表の気持が強い出版であった。目的達成のためには発病もやむを得ないとの強い思いで始め、案の定、そうなったのだったが――。校正などの便宜のため出版社は大阪でと思い、初めに駸々堂へ全体構想と20p.分位の原稿を持ち込み断られた。次に、今はない、家からは現JR線1駅の、娘2人が使用した小学校用ドリルで名前を知っていた鷺(さぎ)書房へ持込み、丁度、中学校用も始めたい処だったと歓迎された。専門委員の履歴や、学校新聞入選の履歴が役立った。『パターン式中学幾何(きか)』と名づけ、5教科のシリーズ物とすることになった。他教科の著者の紹介も依頼されたが、代数しか紹介できなかった。

  原稿作成の大苦労 例題や練習問題の殆どは、当時の大阪全市1冊の電話帳位に分厚い旺文社の『全国高校入試問題集』過去3年分位の入試問題から採った。近畿の入試問題集は5年分位、これは全国ので適当なものが見つからない時に探した。各パターンに対応した23枚の古封筒に切り抜いた問題を入れて行くのだが、図を見て、ありふれた問題だと思っても、思いもよらぬ質問のこともある。問題候補の分類だけでも、相当な難行だった。問題収集・原稿作成・2度の校正の各時期の間隔が相当開いているので、複雑な問題は内容を忘れていて、問題からしっかり読み直し、その度に一から解き直さなければならない。これが学校新聞の原稿であれば、自分で書いたものならば、数値以外は原稿と比べ合わす必要はなかったが、この場合は自分で解いた解答自体に誤りがある心配もある。相当疲れてもきていたので、後の校正の大部分は、市の指導主事・専門委員会の副部長・府大数学部の学生(計算尺の猛者)の3人に分担して頂いた。その間にも原稿作成はまだまだ続いた。

1年位で原稿を仕上げるつもりだったが、2学期から、またも転出者の穴埋めに3年担任を持たされたことと、会社がなるべく厚い物をと言うので、止せばよいのに灘高などの問題も相当採用したので、自分の更なる勉強にはなったが、仕上げまで2年以上かかって会社の方に心配をかけた。途中から疲労も相当加わっていた。この厚い物主義は、後に、天王寺高校の義弟から達成感を得るためにはもっと薄い方がよかったと言われた。小学校の参考書は親が選ぶので、子供への期待から厚い方が売れるという経験が会社にはあったのだろうと考えたことだった。章末もぎりぎり詰め込んだのだったが、もっと白い部分を残した方がよかったとも義弟に言われたのだった。

  出版で発病 執筆作業はたいてい夜の9時頃、学校から持ち帰った仕事を終えてから。大阪の家は平家ながら、応接室があったので、そこの道路に面した窓際の装飾品置き場の棚を机にし、その下の物入れに脚を突っ込んで午前1~2時まで頑張った。冬の暖房はまだまだ豆炭や練炭もあった時代だが、電気ストーブを使ったので、子供の時のように、火が消えかけて手間を取られることはなかった。猛暑という言葉を当時もよく使ったかと思うが、クーラー等ない時代なのに今ほどに暑い日はなかった。書中見舞状で30度を超す日が続くと時々書いたのを覚えている。今と4~5度違う。気象台の日々の平均気温が10年毎に改訂されて、その度に上昇しているから間違いない。と言っても特別暑い日には若い女工さんでも、上半身裸で、背中に濡れタオルを載せて働く姿が新聞に載ったりはしていた。もちろん、地球の変動やCO2放出量の増加が主因だろうがクーラーからの放出熱で余計に都会は暑くなっているだろう。やゝ脱線気味。家族が寝静まり、窓の外の往来の音も途絶えてから、そんなにして頑張ったことを記したかった次第である。

3年生担当の3学期には校務のために殆ど執筆作業はできなかった。2年目の夏休み前の短縮授業の頃には、食欲がなくなっていたので、昼食は蕎麦1杯だけかき込んで、出版社まで追加の原稿や仕上げた部分の校正を届けたりしていた。人間ドックで検診は受けていて、「糖尿病の疑い」と指摘されていたのに、無知にもそれが怖い病とは知らずに放置。1年後にドックから警告の通知を受けて初めて大病院へ。糖尿病と診断されて、食事量腹7分目位にしたら、3ヶ月ほどで血糖値が完全に下がり、医師を不思議がらせた。しかし、目に見えて記憶力が低下して来たので、無糖で飲んでいた紅茶に蜂蜜を加えるようにして記憶力がある程度は回復した。(再発時のことは、『恨むべしDDT!』で記した)以後服薬から、インスリン注射へ移行、それも1日1回から3回に増加して、注射の都度時間を取られるのではあるが、お陰で、失明や腎症などの3大合併症2つには無縁で、神経障害だけにはやられているらしい。これはずっと後に現れたのだが、脚筋肉のしつこい痛みである。脚の痛みは、骨密度検査で若者以上に素晴らしいと、検査した若い女性が驚嘆の声を挙げて驚いて間もなく、JRの陸橋の階段を2段跳びで走って上がり、走り降りて電車に跳び乗った2日目から始まった。あちらこちらの病院で脊椎間狭窄症はじめ色々な名前を付けられて、きつい注射も3種、50本以上打った。鍼灸にも通ったが効果はなかった。現在は坂の多い町を往復1㎞程歩いたり、電動自転車で荷物を運ぶと、後何日も両脚の各部が痛み、3日目位が一番痛む。強く痛む箇所は日によってやゝ異なるが、左右対称である。痛みが治まるまでにまたやむを得ず動くので、年中痛んでいて、小距離しか歩けない。ネットでやっと見つけた病名“糖尿病性多発神経症”に近いが、もし、何かを教えて頂ける方があればぜひ、コメント欄へお願いします。なお、現在は、胃腸薬も飲みながら比較的元気であるが、1日10時間近い熟眠が必要になってきている。若い時に経験した不眠の辛さよりはましだが、時間不足の悩み大である。よろしく御指導お願い致します。

 美妙な幻影 書く機会を逃していたのだが、西成の名医に出会って胃腸が強くなる以前のことである。近所の医師からは自律神経失調症と言われていた時期があった。その頃、2回、実に奇妙な経験をした。最初は明るい庭で1時間ほど働いた後に、やゝ暗い室内へと縁を上がりかけた時、2度目は出勤か帰宅で、明るい池のほとりの路を歩いている時。身の周り、頭の先から足下まで、細い体を1倍半ほど膨張させた不規則な、天女の羽衣のような形で、キラキラと激しく動き回る9層も10層もの、絹よりも薄い青や紫の、実に美しい電光のヴェールに包まれたことがあった。その最中も直後も体には何の違和感もなく、欠勤もせず、普通の生活を送り、その後、誰にも尋ねることもなかったと記憶するのだが、この正体は? ぜひお教えを請う。
 
  収支 私の『幾何』は、会社には収支トントンの1万部に終ったが、シリーズとして5教科分を揃え、特に『国文法』や『理科計算』が当たったので、会社には喜んで頂ける結果になった。印税は1万部以下は5%、それを超した分からは6%の約束で着手したのだった。小説よりも2~3%少ない。無理はない。買い手の範囲は狭いし、何よりも殆ど全問に図が入るので、専門家が1図、1図必要な大きさに描き直し、当時はそれを金属の版に鋳込んで、活字と同じ高さの木台を取付けるのだから、他教科よりも相当費用がかかったはずだ。私にとっても大分持ち出しだった。前述の校正代はもちろん、研究発表の気持ちが強かったので、学校の全職員への百部、図書室へ20部の寄付、知人へも30部ほど郵送したからである。図書室では20冊ぴっしり収まる専用の木箱を造ってくれて寄贈本であることを明記してくれたが。裏表紙内側の発行者名などの所に貼る著者の検印押しも、妻や娘たちも動員してもシンドイ仕事だった。とは言っても、この出版があったので、後に2つの塾へ勤める時、紹介なしで行って、大歓迎で即決、最高待遇を受けられることにはなったのだったが。

 後なる2回、全4冊(「数学ミニ辞典」学年別 同社・「数学即解公式63」文研出版)の出版の折には検印廃止にしたり、初めから買取制にしたりで、この時の轍を踏むことはなかったが。しかし、いずれにしても、10年毎に指導要領が改訂になり絶版のやむなきに至った。私の出版はいずれも改定後半ばを超してからだったので、極めて拙かった。家庭教師をしている方がもっと短時間に収益は上がることは分かってはいたが、初めに書いたように、この書物に限っては研究発表の気持が強く、出版ということをしてみたかったことも否定できない。1つには初任校の最終年に入ってきたやゝ年長の、碁も格段に強い社会科だったかの教員に出版物があるとの噂に刺激されていたことは否めない。

             昭和45年の出来事
01/01 日本医師会、医療費値上げ問題で全国一斉休診(~4日)。
01/07 戦前の「喜劇王」エノケン(榎本健一)肝硬変死。戦後は脱症病で右足切断の悲運も、執念で舞台に復帰。
01/28 東京地裁、メーデー事件に判決。93被告有罪、110被告無罪。
02/11 東大宇宙研、初の国産人工衛星「おおすみ」の打ち上げ成功。
02/19 成田空港第1次強制測量。反対派実力闘争。
03/14 日本万国博覧会、大阪千里で開催(~9.13)。
03/14 ケンタッキーフライドチキンが大阪万博に出店。11月21日に名古屋に第1号店を開店。
03/24 漫画『あしたのジョー』の主人公・矢吹丈のライバル・力石徹の追悼式。漫画で死亡すると、悲しむファンからの手紙が編集部に殺到、寺山修二の仕掛けで、講談社で行われた。
03/31 八幡・富士製鉄合併、新日本製鉄発足。
03/31 赤軍派学生9人、日航機よど号ハイジャック。4月亡命。
04/08 大阪・天六駅でガス爆発、死者79人。
04/16 日立製作所、LSI(大規模集積回路)を開発。
05/11 日本山岳会エベレスト登山隊の植村直己と松浦輝夫、エベレストに初登頂。
05/12 警官を刺し逃亡中の犯人、広島でライフル強奪、観光船乗取り。13日警官隊が狙撃、死亡。
05/15 農地法改正公布(農地移動制限の緩和)。
06/22 政府、日米安保条約の自動延長を声明。
06/23 全国で安保反対統一行動。77万人参加。
07/18 東京杉並の高校生、光化学スモッグで倒れる。
08/02 東京銀座などで歩行者天国実施。
08/09 静岡県田子の浦でヘドロ追放の抗議集会。
09/07 整腸剤キノホルムがスモン病の原因に関係ありとして厚生省、使用・販売中止を通達。
10/10 首都圏最後の蒸気機関車D51(デゴイチ)さよなら運転。
11/14 東京・渋谷でウーマンリブの第1回大会開催。
11/17 「死神です。あなたのところで止めると必ず不幸が訪れます」との「不幸の手紙」が全国に広まる。
11/25 三島由紀夫と楯の会会員4人、東京の自衛隊東部方面総監部に乱入、三島ら2人割腹自殺。
11/29 初の公害メーデー。82万人参加。
12/15 北海道三井砂川鉱でガス爆発、死者・不明19人。
12/20 沖縄コザ市で大規模な反米騒動。
●世相 男性の長髪流行/SLブーム/マイカー時代へ/大気汚染・環境汚染など多様な公害問題化/中山律子が第1回全日本女子プロボウリング選手権大会優勝
●歌謡曲
1 黒ネコのタンゴ / 皆川おさむ 
2 ドリフのズンドコ節 ザ・ドリフターズ
3 圭子の夢は夜ひらく / 藤圭子 
4 噂の女 / 内山田洋とクールファイブ 
5 手紙 / 由紀さおり 
6 愛は傷つきやすく / ヒデとロザンナ 
7 今日でお別れ / 菅原洋一 
8 京都の恋 / 渚ゆう子 
9 白い色は恋人の色 ベッツィ & クリス 
10 愛の旅路を / 内山田洋とクールファイブ
11 経験 / 辺見マリ 
12 白い蝶のサンバ / 森山加代子 
13 あなたならどうする / いしだあゆみ
14 四つのお願い / ちあきなおみ 
15 逢わずに愛して / 内山田洋とクール
ファイブ 
16 新宿の女 / 藤圭子 
17 X+Y=LOVE / ちあきなおみ 
18 空よ / トワ・エ・モア 
19 女のブルース / 藤圭子 
20 くやしいけれど幸せよ / 奥村チヨ 
21 老人と子供のポルカ / 左卜全とひまわりキティーズ 
22 夜と朝のあいだに / ピーター 
23 ひとり寝の子守唄 / 加藤登紀子 
24 もう恋なのか / にしきのあきら 
25 土曜の夜何かが起きる / 黛ジュン 
26 白い鳥にのって / はしだのりひことシューベルツ 
27 美しいヴィーナス / 加山雄三 
28 あしたが生まれる / フォーリーブス
29 喧嘩のあとでくちづけを / いしだあゆみ 
30 ドリフのほんとにほんとにご苦労さん / ザ・ドリフターズ 
●書籍ベストセラー
冠婚葬祭入門(塩月弥栄子)[光文社カッパブックス]
誰のために愛するか(曽野綾子)[青春出版社]
冬の旅 上下(立原正秋)
スパルタ教育(石原慎太郎)[光文社カッパブックス]
創価学会を斬る(藤原弘達)
心(高田好胤)
続・冠婚葬祭入門(塩月弥栄子)[光文社カッパブックス]
銭牝(花登筐)
原価の秘密[三一書房]
アカシヤの大連(清岡卓行) 心(高田好胤) 心(高田好胤)
●TV
大河ドラマ 樅の木は残った (NHK)
細うで繁盛記 (日本テレビ)
時間ですよ (TBS)

<増補修正版 47>団塊世代突入 ,マンモス校に転勤

2015-08-03 | 新聞編集法
<増補修正版 47> 団塊世代突入
                         マンモス校に転勤
                     
本稿の期間には、国内外に特筆すべき出来事があったので、このブログとしては異例だが、まずその概要を掲げることにする。

世界初の人工衛星「スプートニク1号」(ソ連)打上成功。昭和32(1957)年10月、重量83kg、直径58cmの球体に4本の棒状アンテナが付いていた。

 ・東京タワー竣工 昭和33年。

 ・東京オリンピック 昭和39(1964年)開催。日本及びアジア地域で初めて開催されたオリンピックである。歴史的には、 昭和15年大会の開催権を日支事変のために返上した日本が、太平洋戦争の敗戦から急速な復活を遂げ、再び国際社会の中心に復帰するシンボル的な意味を持ち、有色人種国家における史上初のオリンピックである。また、1940年から1960年にかけてヨ-ロッパ諸国や米国による植民地支配を破り、次々と独立を成し遂げたアジアやアフリカ諸国からの初出場が相次ぎ、過去最高の出場国数となったオリンピックでもある。 開会式は10月10日、閉会式は同24日に行なわれた。開会宣言は昭和天皇がなされた。開会式の10月10日は、2年後から“体育の日”とされた*。
昭和48(1973)年から祝日法が改正されて、その日が日曜日の場合は、その日以後の月曜日に改められた。それまでは、祝日が日曜日と重なると、休日が1日分減っていたのを、もっとゆとりを持たせようとしたのだ。当初は祝日が2日以上連続することがなかったため、「月曜日を振替休日とする」としていた。しかし、元は天皇誕生日であった4月29日が“みどりの日”となっていたのを、平成20年から“昭和の日”とし、平成元年から平成18年までは新に“みどりの日”を5月3日と定めたために祝日が3日連続するようになり、月曜日も祝日と重なる場合が生じたため振替先が月曜日固定ではなく、その直後の「国民の祝日でない日」を休日とすることと改められた。

 ・新幹線開通 昭和39(1964)年10月1日、東京~新大阪間開通、特急“ひかり号”で4時間0分。最高時速200kmに抑えて運転。翌年7月から最高時速220kmに上げる。平成19(2007)年7月からは“のぞみ号“が東京~新大阪間は2時間25分で走っている。

 ・日本万国博覧会 「人類の進歩と調和」をテーマに掲げ、77ヵ国が参加し、戦後、高度経済成長を成し遂げ米国に次ぐ経済大国となった日本の象徴的な意義を持つイベントとして開催された。日本においては、東京オリンピック以来の国家プロジェクトである。
  開催期間:昭和45(1970)年3月14日~同年9月13日(183日間)

テーマ館の太陽の塔やアメリカ館‣ソ連館などの人気バビリオンでは数時間待ちの行列ができるなどして大へん混雑した。特にアポロ11号が持ち帰った“月の石”を展示したアメリカ館の行列は延々と続き、途中で諦めて他の館へ行くひとも多かったという。その異常な混雑ぶりから、テーマをもじって「人類の辛抱と長蛇」と揶揄(やゆ)されたりもした。また、国際博覧会史上初めて黒字となったとのこと。万博開催に先がけて大阪市営地下鉄は会場までの延伸工事をしたので,幸い、私の家からは地下鉄1本で30分程で行けることになり、最初は昼間から行って長蛇の列に加わったが、2度目以降は夕6時以降に割引価格で入って「月の石」も簡単に見ることができた。但し、地球上で見る石と何ら変わりなくがっかりしたと記憶している。その他どこで何を見たのか、記憶力が弱いので、今となっては、初めてヤシの汁を吸ったこととアポロ11号の機体や乗組員の服装・食品以外はすぐには思い出せない。


 第1次団塊世代到来
 敗戦で戦地や海外からの引揚者が620万人に上り、ベビーラッシュの影響が昭和35年頃から中学校にも及んでくる。初任校で昭和25年には1年生5学級、32・34年共に8学級、1学級は54人ずつ位であったのが、昭和37年の2年生は12学級に急膨張した。校区に住宅が百戸増えたことも影響しているが。
 
  教室不足苦肉の策 昭和37年、初任校15年目、最終の年、音楽・美術などの特別室は全部教室に転用した。ピアノは使えず、オルガンを毎時次の教室へ移動した。私も3階から1階まで運ぶ1員に加わったことがあるが、その時、若い体格のよい教員がぎっくり腰を起した。それでもなお1教室が不足した。そこで、名案(?)を講じた。2年生は1学級減らして11学級編成とし、その全学級から男女2名ずつ成績最優秀者を抜き出して、別の1学級を編成した。この44名には自分の教室はなく、毎時、体育科の授業に出払っている教室で授業を受けたのだ。授業前後の学級活動の時間は11学級に分散して、その組の担任から連絡を受けた。毎時機敏に移動できるために、優秀な生徒だけを選んだのだが、その中でも優劣の差が生じて自信を失った生徒も生れてきた。これは一流高校へ進学しても当然生ずる現象でやむを得なかった。一方、低レベルの高校へ進学させて恨まれたこともある。はっきりしているのは2名あり、2人共、進学後は便りを寄越さず友達を通じて知ったのだが、経済的な理由で選んでやった公立の実業高校だったのだ。私自身が商業学校で好きな数学を学べなくて悔しい思いをした位だから、十分説明して進学させたのだが、それでも悔しい思いをしたことはよく分かる。その1人は、昨年、彼等が満70歳の同窓会に初めて顔を出し、電気科の大学教授になっていたことを知り喜んだ。度々同窓会を行なった学年だが、案外、級友の情報にまで話が及ばなかったようだった。

話を戻す。私の家に近かった昭和中学校では、鉄筋校舎の建築中で、学年によっては 1学級70名としていたことを今回ネットで知ったが、私の学校でなぜ増員策を取らなかったかは不明である。教室に机は入れられたのだから。
 

転勤・泥水 昭和38(1963)年、前任校の西5百mほどの大阪市立中野中学校へ転勤した。電車の停留場は自宅からみて1つ手前だが、学校と停留場との距離が以前より少し遠くなったので15分通勤には変りがなかった。同校は新制中学校発足から2年遅れて大阪市立東住吉第五中学校として開校した。当初は校舎がなく、私の前任校などへ分散して間借りをしての発足だった。少しして現在地にも小さいバラック校舎を建てた。私が入った時はもう全部鉄筋校舎になっていた。未舗装のバス道路に面していたので道路沿いの教室内の白壁は淡茶色になっていた。校門前すぐ横がバス停なので、その場所はバスの車輪で30㎝程の深さにえぐられていた。その少し前方に交通信号があり、私が転勤して間もなくの雨上がりの朝、自転車にまたがって信号待ちをしていた60歳位の少し疲れた感じのひとがいた。そこへバスが停車すべく道路脇へ寄ってきた。前車輪がくだんのくぼみに入ったとたん、茶色の泥水が高さ2m以上跳ね上がって、老人の背中から頭上まで容赦無く覆いつくした。一瞬の出来事だった。バスの運転手は降りて来もせず青信号で走り去り、老人は紺色の頭巾付き合羽は着ていたが、声を立てもせずに走り去った。何もして上げられなかったことを少々悔いて忘れられない光景である。
 
マンモス校 やっと学校の話に入る。新任校は大阪市で3指に入るマンモス校―各学年千人超―かつ成績優秀校だった。人数のことも成績のことも業者のアチーブメントテストで明白だった。その1つの学校は、後には他校に成績を知られぬよう、2校分に分割させて記載させた位、進学競争が激しい時代に入っていた。3大マンモス校はそれぞれ越境入学生が大半を占めていた筈だ。3校とも大阪市内でも特に一流の高校へ進学できる地域にあり、もともとインテリ層の多い地域を抱えていたことが原因でそうなって来ていたのだ。
 
団塊と少子化 ネットで見ると、団塊の世代はその膨大な人口のため、幼い頃から全国的に学校は1学年2桁のクラス数であり、50~60人学級で教室がすし詰め状態であってもなお教室不足を招くほどであった。また、その好むと好まざるにかかわらず、学校を主な舞台として競争を繰り広げたとある。同校の現在をネットで見ると、小学校区を1つ統合したことによって学校規模が大きくなり、「切磋琢磨」という言葉にふさわしい学校になったとあるが。なんと、その続きの運動会の記事で「4、5学級がせめぎあう競技は迫力があります」とあって一驚。少子化の現状を思い知った。もっとも、少子化だけのせいではなく、市内のCO2の増加など住環境の悪化が原因で市外にベッドタウンが続々誕生したからでもある。私が奈良県へ転居した昭和48年の1年位前から、学年1番の女子などの転出が目立ち始めてはいたのだった。
 
 雑踏の出勤 今はない南海平野線の中野停留場から学校までの⒑分ほどの道、私は例によって、始業直前にしか出勤しなかったので、登校する生徒のラッシュと重なった。幅10m位の道路は、いっぱいのひとの波だった。何しろ3千何百人もの生徒のラッシュなのだから。職員数も百人を少し超えた。職員室は3ヶ所に分れていた。職員会議の時は、第1職員室―3年関係だったか―以外の者は、背もたれのない小型の丸椅子を持参して、適当な場所に割り込む。私は2年担任だったからそちらの方である。教室1つ半位ある部屋だが、遅れて行くと割込むのに一苦労してものだ。
 

遊び場 新任校で最初に眼についたことだったか。生徒があふれているということ。鉄筋校舎に囲まれている普通の広さの運動場だけでは、休憩時間にはとても遊びきれない。校舎周りや校舎間のちょっとした植込みや、階段の踊り場までが遊び場だった。踊り場では必ず、正方形を“田”のをに仕切った枠をチョークで描いて、軟らかいゴムボールで、“天下町人”というテニスに似た遊びをしていた。4つの枠を天下・大名・武士・町人と分けていて、軟らかいゴムボールを、他人の陣地へ掌で打ち込んで、勝てば1つずつ地位を上げるゲームで、私の小学校の時にもしていたゲームだ。ひとが通る時は一時休止だった。運動場では野球やバレーボールなどの団体ゲームは一切禁止。軟らかいゴムボールの一時休止だった。運動場では野球やバレーボールなどの団体ゲームは一切禁止。軟らかいゴムボールの投げ合いは許していた。並行して行われてボ-ルがよく錯綜したことだった。私も時たまには参加したのだった。
 
  殺到 最初に驚いたのが学年集会を講堂で1時間して終った時、講堂は1学年でほぼいっぱいである。いきなり「解散」と号令した。大勢いた教師で誰もこれをさえぎる者はいなかった。私は側面にいたからどうしようもなかった。1千余人が2つの扉からなだれ出た。直ぐ前は下り階段である。出てくる群衆に押し落とされる恐怖を感じながら、必死に押すな押すなと叫び続けて全員が通り過ぎるまで制止したことだった。この学校はいったいどうなっているんだと感じながら。ついでに書いておくが、卒業式の時に下級生の代表は学級委員長、副委員長の2名の出席だけで精一杯だった。他の生徒は休日となった。校長からの卒業証書授与は各組の出席番号1番の者に1学級分を渡したように記憶する。初任校でも、生徒の全員に校長が手ずから渡していたのは6学級位の時だったか。

   最初の失敗 その他の具体的な内容は忘れたが、転勤以来前任校と比べて、何かとまずいやり方が目立った。それで、職員会議の席上で、つい、「摂陽では――」と校名を挙げて意見を述べたことが2~3度はあった。これは嫌われたと思う。1年位はじっと様子を見るべきだったろうが、そのような知恵は持ち合わせなかった。これが私の教員生活最大の失敗であったと痛恨している。忠告してくれるひとはいなかった。
 
 同僚のこと 転勤先の教頭は、私が奉職初年度に進学の事務を全て任された教諭である。何年か前に教頭として赴任していた。彼が赴任した後間もなく、頼まれて彼に入れてもらった工専校での同級生―秀才だったと思う―もいたが、教頭は、彼が入れてもらっても何の挨拶もないと愚痴っていた。彼は世話をした私にも同様だった。彼はそこで美人教師を2人で争って勝ったとのこと。その意味では私は二重の恩人なのだが、彼の口からは謝辞は聞いていない。彼は3年担任を1度も持たせてもらえないとこぼしていた。初任校で、ぬるま湯に浸かっていては駄目だよと言ってくれて高校へ転勤した先輩がいたが、転勤してみて先輩の言葉を実感することになる。ここの教師は優秀なひとが多かった。
 
 食堂で 転勤当初1週間位は食堂への昼食の予約を知らなくて、毎日食堂で30人位の生徒の列の後ろに並んだ。すると、後からきた3年生が割込むのを叱っては後ろへ戻していた。そんなことから、生徒は私を生活指導係と思い込んでいたようだ。
 
不良との出会い 同じ頃、放課後遅く、中年のがっしりした教師とひっそりした廊下を職員室へ戻ろうと歩いていると、不意に下駄の音がして1人のやゝ長身の生徒がやって来た。私は今までの調子でコラッとどなりつけた。連れはあわてて肘を引いて止めておけと小声で制止したので、そのまますれ違った。学校1の不良だとのこと。彼とは2度と会わなかった。なにしろマンモス校だから。 やはり放課後、1人で3階の廊下を歩いていると前方で不意に物音がして埃が舞い上がった。教室と階段の間にまた5段位の階段があって、その奥に体育科用の小部屋があるのだが、その小部屋前に積み上げてあったマットを2人で3組ほど投げ下ろした処だった。例によってコラッと大声でどなる。今度も3年生だったが、前のほどに悪そうな顔はしていなかった。しかし、その1人は学校第2のワルと後から知った。マットを元の位置へ戻させて終る。朝の出勤時に、決まってこの2人組の親分の方と道連れになった。彼は鞄を持ちますと言って聞かないものだからそうさせた。もうこの頃は生徒の体位は向上していたが、対生徒の方は順調な滑り出しだった。前任校での滑り出しの好調が生んだ自信を引き継いでの行動が僥倖したのだった。
 
 マンモス校の1側面 最初の年は2年担任。学年は全23学級、各組46人位。卒業アルバムの名簿で見ると,越境入学生が堂々と本当の住所を記している。同和問題がやかましくなるまで、まだ7~8年は越境には世間の眼は厳しくなかったのだ。翌年3年生に上がる時に編成替えして驚いた。2年の時の学級から上がってきた生徒は僅かに3人。もっと驚いたのが、私の姓を知っていたのが僅かの6人。これがマンモス校の実態である! 食堂などで、割に顔は売れていたと思っていたのに。3年ではまた1からのやり直し同然だったか。
 
教室美化 2年生の教室は老人が泥水を浴びせられたバス停の前だった。夏は暑いのでどうしても窓を開けたが、まだ交通量がそれ程多くない当時でも赤信号で停車するトラックなどのブレーキの音などが喧しかった。未舗装道路の巻き上げる埃のせいで2階の教室の白しっくいの壁は茶色になっていた。ネットによると、今は幹線道路に面するため、防音対策として北館・東館に冷暖房装置をしているとある。窓を開けられないためだ。誰が言い出したかは忘れたが、全員がサンドペーパーでその壁をこすって真っ白に回復させたのだった。天井は放置したかも知れないが忘れた。
 
 雨天の運動場 雨で運動場がぬかるんでいる間は運動場は通行禁止だ。職員室と教える教室が真向いの年は、昼食時以外はいちいち職員室に戻らずに、教室から教室へと渡り歩いたものだ。ある日、用事があって職員室へ戻るために運動場周辺の犬走りを通り、角の所で土の部分を1歩踏んで小回りした処を張り番していた風紀委員に注意された。その指導をしていた体育科の教師は生徒から恐れられていたが、後に同和教育校に転勤して、その神通力が利かなくなるのだった。私と同様に。

  担当教科 担当教科はほぼ毎年、同学年の数学のみを6学級4時間ずつ。前任校のように必ず2学年以上にまたがらせられて、教材研究が忙しいことはなくなったが、4学級目位から少し飽いてくる感じはした。1学級目の授業は少し拙いこともあり、2学級目でそれを補い、3学級目が一番完璧の繰り返しだった。祝日や行事などがなく、同じサイクルで授業が進む時は、わざと一番進んでいる学級で雑談を入れて進度を遅らせたこともある。拙い授業ばかり受けさせたくないためだ。前任校で最も忙しかった年に3年生を1学級だけ分担させられて、教材研究をろくにして行けずにおざなりな授業を続けて、すまないやら、恥ずかしいやらの思いを1年間続けたことがある。その組には後に弁護士になる学年1の秀才女子もいたというのに。
 
  進学指導 前任校の終りの1年前は進学指導係として最高に成績を挙げた年だった。業者のアチーブメントテストを分析した処、どう考えても例年より相当成績がよい。一流校への志願者数の一挙4割増を提案して的中させていた。この新任校でも、2年目から5年目の校務は進学指導係だったが、最初の年はアチーブメントテストを読み切れず、1同僚が他校から入手した資料に頼ることとなり、同僚たちの信頼を失った。進学指導係になったのは、赴任した折に校長に前任校でのことを尋ねられての結果だが、期待に応えられなかった。以後もまだ3年間は同じ係が続くが、その1年目は同じ係のもう1人に年長のお局さんを当てられて、一切何もしてもらえず、定期テストの度に、千人を超す生徒の成績順位を決めて、学級担任へ知らせる仕事だけでも大へんだった。同校は師範・学芸大学系の閥が強く、私の初年度の態度への反感から、嫌がらせを受けたようだった。1~2年後には、同じ教科の閥外のひと2人の協力も得られるようになるのだが。
 
  すれ違い修学旅行 大人数のため、遠足の時のバスの確保も大変だったようだが、修学旅行での旅館の確保は四国の四国の香川県では不能だったようだ。苦肉の策として、2隊に分けて1日ずらせて出発させた。屋島山上で両隊の2列ずつの長い列が東西からやってきて、お互い手を振りながらすれ違って行った光景は今も眼に焼きついている。今思えば、生徒たちはそれに気を取られて肝心の素晴らしい景色を見ていなかったように思う。何しろ列は長いのだから。ちなみに許可される修学旅行先はだんだん延びて、岡山・倉敷、後には関門・阿蘇にまで行っている。
 
 膝から下の運動会 運動会は毎年、たしか、国体も行われる本格的な長居競技場で行なった。2日がかりで行ったのだったか。前任校では新聞係の延長で殆どが記録係で、学級別の得点集計に追われて、自学級が優勝した時も全くといってよいほど競技を見られなかった。この学校では1年目は準備係で最高によく見えたが、確か2年目からは、また、得点係で、本部前の小部屋を当てられていたから、時たま、顔を上げる余裕ができても、走る選手の膝から下しか見られなかったものだ。

不良少年転入 入って2年目早々、3年担任の時、3時間目だったかの授業を終えて職員室へ戻ると、入口は開いていて教頭の横に欧米人と見える色白の背の高い少年が立ち、その母親らしいひと―日本人―もいた。私は、職員室へは入らずにすぐに次の授業の学級へ行ってそこで待機した。私の組から転出者があったので、転入者を受け入れる番だったが、たくさんの学級の中には、同様の組もあるかも知れないととっさに考えたのだった。さて、次の授業を終えて戻ってみると、気の毒なことに少年はまだ立っていた。その頃はまだ校内放送の手段がなかったので、私を呼び出せなかったことを付記する。なお、不良ポイ少女が数人廊下から中をうかがっていた事も付記する。私は観念して転入の手続きをした。ちなみに、転入の場合は簡単なのだが、転出の場合は「指導要録」の記録を全部転記して、転出先の学校へ送付しなければならない。学年が進むほど内容は増えている。今ならコピー機で何の苦もないことだろうが。

2~3日してからだったろうか、どうも普通の少年ではないと感じたので、転出先の隣の区のマンモス校へ電話すると、学年主任が出て、生徒会の役員もしたし、よく活動する少年だとのこと。しかし、この主任は、彼の卒業後に私の学校の教頭として来任し、後の項に記す共同研究の1員となって頂く。彼の少年は実は追放したのだと告白させた事だった。

私の嫌な予感は的中した。彼が来て間もなく修学旅行があったのだが不参加とのこと。無理強いもできず、彼を残して旅行は前述のように行われたが、彼はその間、家出して講堂に積んであった体育用マットの上で1少女と過ごしていたことが後に判明した。真面目にやらなければ卒業後困るぞと度々説教したが、折しも日本は戦後最高の好景気を迎えた*ので、苦労知らずに生きて行っているかも知れないが卒業後のことは知らない。私が忙しくて、余りかまってやれなかった学年だから同窓会は1度きりだったか。2校を経験してきた教生たちの声として、教師への尊敬が薄い学校であったせいでもある。学歴の高い親が多いせいだろうか。
 *いざなぎ景気。昭和40(1965)年11月から昭和45年 7月までの57か月間続いた高度経済成長。  
 2人の校長 私が入った時の校長は、元指導主事で熱心な方だった。折しも市教委が始めた職員の研究発表誌への投稿などを勧められたので、私も2度投稿して採用された。1つは大分前に書いた自作「ゲスフーテスト」の紹介である。級友を評価させるのだから、実施時に配慮する細かい注意もいろいろ記している。もう1つは忘れた。同僚で、その頃、同誌に掲載されたのは社会科教師の1編だけある。その校長がある日不意に授業に入って来られて参観されたが、先に書いた1組目の授業で、しかも練習問題の解答照合が主な場面。我ながら見せ場のないつまらない場面なので冷や汗をかいた。校長も、見せ場を期待されてか長時間おられたので辛かった。

5年目にその校長は定年退職され、後任はなんと、初任校で私が反抗したあの教頭! 思いがけぬ私たち夫婦の媒酌人でもあるひとだった。彼は次には、もう1つのマンモス校の校長になって退職。どんなコネがあったのだろうか。何年目かに教頭も栄転、後任は私の出身商業学校の先輩。しかもPTA会長が同じ商業学校の夜間部の出身だったか。はた目には、私が幸運児と映ったかも知れない。それらを利用する才覚の全くない私だったのだが。

研究校に指定 入って6年目に市の2年連続の数学科指定研究校に指定された。他の数学科の方々に迷惑だし、私自身もやりたくなかったが、指導主事の委任を断りきれなかった。さて、指定校となって、そのテーマを「評価はどう行なうか」とした。主事の提案した2題中の1題である。他の1題は間もなく変わる新教材の「集合」であった。どうせ、指定研究終了後、私の提唱で、それはやったのだから、後から思えば、その方がずっと良かったのだったが、全員、未知の世界に踏み込む自信がなかったのだ。

 (カエル)の解剖 指定校になって、私の担当時間は数学3学級だけとなったが、間もなく若い教員がくも幕下出血で長期欠勤したので、彼の2年生理科を1学級持たされることになった。2年生は私の苦手な単元揃いの学年であることは前に書いた。折しも生物で蛙の解剖場面だった。私はその単元は放置して別の単元を進めておいた。後に彼が復帰しても礼は言ってくれなかった。一斉テストの時に困っただろうと後から考えたことだった。

出会い 会議ごとに異議などを唱えて妨害する若い教員がいた。他の教員は誰もそれを制止しなかった。多分は古参教員にそそのかされてやっていたのだろう。教頭に進捗状況を尋ねられてそれを打ち明けると、彼は盲学校だったかに転勤させられて全員の抵抗は止んだ。代りに入ってきたひとが何と、私が最初に担当した教生―年長の海軍士官―だった。やりやすくなった。彼は新設のポスト、主事―教頭の次―になっていた。もう1人、隣の区のマンモス校から新教頭として数学科のひとがやって来た。前記した不良少年を弁護したひとである。数学科総勢9人。さて、月2回位だったか、たいていは、指導主事にも臨席して頂いて、各人が分担して作成した各単元のテスト問題の検討をした。指導要領に定められた“観点”ごとの力を見分けるためのテスト問題を作成したのだった。作成したのは2年生だけの全期間の問題だったか。後は順調に進んだ。出来上がった問題でテストし、その正答率を計算する仕事は私より新参で、私より少し年下の男性が進んで引き受けてくれた。その正答率の有意性を算出するために私は大阪市立学校が常に採用していた教科書会社へ行き、会社が買ったばかりのパソコンを使わせてもらった。指導主事に教えられた“カイ2乗検定”という公式をパソコンに教え込み、それに各問題の正答率を代入して有意性を計算するだけの単純作業だった。土曜日放課後に2回位行ったのだったか。パソコンは横幅1m位はあったろうか。その詳しいことも、使い方も今は全く覚えていない。それ以前からも、推測統計学は少しかじってはいたが、今は全て夢の中だ。

 発表 いざ研究発表の日には元海軍士官彼と古くからのボスとで最初の挨拶をやってもらったのだった。発表は集計者と、私より年長で、私より少し先に転勤してきているがボスのグループに入っていないひとと3人で分担した。自分としては余り内容のない発表だったと力が入らなかった。大阪中の全市立中学校から、数学科教師が1名以上参加されたと思うのだが。

 真の共同研究 以上の研究発表を終えてからの2年間ほどの、数学科だけで行なった共同研究は役立った。私の提唱で2年位後から教えなければならない「集合論」の利用方法を、私が選んだ分厚い本を月2回だったかの研究日に輪番で解説したのだった。
 
 *1960年代に入り、アメリカではソ連の人工衛星スプートニク1号の打ち上げ成功に衝撃を受けた、いわゆる「スプートニクショック」が広がった。それに伴い、ブルーナーの『教育の過程』という本が話題となり、日本にもその余波がやってきた。その最たるものが、教育内容の現代化と高度化であった。昭和45年改訂の学習指導要領は、このような背景の下で発表され、戦後から現在に至るまでのうちで最も内容の多い指導要領となっている。

「集合論」の利用と言っても難しいものではなかった。本物の「集合論」は難しいが、中学校では、その真髄に近づくことなく、形式的な書き方を教えたに止まったとしか言えなかろう。単に記号的な書き方を追加したとしか言えなかったか。指導内容が最高に豊富で、程度も最高になった時で、市内三羽烏の学力優秀校でも授業に着いて来られない生徒は置き去りになった―生徒数が多くて手が回らなかった―のだから、一般校、低学力校ではどうしたことだろう。この指導要領が発表された時、専門委員会では、これは長持ちしないぞと言っていたが、正に予言は当たった。昭和50年前後からいわゆる「詰め込み教育」や「おちこぼれ」といった教育問題が社会問題となってきた。昭和53年にはその反動で、ゆとりある充実した学校生活が送れるようにと、多くなりすぎた学習内容を厳選した学習指導要領をまた施行した。これには、「人間性豊かな児童生徒を育てる」ことが教育の大事な要素であることが明記され、後に“ゆとり教育”と言われるようになる教育問題の出発点となっていったが、今度は小学校の掛け算は2桁までとなり、円周率は3.1となるような内容の減少ぶりだった。今またその反動期にあるが、今度はどうなっているのだろうか。世の中も、正→反→合の繰り返しで一向に止まらぬようである。       
            
計算尺大会入賞 この学校では計算尺クラブを続けて、前記指定研究の1年目に素晴らしい成果を挙げたが、これは次稿に譲る。

【完】平成25年7月作成・27年7月加筆修正

 
昭和47年の出来事

01/07 ワシントンの佐藤・ニクソン会談、沖縄返還は5月15日と共同声明発表。
01/24 グアム島密林内で元日本兵・横井庄一発見、救出。
02/03 第11回冬季オリンピック、札幌で開幕。35ヶ国参加。
02/19 連合赤軍の5人、軽井沢の浅間山荘に龍城。28日警官隊突入、人質救出、犯人逮捕。警官2人死亡。(浅間山荘事件)
02/21 ニクソン米大統領、中国訪問(~2.27)
03/07 連合赤軍の妙義山中大量リンチ事件発覚。12人の遺体発見、17人逮捕。
03/15 山陽新幹線、大阪~同山間開通。
03/20 春あらしの富士山で死者・不明24人。
03/21 奈良県・高松塚古墳発掘、極彩色の壁画発見。
04/16 ノーベル文学賞作家川端康成、仕事場の神奈川県逗子マリーナ・マンションでガス管をくわえ自殺。
04/26 国労・動労・私鉄総連、交通ゼネスト。
05/13 大阪・千日デパートビル火災。118人死亡。
05/15 沖縄施政権返還。沖縄県発足。
05/26 初の「環境自書」発表。
05/30 イスラエルのテルアビブ空港で日本人ゲリラ、自動小銃乱射。26人死亡。
06/11 田中角栄通産相、「日本列島改造論」を発表。
06/14 日航機、インド・ニューデリーで墜落、84人死亡。
06/16 ピル解禁求める「中ピ連」結成。代表・榎美佐子。
06/17 佐藤首相、退陣表明。
07/03~13 "ゲリラ梅雨"で全国に豪雨。死者・不明436人。
07/07 第1次田中角栄内閣成立。
07/21 日本テレビ系で刑事ドラマ『太陽にほえろ!』放送開始。
08/16 森永乳業、枇素ミルク中毒事件の責任を認め、未確認児にも救済補償決定。
08/26 第20回オリンピック・ミュンヘン大会。日本選手219人参加。
09/25 田中首相、大平外相と中国を訪問(~30日)。
09/29 日中両国首相共同声明に調印、国交樹立。
10/00 ツクダオリジナルから「オセロ」発売。1年で200万個以上売った。価格2200円。
10/09 政府、4次防正式決定。
11/05 中国政府寄贈のパンダ2頭、上野動物園で公開。
11/06 北陸トンネル内で急行「きたぐに」火災、30人死亡。
11/13 ソ連に亡命した女優の岡田良子が一時帰国。
11/28 日航機、モスクワで墜落、61人死亡。
12/10 第33回総選挙。
12/21 TBS系ドラマ『ありがとう』(石井ふく子プロデュース、水前寺清子、石坂浩二)が当時のドラマ史上最高の5⒍3%の視聴率を記録。
12/22 第2次田中内閣成立。
 
 ●世相 スマイルバッジ人気/パンダ・競馬ブーム/ホットパンツ流行/民宿ブーム/札幌オリンピック出場のジャネット・リン人気/「仮面ライダー」関連玩具流行

 ●歌謡曲
1 女のみち / 宮史郎とぴんからトリオ 
2 瀬戸の花嫁 / 小柳ルミ子 
3 さよならをするために / ビリー・バンバン 
4 旅の宿 / よしだたくろう 
5 ひとりじゃないの / 天地真理 
6 喝采 / ちあきなおみ 
7 ちいさな恋 / 天地真理 
8 太陽がくれた季節 / 青い三角定規 
9 悪魔がにくい 平田隆夫とセルスターズ
10 夜明けの停車場 / 石橋正次 
11 だれかが風の中で / 上條恒彦 
12 結婚しようよ / よしだたくろう 
13 愛する人はひとり / 尾崎紀世彦 
14 サルビアの花 / もとまろ 
15 虹と雪のバラード / トワ・エ・モワ
16 終着駅 / 奥村チヨ 
17 夜汽車 / 欧陽菲菲 
18 純潔 / 南沙織 
19 せんせい / 森昌子 
20 雨のエアポート / 欧陽菲菲 
21 男の子女の子 / 郷ひろみ 
22 誰も知らない / 伊東ゆかり 
23 どうにもとまらない / 山本リンダ 
24 別れてよかった / 小川知子 
25 耳をすましてごらん / 本田路津子 
26 出発の歌 / 上條恒彦 
27 望郷子守唄 / 高倉健 
28 長崎慕情 / 渚ゆう子 
29 哀愁のページ / 南沙織 
30 赤色エレジー / あがた森魚 


 ●書籍ベストセラー
恍惚の人(有吉佐和子)(新潮社)
日本列島改造論(田中角栄)
坂の上の雲 5・6(司馬遼太郎)
女の子の躾け方(浜尾実)
放任主義(羽仁進)
二十歳の原点(高野悦子)
般若心経入門(松原 泰道)
世直しの倫理と論理(小田実)[岩波新書]
日本史探訪(NHK企画構成)[角川書店]
狼なんかこわくない(庄司薫)
TV 木枯し紋次郎 (フジテレビ)
大河ドラマ 新・平家物語 (NHK)
飛び出せ!青春 (日本テレビ)
連続テレビ小説 藍より青く (NHK)
中学生日記 (NHK)
セサミ・ストリート The Sesame Street
銀河テレビ小説 (NHK)
赤胴鈴之助 (フジテレビ)
プロテクター・電光石火 The protector
太陽にほえろ! (日本テレビ)
ありがとう 第2シリーズ(TBS)
オーケストラがやって来た (TBS)
必殺仕掛人 (テレビ朝日)
泣くな青春 (フジテレビ)
光る海 (フジテレビ)
赤い靴 (TBS)
パパと呼ばないで (日本テレビ)
赤ひげ (NHK)
科学忍者隊ガッチャマン (フジテレビ)
マジンガーZ (フジテレビ)
レンズはさぐる(NHK)
                    

こぼれ話⑪  憤懣! 詐欺的移民2話

2015-07-25 | 昭和初期
 こぼれ話 ⑪ 詐欺的移民2話

120年以上も前と、第2次世界大戦後のそれぞれに政府が行なった詐欺的移民がある。大へん義憤を感じることであり、ご紹介する。

1.ブラジル移民
明治41(1908)年に,政府の甘い宣伝につられてブラジルに6百人の移民が渡り大へん苦労したことがある。ネットから転用して記す。

ブラジル政府は明治25(1892)年に日本人移民の受入れを表明した。ブラジルはなぜ移民を必要としていたのか? ブラジルはアフリカ大陸から送りこまれた奴隷を農業労働者として重用していたが、明治21年に奴隷制度を廃止し農業労働者不足となり、ヨーロッパ諸国からの移民を受け入れ始めた。しかしイタリア人移民が奴隷のような待遇の悪さに反乱を起こし移民を中止したために再び農業労働者が不足した。これを受けて日本政府もブラジルへの移民を躊躇した。一方、明治時代多くの日本人移民を受入れていた米国でも、人種差別を基にした日本人排斥連盟の活動が激化した。連盟の会員は4百万人を超え、明治33年に日本政府は米国への移民を制限した。明治37年に起きた日露戦争で日本は勝利をおさめたが賠償金を得られず経済は困窮し農村の貧しさが深刻になっていたが、アメリカ政府は日本人移民受入れ数の制限を強化し、移民受入れ先として有望視されていたオーストラリアやカナダも日本人移民を制限したことから、日本政府は新たに移民の受入れ先を模索することとなった。

明治38年にブラジル政府から日本人移民の実施を打診されたのを受けて移民の送り出しを行っていた「皇国殖民会社」が明治40年にサンパウロ州と契約を締結し日本全国で移民希望者を募った。募集期間が半年弱と短く「家族単位」でとのことだった。

「皇国殖民会社」が移民希望者を募る際にブラジルでの高待遇を喧伝しており、移民の殆どは数年間契約労働者として働き、金を貯めて帰国するつもりであった。しかし先に移民して来ていたイタリア人同様に日本人も法律上の地位こそ自由市民であったものの、一部の農場を除きその実情は奴隷と大差ないものであった。あまりの待遇の悪さからストライキや夜逃げも多く発生し、近隣の州やアルゼンチンへと渡る者も現れた。明治42年に外務省が調査した結果、当初契約したコーヒー園に定着したのは全渡航者の4分の1のみであったという。コーヒー農園から逃亡した多くの日本人移民は資金を出し合い共同で農地を取得し、大正8(1919)年には初の日系農業組合として「日伯産業組合」を設立した。その後多くの日本人移民が自作農となったり、日本人移民向けの商店や工場、医師を開業する者も現れた。コーヒー価格の暴落の際には他の農産物へ転換する者も多く、特に胡椒や紅茶栽培は大成功を収めた。現在ブラジルで栽培されている農産物の多くは日本人移民が持ち込み、品種改良などを経てブラジルの赤土での栽培に成功したものであるとか。それまで最大の日本人移民の受入れ国であったアメリカは、再び日本人移民や日系アメリカ人に対する人種差別が激化し“黄禍論”が勃興し日本人移民の受入れを実質禁止した。

日本政府は国策としてブラジルへの移民を推奨するようになり渡航費の全額補助などの施策を打ち出した。これを受けて昭和初期(1920年代後半)にはブラジルが最大の日本移民受入れ国となった。日本人移民や移民2世の増加を受けてブラジル全土で日本語学校の開設が相次ぎ1930年代前半には2百を超えた。これらの学校は基本的には日本人移民たちの寄付で運営されていた。さかのぼるが、増え続ける日本人移民とその成功に対し、大正2(1913)年カリフォルニア州議会で排日土地法が成立、その翌年米国上下両院で排日移民法が可決される。1930年代に入り日本の対外侵攻が相次ぎ日本人移民排斥の気運が高まった。更にブラジルでは全ての国からの移民に対し同化政策を進め公立学校での外国語の授業を禁止し、昭和13(1938)年(日支事変勃発の翌年)には日本人学校の廃止が行われた。そして路上で母国語を話した日独伊からの移民が逮捕される事件が頻発した。1930年代後半には日本へ帰国する移民が相次いだ上に、日米の関係悪化で太平洋航路が運休され、昭和16年(太平洋戦争勃発の年)、受入れが停止された。

2.ドミニカ共和国への移民
ドミニカは中米、キューバーの東に位置する島国である。政府は太平洋戦争後も人口過剰の対策として、移民政策を続けていたようだ。実態は当時の外務省の省益のためでもあったことを平成15年10月の読売新聞の記事*やネットで知った。昭和20年代後半「カリブ海の天国、ほくほくの条件で」、「1戸あたり18ヘクタール(東京ドーム4個分の面積)の土地の無償譲渡」や「入植予定地は中程度の肥沃度」など、他の中南米諸国と比べて破格の好条件を謳っていたことから、全国から応募者が殺到し、鹿児島県出身者を主とした249家族1,319人が厳しい審査を経て、ドミニカ共和国へ移住した。

しかし、実際にはドミニカ政府はその土地の所有権すら認めなかった。現実は耕作権に過ぎず、面積もその半分以下からゼロだったことから、移住者の希望は完全に打ち砕かれることとなった。その土地ですら岩や石ころだらけの不毛の地、一面に塩を吹いた地、辛うじてサボテンが生えている乾燥地帯などが大部分で、近代的な水利設備がなかったので、慢性的な水不足に悩まされていた。食糧の自給にさえ苦しんだとのこと。しかも、自営農としておきながら、耕作物は指定され、なかでも、隣国であるハイチとの国境近くの入植地は、現地人の流刑地であったので、囚人はどこから来たのかと24時間政府の役人による監視の下に置かれるなど、移住者の間で「地獄の一丁目」と名付けられるほどだった。柵をめぐらされた中で、拳銃を持った管理官のもと集団労働が強制された所もあったとか。ドミニカ側でなく、日本側がいろいろ偽りの条件を打ち出していたようである。その原因は、日本とドミニカ共和国の両政府によって締結された条約で、日本からの移住者には耕作権だけしか与えないことが決められており、日本政府が発表した募集要項にはそのことが一切記載されていなかった上、時の駐ドミニカ大使も、現地の水問題と塩害が多発している事実を把握していたことを隠していたことにあるとされている。ドミニカ政府も、日系移民をハイチからの侵入者を防止するための国境警備に使い、同時に荒地の開発にも利用することを意図しており、日本政府もその事実を把握していたとの記録が残っている。

また、移民者はスペイン語を解さない者も少なくなく、現地人から白眼視されていたこともあって、当時の独裁者だったラファエル・トルヒーヨ大統領の暗殺に伴い国内情勢が混乱した際は、略奪の対象とされ、僅かな収穫物や農具さえ奪い尽くされた。以降も移住者の生活は困窮の一途をたどり、この時期にドミニカ政府が把握しているだけでも10名の日系移民の自殺者が出ている。これらのことから、後にドミニカ共和国への移民政策は、「戦後移民史上、最悪のケース」や「最も悲惨な(国策移民の)失敗例」、「事実上の棄民政策」とも称される程にまでなったとのこと。

それは、外務省の年度ごとの移民送出計画の人数が不足すれば、省の縮小、存亡に関わるという問題からだったようだ。この問題は、平成12年に訴訟となり6年かかった。外務省側はあくまで非はなかったとし、裁判でも時効とされたが、小泉首相が詫び、一時金を支給することで結着した。高度成長が始まって、移民を出す必要がなくなり希望者が激減しても、移住関係予算は増加の一途をたどったとのこと。その中身は支援ではなく宣伝費、移民1家族当たり、平成15年の貨幣価値で5百万円にも上る税金が使われたとのこと。義憤に耐えない。 
 
日本政府も昭和36(1961)年になって失敗を認め、ドミニカ移民の集団帰国を実施した。昭和38年までに移住者のうち8割が日本への帰国、またはブラジルやアルゼンチン、ボリビアなど南米への移住という形でドミニカ共和国を去った。47家族276人はドミニカ共和国に残留し、その後も日本政府に移住条件を守るよう交渉を続けていたものの、遅々として進まなかった。

平成10年になってようやく新たな土地の提供が決定したが、一面に粘土質の赤い土が広がっているだけの、農業に適さないという点では移住時と大差ない土地を提供されたに過ぎなかったとか。

このことから平成12年に現地に残留した者を中心とした126名が、日本政府を相手取って約25億円の損害賠償を求めて提訴した。翌年の3次提訴までに、集団帰国の際に日本へ戻った51名も加わり、裁判は6年に亘って続き、平成18年に東京地裁において、国(外務省及び農林水産省)の法的責任を全面的に認めたが、損害賠償に関しては、20年の時効を理由に、原告の請求を棄却するとの判決が下された。原告側は、判決を不服として控訴した。

その後、日本政府は当時の小泉首相が原告側に謝罪の意を伝えるとともに、原告約170人を含む全移住者約1,300人を対象として、ドミニカ在住の原告に1人当たり200万円を支給することを最高に、日本在住の原告に130万円、ドミニカ在住の非原告に120万円、日本在住の非原告に50万円の「特別一時金」を支給するという包括的な内容の和解案を提示した。賠償額は約32億円にまで膨れ上がったとのこと。               

                  玉川大学教授若槻泰男氏の読売新聞への寄稿に大幅加筆

<増補修正版 45> 今昔新聞 紙面や記事の幾変転

2015-07-16 | 昭和初期
<増補修正版 45> 今昔新聞 紙面や記事の幾変転 

◇『朝日新聞 重要紙面の七十五年 1879~1954』*(以下『75年』と略称)について調べたことを主体にして記す。内容、前稿より相当増加。
*大阪版、明治12年の創刊号から昭和29年までの重要ニュースのあるページだけ全150日分、その7割強は第1面の縮小複写である。
【注】 新聞紙面の漢字は現代のものに変えている。永らく全文字についていたふり仮名は省略。現代と異なる読み方などは括弧内に記入する。

新聞の歴史 日本には現在の新聞と似たものとして瓦版(読売とも呼ばれていた)が江戸時代以前から存在し、木製のものが多かった。現存する最古の瓦版は慶長19(1614)年の大坂冬の陣と、翌年の大坂夏の陣を記事にしたものである。現在の紙の新聞は、幕末から明治時代に欧米を真似てという。新聞という言葉は明治時代に作られた造語とのこと。

文久元年12月2日(1862年1月1日)には初の日本語の新聞として『官板バタビヤ新聞』が刊行されている。これはジャワで発行されていたオランダ語の新聞『ヤパニッシュ・クーランド』を、幕府の蕃書調所が和訳したものである。3月には『官板海外新聞』と改名するが、一般には「バタビヤ新聞」として知られていた。また、播州の水夫であったジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)が、元治元(1864)年に出した『海外新聞』(後に『新聞誌』に改名)が、日本での新聞第2号とされている。

明治時代に入ると、文明開化の流れに乗って新聞が多数創刊された。慶応4年/元(1868)年に小冊子形態の新聞が刊行され、佐幕色の『中外新聞』、『江湖新聞』(1868年創刊)が、明治2(1870)年には日本最初の日刊紙である『横浜毎日新聞』が創刊される。明治4年には『東京日日新聞』(現在の毎日新聞)、『郵便報知新聞』などがそれぞれ創刊された。明治政府は新聞の普及が国民の啓蒙に役立つという認識から、新聞を積極的に保護する政策を取った。当時の明治政府は日本各地に無料の新聞縦覧所や新聞を人々に読み聞かせる新聞解話会を設置したほか、新聞を公費で買い上げたり郵便で優遇したりして各新聞社を支援していた。
明治7年に民選議院設立建白書の提出などを契機として自由民権運動が盛んになると、それまでの御用新聞より民権派の勢力が強くなり、政府に批判的な論調が目立つようになった。こうしたことから明治政府は明治8年に新聞紙条例、讒謗(ざんぼう)律を制定して新聞の言論弾圧に乗り出した。この頃の新聞は、政論中心で知識人を対象とした「大新聞」と娯楽中心で一般大衆を対象とした「小新聞」に分かれていた。

これが新聞? 『75年』創刊号の1面は、罫線囲みで3段組、右縦書き、その第1段(以下の段の3/4幅)は芦か何かの図案に囲まれて、実に大きな文字で1段通して、右から横書きで「朝日新聞」のロゴ*が記してある。その右、つまり右端に、縦書きで「定時刊行」とあり、ロゴと本文の間に横一列に右から「明治十二年一月二十五日 土曜日 第1号」と通している。本文は、官令・大阪府官令・雑報の3部分だけに分れ、それらの見出しだけが2本の縦罫に挟まれた2字幅の活字でやゝ目立つだけであり、本文は1項目ごとに頭に○印を置いて区別しているだけだから、一目で内容を知ることは不可能である。○の数つまり項目数は、官令3個、大阪府官令1個、雑報16個である。各部門の記事の一部分を紹介する。
 官令 ○乙第5号  府県(ここまで1行、空白場所に文字はない)郡区長郡書記へ他の官吏より転任又は郡区長郡書記より他の官吏へ転任の節月俸は明治七年五月第六十一号公達月俸規則第四条により(中略)満年賜金は其(その)際(さい)打切支給致すべし(中略)本文に背馳の向は引直し候儀と心得べき事  明治十二年一月十八日 大蔵卿大隈重信 
 大阪府官令 ○大第十一号  従来(これまで)医師出張診察所設置(もうけ)の儀情願(ねがい)に依り聞届(ききとどけ)(後略)
雑報(真ん中の段のやゝ途中から全体の2/3近くを占めている。最初の記事が11行あり、雑報中では最大) その記事は「○去る十八日の御歌始めは皇族華族方も出られて旧御学問所にて(後略、御製など紹介)」
第1面の最終記事2つ、計5行を全部紹介しておく。
○漸次(しだいに)梅が開けば早鶯(うぐいす)も初音を告ぐる時となり好事家(ものずき)打集い来たる二月上旬(はじめ)の頃難波新地蛙(かわつ)茶屋に数多(あまた)の黄鳥(うぐiす)を持寄り妙音を戦はすと聞く○高麗橋筋一丁目関口千賀方にて美濃産の水晶を種々
(いろいろ)div>の器に製し販売 (うりだ)せり誠に奇麗で有升(あります)
行数や1行の文字数などの変遷は後に詳しく記すが、このページは中央の御製の辺りだけにやゝ白い部分が見えるだけで、他は殆どが同じ大きさの活字でぎっしり埋まっている、いわゆる“べた組み”であるので 、どこにどんな記事があるのかは、1つひとつ読んでみない限り分らない、全く現代では考えられない代物である。

新聞紙面は広かった 現在の新聞は 546×406mm。明治の初め頃は、24インチ(610㎜)×36インチ(914㎜)の紙を米国から輸入していたが、記事の量の増加と共に使いにくくなったため、縦横1インチずつ伸ばして25インチ(635㎜)×37インチ(940㎜)にしてもらったとのこと。面積で比較すると、現在のに対して、それぞれ2.51倍、2.69倍であり、随分大きかったようである。
 
段数 創刊号から明治17年7月までは4段組みであり、第1段だけは、他の段の14分の11幅である。ロゴ(右横書き、大文字で「朝日新聞」)その下に「明治十二年一月二十五日 土曜日 第一号」とある。明治20年12月から6段になり、ロゴが縦長に変わり右上隅4段に収まり、ほぼ今の形となった。明治38年1月(日露戦争)から1段増している。明治42年8月から更に1段増して8段となっている。(以降の変遷は次々項に譲る) 
ルビ 全漢字ルビ付きは大正10年11月まで続き、その後昭和20年5月まではやや難しい漢字には振っていた。その後は比較的近年まで、ルビが一切廃止されていた。これは昭和21年11月に内閣告示で当用漢字表1850字の枠が定められ、新聞など全ての公用文はこれ以外の漢字を使うことが禁止(既稿)されていたからである。
段組と固定記事の変遷 75年間に14回もの変更を行っていて、短いのは5ヶ月というのもあり、下記の調査を行ったが相当うんざりする作業だった。少し煩雑になり、部分省略も考えたのだがうまい工夫が浮かばず、全部記すことにした。ご容赦!
[注](1)×記号で綴った3個の数字は、順に、1行の字数・1段の行数・段数を示す。(xの場合はその部分不明)
(2)括弧内の数字は、平成24年現在の読売新聞のロゴ・マーク(新聞紙名の図案)のないページを標準活字だけで埋めたとした時の全字数を1としての比較量。
 (3)特大ニュースのある日だけの新聞で調べたのだから、期間の両端については正確でない。
明治12. 1.25創刊 21×32×3=2,016(0.19)+大ロゴ 最上段は「朝日新聞」のロゴ・マーク欄だけで0.73段分、2ページ以下について詳細不明。以下同様。
〃17.9.14 号外初出 (全文紹介する、ルビは省略) 清佛事件特報「○左の電報は上海特派通信者長野一枝が同地着後始めて発したるものにて事皆緊要に属し殊に英国砲艦遭害の如きは後日の一問題ともなるべき如きものなれば急に号外として看官に報ず(但今日午前九時廿分上海発にて同午後一時本社に着せり)未だ宣戦の公布なし昨日(七日)英の砲艦一艘福州にて砲撃され負傷三名あり佛艦猶福州近海より台湾の間に出没す 右宣戦の公布なしとは支那政府未だ各国政府に対し宣戦の公布を為さずとの意なるべし次の英砲艦福州にて砲撃され負傷三名あり佛艦猶福州近海より台湾の間に出没す
右宣戦の公布なしとは支那政府未だ各国政府に対し宣戦の公布を為さずとの意なるべし次の英砲艦福州にて砲撃に遭いたりとの一事は尤(もっと)も奇報にして其何処より砲撃せられしやを明示せざれど必ず支那人の所為に出たるものなるに疑いなし而して其砲撃や全く故意に出るものにあらずして誤って射撃したるものなるべけれど已(すで)に三名の負傷者もありといへば是に由て遭害の英国が今後如何なる談判を開き如何なる葛藤を惹起すの端緒となるやも知るべからず支那政府今日の多事亦太甚(はなはだ)しと謂ふべし
  ――――――――――――――――――――――――――――――――
                         持 主 村山龍平
                         編集人 早見純一
                        印刷人 関  徳
大阪府下西区京町堀通り一丁目十六番地
                         発行所   朝日新聞社 」    
〃18.12頃 ロゴの下に右横書きで「駅逓局認可 明治の日付(紀元二千五百四十五年)(西暦千八百八五年)曜日 第千九百十号 (1)とある。 [注] (1)は第1頁のこと。
24×55×4= 5,280(0,51)+大ロゴ
〃18.12頃 20×54×6= 6,480(0.63)+大ロゴ 漸く各記事に見出しらしいものが付く。
〃20. 4頃 20×54×6= 6,480(0.63) 挿絵入り小説始まる(後記)。
〃20. 12頃 紙名のロゴの位置が現在と同じ右上に縦書。6段中の3.4段。その下0.4段の記事を全部記す。「×*亭局認可 明治二十年十二月二十七日 陰暦丁猪年十一月十三日 ひのえ寅 紀元二千五百四十七年 西暦千八百八十七年 二十六日正午寒暖計*2 四十三度・天気 晴 火曜日 第二千六百五十六号 
  ――――――――――――――――――――――――――――――――
新聞定価 一枚壱銭五厘 一ヶ月 二拾五銭 三ヶ月 七拾銭 六ヶ月 壱円
大文字化 昭和56年頃から新聞の文字が活字からCTS(Cold Type Setting(写真植字を主体とする新聞制作システム)へ移行し、文字の大きさの変更が比較的自由に行えるようになり、同年、新聞協会が「15段制の基で、各社の方針に基づき文字の大きさを決定することを認める。」との方針を出した。高齢化社会に対応する「読み易く、目に優しい紙面」をアッピールすることにより、発行部数の拡大を期待してのことだ。情報量と広告スペースの減少という大きな犠牲を払ってまで各紙はこぞって文字を大きくすることに注力し、平成3年2月までに主要各紙は揃って1行12字詰めとしたのだった。平成19年12月、さらに毎日新聞は段数を15段に戻した代わりに「ジャンボ」の頭文字を取った「J字」を採用、1行を10字詰めとしている。情報量と広告サイズの減少の問題は、「毎日新聞」というロゴの簡易化や、紙面両端の縦の区切り線をなくして、目一杯紙面を有効に使う方法でカバーした。この画期的な紙面構成は、各紙にも影響を与え、平成20年2月から各紙がいっせいに大文字化の対応をするようになった。少子化の上、電子機器の普及で、若者の新聞離れが進んでいるので、新聞社としてはますます高齢者に重点をおかなければならないようである。
 
記事量減 ネットで見ると、記事量減を新聞記者は喜んでいない。書いた記事をボツにされる可能性が高まるというのが第一の理由のようである。読売朝刊紙(全国版)のコラム『編集手帳』の字数が80字ほど減らされて現在の458字に限定(朝日の『天声人語』の7割強しかない)された時、担当の竹内政明氏*は嘆いておられた。それでいて、膨大なファイルに蓄えられた、実に広いジャンル(部門)の枕から導かれるスパイス(薬味)の効いた結論への見事な移行にはただただ感心させられる。書きたいことを限度一杯まで削りに削られた結果の労作だと推察する。短文の苦手な私には、氏の言葉を削るご苦労が偲ばれ、ただただ敬服さされるばかりである。
*氏は週5回担当で、記事内4個の区切り符号◆を2個ずつ横に並行させてあるのが氏の文であることを、社への電話で初めて知った。他の担当者もそれぞれに独自の◆の位置を決められているようである。末尾に署名を入れれば、余計な苦労をしないで、内容を素直に表現しやすいと思うのだが、署名で1~2字減るということだろうか。妄言多謝!
 
割付 (わりつけ) /font> 印刷紙面に記事を配置し、出来上がりの体裁を整えることを“割付”というが、大型新聞の紙面では(ア)主要な見出しは大きな字体で、紙面の2本の対角線上に置くようにするのが新聞編集のイロハだ。紙面を見る時の自然の目の動きに一致しているという。もう1つ、(イ)段を仕切る横罫が端から端まで通るのを“ハラ切り”といって、最下段以外はこれを絶対避けなければ紙面が上下に分割される感じがしてよくない。そのためにも(ア)が必要になる。(ア)・(イ)の結果、“箱もの”(長方形の罫線囲み記事)以外のニュースなどは切抜きには全く適さないいびつな形になるがやむを得ない。『75年』で見ると、上記の割付法の芽は大正5(1925)年に現れ、大正14(1925)年に一応完成したようである。
 多段見出し 明治42年8月に至るまで、2段見出しも2行見出しも現れなかった。従って、見出しの活字の大きさは殆どが記事文章文字の縦横2倍で、全段ハラ切りであった。明治38年に字数のごく少ない見出し(“旅順陥落”と“露軍降伏”)にだけは縦横3倍や4倍の活字を例外的に使っているがやはり、1段に収まっている。ただし、多段の地図や挿絵は明治17年9月には現れ始めている。もちろん、その箇所だけはハラ切りではなかった。
 
ルビ*(ふりかな) 大正9年3月末までは全漢字にルビが付いている。昭和5年11月までも多くの記事に振られている。重要記事にも振ったり振らなかったりで、基準は分からない。
*ルビ(英語: ruby)。明治時代からの日本の活版印刷用語。文章内の任意の文字に対しふりがな/説明/異なる読み方といった役割の文字を、より小さな文字で右側または上側に記すもの。日本で通常使用された5号活字にルビを振る際7号活字を用いたが、明治期の英国では活字の大きさは宝石の名前で呼んでいた。英国から輸入された5.5ポイント活字の呼び名がruby(ルビー)であったことから、この活字を「ルビ活字」とよび、それによってつけられた文字を「ルビ」と呼ぶようになった。

 小説登場 明治20年4月の、多分2ページ建ての2面に大きな挿絵入りで小説が初登場している。作家名は分らない。小説と絵で6段中3段と1/4強を占めている。題字は『●志士後談 花吹雪 第十回』とあり、“志士後談”以外の部分は縦横2倍の活字である。挿絵以外はまだべた組みなので、他にどんな記事があるのかは1つ1つ読まなければ分からない。小説以外は公報とニュースだけなので2面と判断した次第。1面以外のページを出してあるのは珍しいので、小説を重要記事扱いにしたのかと思い、目次を見ると、「伊藤伯の仮装舞踏会」とある。第1段は公報と大阪府公文の見出しがあって区別できるが、第2段第1行から小説が始まり、以下べた組みなので、最後までが小説と思えたが、小説は6段中第5段の始め1/4までであり、続いていきなり、雑報の見出しなしで仮装舞踏会の記事がなんと、最下段の中央近くまであるではないか。当時の新聞は本当にどこに何が書いてあるのか、1つひとつ読んでみるまで分らぬ代物だったのだ。記事は舞踏会出席者の1人ひとりの詳しい様子を紹介しているようだった。
『虞美人草』の第1回が明治40年6月23日(日)に掲載されている。1面下1段と2/3弱を取り、見出しの前の行に1輪の花のカットが添えてある。カットは初出だ。作者名は漱石とだけある。
昭和10年2月末に初めて現行の形、即ち、1面下方広告の上の2段を左右ぶち抜きで使用して、山岡鐵兵の『花嫁學校』第53回が掲載されている。昭和10年8月から吉川英治の名作『宮本武蔵』が5年近く1千余回続き、11年12月に予告として、山本有三*2の代表作『路傍の石』と、獅子文六の小説との翌春の朝・夕刊掲載、同時に、永井荷風のその先での登場をも予告している。絢爛(けんらん)たる顔ぶれを揃えたものだ。
*辞書に「漱石枕流」の言葉があり、「石に口すすぎ、流に枕す。負け惜しみの強きにいふ」とある。『こぼれ話➁ 6作家の筆名』で解説した。
*2既稿で詳しく紹介したが、当用漢字表制定の中心人物。小泉首相の所信表明演説(平成13 年5月)で、小説『米百俵』の作家としてまた有名になった。新憲法を口語文にさせたのも彼であるとか。

小説余談 『宮本武蔵』吉川英治*作は昭和10年、筆者小学校2年生の時に朝日新聞で連載が始まった。夕刊だったと思う。初日1面下方に、確か、さすらう2人の浪人の絵があり、興味をそそられて読み始めたのだった。絵は武蔵(たけぞう)と親友又八が関ヶ原で敗戦し、広い草原を落ち延びて行く場面だった。新聞小説の読み始めだ。間もなく祖父母宅へ行くことがあり、2階で寝たきりの曾祖母に、その日の『宮本武蔵』を読んであげることになった。父母や祖母も周りを囲む中、読み進めたのだが、所々に読めない漢字があり、そこは「何(なに)して何々」で通過する。皆は笑いながら聞いていた。難しい漢字は読んで、少し易しいはずの漢字を通過するからだ。そこが面白くて父母が私に読ませたのだろう。初めの方で記したように、難しい漢字にはルビがあるが、易しい漢字にはないからだ。もちろん、自力で読める漢字も少々はあったことを名誉のために付記する(冗言多謝)。講談社発行の雑誌『幼年倶楽部』は懸賞当選者の住所・氏名以外は全部ルビ付きだったと思う。『小年倶楽部』はどうだったか。
*吉川 英治(よしかわ えいじ)明治25(1892)年~昭和37(1962)年。様々な職についたのち作家活動に入り、『鳴門秘帖』などで人気作家となる。昭和10(1935)年より連載が始まった『宮本武蔵』は広範囲な読者を獲得し、大衆小説の代表的な作品となった。 
『路傍の石』*は昭和12年、日支事変勃発の年に朝日新聞に連載され始め、小学校4年生だった筆者も読んでいたが1年未満?で中絶した。作者病気のためとされていたと思うのだが、実際は、当時の時代背景の影響(検閲など)のせいであり、翌13年に『主婦の友』に「新篇」として連載されたことは今回知った。しかし、15年に断筆を決意し未完に終わったとのこと。子供の私には、単に、優秀だが貧困のため小学校卒業後苦学する吾一少年の物語としか捉えられなかったが、社会主義と個人主義の対立を背景に据えている物語だったとのこと。
*山本有三の代表的な小説である。昭和12(1937)年に『朝日新聞』に連載。翌年には『主婦の友』に「新篇」として連載。しかし、当時の時代背景の影響(検閲など)もあり、3年後には断筆を決意。最終的には未完に終わった。東京帝國大学でドイツ語を専攻した山本は、当時ドイツで流行した教養小説の影響を受けてこの作品を書いたとされる。大正期の社会主義と個人主義の対立を背景に据えていることも、重要なポイントである。ネットに粗筋が掲載されている。 


囲碁・将棋 一流新聞に囲碁・将棋欄は昔から付きものと思う。各社それぞれに「名人戦」とか「棋聖戦」とかを主催しているようだ。それがいつから始まったのか、ネットで調べたが分らなかった。『75年』には1回だけ碁譜が掲載されている。次項の削除紙面の中に2つだけ残された記事の中の1つであり、他の1つは薬の広告である。碁譜ののタイトルは「関西名家臨時碁戦(13)」だ。観戦記はない。盤面殆ど碁石で埋まった段階なので、1手ごとの石の位置を盤外に記してあることは現代よりも親切である。碁罫線の横の目盛りは右から「い、ろ、は~」であったことを付記する。今は左から「1,2,~」。『75年』の150ページ中棋譜が1つしかなかったのは、棋譜は後の方のページに掲載されるが、1,2面以外のページは終戦前後を除いて多数あるのに、同紙には42ページしか採用されていないから偶然、囲碁・将棋のページが掲載されなかったと考えるよりあるまい。だから、いつ頃から掲載され始めたのかは見当がつかない。

記事削除 大正7年8月15日の7面は、斜め左下半分がほゞ白紙で、活字を削り取った跡の残る紙面だ。紙面の上右端、大活字の3行見出しは「寺内内閣は斯(かく)の如き理由の下に各地の米騒動に関する一切の記事を禁止する」(まだ全漢字ルビ付きだが省略。広告はルビなしが多い)とある。削除した部分の中に3個だけ離れた位置に小記事が残されている。一番上中央に「社告」、これは削除の理由を述べており、他の2つは前稿に記した削除を免れた記事である。
 
三面記事 社会面の記事のことを三面記事というのは、周知のこととは思うが、新聞が4ページ建てだった頃の第3面に載る記事だったからであろう。 
広告 広告が『75年』に初めて出るのは明治26年3月だ。何度も断っているように、本書は1面記事主体だからもっと古いかも知れない。6段記事の最下段全部に大小7個あり、3個は漫画で構成されている。
3行広告 昭和の時代の三面記事の下端1段に載せる、小活字で3行幅だけの最小面積の広告のことを言ったが、家出人へ呼びかける「○子帰れ 許す 父」「Δ子話ついた帰れ」のような類が必ずのようにあったと記憶する。なぜか『75年』では1つも見なかったが。今はケータイがあるから、その必要がないのかその類のものを見ない。もちろん、商品の3行広告はあった。それに比べて最近の広告の中にはぜいたくにも、全1面、中には2面借切りで、わざと殆どを白紙にして、かえって目立たせているのもある。不況の再来で一時よりは減ってはいるが。 
             [完](平成24年作成・27年7月修正)         
  昭和42年の出来事 
01/29 第31回総選挙。
02/15 羽田空港で時限爆弾爆発、2人重傷。24日犯人逮捕。
02/17 第2次佐藤内閣成立。
03/04 大相撲の高見山大五郎(22歳、本名ジェシー・クハウルア)が初の外国人関取(十両)に昇進。
03/12 青年医師連合、インターン制に反対し国家試験ボイコット。
03/29 札幌地裁、恵庭事件に無罪判決。
04/05 岡山大教授・小林純、富山県のイタイイタイ病は三井金属神岡鉱業所の廃水が原因と発表。
04/15 東京都知事選、美濃部亮吉当選。革新都政の誕生。
04/18 厚生省、阿賀野川水銀中毒は昭和電工鹿瀬工場の廃水が原因と結論。
06/30 佐藤首相、現職首相初の韓国訪問。
07/01 欧州共同体(EC)発足。
07/07~10 西日本に豪雨、死者・不明371人。
07/14 三池炭坑の一酸化炭素中毒患者家族、ガス災害立法を要求し座り込み(145時間。28日一酸化炭素中毒症特別措置法公布)。
07/19 日本女性2人、マッターホルン北壁に女性で初めて登頂。
07/28 ラジオ受信料廃止決定。68/4.1施行。
08/03 公害対策基本法公布。
08/08 新宿駅構内で米軍タンク車と貨車衝突。国電1185本運休。
08/27 ユニバーシアード東京大会開催。
08/28 新潟・山形地方に豪雨、死者・不明146人。
09/01 四日市ぜんそく患者、石油コンビナート6社に慰謝料請求訴訟。
10/00 日本初の深夜放送『オールナイトニッポン』始まる。若者から主婦まで幅広く浸透、人気を得る。
10/08 佐藤首相、第2次東南アジア・オセアニア諸国訪問に出発。三派全学連、抗議デモ、警官隊と衝突。京大生山崎博昭死亡(第1次羽田事件)。
10/10 成田新空港の測量開始、反対派座り込み。
10/20 吉田茂元首相没。31日国葬。
11/11 エスペランチスト・由比忠之進、首相の北爆支持に抗議、官邸前で焼身自殺。
11/12 佐藤首相訪米。反日共系全学連、抗議デモ(第2次羽田事件)。
11/15 日米首脳会談、共同声明で小笠原諸島返還発表。
12/09 都電、銀座線など9系統廃止。
●世相 クレジット販売、大繁盛/ゴーゴー喫茶、アングラ酒場盛況/フーテン族が話題に/着せ替え人形「リカちゃん」(タカラ)登場 /「サンダーバード」のマスコミ玩具登場/プロポウラー中山律子が人気
●歌謡曲
[1]
1.夜霧よ今夜も有難う (石原裕次郎)
2.世界は二人のために(佐良直美)
3.小樽のひとよ(鶴岡雅義と東京ロマンチカ)
4.小指の想い出(伊東ゆかり)
5.恋のハレルヤ(黛ジュン)
6.恋のおとし穴(朱里エイコ)
7.虹色の湖(中村晃子)
8.君こそわが命(水原弘)
9.大阪ブルース(奈美悦子)
10.レモンとメロン(由美かおる)
11.願い星叶い星(西郷輝彦)
12.花と小父さん(伊東きよ子)
13.この広い野原いっぱい(森山良子)
14.いとしのマックス(荒木一郎)
15.命かれても(森進一)

[2]
1.ブルー・シャトウ(ジャッキー吉川とブルー・コメッツ)
2.僕のマリー(ザ・タイガース)
3.モナリザの微笑(ザ・タイガース)
4.風が泣いている(ザ・スパイダース)
5.忘れ得ぬ君(ザ・テンプターズ)
6.君に会いたい(ザ・ジャガーズ)
7.好きさ好きさ好きさ(ザ・カーナビーツ)
8.いとしのジザベル(ザ・ゴールデン・カップス)
9.バラ色の雲 (ヴィレッジ・シンガーズ)
10.真冬の帰り道(ザ・ランチャーズ)
11.朝まで待てない(ザ・モップス)
12.トンネル天国 (ザ・ダイナマイツ)
13.恋のジザベル(ザ・スウィング・ウエスト)
14.友達になろう(アウト・キャスト)
15.帰って来たヨッパライ
(ザ・フォーク・クルセダーズ)

●書籍ベストセラー
頭の体操 1(多湖輝)[光文社カッパブックス]
華岡青洲の妻(有吉佐和子)[新潮社]
頭の体操 2(多湖輝)[光文社カッパブックス]
英単語記憶術(岩田一男)
まぼろしの邪馬台国(宮崎康平)
世界音楽全集 ベートーヴェン 1
[河出書房新社]
頭の体操 3(多湖輝)[光文社カッパブックス]
マクルーハンの世界(竹村健一)
徳川の夫人たち(吉屋信子)[朝日新聞社]
姓名判断(野末陳平)[光文社カッパブックス]
●大河ドラマ 三姉妹 (NHK)
徳川の夫人たち (テレビ朝日)
トッポ・ジージョ (TBS)
チャコねえちゃん (TBS)
パーマン (TBS)
リボンの騎士 (フジテレビ)
逃げろや! 逃げろ Run, Buddy, Run
連続テレビ小説 旅路 (NHK)
スパイ大作戦 Mission: Impossible (フジテレビ)
白い巨塔 (テレビ朝日)
仮面の忍者赤影 (フジテレビ)
黄金バット (日本テレビ)
タイム・トンネル The Time Tunnel (NHK)
文五捕物絵図 (NHK)
森林警備隊 The Forest Ranger(NHK)
アンクルの女 The Girl from U.N.C.L.E.
逃亡者The Fugitive (TBS)
コメットさん (TBS)
インベーダー The Invaders (テレビ朝日)
光速エスパー (日本テレビ)
意地悪ばあさん (日本テレビ)
ウルトラセブン (TBS)
ザ・モンキーズ The Monkees (TBS)
でっかい青春 (日本テレビ)
ハノイ・田英夫の証言 (TBS)
ジャイアント・ロボ (テレビ朝日)
万国びっくりショー (フジテレビ)
ワイオミングの兄弟(NHK)

         

<増補修正版48> 若造コンビの弥次喜多旅行 漁船多数遭難の時、大島渡航

2015-07-01 | 昭和初期
<増補修正版48>旧稿を大幅に修正してあります。
    若造コンビの弥次喜多旅行 
    漁船多数遭難の時、大島渡航

             残額4円で辛うじて帰宅


猛者の誘い 奉職7年目の昭和30(1955)年の2学期終業式の午後、職員室は殆ど空になっていた。私も帰ろうと腰をあげた時、近くの席から、1歳上の国語教師が声をかけてきた。彼は間もなく後に、私の父母の家の、更に後には、私の家の仏事を頼む僧侶なのだ。ここでは私が少し先輩だが、彼は既に近所の中学校に勤めて、そこの教え子が高校を卒業するのを待って結婚したばっかりだったか。彼は仏教大学の予科(?)の出身。戦国時代の平定に着手した猛将の末裔で、その姓を継ぎ、勤務校の地元の寺の跡継ぎだ。身長だけは私位だったが、性格、体格共私とは正反対だった。顎(あご)の張った赤銅色の顔で、野球部の顧問をし、筋肉隆々、性格磊落(らいらく)、生徒には自らを“○○(姓)大王”と称し、教室の前壁には“貫禄”と大書した紙を貼ってあった。大の酒豪だった。正月に酒に強い若者ばかり3~4名が校長宅に招かれた折、酔った彼は、床の間の日本刀を抜いて校長の奥さんに刃先を向けたと聞いている。初めは野球部の顧問をしていたが、剣道の強い校長が来て、その部の顧問に転じた。誘われて一瞬はたじろいだが、腹を決めて同行することにした。大酒は飲まないと約束させてのことだ。私は1年間担任をはずしてもらって元気が快復していたから誘いに乗る気にもなれたのだろう。旅行届を教頭の机上において帰宅。

 寺町 ちなみに、この5年前から我が家は彼の寺の檀家になっている。大阪大空襲で先祖以来供養してもらっていた市中央部の寺は近所一帯の寺と共に全て焼き払われ僧侶との連絡も取れなくなっていた。曾祖母死去の折から、彼の父や彼に参ってもらうことにしたからだ。詳しく書いたのは、焼かれた寺が林立していた一帯は、大阪城落城後に家康が大坂城下の整理再編を行った際、大坂城の弱点といわれる南側に防御線として寺院を集中させた。現在においても大阪市内でも有数の仏教寺院集積地域となっており、とくに下寺町1丁目はほとんどが寺院となっていることを記録しておきたかったからだ。

 無計画の出立 翌12月25日朝、国鉄梅田*(現大阪)駅で落ち合って東海道本線を煙を吐いての汽車の旅。全て予約なし。もう切符は何時でも誰でもすぐに買える時代になっていた。今と違って(?)、2人共背広にネクタイ姿だった。私は以前記した着た切り雀の三つ揃いだ。もうオーバーも持っていた。高知へ行った時の汽車のようながたぴしの窓ではなかったので、煤で汚れるという心配はなかった。熱海で泊まったのだったか。日記を捨てられたので初日の詳しいことは分からない。
 *梅田(うめだ)は、江戸時代以前は下原と呼ばれる低湿地帯で、泥土を埋め立てて田畑地を拓いたことから「埋田」と呼ばれた。後世になって字面が悪いので今の名前に改めたとのこと。大阪市北区にあるJR大阪駅や梅田駅を中心とした一帯の地域の名称である。JRの他、阪急電車、阪神電車、地下鉄の駅があり、ホテル、百貨店、事務所ビル、歓楽街などが集積する日本を代表する繁華街である。

 嵐の渡海 2日目朝、伊東から4百トンの船「あけぼの丸」に乗り、伊豆諸島最大の島、大島へ向おうとしたが、海が荒れていて出港30分遅延。帰宅後に新聞で知ったが、この日早朝、近くの三陸沖、銚子沖では風速30Mを超える風が吹き、漁船が8隻遭難していた。彼に従って2等船室を張り込んだ。3等との仕切りはパイプの欄干だけだが2等室は床がⅠMほど高くなっている。その欄干に接して洗面が2つ並んでいる。我々はその洗面の両側の取っ手を掴んでおられたからよかったのだが、その目の前の一段低い3等船室ではじっと座っていられなくて寝たのだろうが、船が揺れる度に10人位の乗客が、寝たままの姿勢で広い床を右へごろごろ、左へごろごろ。私は洗面へゲロゲロ吐いた。

 三原山登山、大噴火、 出港が30分遅れたせいか、島に着いて直ちに登山バスは出発するのだった。元気そうに見たのはえ猛者と若い外人1人位だったろう。私はどうにもバスに乗る気がせず、30分ほどしてハイヤー乗車。途中また3~4回停めてもらってえづいた。吐く物がないのに吐き気がするのは余計苦しいという経験をした。ハイヤーを中腹で待たせて、そこからは腹中無一物だが元気で往復1時間半、駆け足で登り降りしている。当時の、真鍮製の重い三脚を携行して所々で撮影もしている。当時の感度の低いフィルムでも大きく引伸ばせるよい写真も撮っている。富士山が見えたが、写真には撮っていない。1冊のアルバムを作り、絵葉書や新聞記事も貼り、写真の説明書きもしているので、ここからは詳しい記事も書けるのだ。家へ送った2枚のはがきも貼ってあるが、切手代が5円、今(平成25年)の10分の1である。ちなみに、この年の物価指数は、今から5年前の17.7%という統計があるので,今に換算すると8円85銭だ。先に出した1枚は速達にして20円増し。今は270円増しだ。山頂を背景に1抱え以上ある岩塊に座った彼を撮影した時、彼は岩が揺れたと言った。そのことについては半信半疑だが、1週間後の1月3日に三原山は噴火し.新しい火口から大w噴火したのだった。3~5分毎に百Mの高さまで溶岩を噴き上げ、1.5千ⅿの高さまで原子雲のような雲を噴き上げている新聞の写真が残っている。同じ3日には、かねてから微噴火中の阿蘇山も猛噴煙を上げたとの記事も残っている。
 *最近の地図で、“三原新山”758ⅿとある。昭和25~26年の噴火で三原山火口内南部に三原新山ができ、それまで火口の北東に位置し標高754ⅿで最高峰だった剣ガ峰を抜いた。その噴火から2ヵ月後に溶岩は内輪山を越えてカルデラに流れ出した。三原新山は竪坑状火孔再生に伴い、北半分が陥没して失われている。噴火そのものは中規模(噴出量数千万トン)の噴火であった。昭和32年には火山弾によって1人が死亡、53人が怪我をしている。昭和61年山頂の竪坑状火孔で始まった噴火は4日目、直径8百ⅿの内輪山の内側を溶岩で埋め尽くし、内輪山縁にあった火口茶屋が焼失し、溶岩が内輪を超えて北西部からカルデラに8百ⅿ流出した。噴火開始6日後になると昼過ぎからカルデラ北部で地震が頻発し、カルデラ床からの割れ目噴火となった。外輪山外の北西山腹からも割れ目噴火が始まり、溶岩が斜面を流れ下り3千人が住む元町集落まで数百ⅿに迫った。全島約1万人の島民が船で脱出し、およそ1ヶ月間避難している。

 島の事情 島の北西側中腹の御神火茶屋という町の旅館、大島館泊。水が貴重で風呂の湯も臍(へそ)まで位しかなかった。終戦頃の銭湯を思い出した。天水(雨水)を大切にドラム缶だったかに蓄えていた。島では水も不足だし、土も火山灰や火山礫だから稲作は不能で、山林を開墾して2~3年は甘藷、里芋、麦などを作り、地味が痩せるとまた植林する“切替畑”という方法をとっていた。植林は15~20年後に伐採して炭にしたという。今は知らない。冬というのに椿が至る所で満開だった。なお、島の女性たちが京都の大原女同様に頭上に水桶や、柴の束を載せて運んでいる写真も撮っている。

 芸妓<の舞/font> 夜食後、彼は芸妓を呼んで舞わせ、その後、抱かせろと言って三味線弾きの中年の女性に断られた。芸妓は10代だった。もしこれが実現していたら、後半の旅程が大分窮屈になるのだった。彼は私の懐を当てにしていたのか。いくら持って行ったかは残念ながら全く分らない。

 大島半周 翌日はバスで島の北側を半周。至る所、熱帯植物と思われる樹がそびえていた。海が見下ろせる一面黒砂のサンドスキー場があり、そこで滑りたかったが、貸スキー屋が見当たらず、折詰の蓋では滑れなかった。バス終点の自然動物園は僅かの小型鳥類だけで当て外れ。狐や狸も姿を見せず,七面鳥を近づけようとして赤くなったり、青くなったり。
その時のバスの切符をアルバムに貼ってある。62×120㎜。大島の俯瞰図に経路を書いてある。パンチの孔が6個開いている。月日(3個)、乗車、降車の停留所、料金(60円)だ。大阪市電の切符もよく似ていた。共にざら紙である。市電の場合は、もちろん経路は複雑で、乗換地点にもパンチを入れ、追加料金不要で乗せてくれたのだった。
 
  離島 4日目朝、また船で伊東へ。波至って静か。今思えば下田へ行く航路もあったのだ。その場合は その場合は以下の行程以外の所へも立ち寄っていた可能性がある。

 3つの東洋一 伊東から電車で河津浜バスに乗換えて更に2時間、夜9時半峰温泉着。なぜだか全く覚えていないが、アルバムに「河津浜で無念の乗換え」とだけ記している。今なら伊東から2時間もあれば行けるようだ。菊水館泊。「菊水館の厚遇」とも記しているが、これも忘れた。ここは高さ30Mの大噴湯*や、湯の量、それに大ソテツがいずれも東洋一を誇っていた。当時でもソテツは3本位に枝分かれしていたが、ネットで見る今の姿は―全貌は見られなかったが― 一旦は地面にまで倒れてきているのを何本もの支柱で支えている。まるで、ヤマタノオロチがのたうち回っているようにグロテスクに感じた。違っていればお許しを。58年も経ったのだからと感慨を深めたことである。ここの温泉は,壁の孔をくぐると趣が違う隣の室の温泉に入れる。次々に9つの部屋の温泉に入れたのだった。

 *温泉は千余年前に発見。大正11(1922)年に試掘して30ⅿの大噴湯出現。

 下田にて 4日目、河津まで戻り、伊豆半島の東岸を電車で更に南下。南端の石廊崎(いろうざき)まで行くつもりだったのだが、余りにも似たような海岸の景色に飽いてしまって、少し手前の下田で降りる。国指定天然記念物の大イチョウに迎えられる。ネットによると、今は樹齢700年近くで、高さ21m、幹回りが9mにも達し、秋の黄葉はまさに絶景とか。

日本の初代アメリカ総領事タウンゼント¬ ハリス*や、その侍妾、唐人お吉*2で有名な町だ。そのお吉の観音を祀る宝物館や長楽寺へも参った。宝物館では,連れはお吉観音に回向した。寺は嘉永7(1854)年、黒船来航の年、ここでロシア使節プチャーチンとの日露和親条約が調印され、翌年、日米和親条約の批書交換が行われた所であり、伊豆の七福神めぐりの1つの寺でもあるとのこと。寺で偶然、中学校の年長の事務職員と出会った。翌日また偶然同宿して入浴中の姿などを撮りまくられる。彼は算盤塾も経営し、裕福なのだろう。当時は大へん珍しい16ミリだったかの映写機を駆使して忍者物語を作成し、職員大勢を自宅に招待して披露したことがある。忍者が塀に飛び上がる場面は実際は飛び降りるのをフィルムを逆回しして撮影する凝りよう。私も2年後に長女が生れて、8ミリ映写機に凝ることになるが、そんなことまではできなかった。
 
 *1804年生。74歳で死去。日本の江戸時代後期に訪日し初代駐日公使となり、日米修好通商条約を締結したことで知られる。敬虔なキリスト教信徒で生涯独身。駐日領事時代に、幕府はハリスの江戸出府を引き止めさせるため、ハリスとヒュースケンに対して侍女の手配を行う。役人はハリスに対しては芸者のお吉という名の女性を派遣した。役人の意図を見抜いたハリスは大変怒り、お吉をすぐに解雇している。ハリスが生涯独身であったことなどから後世に誤った風説が加わった。
 *2評判の美貌が、奉行所の目にとまるとこととなり、17歳の時、法外な年俸と引替に心ならずもハリスのもとへ侍妾として奉公にあがる。ハリスは驚いて間もなくお吉を解雇する。しかし、周囲には異人に身を汚された女性として「唐人お吉」とののしられ、下田にいられなくなって横浜に流れ、後に戻って来て小料理屋を開くが、周囲の心無い仕打ちに酒に溺れて店を倒産させ、明治24(1891)年豪雨の夜、川へ身を投げたとのこと。享年51歳。昭和初期には小説や映画の題材にもなった。

 
 冷やひやの天城越え 帰途は下田から北へ直線距離35㎞程の修善寺へ向って、今では石川さゆりの唄で有名な天城越えをしたが、当時はその唄はなかった。それよりはその2年前に起きた満州国皇帝の姪の心中事件*が生々しかった。 
 *天城山で学習院大学の美貌の愛新覚羅慧生(あいしんかくらえいせい、19歳)と同級生の20歳の学生とが、男の拳銃で頭部を撃ち抜いて心中。慧生は旧満州国皇帝溥儀(ふぎ)の弟、溥傑(ふけつ)を父に持ち、母親は元公爵、嵯峨家の長女。母は、日満の架け橋として泣く泣く嫁がされたと聞く。東京での結婚式のあと、2人は満州国の首都、新京で暮らした。 慧生は5歳の時に両親のもとを離れ、横浜市の祖父に引き取られて、幼稚園から大学まで学習院に通学した。彼女が結婚に反対されたための行動とのこと。

天城越えは命がけだった。剛毅な酒豪も迷わず、予め10万円の生命保険に入った。今になってみると、乗車前から危険を予知した理由は分からない。バス会社か、保険会社に吹き込まれたのだったか? 事実、危険だった。山の斜面の九十九折(つづらおり)の坂道をバスはのろのろと進んだ。1つ間違えば崖下へ転落だ。当時は、もちろんガードレールもカーブミラーもなかった。対向のバスの車輪が小溝に落ち込んだことさえあった。  

  特級旅館 5日目夕刻、修善寺(現在、伊豆市)でそれとは知らずにとび込んだ「あさば旅館別館 涵翠閣」は特級旅館だった。現在の宿泊料金を見ても我が家族の行き先とは1桁近く違う。翌朝、中庭の露天温泉に浸かっている頭の上で、正月前(12月29日)とて、3階や4階のあちらこちらの廊下でパタパタと畳を叩かれた。埃が随分頭上に舞い降りたことだろう。若造の気楽な旅に対する嫌がらせもあったかどうか。この旅館は確か1泊最低1,500円だった。下田では千円だったか。ちなみにその時の月給は15,600円だった。先に記した物価指数で、それぞれを5年前の値段に換算すると、8,500円、5,700円、88,600円となる。どう解釈すべきか。隔世の感大である。

 反射炉* 最終日、更に北上して沼津に向かうが、途中、韮山(にらやま)の名を聞いて下車。反射炉を見学する。
*江戸時代後期になると日本近海に外国船の出没が増え、海防の必要性が問われるようになった。外国船に対抗するには精度が高く飛距離の長い鉄製の洋式砲が必要とされたが、従来の日本の鋳造技術では困難であり、外国式の溶解炉が求められることとなった。これが反射炉で、伊豆韮山代官の江川英龍、佐賀藩の鍋島直正などが、オランダの技術書を参考に造り始めた。江戸時代末期に、技術水準の差はあったが伊豆国・佐賀藩・薩摩藩・水戸藩・鳥取藩・萩藩などで造られた。これによって鋳造された砲は、幕末に外国勢力への牽制として、また、戊辰戦争などの実戦に用いられた。反射炉に必要とされた耐火煉瓦の製造技術は、明治時代の洋式建築物に利用されるなど、歴史の転換に重要な役割を担った。

 残金4円 沼津からの帰途、ちょっとした失敗で、静岡で乗換え。次の列車までベンチで読書しながら待った。寒くなかったからよかったのだが、2時間後にやっと列車に乗れた。急行料金が足りるかが心配の状況で、更に千秋の思いで待った検札がやっと廻ってきて、無事支払え、残金があってようやく昼食の駅弁が買えたがその残りは2人合わせて4円だけ。大阪駅から私の家まで8㎞の路をタクシーで帰らざるを得ぬ羽目に陥ったことだった。

 女教諭の死 この旅行中に、彼から、もらってやれと言われた既稿の、兎を抱いた写真がよく撮れた彼女が死んでいた。彼女は学校の忘年会に出席すべく家を出て、なぜか乗車するはずの駅の遮断機をくぐってしまったのだった。何を考えていたのだろうか。やゝ大柄でふっくらとした美貌の温和しい体育科の教師だった。彼女が日直で私が宿直の日に、彼女が呼び寄せたやはり美しい妹さんは顎に小豆粒ほどのケロイドができていた。言われるまで全く気づかなかったのだが、電車の中で網棚の他人の硫酸の瓶が割れてやられたとのこと。姉妹共に気にされていた。父の中学校校長も以前に車を運転していて事故死されたとのこと。猛者も10年余り前に肝臓癌で死去。合掌。

              [完]平成25年6月作成・27年6月修正


  昭和41年の出来事

01/02 円谷プロとTBSが『ウルトラQ』放送開始。怪獣ブームの始まり。
01/18 早大生、授業料値上げ反対などで全学スト。2月10日全共闘、大学本部占拠(6.22解決)。
02/03 ソ連の無人探査機「ルナ9号」が月面に軟着陸。月面写真を撮影。
02/04 全日空ボーイング727、羽田沖に墜落、133人全員死亡。
02/27 第1回物価メーデー(200万人参加)。
03/04 カナダ航空DC8、濃霧で羽田空港防潮埋に衝突炎上。64人死亡。
03/05 BOACボーイング707、富士山上空で空中分解、124人全員死亡。
03/11 群馬県水上温泉・菊富士ホテルで火災、死者30人。
03/31 住民登録による総人口1億人突破。
04/07 千葉大チフス事件。千葉大付属病院医局員・鈴木充、人体実験容疑で逮捕。
04/26 公労協・交運共闘統一スト。
05/00 広告代理店「電通」の売り上げ中、テレビ広告費が初めて新聞を4%上回る。テレビの普及急ピッチ。
05/23 科学技術庁が、ロケット打ち上げ射場、宇宙センターを種子島竹崎海岸(鹿児島県)にすると決定。
05/30 米原潜スヌーク号、横須賀入港。反対デモ激化。
06/25 国民の祝日に関する法律改正公布。9月15日を「敬老の日」10月10日を「体育の日」と定める。
06/30 国民年金法改正。
06/30 ビートルズ、日本武道館で公演。
07/04 政府、新国際空港建設地を千葉県成田市三里塚に決定。
07/13 東京都教委、都立高校入試制度改善の基本方針を決定。
08/05 恐喝・詐欺容疑で自民党代議士・田中彰治逮捕。政界の黒い霧事件続発。
08/18 北京・天安門広場で「文化大革命勝利祝賀」の紅衛兵100万人集会開催。
09/25 台風26号、死者・不明316人。
09/27 参議院決算委、共和精糖への不当融資問題の追及開始。
10/29 戦時中の接収ダイヤ売り出し。
11/13 全日空YS-11、松山空港沖で墜落、50人全員死亡
12/09 建国記念の日を2月11日に決定。
12/20 東京地裁、結婚退職制は違憲と判決(住友セメント女子社員勝訴)
12/27 衆議院、"黒い霧"解散。
●世相 "ひのえうま" で出生数は前年の25%減/NHKテレビ「おはなはん」大人気/ミニスカート普及
●歌謡曲
[1]
1.悲しい酒(美空ひばり)
2.涙の連絡船(都はるみ)
3.絶唱(舟木一夫)
4.ほんきかしら(島倉千代子)
5.兄弟仁義(北島三郎)
6.函館の女(北島三郎)
7.いっぽんどっこの唄(水前寺清子)
8.柳ヶ瀬ブルース(美川憲一)
9.ラブユー東京(黒沢明とロスプリモス)
10.星影のワルツ(千昌夫)
11.唐獅子牡丹(高倉健)
12.骨まで愛して(城卓矢)
13.恍惚のブルース(青江三奈)
14.霧氷(橋幸夫)
15.女のためいき(森進一)

[2]
1.君といつまでも(加山雄三)
2.お嫁においで(加山雄三)
3.想い出の渚(ザ・ワイルドワンズ)
4.星のフラメンコ(西郷輝彦)
5.恋のフーガ(ザ・ピーナッツ)
6.逢いたくて逢いたくて(園まり)
7.霧の摩周湖(布施明)
8.雨の中の二人(橋幸夫)
9.こまっちゃうナ(山本リンダ)
10.二人の銀座(山内賢,和泉雅子)
11.バラが咲いた(マイク真木)
12.いつまでもいつまでも(ザ・サベージ)
13.夕陽が泣いている
(ザ・スパイダーズ)
14.空に星があるように(荒木一郎)
15.若者たち
(ザ・ブロード・サイド・フォー)

●書籍ベストセラー
氷点(三浦綾子)[朝日新聞社]
海軍主計局大尉小泉信吉(小泉信三)
山本五十六(阿川弘之)
吉川英治全集 三国志 1[講談社]
人間革命 2(池田大作)
五味マージャン教室(五味康祐)[光文社]
戦争と平和 1(A・トルストイ)[河出書房新社]
対話・人間の建設(岡潔・小林秀夫)
私をささえた一言(扇谷正造)[青春出版社]
おはなはん(林謙一)
●TV
大河ドラマ 源義経 (NHK)
ウルトラQ (TBS)
ハニーにおまかせ Honey West (テレビ朝日)
それゆけスマート Get Smart (テレビ朝日)
捕虜収容所 Hogan's Heros (テレビ東京)
氷点 (テレビ朝日)
アンディー・ウイリアムズ・ショー
The Andy Williams Show (NHK)
奥様は魔女 Bewitched (TBS)
おそ松くん (テレビ朝日)
アイ・スパイ I Spy
半七捕物帳 (TBS)
連続テレビ小説 おはなはん (NHK)
サンダーバード Thunderbirds (NHK)
横堀川 (NHK)
銭形平次 (フジテレビ)
笑点 (日本テレビ)
宇宙家族ロビンソン Lost in Space(TBS)
わんぱくフリッパー Flipper (フジテレビ)
ウルトラマン (TBS)
マグマ大使 (フジテレビ)
かわいい魔女ジニー I Dream of Jennie
悪魔くん (テレビ朝日)



<増補修正版 44> 初任校前半の色々 種々の出会 と 研修、結婚

2015-06-19 | 昭和初期
<増補修正版 47> 初任校前半の色々
          種々の出会 と 研修、結婚

 大秀才 前々々稿の3ヶ年の次は2年から3年へと持ち上がり。これも学年が上がる時には編成替えをしている。両方とも比較的穏やかな学級だったか。生涯で一番の数学科の秀才がいた。自分流で三平方の定理を解いてきたりして驚かされた。彼についてはまた後に少し触れたいと思う。まだ学校新聞や色々のことをやらされていて、疲れが溜まって来ていたので、その翌年は担任なしを願い出て許され、3年付の副担任となり元気が快復した。

3年生引継 1年間の副担任で元気が快復して、また3年担任。この学級は、前年は若い女性教諭が持ったので、特別のやんちゃは外してあり、誠におとなしい学級で助かった。15年間勤めたこの学校の最後の年にもう1度だけ特別おとなしいクラスを持つ。2度だけの経験だ。
前年の担任は年度内に結婚して担任を下りたのだった。この学年は珍しく、3年に上がる時に編成替えをしなかったのだ。驚いたことに、クラスに、私が反抗した教頭の長女がいて成績はもう1人の女子とで組で1~2を争っていた。実力テストででもである。口数が少なく、至っておとなしくまじめな少女であった。どれかの学期に副委員長にも当選している。彼女が家で父から私のことをどう聞いていたかは知らない。もちろん、平等に扱った。彼女は後に東京の教員に嫁いだとのことで、回数の至って多い同窓会であるが、1度顔を会わせたきりで、最近のことは知らない。
 
見合い 4月に尊敬していた校長から見合いを勧められた。相手は以前記した兎狩りに行った学校の教頭の長女。その6歳下の弟が、私の学校へ以前越境入学してきていて、学年トップの秀才で名生徒会長を務め、私のラジオクラブでも後片付をキチンとする模範生だったので、初めて見合いする気になった.それまでの2人の校長にも1度ずつ勧められたが断っていたのだった。彼が2年生で生徒会長に当選した時の学校新聞の記事を今回読んで、朝6時に家を出て自転車・電車2本を乗り継いで登校していた努力家だったことを初めて知ったと言える。新聞を発行した頃はクラブの部員でさえもなかったのだから、完全に忘却していたのだ。双子でも一方は学年トップクラス、一方は下から2番というようなのを2組は見ていたが、ともかくも見合いする気になった。

  1海外引揚者の行動 ここで終戦前後の1つの事情を語る例として妻の父のことを紹介しておく。義父は関西学院を出て教員に。太平洋戦争が始まって間もなく募集に応じて朝鮮の全州*へ渡り、日本人学校の教頭になる。40歳頃か。早生まれの妻が小学校6年生の冬だ。戦時中も空襲がなかったとのこと。終戦後も半年は在留したが現地は平穏で何の心配もなく、食糧にも事欠かなかったという。この点は私の誤算で、同じ苦労処か、より以上の苦労をなめて来たと勝手に思いこんでいた。島津藩の出で、家宝の日本刀を信頼していた現地人に預けて引き揚げたが、ついに返してもらえなかったとの話だけを聞いて、苦労して来ただろうと決め込んでいたのだった。義父は大阪市に引揚げて1週間程で米軍基地―現在自衛隊の駐屯地がある所だろうか―のある府下の信太山に転居し、翌日早速基地に乗り込み即日通訳に採用された。その後、彼の家へも将校たちが缶詰などを持って度々遊びに訪れ、齢の離れた弟も3人いたのだが、食糧には全くこと欠かなかったという。何時また大阪市の学校に戻ったかは審(つまび)らかでないが、関学の先輩K氏が、市の教育長か何かをしておられた関係であることは間違いなかろう。義父が羽曳野学園で校長になった時は、教員の定年は60年と定められた頃だったのに、校長は58年だった。それをK氏が60年に変更されて、その恩恵を受けた第1号が義父だった。
 *全州市、現チョンジュ市は、大韓民国全羅北道中部の市。道庁所在地。北朝鮮に近く西岸寄りに位置する。


 驚き二重奏! いざ見合いを受諾して驚いた。仲人は、あの反抗した教頭にさせるとのこと。その時に校長に強く仲人を頼めばよかったかも知れないが、そのまま受諾してしまった。13日の三隣亡*(さんりんぼう)の日―私は福沢諭吉と同じく信心や迷信に対してあえて反対行動をとる性質(たち)だが、いろいろのことが重なって覚えている―会場は、行ってみると元遊郭のだだ広い1室だった。土曜日の午後、授業をすませて先着し、20分ほど読書しながら待った。(途中省略)先方の父親と私の話が割に弾み、少し長引いた頃、突然押入れのふすまが開いて、中から仲居風のだらしなく見えた女性が4名出てきて、会釈だけして、声もかけずに出て行った。当方一同は唖然として、とがめる声を誰もかけられなかった。長い間ずっと盗み聞きしていて、男同士の会話に飽きて出てきたのだろうか。この話はこれで終わる。
 *『三軒隣まで滅ぼす日』という暦注の1つ。 そのほとんど は、十干十二支の組合せによってその日の吉凶を占う。江戸中期頃から「大安・仏滅・友引」などの六曜などと同様に記載されて流行し、特に明治になって大流行した。ただ、当初は「三隣“宝”」と書かれていて「屋立てよし」「蔵立てよし」と注記されていた。 これがいつの頃からか「屋立てあし」「蔵立てあし」と書かれるようになったと言われている。これは、ある年に暦の編者が「よ」を「あ」と書き間違え、それがそのまま伝わってしまったのではないかと言われているとか。そして後に、つじつまを合わせるために、同音の「三隣“亡”」に書き改められたと言われているとのこと。
 *2天保5年12月(1835年1月)~ 明治34(1901)年。武士(中津藩士のち旗本)、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者。慶應義塾の創設者であり、専修学校(後の専修大学)、商法講習所(後の一橋大学)、伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)の創設にも尽力した。新聞『時事新報』の創刊者。他に東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長を務めた。そうした業績を元に明治6大教育家として列される。昭和59(1984年)から日本銀行券1万円紙幣表面の肖像に採用されている。  

  奇縁 初のデートは奈良見物とした。2人で、まだ50cmほどの間隔を開けて若草山へ向って歩き始めた頃、いきなり、新しい学級の男子2人と出会った。2人とも快活な社交家だから、たちまち、狭い校下に話は広まったことだろう。しかも、この2人はなんとまた、高校受験に失敗し、定時制高校の4年間、父の店で働いたので、長女の幼時も知っているという奇縁の主だ。
 
 人生急転 10月、見合い後半年、29歳の時に結婚した。妻は4歳下だ。その時担当していた3年生のおとなしい学級は、前年に引き続いて担任が結婚したわけだ。前記した摂桜会の生徒たち20人位が私たちを招いてお祝いの会を開いてくれたが、妻より6歳下、20歳の彼女たちが皆輝いて美しく見えた。(これは内緒、今の家族は眼が悪かったりで、誰もブログは読まない。)

翌年8月に長女がやゝ早産し、更に3年後の7月に次女が生まれた。これらの時、父の家から百mほどの平家の小さな新築の家に住み始めていた。結婚して暫くは父母も同居していた。前に記した、大きな池に近い、大空襲で焼かれた一帯である。小学校の校務員さんが所有していて、一部切り売りしたのを親戚の知らせで一緒に買ったのだった。奉職して8年目で、学校と家との往復の毎日、学校の近所には喫茶店もなく、少々の疲労では医者にも通わなくなり、滋養酒を飲む程度―利いたようには思わなかったが、20本位は続けていた―だったので、安月給ながら貯金で土地代は支払えた。ちなみに、10年後に10歳下の義弟が住友銀行へ勤めた年の年収は、その年の私の年収と同額だったのだが。新居には少々の庭もあって、長い間農地だったせいか土もよく、肥料もよく利き、2種類のブドウや柿―渋柿で道路際に植えたのだが―もよく実った。1本だけのバラも見事に咲いた。都会育ちで田舎を知らず、近所の1軒だけだが、玄関のごく狭い場所で毎夏桃が実るのを羨ましく眺めていたのが根底にある。50年間の果樹栽培や園芸が始まった。私の人生は急変した。仕事は相変わらず忙しかったが、今まで少しは読んでいた教育書や文学書は果樹の専門書や園芸書に換わり、日曜日は庭で過ごすことが多くなった。健康のためによかったかどうかは分からない。庭がなければ、娘たちとハイキングに行く回数がもっと増えてはいたろうから。19年後からもっと長く住むことになる奈良県の家では、家計には明らかにマイナスだった。庭が少々広く、木や生垣の手入れに追いまくられ、妻から“庭の奴隷”だと言われたのだが、土が不良でよく実らなかったし、庭がなければ家庭教師に出向いていただろうから。
 
 隠し子 勤めて2年目位に戻るのだが、主題にそぐわないので保留していた。年長の1教師から、君の隠し子じゃないのかとからかわれた1生徒がいた。毎休憩時間の殆ど、用もないのに職員室の私の傍にきて立っている1年生の男子だ。こちらは、たいていは次の授業のための準備に戻っただけで、声をかけられない時もあったかと思うが、4月半ばからだったか。動機は全く覚えていない。多分は胸をはだけて素足で登校するのを見て声をかけたのが最初かと思う。彼はボタンが全部取れた、よれよれで垢だらけの薄っぺらい服をずっと着続けていた。シャツも着ず、垢だらけの胸をはだけていた。靴もはかず全くの素足で登下校していた。彼に5個のボタンを与えたが付けて来なかった。私が女性なら付けてやっただろうが、そこまではしなかった。その頃はまだ、ものを頼める女教師はいなかった。彼に慕われている期間は余り長くなかったことを反省する。当時、私の一番大切にしていた2冊の本、講談社発行の“少年倶楽部”の付録の“智恵の豆ダイヤ”と称する掌中本―1年生の理科の時間の終り5分間に1ページずつ紹介したと以前に記した―を2冊貸してやった。1冊目は戻ったが2冊目の、先に刊行された厚い方が戻らなかったので邪険にしたからだ。その間、彼の家庭のことも尋ねなかったか。担任や民政保護司の仕事ではあろうが、確認してやってもよかったかとこれも反省する。当時は私も無知ではあったのだが。彼はそのうちに登校しなくなった。私は臨時の、初めての3年担任の仕事に忙殺されて、彼のことは忘れてしまっていたようだ。
 
  研修会 これも書く機会がなかったのだが、奉職4年目から9年目にかけて、夏休みには新任教員(傍系者だけ?)は学力補充の研修会に相当日数駆り出された。不足単位を補うためで、会場は近隣の5つの高校や、学芸大学の本校と分校。暑いさなか、もちろん冷房などない時代。学芸大学講師などの講義だったが、居眠りする者も多かったようで、最後列では椅子ごと後ろへひっくり返る音が時々した。私も、科目によっては最後列で読書しようとしてたしなめられたり、ひっくり返りかけたりしたこともある。私は、教育原理・教育心理・社会科学・人文科学・自然科学(地学)を取っている。1単位に5日、1日に何時間の授業だったかは日記帳を捨てられたので分からない。後に、役所の手違いでまだ1単位不足することが分かって、翌年に通信教育で倫理学2単位を取り、これだけは後日に試験を受けさされ、全く自信がなかったが合格させてくれた。
 
 免許切替での決断 数学は後半に集中して5単位の講義があり、お陰で工業科の免許を数学科に切り替え、高校のも1級免許状を取ることができた。切替の時、工業科も取れたのに取らなかった。個人としては、家庭の製品を手仕事で制作や加工できる木工機械を扱える魅力は大きかった。しかし、当時の工業科は選択制で、英語科を取らないやんちゃ坊主が主である。機械を扱うことゆえ、けがをさせる恐れがあることを危惧しての決断だった。2教科ある方が将来のために安心だが、数学だけで必要な人材になろうと決意したことも事実だ。一方で、今まで持ってきた理科や国語は続けて持たせてもらえるだろうとも考えていた。
 
  教科切替 前項の読みは甘かった。奉職6年目、突然、免許状以外の教科は教えられなくなり、数学科専任になった。教材研究は楽になったと言えるが、理想は宿題に回す問題集の1つ1つについて、どの類型の問題なのかまで調べておかなければならないのだが、ますます忙しくなって行き、そうはできなかったのだった
 
 道徳科開始 昭和33年度からだと思うのだが、新に道徳科を教えることになった。担当は学級担任、毎月曜日の1時間目ということになった。副読本処か、指導書も最後までもらえなかった。上記研修会で、倫理学などは多少学んだものの、もともと、そういった面では至って記憶力が弱い私、全く身についていなかったから実に頭が痛かった。参考的な書物は2冊買い込んだが、殆どは、しっくりとは来ない題材で、前日の毎日曜日は明日は何を話そうかと、頭を悩ませながら庭仕事をする嫌な日となってしまった。退職まで、20年以上続いたのだった。
 
 2秀才教員との出会 私の奉職後3年目に理科に3歳年上の三高*出の男が新任で入ってきた。年長者に対して“男”呼ばわりは非礼なのは百も承知で、一旦は“ひと”と書いたのだが、それでは彼を表しきれないと考えて書き直した次第。私の妻は彼のことを陰で“ゴリラ”と称していた。顔も異様で、服装はいつまでも旧制高等学校の“バンカラ*”を守っていた。学校では靴を履いていたが、通勤時はホオ歯で太く白い鼻緒の高下駄を履き、腰の日本手ぬぐいは長くだらんと下げていた。“バンカラ”は旧制高校全てに共通した彼らのステータス*2だったようだ。驚かないで頂きたい。私だって、家では同様の服装を暫くはしていた。日本手ぬぐいは学校でも何年間かは腰に下げていたが、半分の長さに折ったものを、ベルトで更に二つ折りにしてはいた。手ぬぐいを下げている教師は年長者にも2~3人はいたと思う。
 *一般的には言動などが荒々しいさま、またあえてそのように振る舞う人をいう。小説などによると、旧制高校生は一般に蛮カラだったようだ。
 *2社会的地位。また、それを表すもの。


彼は戦後、朝鮮人を何名か雇い、ラジオを製作販売していたとのこと。工専の時の秀才も全く同じことをやり、後にやはり、私の同僚となるのだ。しかも、驚いたことに、工専の彼は国語科の教員になって2つの学校で再会を重ねるのだった。以前に書いた新任の時に理科の実験で親切にしてくれた同い年の秀才女教諭とも、また後に2つの学校で出会うのだった。その時には書きそびれたが、彼女は私が小3の時の新卒の担任の妹さんである。珍しい姓だから分かった次第。担任は音楽専攻だから、級内でコーラスグループを作ったが、もちろんお呼びではない。ただ、途中で1度読み方(国語)と算術の組内の成績表をくれた。読み方は8位、算術は2位であった。家では全く勉強しないの――。調査に対しては進学してからも、父にそこそこしているように書いてもらったので、各担任からは素質は分かってもらえず、馬鹿なことをしたと教員になってから思ったことだった。

 力調べ “ゴリ氏”に2~3日後に理科室で顔を合わすと、いきなり、「あんた電気屋やそうやなぁ。○○の公式知ってるか」と声をかけてきた。知らないが『スタインメッツ技術用数学』なら読んだと答えて対数方眼紙を利用する、その要点を説明すると、彼は黙ってしまい力調べは済んだ。彼は他の誰かにこのことを話したことを後に知った。かの書物は、工専時代に友人から借りて、その殆どを勝海舟並に大学ノート1冊に書き写したために、比較的よく覚えていたのだ。この本は後に古書店で購入し、今もノートと共に持っている。他の工学書は転居の時に全部捨てたが。彼の家には、後々よく行った。色々と読書も勧められた。『ガリバー旅行記』の「不死の国」を読んだ印象が一番強かったか。
同じ年に、やはり、新任で奉職してすぐに隣の組の担任になった、別稿の『こぼれ話」で紹介した空軍中尉、広島高等師範学校*3出の御宅へもよく寄せて頂いた。こちらは“ゴリ氏”とは正反対の、私の知る中で最も温厚な紳士だった。新婚の奥様―私と同年で高校の事務職員、御主人同様、至って穏やかな方―とあちらこちら間借りされて回ったが、その全ての御宅へ呼ばれた。5歳位上で英語科の担当だった。

2人とも、数年後には近隣の高校教員に転出。“ゴリ氏”は結婚して遠方に移られたので、1度訪問したきりであり、大分前に亡くなっている。後者の方は、お住まいを転々とされ、定年頃に天王寺の高層ビルの高い部屋に移られた。その全ての御宅へ平成11年に亡くなるまでお訪ねしている。紳士は定年後、その高層ビルで酸素吸入器を用いながら、B4版千ページの自伝をワープロで打ち続けられ、印刷・製本は業者に任せ、完成した本を知人たちに配った後亡くなった。奥様はその後も高層ビルに住まわれていたが、現在は不帰の人となられている。合掌。
 * 旧制国立第三高等学校。京都大学教養学科の前身。
 *2 ステータスシンボル=社会的地位の象徴
 *3現広島大学文学部・教育学部・理学部の前身

            【完】平成25年5月作成・27年6月修正


   昭和40(1965)年の出来事

01/08 韓国、南ベトナムに派兵決定。
01/20 日航、海外団体旅行用の「ジャルパック」発売。
02/07 米軍のベトナム北爆開始。ベトナム戦争激化。
02/10 社会党・岡田春夫、衆院予算委で防衛庁統幕会議の極秘資料"三矢研究"追究。
02/20 アンプル入り風邪薬による死者続出、製薬会社、販売自主規制。
02/22 北炭夕張炭坑でガス爆発、62人死亡。
03/06 山陽特殊製鋼、会社更正法適用申請。
03/14 作家・戸川幸夫が西表島で発見したヤマネコが新種と鑑定される(イリオモテヤマネコ)。
03/16 東京都議会議長選挙をめぐる汚職事件摘発。6月までに11議員逮捕。
03/18 ソ連の宇宙飛行士レオーノフ中佐が人類史上初の宇宙遊泳に成功。
04/01 東京電力、電気料金の銀行口座振替制を開始。11.1には都の水道料金も。
04/24 ベ平連主催、初のデモ行進。
05/22 東京農大ワンダーフォーゲル部の新入生訓練で1人死亡。25日主将ら逮捕。
06/01 福岡県山野炭坑でガス爆発。237人死亡。
06/12 家永三郎、教科書検定を違憲とし、国に対し民事訴訟起こす。
06/22 日韓基本条約ほか関係4協定調印。
06/26 川崎の急造宅地で土砂崩れ、24人死亡。
07/04 吉展ちゃん事件(38年3月)の容疑者・小原保逮捕(5日都の円通寺で遺体発見)。
07/04 第7回参議院議員選挙。
07/29 神奈川県座間町で警官2人殺傷の少年ライフル魔、渋谷の銃砲店で店員を人質に警官隊と銃撃戦。16人負傷。
08/03 松代群発地震(~42年)。
09/24 国鉄「みどりの窓口」開設。コンピュータによる特急券指定券を販売。旅行が便利に。
10/5~7 台風の影響でマリアナ海域で漁船7隻遭難。死者・不明209人
10/21 朝永振一郎にノーベル物理学賞授与と発表。
11/08 日本テレビ系「11PM(イレブンピーエム)」放送開始。
11/10 中国で文化大革命始まる。
11/17 プロ野球ドラフト制始まる。巨人・堀内恒夫、阪神・藤田平、阪急・長池徳二、近鉄・鈴木啓示ら。
11/19 閣議、戦後初の赤字国債発行を決定。
11/18 関係閣僚懇談会、新東京国際空港建設地を千葉県富里村に内定。
11/29 初の「コンピュータ白書」。台数は世界2位。
12/13 40年の造船進水量が10年連続の世界1位。
12/20 東大・名大・群馬大各附属病院の無給医局員340人、身分保証を要求し初の診療拒否。
●世相 アイビー族登場/エレキブーム/ピンク映画さかん/大塚製薬「オロナミンC」発売/鎌田商会(現・白元)が「アイスノン」を発売
●歌謡曲
[1]
1.ラストダンスは私に(越路吹雪)
2.ウナセラディ東京(和田弘とマヒナスターズ)
3.悲しき願い(尾藤イサオ)
4.女の意地(西田佐知子)
5.愛して愛して愛しちゃったのよ(和田弘と
マヒナスターズと田代美代子)
6.ナポリは恋人(弘田三枝子)
7.ごめんね・・・ジロー(奥村チヨ)
8.赤坂の夜は更けて(西田佐知子)
9.下町育ち(笹みどり)
10.さよならはダンスの後に(倍賞千恵子)
11.チキン・オブ・ザ・シー(ジャニーズ)
12.まつのき小唄(二宮ゆき子)
13.くやしいじゃないの(森山加代子)
14.赤いグラス(アイ・ジョージ・志摩ちなみ)
15.ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー(越路吹雪)

[2]
1.サン・トワ・マミー(越路吹雪)
2.柔(美空ひばり)
3.二人の世界(石原裕次郎)
4.私を愛して(奥村チヨ)
5.涙くんさよなら(和田弘とマヒナスターズ)
6.アンジェリータ(ダーク・ダックス)
7.朝日のあたる家(ダニー飯田とパラダイスキング)
8.夢みるシャンソン人形(弘田三枝子)
9.恋する瞳(伊東ゆかり)
10.スエーデンの城(岸洋子)
11.夏の日の思い出 (日野てる子)
12.君に涙とほほえみを(布施明)
13.知りたくないの(菅原洋一)
14.砂に消えた涙(弘田三枝子)
15.アイドルを探せ(中尾ミエ)

●書籍ベストセラー
日本の歴史 1~⒑回[中央公論社]
なせばなる!(大松博文)
南ヴェトナム戦争従軍記 [岩波新書]
おれについてこい! (大松博文)
人間革命 1(池田大作)
バランスシート
ヒロシマ・ノート(大江健三郎)
白い巨塔(山崎豊子)[新潮社]
三分間スピーチ[光文社]
わが愛を星に祈りて
●TV
大河ドラマ 大閤記 (NHK)
踊って歌って大合戦 (日本テレビ)
エド・サリバンショー The Ed Sullivan Show
ペイトンプレイス物語 Peyton Place
連続テレビ小説 たまゆら (NHK)
ザ・ガードマン (TBS)
おかあさんの勉強室 (NHK)
小川宏ショー (フジテレビ)
0011ナポレオン・ソロ The Man from U.N.C.L.E.
オバケのQ太郎 (TBS)
ジャングル大帝 (フジテレビ)
素浪人月影兵庫 (テレビ朝日)
青春とは何だ (日本テレビ)
11PM (日本テレビ)
FBI (TBS)
チコちゃん日記 (NHK)
人形佐七捕物帳 (NHK)


   




人  

<増補修正版 43>  学校新聞に関係、三重苦に

2015-05-30 | 昭和初期
<増補修正版 46> 学校新聞に関係、三重苦に
               全国コンクール入賞も

学校新聞編集に協力 奉職4年目の秋だったか、職員会議の席上で、日頃まじめで尊敬していた中年の国語科教師が突然発言を求めて、学校新聞の編集が忙しいから協力者が欲しいとのこと。協力者としては既に、私に目をかけてくださっていた国語科の元校長もいたのだが、たまたま、前年の校内学級新聞コンクールに出した拙い作品について、時の新聞部長の3年生N君に、新聞記事の割付(わりつけ)レイアウト)*法を教えられて興味を抱いていたので、つい、割付だけなら手伝いますと申し出てしまった。付言するが、学校新聞発行は太平洋戦争後、教育の生活化、社会化を推進する重要 な一環として奨励されていた。
 *縦型縦組新聞の紙面では(ア)主要な見出しは大きな字体で、紙面の2本の対角線上に置くようにする。紙面を見る時の自然の目の動きに一致しているという。重要記事の位置は右上、左上、中央の順だ。(イ)段を仕切る横罫が端から端まで通るのを“ハラ切り”といって、最下段以外はこれを絶対避けなければ紙面が上下に分割される感じがしてよくない。そのためにも(ア)が必要になる。(ア)・(イ)の結果、“箱もの”(長方形の罫線囲み記事)以外のニュースなどは切抜きには全く適さないいびつな形になるがやむを得ない。(次稿『 今昔、新聞 紙面や記事の幾変転』にも記載)なお、当時の紙の大きさは今の規格に合わないことを付言する。B4版より縦横1㎝位長い370×264mmだった。 
 
2度の吃驚!(びっくり) 2学期末発行の学校新聞はなんと私の名前で発行された。割付を手伝っただけなのに。それまではくだんの国語科教員の名前で発行されていたのだ。少々後に は“生徒会発行”と改めた。年度末になって驚いたことに、その国語科教員は転勤し、元小学校校長も退職されて、学校新聞は私1人の負担とされてしまった。しかも校務は相変わらず教務で、新聞はクラブ活動として扱われた。それまで持っていたラジオクラブは止めた。前稿に記した“時枝文法“の採用者―その頃は学校ごとに採用していた?―と思うが、相談もできない状態になってしまったのだった。

他校紙と交流
 新聞部には、2~3の学校から学校新聞が届けられていた。それで、毎日新聞で知った学校新聞の優秀校にこちらの新聞を送ると、依頼状は添えていないのに全て先方の新聞を送って頂けた。当時前橋二中と、大阪府堺市の三国ヶ丘中学校が優秀だったことは覚えている。他にも仙台とか2~3校あったが失念した。お許し請う。なぜか、大阪の2~3の高校からも来て、その中の全国高校紙からのゴシップが面白いので、毎号で転載させて頂いていた。
 
 コンクール目標 1年ほど経つた頃から、他校紙の刺激と、優秀な部員の存在とでコンクール応募を次第に思いたつようになった。大した自信はなかったが、当時大阪ではコンクールがなかったから全国コンクールを目標にするよりほかなかった。模造紙を縦半分に切って縦長につないだものに「期全国コンクール入選」と父に毛筆で大書してもらったものを新聞部の小部屋の壁に張り、その前で部員23名とセルフタイマーで写した写真が残っている。私は珍しくふっくらした顔で写っている。この頃は少し体の調子がよかったようだ。始めから“全国”と大きく出た理由は翌年夏に毎日新聞社のコンクールに応募した新聞の後書きに書き添えた。
 
猛暑下の編集 夏休みの8月17日から連続15日間、連日30度を上回るその年最高の暑さ*の下、午前は西、午後は北の教室で編集に没頭、3時を過ぎるまで昼食を忘れていたことが2度もあったとも。弁当持ちだったのだ。部員たちが作り上げた原稿が8ページ分以上(5万字)。これを6ページに切り詰めるのにまた一苦労したと記している。
 *この頃の大阪の気温は今より相当低かった。天文学的な原因もあろうが、今はエアコンからの放熱がより暑さを増しているいるのではなかろうか。

この前年の女子のK部長と、この年のI部長とT主筆(論説担当)、どちらも3年生の男子だが、3人とも実に優秀だった。K部長の妹の2年生も優秀で翌々年部長となった。代々の新聞部長は皆貧しい家庭の子だったことを書き添える。ユニフォームとか,楽器とかが要らないから新聞部を選んだのだろうか。とまれ、知恵を出し合って企画した。
 
企画 通常は4ページ建てだが、本号は2ページ増した。前号編集の折に発案されていたが、今号のために残しておいた企画も少しあった。「希望訪問 第1回、一家合わせて五十六段」はその1つだ。購買部を担当されていた60歳位の穏やかで上品な紳士のお宅を部長1人で休日に訪問した記事だ。小柄な方だが、奥様と妹さんとを併せて、なぎなたと剣道で56段あるとのこと。お宅には、日本刀・なぎなた・防具がたくさんあったことにまず驚き、鎖鎌もあったと報じている。刀は試合の賞品だとのこと。生徒の保護者に毎日新聞社の方がおられた関係で、この記事は間もなく、殆どそのまま毎日新聞にも載せられた。             

1面は休暇明け早々の4種目の学級対抗スポーツの日程と優勝予想など。他に論説欄や行事予定などで一流紙と紙面構成はそっくりだが、中央やゝ下にブドウ棚の下から校舎の半分と農園の一部を写した会心の写真を入れて紙面を引き締め、それに「摂陽の秋」と題する20行の詩*―生涯に3つ位しか作っていないが-を添えた。今になって、自分のイニシャルは入れておいた方がよかったと考えている。それ以前の号に掲載した会心の教員の似顔絵にも。
 
*日射しは/まだ夏を思わせる。/しかし、/秋は来ているのだ。/摂陽の秋は、/先ず農園に訪れる。/ブドウがみのり、/イチョウが黄ばみ/コスモスの蕾が/まさにほころびよう/としている。/稲はまだ青いが,/一斉に穂を生じている。/日中の暑さも/ここ、しばらく、/大陸に移動性高気圧が/張り出して来ているため/本格的な秋の訪れも/間もないことでしょうと/ラジオが報じている。

2面は全面進学指導のページとした。進学校の選び方・経費・奨学金(月額500円だった)・高校訪問記。これには特に内容が珍しい工業高校を残してあった。定時制高校の実情について、教師が昼夜かけもちで疲れていて、よい授業ができないとまで書かれていたのには感心した。誰の取材だったかが分からない。生徒の原稿にはすべてイニシャルを入れたはずだが?

3面は「実力考査すでに三回 75%が歓迎 高校進学に有利の理由も」が第1見出しで男女別賛否の同心円グラフを添え、次の見出しは「男子に多い不勉強 全校平均1.6時間 7時間勉強組もいる」として2種類のグラフを添えている。第2の記事は「昔の中学生生活を語る座談会」で、男女4人の出席教員の1人に加わり、体罰の思い出で、三流校だからと断って話していた。最終ページへ続けた記事だった。左上は翌年部長になる女子K(前部長の妹)の2コマ漫画、左下は、「腕くらべホラくらべクラス自慢」の連続物で2学級を取り上げている。その見出し図案に6行2段の、軍配うちわとほら貝を組合わせた漫画風のものを描いていた。これにだけは私のイニシャルを小さく入れていた。
4面は「もったいない図書室 千余冊大あくび “もてる”のは少女小説ばかり」と、先に紹介したなぎなた一家の記事。中央には、「さこそあれ摂陽七不思議」の横見出しの下に「“死人の声”に職人真っ青 本校の地、もと伝染病院 死体焼場変じてゴミ捨場に」との縦見出し。以前応接室として使っていた小部屋の室名掲示板の真っ黒な1面、よく見ると白エナメルの文字を墨で塗りつぶしてあり、それが“個(狂)室”と書いてあったことも。発見者名は私だ。 「カメラ探偵記」として休憩時間の教室での男子生徒ばかりの4枚の隠し撮り写真も載せた。顔は写していない。それらに付けた解説を紹介する。〈机が泣いていますよ。ユカもきたないってね。ほらほら。―机上でナイフを使っての鉛筆削り・大事なおみ足、机の上、スリッパも大切らしいですね。―机に座って片足を机上に〉他略。
後は教頭の随想と「声」欄、後者はT主筆が投稿ゼロを嘆き、勧誘する内容だ。

5面は、「一番乗り6時44分 成績不振者ほど早く登校 お祭り寝過組も成績2」と題して2種類の調査グラフを付けたのがトップ記事。「先輩の論文海外で称賛 チョウの生態に貴重な研究」や、新任教師の談話・昨年度教生25名の就職先・学級新聞コンクール募集(1位には豪華な刺繍の表彰額を半年間貸与)、先に紹介した他高校から転載の「高校珍聞」が面白い。左下3分の1を占める「無くて七癖(くせ)(むち)の用途も多種多様 長さは身長に反比例?」の記事は選ばれた7本の鞭を図案的に並べた写真を見出しの一部としている。小規模校だから、生徒は全教師を知っており、興味を引いたと思う。それぞれの持ち主の鞭の使い方を、剣戟型・代用品型・手足併用型・不公平型・コヅキ型・説教型と分類している。不公平型とは、一番太くて長い鞭を使用の東京女高師出の至って小柄な理科の教員で、ある組へはムチを持って行かないのに、同じ学年でも、他のある組では忘れて行くと職員室へ取りにやらせるとのこと。私は最後に登場で、鞭の長さは2番目、予告型とされていた。「大切な話をする時、いつも半分笑い顔でムチを机の上に置き左手でムチの根本をおさえ右手で先を持ちムチを上へそり返して放し音を出す。その音は他の先生の音よりも一段大きく、皆一度に静かになり授業に身を入れる」とある。全記事の担当者が異なり署名入りである。

6面は学芸欄だが、左上には「夏休み熱戦譜」として3つのスポーツクラブの戦績を記した。女子バレー部のネット際での攻防の写真を添えた。ボールの位置を見栄えがよいように、切り抜いてごく少しだけ下げ、これも会心作だったが、改作を卒業したバレー部員に見破られた。座談会の続きと、「時の科学」の4回目として立体映画の解説―入手先は記していなかった―を入れている。
 
コンクール入賞 かくて期待と冷やひやの新聞週間第1日の10月1日、発表の朝。当時我が家では毎日新聞を取っていなかった。出勤の駅から学校までの5分間の路で部員が追いついて来て入選を知らせてくれた。3等3席だった。募集の段階では、1等1校、2,3等各2校だったのに1校増やして3等3席として入選させて頂いた。前項の、大阪ではコンクールがないとの後書きで同情して頂いたかとも考えたが3席はまだ下に1校あった。佳作でも十分満足だったのだが-――。一生の中でこれが一等級に嬉しい出来事だった。批評は「難があるが取材は苦心している」とあり、難とは、座談会の記事を2面に分割したことと添えられていた。今は一流紙の1面の長い談話は2面に続けるのが常道だが、当時はどうだったのか。その頃は忙しくもあったし、政治への関心は大分低かったので1面記事は余り読まなかったからか覚えていない。入賞作の一部分を読み返してみて、誤字の見落としもあった。句点間が長すぎる文もあった。部員2人が1人で2つずつ同じページに小作品を載せているのも少し気になった。生徒の作品には全部イニシャルを付けて、自分のには入れなかった不統一も気になった。もっともっと気になったのは、旧漢字が多いこと。官庁の公用文や一流新聞紙面は完全に当用漢字表*1,850字の時代のはずだったが、町の印刷屋は大部分を昔のままの活字で済ましていたのだ。ざっと見出しの大活字だけを見渡しても“学”と“余”が1字ずつは新字体字だが、他の箇所では旧字体だった。小学校で既に何年間か新字体で学んできた生徒たちにどの程度、この新聞が読んでもらえたのか、今になって強く気になったのだが、当時は諦めていたのか、それほど気にした記憶がない。コンクールの評にも書かれていない。仕方がない時代だったのだ。

この年、旺文社でもコンクールを催していたことを後に知って残念に思ったことだった。ちなみに副賞は1万円、これでミゼットカメラやフィルムを買い、教室内での隠し撮りに使った。これは後にもらった。旺文社のは1等のかもしれないが、顕微鏡だった。
 
*昭和21年11月、内閣告示で当用漢字表1850字以外は公用文では使えなくなっていた。;

 
記念飛行 1、2日後だったかに、大阪本社で表彰式があった。私は、授業を欠きたくなくて部長だけを行かせた。表敬訪問という言葉はまだ知らなかった。新聞週間の「ペンに託して」という各界人の連載記事に中学生代表として1名派遣せよと言われて帰ってきた。大阪上空遊覧飛行の記事を書くとのこと。部長を行かせてやりたかったが、地理に詳しく能筆のT主筆に決めた。彼には学校上空を飛ぶ時には、この下に部長等がいるのだと必ず書けよとくれぐれも言いつけておいた。部長の名を書くことも。翌朝毎日新聞に載せられた記事は残念ながら残していないが、次号の学校新聞には、2時間にわたる大阪府一帯視察の、1,800字に及ぶ名記事が毎日新聞を飾ったと次号で報じている。
 
取材コンクール 11月15日、府中学校新聞連盟主催の取材コンクールにも参加。前部長I君、新部長kさんと1年生2人を派遣。22校、約90名の参加で、1位入選校を始めとして約10校は教員付き添いだったそうだ。「民主警察は私たちの生活を守るためにいかに努力しているか」という題を与えられて分散。9時集合で2時提出というあわただしさ。最寄りの警察署に行き、留置場など見せてもらうが、一般市民との応対が見られないとて、1年生は別の警察署に急行、やはり、同じ結果だったが、正午過ぎ、新聞社に戻って記事執筆。時間いっぱいで提出、2位。この記事はまたも毎日新聞に「驚かされたお巡りさん」の題で掲載された。留置場の構造・接見の様子―見せてくれた―・指紋検出の速さ・通りすがりのひとの声など、立派なものである。正に多士済々だった。嬉しい悲鳴として全国90校から、新聞の交換希望が来て、予め2百部は余分に印刷してあったが、郵送料に8百円かかったことを報じている。
 
反省 入選作の少し後からだが、報道や企画物に重点を置き、校長等の署名入りの原稿をこちらからは依頼せず、滅多に載せなかった。学校新聞の本来の目的を果たさなかったと後には反省したことだった。そんなことからだろうが、校長は表彰状を校長室に掲げてくれたが、教頭は、俄(にわか)仲人としての結婚式の場でも、遂に一言も新聞のことには触れてくれなかった。以前書いた教頭への反対運動の先棒を担いだことが原因かも知れないが。
 
専門委員 入選するとすぐに “大阪市立中学校教育研究会学校新聞部”の専門委員を委嘱された。これは教科や、特殊活動の部門別に、市内8ブロックに各3人の専門委員をおく制度である。この制度がいつからあるのかは知らないが、視聴覚部が新設された時、以前記した古だぬき殿が、私に行ってくれと命じてきた。学校新聞担当になった頃だったか。うるさい仕事が待っているに違いないと考えて、学校新聞も視聴覚の1つの手段と定義づけて押し付けようとしたことだと思う。帰ってきて、映画を見せてもらい、映画館の入場券をもらった―第1回はそれだけだった―と報告すると、入場券は取り上げ、専門委員は彼と仲のよい、生徒からは“タヌキ”と呼ばれている教師に代えた。専門委員会の部は各教科の外に道徳・図書館・進路指導・統計など計20ほだった。
 
線香花火 専門委員になるとすぐに、大阪府でも同じ年度内にコンクールを催すことに決まった。その帰途だったかも知れないが誰かが、私に、入選作を出されると1位は決まりだと言うから、出さないとすぐさま返答してしまった。私は幼時から何事もすぐに返答する癖が治らないで、友人に指摘されたこともある。口の重い別の友人が、第3者にする返答が遅いのがじれったくて代わりに返答してしまった記憶もある。よく考えれば出していけない理由はなかったのだが、一旦口にしたことを守って、次号、種切れの作品を出して2位に終った。全国コンクール入選は線香花火的なものだった。表彰式にはまたも部長を行かせた。以後、どこへも応募していない。部員には「常にアンテナを―」と言い続けたが、よい企画はさっぱり得られなくなった。
 
広告収入 新聞には毎号、校下の商店数軒の広告を掲載し、広告料金をもらっていた*。私が転出する前任者から仕事を引き継いだ時、広告費の引き継ぎとして空の真新しい封筒に、0円と記入し認印を押したものを渡された。以後8年間、相当に溜まった額を、やっと得られた後継者に引き継いだが、校長に渡すべきだったと後悔した。年に1回は、新聞部員たちの慰労として、共にうどんを食べたが、新聞発行の度に慰労すべきだったとも後悔した。入賞した時にはもう少し豪勢にしてもよかったのではないかと今頃思う。写真代と他校への新聞の送料はこれから支出していた。新聞から逃れられる1年ほど前に、職員会議でちらっと広告収入に触れたひとがいたので、翌日から1週間ほど、会計帳と支出費用の領収書の控えを職員室に吊るしておいたことがあった。
 *1面の一番よい場所で3百円と記録している。裏表で5~6個掲載していた。年4回発行。新聞部員の中には広告集めだけ専門の部員もいた。彼は、同窓会の都度、そのことを楽しい思い出として語ってくれる。
 

解放 その後、相変らず、学校新聞編集はクラブだとして教務も併せ持たされ続けるし、そのくせ、創立5年記念紙(8ページ建て)の編集・創立10年記念誌(PTA発行、B5版p.58)編集の協力、創立10周年記念誌(B5版p.58)や卒業アルバムの編集はやらされるし、数学科の病気欠勤者のせいで授業時間は長年増えるはで、またまた体は弱って行った。学校新聞は最後の1年間ついに若い女性教員が協力を申し出てくれはしたが続ける意欲は回復しなかった。以前、新築の家の配線工事をしてあげた校務員さんが見かねて、そんなことを続けていたら死ぬでと言われて腹を決め、それからは、更に要求された仕事はきっぱり断り続けた。そして遂に、学校新聞専門委員会の部長の奥さんだったひとが転勤してきて、喜んで引き継いでくれることになり苦行から解放された。学校新聞は8年間担当したのだった。専門委員はすぐに辞退した。実際には編集に携わらないでも委員会の役員を続けているひともいたが、理論家ではないし、一切そんな気は起きなかった。
              
[完]  平成25年4月作成・27年5 
学校新聞の内容を少し詳しく紹介させて頂きましたが伝わったでしょうか。その面白さをお伝えしたいと思ってのことですが、概要を記すだけでは到底無理だったかと反省大です。せめて、現在・未来にひょっとして、学校などの新聞を担当される方に何かお役に立つことがあれば幸いと思っています。

 
 昭和40(1965)年の出来事

01/08 韓国、南ベトナムに派兵決定。
01/20 日航、海外団体旅行用の「ジャルパック」発売。
02/07 米軍のベトナム北爆開始。ベトナム戦争激化。
02/10 社会党・岡田春夫、衆院予算委で防衛庁統幕会議の極秘資料"三矢研究"追究。
02/20 アンプル入り風邪薬による死者続出、製薬会社、販売自主規制。
02/22 北炭夕張炭坑でガス爆発、62人死亡。
03/06 山陽特殊製鋼、会社更正法適用申請。
03/14 作家・戸川幸夫が西表島で発見したヤマネコが新種と鑑定される(イリオモテヤマネコ)。
03/16 東京都議会議長選挙をめぐる汚職事件摘発。6月までに11議員逮捕。
03/18 ソ連の宇宙飛行士レオーノフ中佐が人類史上初の宇宙遊泳に成功。
04/01 東京電力、電気料金の銀行口座振替制を開始。11.1には都の水道料金も。
04/24 ベ平連主催、初のデモ行進。
05/22 東京農大ワンダーフォーゲル部の新入生訓練で1人死亡。25日主将ら逮捕。
06/01 福岡県山野炭坑でガス爆発。237人死亡。
06/12 家永三郎、教科書検定を違憲とし、国に対し民事訴訟起こす。
06/22 日韓基本条約ほか関係4協定調印。
06/26 川崎の急造宅地で土砂崩れ、24人死亡。
07/04 吉展ちゃん事件(38年3月)の容疑者・小原保逮捕(5日都の円通寺で遺体発見)。
07/04 第7回参議院議員選挙。
07/29 神奈川県座間町で警官2人殺傷の少年ライフル魔、渋谷の銃砲店で店員を人質に警官隊と銃撃戦。16人負傷。
08/03 松代群発地震(~42年)。
09/24 国鉄「みどりの窓口」開設。コンピュータによる特急券指定券を販売。旅行が便利に。
10/5~7 台風の影響でマリアナ海域で漁船7隻遭難。死者・不明209人
10/21 朝永振一郎にノーベル物理学賞授与と発表。
11/08 日本テレビ系「11PM(イレブンピーエム)」放送開始。
11/10 中国で文化大革命始まる。
11/17 プロ野球ドラフト制始まる。巨人・堀内恒夫、阪神・藤田平、阪急・長池徳二、近鉄・鈴木啓示ら。
11/19 閣議、戦後初の赤字国債発行を決定。
11/18 関係閣僚懇談会、新東京国際空港建設地を千葉県富里村に内定。
11/29 初の「コンピュータ白書」。台数は世界2位。
12/13 40年の造船進水量が10年連続の世界1位。
12/20 東大・名大・群馬大各附属病院の無給医局員340人、身分保証を要求し初の診療拒否。
●世相 アイビー族登場/エレキブーム/ピンク映画さかん/大塚製薬「オロナミンC」発売/鎌田商会(現・白元)が「アイスノン」を発売
●歌謡曲
[1]
1.ラストダンスは私に(越路吹雪)
2.ウナセラディ東京(和田弘とマヒナスターズ)
3.悲しき願い(尾藤イサオ)
4.女の意地(西田佐知子)
5.愛して愛して愛しちゃったのよ(和田弘とマヒナスターズと田代美代子)
6.ナポリは恋人(弘田三枝子)
7.ごめんね・・・ジロー(奥村チヨ)
8.赤坂の夜は更けて(西田佐知子)
9.下町育ち(笹みどり)
10.さよならはダンスの後に(倍賞千恵子)
11.チキン・オブ・ザ・シー(ジャニーズ)
12.まつのき小唄(二宮ゆき子)
13.くやしいじゃないの(森山加代子)
14.赤いグラス(アイ・ジョージ・志摩ちなみ)
15.ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー(越路吹雪)

[2]
1.サン・トワ・マミー(越路吹雪)
2.柔(美空ひばり)
3.二人の世界(石原裕次郎)
4.私を愛して(奥村チヨ)
5.涙くんさよなら(和田弘とマヒナスターズ)
6.アンジェリータ(ダーク・ダックス)
7.朝日のあたる家(ダニー飯田とパラダイスキング)
8.夢みるシャンソン人形(弘田三枝子)
9.恋する瞳(伊東ゆかり)
10.スエーデンの城(岸洋子)
11.夏の日の思い出 (日野てる子)
12.君に涙とほほえみを(布施明)
13.知りたくないの(菅原洋一)
14.砂に消えた涙(弘田三枝子)
15.アイドルを探せ(中尾ミエ)

●書籍ベストセラー
日本の歴史 1~10回[中央公論社]
なせばなる!(大松博文)
南ヴェトナム戦争従軍記 [岩波新書]
おれについてこい! (大松博文)
人間革命 1(池田大作)
バランスシート
ヒロシマ・ノート(大江健三郎)
白い巨塔(山崎豊子)[新潮社]
三分間スピーチ[光文社]
わが愛を星に祈りて

  

">≪増補修正版 41≫  “Mt. Sawa”とは?

2015-05-27 | 昭和初期
≪増補修正版 41≫  “Mt. Sawa”とは? 
     戦後始まる漢字制限

「山のことなど出題していないんですがねぇ」と、新人の英語教師が4つ切りのワラ半紙数十枚を繰りながら、近くの席の私に話しかけてきた。繰っているのは生徒の答案用紙だ。小テストは、印刷しないで、黒板にチョークで問題を書き,答えだけを紙に書かせることが多かった。当時はまだ選択肢問題はなかった。授業時間中のことで、職員室には、たまたま空き時間の者が、所々に散在するだけだった。そこで、当時は理科の教員だった私に話しかけてきたという訳だ。

教員になって8年目位、昭和31年(1956)頃のこと。何事かと詳しく聞くと、彼は続けた。「○○がたくさんある」を英訳する問題なのになぜか、「There is Mt. Sawa.」というのがいっぱいあるんです」と。
ピンと来た。彼は、以前の教育に従って「~が沢山(たくさん)ある」と板書(ばんしょ)*したのだ。昭和21年の内閣告示*2で、使用できる漢字を大幅に制限すると同時に、代名詞・副詞・接続詞・感動詞・助動詞・助詞は、なるべくかな書きにすると決まって以来”沢山”は“たくさん”と書かなくてはいけなくなり、教科書だけで育った子には“沢山”は“さわやま”としか読めなかった次第。官公庁や新聞社でもこの法令は殆ど厳守されたようであるが、既に学校を卒業した世間一般の人々は全く無関心だったのではあるまいか。世の大人たちは今までと変わらず、平気で制限漢字を使い、かな書き主義は無視して、その文書が世間に流布していたから、それに触れていた生徒たちには“沢山”も読めたので、英訳の正答者もまた大勢いた訳である。
 * 教員の業界用語、黒板に書くこと。英・数・国などで随時行う小テストでは、ザら半紙の2つ切りか4つ切りを配って板書した問題に答えさせるのが普通だった。戦後短期間だが、事務所で受け取る紙の枚数を生徒数に限定され、印刷で失敗すると厄介だった。私は家業の関係で、印刷しそこなった紙を家から持参して、裏を利用するのが常だった。
 *2 漢字制限については、次稿で述べる。


  ◆幾(いく)つ読めますか = 昔の副詞・代名詞など◆
①嗚呼 ②喃 ③此 ④夫 ⑤其 ⑥全然 ⑦而して ⑧将又 ⑨既に ⑩頓て
⑪若も ⑫是非 ⑬仮令 ⑭如何じゃ ⑮能 ⑯只管 ⑰流石 ⑱至当 (以上、
幸田露伴五重塔」明治25年刊から) ⑲陳者 ⑳就中 ○21所謂 ○22勿論 ○23亦 ○24且 ○25但し ○26儘 ○27此方 ○28夫々  ○29愈々 ○30益々 ○31態々 ○32屡 
○33乍ら ○34筈 ○35斯くて ○36却って ○37~丈 ○38閑話休題  
  … … … … … … … … … … … … … … … … … … 
[解答] ①ああ ②なあ ③これ ④それ ⑤その ⑥すべて ⑦そして ⑧はたまた
 ⑨もう ⑩やがて ⑪もしも ⑫ぜひ ⑬たとえ  ⑭どうじゃ ⑮よく ⑯ひたすら 
⑰さすが ⑱もっとも ⑲のぶれば(候文の常用語、拝啓に続けて用いられ、“さて”の
意) ⑳なかんずく ○21いわゆる  ○22もちろん ○23また ○24かつ ○25ただし」 ○26まま ○27こちら ○28それぞれ ○29いよいよ ○30ますます ○31わざわざ ○32しばしば ○33ながら ○34はず ○35かくて ○36かえって ○37~だけ ○38あだしごとはさておいて/さもあらばあれ(両様あり)


昭和38(1963)年の出来事
01/01 東京などの10大都市で交通違反切符制を採用。
01/09 ライシャワ一大使、原子力潜水艦の日本寄港申し入れ。
01/22 北アルプス薬師岳で愛知大生13人遭難、死亡。
01/23 北陸地方に豪雪。死者・不明、26日までに84人。
02/28 "昭和の巌窟王"吉田石松に、名古屋高裁で無罪判決。
03/31 東京・入谷で吉展ちゃん誘拐事件。身代金奪われる(40/7.3犯人小原保逮捕、5日遺体発見)。
04/13 バナナの輸入自由化にともない、22年ぶりに築地中央卸売市場でバナナの競り売りが復活。
04/17 第5回統一地方選拳。
04/25 大阪駅前に日本初の横断歩道橋が完成する。
05/01 埼玉県狭山で女子高生誘拐事件。4日遺体発見(狭山事件)。
06/05 黒四ダム完成。
06/22 大阪地裁、吹田事件で全員無罪の判決。
07/08 防衛庁、新島で国産初の空対空ミサイルの試射実験に成功。
08/05 第9回原水禁世界大会、社会党・総評系がボイコット、分裂。
08/14 日本、米英ソ3国間で調印の部分的核実験停止条約に参加。
08/17 沖縄離島航路「みどり丸」転覆、死者・不明112人。
08/17 藤田航空機、八丈富士山腹に衝突、19人死亡。
09/05 地下鉄京橋駅で停車中の車内で時限爆弾爆発、10人負傷(草加次郎事件)。
09/12 松川事件再上告審、上告棄却で全員の無罪判決。
10/01 警視庁、管内各署に白バイを配備。
11/01 新千円札発行(伊藤博文)発行。
11/09 「過密ダイヤ」。この日起こった国鉄鶴見事故の一因も過密ダイヤ(時間表)で。
11/09 三井三川鉱で炭塵爆発。458人死亡。
11/21 第30回総選挙。
11/23 日米間テレビ宇宙中継受信実験成功(ケネディ暗殺ニュース受信)。
12/04 第2次池田内閣総辞職。
12/08 力道山、暴力団員に刺される(15日死亡)。
12/09 第3次池田内閣成立。
12/26 最高裁、砂川事件再上告審棄却、全員の有罪確定。

●世相 モデルガン・ボーリングブーム/初のテレビアニメ「鉄腕アトム」放送開始/横断歩道橋,大阪に初登場/NHKテレビで大河ドラマ始まる/アイ・バンク開設/サントリーが瓶詰め生ビール「サントリービール」を発売、アサヒも「アサヒぴん生」発売/ハウスが「バーモントカレー」発売/フマキラーが電気蚊取器「ベーブ」発売。
●流行歌
[1]
1.美しい十代(三田明)
2.高校三年生(舟木一夫)
3.けんかでデイト(田辺靖雄と梓みちよ)
4.若い季節(ザ・ピーナッツ)
5.ワン・ボーイ(スリー・グレイセス)
6.バイ・バイ・バーディー(中尾ミエ)
7.こんにちは赤ちゃん(梓みちよ)
8.東京五輪音頭(三波春夫)
9.長崎の女(春日八郎)
10.浪曲子守唄(一節太郎)
11.なみだ船(北島三郎)
12.島のブルース(和田弘とマヒナスターズ,
三沢あけみ)
13.恋は神代の昔から(畠山みどり)
14.霧子のタンゴ(フランク永井)
15.学園広場(舟木一夫)

[2]
1.夢みる片想い(伊東ゆかり)
2.想い出のダイアナ(スリー・ファンキーズ)
3.大脱走のテーマ(デューク・エイセス)
4.悲しきカンガルー(ダニー飯田とパラダイス・キング)
5.キューティ・パイ(伊東ゆかり)
6.悲しきハート(弘田三枝子)
7.太陽の下の18才(伊藤アイコ)
8.ヘイ・ポーラ(田辺靖雄と梓みちよ)
9.シェリー(ダニー飯田とパラダイス・キング)
10.渚のデイト(弘田三枝子)
11.ダニー・ボーイ(高橋元太郎)
12.恋の売り込み(伊東ゆかり)
13.エリカの花散る時(西田佐知子)
14.寒い朝(吉永小百合・和田弘とマヒナスターズ)
15.見上げてごらん夜の星を(坂本九)

●書籍ベストセラー
危ない会社(占部都美)[光文社カッパ・ビジネス]
女のいくさ(佐藤得二)
徳川家康1~19(山岡荘八)
日本の歴史(井上清)
世界の文学16 罪と罰 [中央公論社]
物理学入門(猪木正文)[光文社]
わたしのエルザ(J・アダムソン)
国語笑字典(郡司利男)
春宵十話(岡潔)
本の中の世界(湯川秀樹)
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<増補修正版 42> “智”の字の読めない年齢層

2015-05-20 | 昭和初期
<増補修正版 42> “智”の字の読めない年齢層

 名前用漢字に「糞・屍・呪・癌・姦・淫・怨・痔・妾」?? 
 
   

平成24年初夏、私は、軽い病気で数日間入院した。そこで“智佳子”という名の看護師を知った。“智”は妻の、“佳”は孫娘の名の、それぞれ1字であることを伝えると、彼女は“智”の字は読めない人が多いというので驚いた。我々の年代の者にはごくありふれた文字であり、現皇后のお名の1字でもあるのに、なぜか。以前は「智恵」または「智慧」と名付けられたものを「知恵」、「美智子」は「美知子」と名付けなくてはいけなくなったのは、昭和21(1946)年11月、内閣告示で当用漢字表1850字*の枠が定められてからである。教科書も、官公庁も、新聞も、これに従うことを強制されていたので、その時代に義務教育を受けた世代には読めない訳である。昭和56(1981)年、95字増加して常用漢字*2と名を改めて1945字の表が示され、強制力はもたないものと改変された。義務教育の教科書はこれに従っているが、新聞社は、各社内で適宜増補して準用している。
* 明治時代には5万字位使われていたとか。漢字制限の気運は既に大正時代に見られたが、関東大震災の影響などで果せなかったとのこと。当用漢字はさまざまな漢字のうち、制定当時使用頻度の高かったものを中心に構成されており、公文書やメディアなどに用いるべき範囲の漢字として告示された。「当用」とは、当初漢字の全廃を目的として、全廃まで「当面使用できる」という意味であった。
*2 常用漢字表の目的は、(内閣総理大臣名で)「一般の社会生活において、現代の国語を書き表す場合の漢字使用の目安」であって制限ではないとした。しかし、義務教育の国語では学年別配当表を設けるなどして以後ずっと順守しているはずである


「漢字制限は、戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の国語の簡素化と平明さを目指せとの占領政策と相まって、小説「路傍の石」や「米百俵」で有名な作家山本有三氏*が国語審議会会長になって、難しい漢字を排除することが国民の生活能率をあげ、文化水準を高めて戦後民主主義の発展に寄与するとの彼の信念を遂行しての成果だった。氏がこの考えに至るには、日中戦争勃発の頃から、漢字は天皇中心の国家体制に、国民の意思を統合させる働きがあると思われたからという。特に、“八紘一宇”・“堅忍不抜”・“勇往邁進”等の4字熟語は威圧するような重々しい雰囲気を与えるとされた。ちなみに、氏の働きで、当初、文語文の予定だった新憲法が口語文に改められた*2ことを付記する。
 *明治20(1974)年社会劇、歴史劇を次々に発表し、大正末期より小説に転じる。政治家としては戦後に貴族院勅選議員に勅任され貴族院が廃止されるまでこれを務めた後、第1回参議院選挙に全国区から出馬して当選、参議院議員を1期務めた。本名は山本勇造。日本芸術院会員、文化勲章を受章している。明治20(1887)年~昭和49(1974)年。

なお、この頃は、漢字廃止論も盛んだったように記憶する。初等教育において漢字学習に費やされる時間は膨大であり、漢字を廃止すると覚える文字数が少なくてすみ、教育上の負担が軽くなるとの理由からである。仮名文字表記派や、ローマ字使用派・新国字派*、エスペラント語*2使用派などに分かれていたようだ。 
 *NHK教育テレビ「知る楽」漢字事件簿(平成21年12月頃)。ハングルのような全く新しい文字を創出するいくつかの試案をもつ派に分かれていた。
 *2世界共通使用を目指して創案し、1887年に発表された言語、人工語と呼ばれることもある。アルファベット大小各28文字からなり、単語や文法がきわめて簡単。ユダヤ系ポーランド人の眼科医・言語学者ルドヴィコ・ザメンホフによる。(Wikipedia)

しかし、人名に関しては当初から字数不足の声は多くて、我が子につけたい名前の字を認めよと、何回もの訴訟まであった位だから、昭和26(1951)年5月以来9回にわたり、人名漢字表として1字~118字の増補を繰り返した。問題の“智”の字は、第1回で採用されているので、学校で“智”の字を学ばなかったのは平成22年現在70代半ばから後半のひとに限られる*。前期第1回の別表の一例を示しておく。「亮・仙・宏・弘・弘・稔・彦・肇・輔・奈・郁・綾」など現在多用されている字の外に、カナ書きするが、次の動植物名「クマ・イノシシ・トラ・シカ・リュウ・ツル・カメ・コイ・タイ・クスノキ・スギ・タチバナ」の漢字もあった。次に記す、2回目からの増補とは全く違って一応妥当なものだったと言えようか。
 * このことについては後に再度触れる。


平成16(2004) 年には一挙488字も増補された。大半が画数の相当多い文字であり、教員として1万人近い生徒を教えた筆者にも、今まで人名としては見たことのない文字が殆どである。戦後普通の教育を受けてこられた方には大半の文字が読めないのではあるまいか。戸籍法*で「子の名には、常用平易な文字を用いなければならない」とした当初の意図はどこへ行ってしまったのか。
 *戸籍法第50条(昭和22年公布)には、次のようにある。「子の名には、常用平易な文字を用いなければならない。常用平易な文字の範囲は、法務省令でこれを定める。」

また、名前として必要とする親が本当にいるのか私には考えられないような文字もたくさん挙げられている。例えば、動植物名で「サイ・オオカミ・ヒョウ・ワシ・カラス・イワシ」の漢字。 外に、「爪・牙・屑・痩・歎」。どこの親がこんな名前をつけたがるのか、稀におったとしても、何もかも受け入れることが民主主義ではないと愚考するのだが…。最近、平成21(2009)年4月にまた藻増補されて、異体字*を含めると、常用漢字以外に2、001字使えることになったが、この時、さすがに、最終的には取り消されたものの、法務省(?)の原案には次の字なども候補に挙がっていたのは、噴飯・憤慨の至りである。「糞・屍・呪・癌・姦・淫・怨・痔・妾」。
 * 異体字とは旧字と新字のように、意味や読みが同じだが形が異なる文字の組。また、特に、そのような文字の組のうち標準的でない方の文字のこと。(例) 沖 冲・既

<増修版 37> 網棚にも寝た修学旅行

2015-04-28 | 昭和初期
<増補修正版 37> 唯一の3ヶ年持ち上がり

網棚にも寝た修学旅行

持上がり 3年生には組替えなしに、51名そのまま持ち上がった。1学級は担任変更。中年の女性から「こぼれ話」で紹介した、特攻隊帰りで温厚な紳士、広島高師出で最も親しくして頂いたT氏になった。この年に入って来られたのだ。私の担当は変わらず、自学級の国語の外は理科が3年3学級、苦手の単元ばかりの2年2学級で、学校新聞はクラブとして扱われ、校務分掌として教務の時間割作成と補欠割り当てはそのまま残された。庶務からはやっと解放された。

贈り物辞退font> 1学期早々に1保護者から贈り物が届けられた。少々思案はしたが思い切って送り返し、教室で、絶対に受け取らないと宣言した。この時はまだ結婚していなかったが、これは最後まで貫いた。当時世間の水準より薄給だったので、世帯持ちの同僚への影響が気にはなったが、自分の小学校の時の忌まわしい思い出がそうさせたのだった。この5年位後に環状線の内側へ転勤した同年配の同僚は、保護者に背広を作ってもらったとか、懇談会の日には、門外に乗用車が列を作るとか自慢していた。嫌な気分で聞いたものだった。子供が2人になって生活が苦しくなってからは、ついに意に染まぬまま、遠方へ家庭教師には行くようになった。しかし、最後まで週1回だったので、教えたことが定着しにくかった。もう少し後から父の家業はやや上向き始めたが、最後まで援護は一切受けないで通した。この記事の少し後に、中古だがドイツ製のカメラを買ったことと、三つ揃いのスーツを誂えて、いわゆる一張羅を遠足でも何でも常時着続けていたために同僚たちには裕福と思われていたようだ。スーツには2ヶ月分位の給与をはたいた。その後の流行語の“独身貴族”だったから出来たことだ。スーツの誂えは、当時既製品の寸法の種類が少なく、1度は何とか見つけて着たが、半年位で無惨にも型崩れしてしまってやむを得ずに誂えたことだったのだ。

  遊郭見物 前年、学年副主任格、9歳位上の体育教師-Uさんとしておく-に前稿に記した数学教師と共に誘われて、放課後に、学校から電車で20分位の所にある遊郭の、ただただ高くて、分厚くて、薄汚れて、電車内の乗客をさえ見下ろし威圧するようなコンクリート塀。そのくせ、地面の土に接する所々には、立小便を思いとどませるための赤黒い鳥居の絵-高さ40cm位だったか-と、門扉もなく、ただ、そこだけコンクリート塀が3~4m途切れていたのか、大きく門の形にくり抜かれていたのか、南海平野線からは中の大通りが丸見えという、何だかこっけいな大門をくぐった。妓楼と言うのか、長屋風に連なった各店々の表には着物姿の呼込み役のおばちゃんがいて、じきに私も紙製の擬革手提げかばんの取っ手をつかまれて引き寄せようとされた。その彼女の手首を手刀で叩いて鞄を取り返した。数学教師の方も、妓楼に上がりたいというような素振りは全く見せなかったから、そこから直ちに外へ出て解散した。Uさんとしては、うるさそうな後輩2人を手なづける作戦だったのだろう。

下見随行 新学期直前の春休み、時間割編成を終えて、Uさんの修学旅行下見に随行した。公費で行かせてもらえる訳で、1年年長の数学教師より私を選んでくれたのは、私の方がよりうるさい奴と思われたのだろうか。この時は私には何の考えもなく、ただ、ついて行っただけだった。修学旅行は、琴平の金刀比羅宮と高松市の屋島・鬼ヶ島へ行くことになるのだが、この時に決まっていたのかどうかは知らない。宿泊予定の琴平の旅館に直行、1泊。そこで彼がどれだけのことをしたかも知らない。何を調べよとも指示されなかった。代々の下見はそのようなものだったのか。2~3年後に新校長から、遠足や修学旅行の下見の指針が示された。その1つ、立ち寄り先の便所の位置と数を調べよ、には頭をガツンとやられた気持ちがしたことだった。

 すす)乱舞 翌日は屋島へは行かずに、予讃線・土讃線を乗り継いで、目的地外の高知へ直行。暖かかったので汽車の窓は開けていた。処が、トンネルに差しかかると汽笛が鳴る。窓を閉めよとのこと。トンネルを出て窓を開けると途端にまた汽笛の繰り返し。残念ながらトンネルの数がいくつあったかが分からない*が20位はあったろうか。それはまあよいとしても、当時の窓は隙間風が入ってくるようなガタガタな木製の物。窓を閉めている間、窓枠下の隅、ひざをつける場所で煤の粒、数十片が直径3㎝位の玉状に集まってクルクル舞う。つい腕を乗せたくなる場所だが、腕だけでなく、服や顔なども相当汚されたことだろう。高知では先ずはりまや橋へ行った。高知のひとには悪いがこれが有名な橋かと目を疑った。長さ20m、道路の横にくっつけて僅かに小川の上へはみ出して残してあると見た。赤く塗ったペンキ(?)は当時のことだから薄黒く汚れて、はがれている所もあった。次女が結婚して最初に高知に住んだ30年前でも色が鮮やかになったほかは変わりはなかった。今回初めて知ったのだが。日本3大がっかり名所の1位だとのこと。2位は札幌時計台、納得。3位は沖縄の守礼門・長崎のオランダ坂など諸説があるようだ。次に桂浜を見下ろしている坂本龍馬の銅像*2―日本一高いとのこと―を見て終り。Uさんのお陰で初めて高知の地を踏んだのだった。
*ネットで調べたが、迂回していた線路が、今は短縮され、いくつかのトンネルを長い1つのトンネルにまとめる等していて、過去のことは分からなかった。
*2像の高さは5.3m,台座を含めると13.5mで,桂浜の小高い丘の上からはるか太平洋の彼方を見つめてる。

 
 修学旅行先の変遷 修学旅行は新制中学校発足の年はなかったようである。琵琶湖畔へ行ったのは、発足2年目の1回だけで、3~5年目は淡路島、3年目のその時期は副担任をしていたが行っていない。体調のせいだったかも知れない。この学校では、修学旅行は夏休みに入ってすぐに行くことしていた。多分3年目から8年目までである。昭和27年~29年は琴平・屋島、そこでは、生徒が夜中にまでアイスキャンデーを買い食いしたりで伝染病を恐れて次から秋に変えた。旅館に申し入れておいても内緒で売ったのだった。
 
 網棚にも寝た夜行列車 夏休みに入ってすぐ翌日の7月21日夕方、校庭集合、バスに分譲、大阪駅から汽車乗車。もちろん貸切だが、車両まるまるではなく、一端は一般客と接している。一般客でなく、そこも中学校の就学旅行の場合は喧嘩を始めないかと気を遣った。両校の間に1人分の空席もなかったように思う。ぎゅうぎゅう詰めだったので、小さい子は網棚で、大きい子は床に新聞紙を敷いて、そこで眠った状態だった。また、途中の駅に停車する度に、勝手に降車して取残される者がいないか眼を光らせなければならなかった。ちなみにこの年の旅行費用は1,365円、携行小遣いの制限額は300円だった。旅行費用は、確か2年の初めから毎月積立てていたし、数名には補助金を出すからと誘ったが、それに応じたのは男子1名だけで、男女各5名が不参加だったことを書き添えなければならない。積立金についても書きたいことはあるのだが控える。
 
 修学旅行専用車 昭和34年4月に修学旅行専用車ができて、前項の悩みは一挙に解消された。 西地区の中学生用は「きぼう号」、関東地区の中学生用は「ひので号」。いずれも往路は昼行、復路は夜行として現地での滞在時間を最大限に確保した。3人掛けの6人ボックス席と2人掛けの4人ボックス席であった。マイク放送もできるし、途中停車の心配も皆無で、大助かりしたことだった。
 
 真夜中の駅舎 いつの程にか喧噪も収まり、いびきも聞こえるようになり、私も少しまどろんだ。と,「高松ぅ-、高松ぅ-」と低音で眠たげなマイクの声に暫し起こされる。知らぬ間に汽車は、宇高(うこう)連絡船*で瀬戸内海を運ばれてしまっていた。所々に裸電球があったが、実に薄暗く、煤で汚れきっていたような、ひと1人いないプラットホームだった。県庁の所在地高松市は父の故郷であるせいもあろうが、あの声と薄暗い駅舎の夜景は今も時々思い出す。高松へはこの後何回も行くことになるのだが、5歳位の時に父に連れてもらって以来であった。
 *岡山県の宇野駅と香川県の高松市の間で運航されていた"鉄道連絡船"。昭和30年5月、濃霧の中、紫雲丸と第三宇高丸が衝突して紫雲丸が沈没し168人死亡する2度目の沈没事故-国鉄戦後5大事故の1つ-が発生した。その前年には、私はまた、2度目の修学旅行で利用している。この時は昼行だから、車の積込みなどの撮影もしている。この事故を契機として、本州四国連絡橋(瀬戸大橋)の構想が具現化していった。また、この事故をきっかけに乗客が乗った客車の航送は中止。この事故は修学旅行の学生・児童を中心に死者が多数出たため、四国内の人々は大きな衝撃を受け、以降数年間(中には瀬戸大橋開通-昭和63(1988)年-の前年まで)、香川県内の学校の修学旅行の目的地は、宇高航路を利用しない四国内に変更されたほどであるとか。

 塩田 琴平から栗林公園や屋島へは琴平電鉄に乗った。途中、塩田が見えた。なぜか、塩田は今もまぶたに浮かぶ懐かしい光景である。その時の塩田の写真を貼ったアルバムが残念ながら見つからない。転居の時に引越業者に捨てられた段ボール箱に入れていたようだ。ネットにもない。辛うじて学校新聞に載せた小さな写真と、参考までにネットで得たフランスの写真とがあるがここでは割愛させて頂く。坂出のは、砂浜に田圃のような形の塩田が間隔を置いて整然と並んでいた。その、1辺が数十mの正方形の砂場の中へ、何回も何回も海水を張り直しては天日で乾かして塩を作るのだが、今なら強力なポンプで楽々と汲み上げ、噴射するだろうが、その時は天秤棒で海から海水を担いでくるひとや、その桶の海水を長柄の柄杓(ひしゃく)で塩田の外から中へ振りまいているひとの姿がちらほら見た。これを「入浜式塩田(という。塩ができるまで1~2年かかかり、しかも、塩は海水の量の3%しかないというきわめて非能率的な仕事だとのこと。 
                   
2年後にまたよく似たコースの修学旅行をした時には、少し進化した「流下式枝条架塩田がちらほら混じっていた。ネットでは昭和30年頃から始まったとあった。これは長年続いた入浜式塩田にとって替わり、生産量は2倍から3倍に増加し、労力は10分の1になったとのこと。木の枝を組み合わせた構造物にワラか何か組み込んであるのだろうか。中に海水を滴らせて天日で乾燥させる装置とのこと*。                
 *海水をポンプで上部に組み上げて、ゆっくりと株へ流す。その間に、天日(太陽)と風の力で水分の一部が蒸発され、少し濃くなった海水をポンプでまた上部まで汲み上げることを何回か繰返して海水の濃度を5~7倍程度までに上げ、これを煮詰めて塩を析出させる。海水のまま蒸発・濃縮を繰り返せるので、砂を運搬しなくてもよくなり、大幅なコストダウンにもつながったとのこと。塩田では不可能だった冬場や夜の製塩も可能になった。
 
 讃岐(さぬき)富士 この年は眠っているうちに通過したのだが、高松市周辺からは至る所に小型の富士山が見える。皆、富士山そっくりに美しい。走る車の中からではいくつあるか数えられない。ボタ山にしては高いし、付近で石炭が採れたと聞いたことはない。これを書くに当たって初めて永年の疑問をネットで解決。讃岐7富士と言って、実際の山々だった。全部香川県内にある。高さ153~512m。見出しに掲げた讃岐富士というのは、別名を飯野山と言う固有名詞だった。ちなみに、高松市の海抜は2.5m~5mの所が多いから、それなりの高さに見える。
 
 屋島観光 翌日、高松市街から僅か5kmの所にある屋島へ向かう。島と言うが、現在は高松市の北端で陸続き状態だ。小川で区切られているとか言うが。海抜293mの溶岩台地の半島で、頂上部が 平坦だから、高松の港から見ると、その形が屋根に似ている処から着いた名だ。台地上は1周5~6kmの散策路やドライブウェイとなっており、建ち並ぶ土産物店や旅館など、昔も今も殆ど変わっていないように思える。四季を通じて その展望は瀬戸内海随一と言われ、源平合戦の古戦場として名高い。有名な源平扇の的の物語や義経の弓流し事件のあった所だ。屋島から入り江を隔てて対岸にそびえる五剣山の姿がまた珍しい。屋島の東の半島中央に位置して標高は375メートル。頂上にそびえる5つの小さく細い峰々が等間隔に、殆ど密着するように並んでいるので、先端を上向きに1列に垂直に立ち並べた5本の剣のように見える。昨年行った時には、この手記の時より剣の鋭さが少々鈍ってきているように見えた。崩落した部分があるに違いない。一帯は瀬戸内海国立公園にある。
 
 鬼ヶ島へ、危うく難破 屋島の後、高松市の北、海上僅かの鬼ヶ島*見物へと向かう。桃太郎鬼退治の伝説のある所。島へ渡る舟の船頭と、学年主任、Uさんと以前1の手記で記した大男との3人が交渉を始めた。大分時間がかかった。船賃の折り合いが着かなかった模様。本当は下見に来て決めておかなければならないのだ。舟は2艘あるのに、1艘に全員乗り込む。喫水線を大分超えて舟は沈む。出港。と、たちまち波しぶきが船端に舞い上がる。ぎゅうぎゅうに詰めこまれた舷側の連中はいっせいに傘を広げてこれをよける。何とか無事到着。海賊どもが酒盛りや会議をした大広間や、捕えてきた婦女子を監禁した岩屋など洞窟探検を満喫。洞窟の中から細い階段を登ると岩窟の自然を生かした番小屋に出る。そこから瀬戸内海を通る獲物を見張っていたのだ。そこを出て島の上を1周。良い散策路だ。
 *大正3(1904)年発見され10数年後の昭和6年に鬼ヶ島として公開された。正式の名は女木島(めぎじま)。そのまた北に男木島    (おぎしま)がある。洞窟が造られたのは、紀元前100年頃と言われ、古代中国の要塞型によく似ていると言われている。入口から出口までの長さは延長約4百m、面積は約4千㎡。 
  
 栗林(りつりん)font color="darkgreen">
公園 次いで電車で、国の特別名勝に指定されている栗林公園へ。名前はクリの林だが、栗は入口付近に元はあったそうだが、今は一帯、松ばかり。1,400本あるとのこと。そのうち約1千本は職人が手を加えている手入れ松。“盆栽松”とも呼ばれているとか。殿様お手植えの松とか、背丈の低い五葉松の並木を覚えている。姿の穏やかな紫雲山を借景として6つの池と13の築山を巧妙に配した“大名庭園”で、回遊式庭園の南庭と近代的に整備された準洋式の北庭からなっている。面積は約75ヘクタールで、特別名勝に指定されている庭園の中では最大の広さである。私は5~6度行っているが、全部廻ったことはない。寛永2(1625)年頃讃岐領主生駒高俊によって、南湖一帯が造営され、寛永19(1642)年に入封した。後、松平氏に引き継がれ以後松平氏5代約百年をかけて完成した。明治新政府の管理下におかれた後、明治8(1875)年に県立公園になり一般に公開されたとのこと。
  
 往復1.570段 またも電車で西へ、琴平着。今なら1時間前後で行けるようだが、この時は1時間30分かかっている。“こんぴらさん”で有名な金刀比羅宮の、表参道の階段下にある格式高い旅館、敷島館*へ入る。夜“こんぴらさん参詣。悩む(786)1歩手前の785段の石段を、その頃は走りを混じえて上がる元気があった。もっと元気な10人位だったかの連中は併せて1,368段の奥社まで参っていた。2人でかつぐかご-屋根の一隅の外から鮮やかな赤い布きれを垂らしていたと思う-に乗っているお年寄りもちらほら見たものだ。
 *寛永(1624~44)年年間創業。明治35(1868)年建築の本館は木造3階建ての入り母屋造り。玄関屋根は銅板ぶきで1,2階のひさしなどには凝った細工が施され、豪華な雰囲気を残しており、平成16(1904)年には国の登録有形文化財に指定された。瀬戸大橋架橋効果が薄れてからの観光客減少の影響などで平成14年廃業。建物は町観光の核として残されているようだ。  
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font color="darkgreen"> 入浴で、?と!
 大広間での一斉の食事を終え、男子の入浴当番をする。入浴を終えて脱衣場へ戻ろうとする連中の多くが体を拭かないで、そのまま出てくるのには驚いた。その頃、大方は 銭湯へ行っていたと思うが、みんなこのようにしていたのだろうか。ちょっと油断していた間に上がり場のマットの付近は水浸しになってしまった。次々と出てくる生徒に注意しながら、掃除用の塵取りで何杯も何杯も、床上にあふれた湯をすくっては風呂場へ戻すことの繰り返し。大汗をかいた。入浴当番を終えて2階の男子の部屋へ見回りに行くと、1か所で人だかりがしている。何事かと見ると、なんと、床の一部のちょっと囲われている20㎝四角位だったかの孔の下は風呂場で、霞む湯気を通して身体を洗っている女子の背中が小さく見えているではないか。旅館のあこぎな営業政策だったのだろうか。 
 
 船旅 帰途は多度津から関西汽船に乗った。これだけバラエティに富んだ就学旅行は後にも先にもこれ1回限りだ。その後の修学旅行では、鬼ヶ島へは寄っていない。それはよいが、私はカンカン照りの甲板の舷側に吊るしてある救命ボートの下で昼寝をしている生徒を追い払ったりもした。例の体格のよい反抗男と背の高い野球部員だ。そこだけはフェンスがないので、心配性の私は万一船が傾いて海へ転がり落ちはしないかと考えたのだ。相変わらずうるさい教師と思ったことだろう。この体格のよい男をなんとか静まらせようと、苦肉の策で2学期に女子たちに計って学級委員長に当選させたが、期待は余り効を奏せなかった。
 
 写真撮影 その後、甲板を隈なく廻って、2~3人ずつの写真を2種以上は撮って回った。もちろん、それまでにも旅館で集団の浴衣姿なども撮っている。理科室用に購入したカメラを借りて行ったのだった。カメラを触るのは、その時が2回目、1度目は中1の時に祖父のを借りて、全て手振れで1枚も焼いてもらえなかった。その経験から慎重に構えたのと、真夏の快晴の気候とが幸いして、今よりは随分感度の低いフィルムで、レンズも劣っていたのに1枚も失敗なく、生徒に喜んでもらえる写真が撮れた。レンズのせいで,全ての写真の右上隅、空の一隅だけが少し色が濃く写っていた。レンズについてはもう20年かの前から各社殆ど遜色がないと聞いている。
 
 写真焼増し 前項のフィルムを、現像だけは業者に出したが、後は、持っていた日光写真用の小さい枠を利用した焼増し器を造り、押入れにもぐりこんで生徒の希望する写真を焼き増して、確か1枚10円で売ってやった。皆喜んでくれて他の組の友人の写真まで注文したので相当な枚数になった。この年はまだ卒業アルバムは作らなかったから良い記念になったと思う。その時の写真は全部残っているが殆ど変色していない。水洗が丁寧だったのだろう。現像液の臭いを暗室内で嗅ぐことは健康によくないと思って、これも1回限りの思い出となった。

 同僚の死 その後間もなく、中古の、距離計つきのドイツ製のカメラ、“スーパーセミイコンタ”を4カ月分近い給料をはたいて三脚付で4万円で買った。まだ当分は独身貴族であったからできたことである。重厚長大の時代、厚い皮ケース入りの真鍮製の三脚は重かった。遠近感のある、実に深みのある写真が撮れた。今も両方とも持っているが使ったことはない。自動露出計付カメラの出現で乗換えたが、以後、満足したことはなかった。デジカメなら匹敵するかとは思うのだが、現在、常にポケットに入れておくために、コンパクトデジカメで辛抱しているが味も深みもない。レンズの大きさが違うのだから文句を言う方が間違っているのだが。セミ版と言うのは、フィルムの面積がライカ版の2分の1(39×54㎜位)だが、その後永らく、殆どの写真は引伸ばしすることなく、それで辛抱することになった。フィルムの高い時代、人物写真は何回も注文してポーズを改めさせて撮り、撮す時は面倒がられたが結果は喜ばれた。その1枚は年下同僚女性の葬式写真にもなったとのこと。農園で兎を抱いて微笑んでいる特徴ある写真だから、撮影の時に一緒にいたもう1人の女性が教えてくれた。ふっくらした温和しい美人だった。私が葬式に参列できなかった理由は後の稿で述べる旅行中だったからだ。

 右脳問題 余談だが、前記のカメラの距離計は右手の指で操作するので、シャッターは左手で押す仕組になっていた。そのため、以前は左手では扱えなかった爪切りが使えるようになった。先日,囲碁で最年少23歳で6冠、7大タイトル制覇に輝いた井山佑太6冠は、左利きだから右脳が強いのだとばかり思っていたが、囲碁の時だけ左手を使うことを今回知った。もちろん、右脳*を鍛えるためだろう。告白する。私はひとの顔を見分けたり、名前を覚えることが大の苦手だ。右脳が弱いのだろう。だから、囲碁も好きなのに強くなれないのだと決めてかかっている。若い時から、囲碁で入れ混じった配置になると4~5手先の図が頭の中で描けないで“だろう手”を打って負かされる。これは、確か江戸時代頃の日本画の大家―円山応挙と思う―が幼少の時、来客の顔を後ですらすらと描いて和尚に示したような、また、珠算に強くて暗算のできるひとは算盤球の図が頭に浮かんで、それを操作するらしいが、そのような才能が私には全く欠けていると思う。残念なことだ。名簿の上の名前はすぐに覚えるのだが、顔とは対応しないのだ。自学級の生徒の名前を全部覚えるのは、いつも5月半ばか。どうしても手のかからない温和しい生徒が後回しになり、会話も少なくなり勝ちで、気にはしていたが能力の限界超えだった。他の受持ち学級に関してはやっと百%近く覚えたら夏休みに入り、2学期にまた覚え直すことの繰り返しであった。授業中は大方は教卓に座席表を貼ってくれているからよいのだが、しばしば座席替えをする学級など作成が間に合わず、苦労したことだった。少人数学級が実現するのは私の退職後の話だ。次の学校で保護者が大勢出席されての一斉懇談会など冷や汗ものだった。電車の中などで、自学級でなく、目立たなかった卒業生や、過去の生徒の母親などに声をかけられた時の対応は辛かった。その後の、1年限り担当の卒業生でも自学級生はごく最近までは全員覚えていた。自学級でも下学年で担当したのは駄目だ。漢字なら一々指でなぞらなくても瞬間に頭の中に描けている。ひと才能さまざまである。最近CT検査で脳が大分縮んだことを知った。新しいことの記憶力がとみに落ちている。井山6冠のことを知って早速パソコンのマウスを左手に持ち替えた。何とかやれる。囲碁もパソコン相手に左手で打ってみよう。残念ながら転居してからは年に数回しかひととは打てない。この1年はブログに集中して全く止めているg。
 


秘して卒業 入学式の日に特別小さい女子が1人いたと先に書いた。彼女は3年間私の組にいた。心臓弁膜症を患っていた。それでも比較的元気に明るく振舞ってはいたが,時々欠席し、3年の2学期から出て来なくなった。家庭訪問してみると、表で小さい子供と楽しそうに遊んでいたことがあった。勉強がいやになるような低学力生ではなかったが、余り強くは言えずに帰ったことがある。さて、卒業者台帳を作る段階で、彼女の出席日数は規定にたりなかったが名前を記した。ともかく卒業させてやろうと腹を決めた。卒業を認めない者を報告する会議の時は知らぬ顔をしていた。卒業式にも彼女は出席しなかった。各組の担任が交代して、順に卒業者台帳を皆の前で読み上げて行くのだが、この時は彼女の名前は飛ばして読んだ。同級の生徒でこのことに気づいた者がいなかったのか、後々まで誰にも尋ねられたことはない。卒業証書は文字の上手いひとが校務として書いてくれている。もちろん、家へ届けてやった。卒業式から3か月ほどして彼女は亡くなった。合掌!

 進路状況 この学級51名の進路は次の通りであった。公立高校合格発表時のもので、就職未定者が多数含まれていることを了承願いたい。

   公立 定時制 私立 洋裁学校 就職 未定  計
普  商  工 商 工 商 工
 男 7  3  5 1 5   1 5  27
 女 9 1 1  1 12  24
(注)定時制進学者の就職は再掲していない。
 

摂桜会 この期のPTAは、卒業記念品として講堂用の張り幕だったかと30本位の桜苗木の植樹を決めた。苗木は校内の農園で挿木してあったものだ。もちろん、全卒業生の手で、学校の表側、その頃開通したバス道路に面するテニスコートや、果樹園を取り巻いて植えられた。私は開花を楽しみにして、同級会の名を校名の1字と組んで「摂桜会」とした。しかし、その後10年間の私の在勤中、遂に桜は咲かなかった。我が家の庭に貰ってきたのは咲いたのに不思議だ。大きくなりすぎて数年で切り倒さなければなかったのは残念だった。幹の直径は20㎝位にはなっていた。その場所は果樹植込み時に肥料を入れすぎて枯らしてしまった場所だったのだ。接ぎ木苗でなければならいと聞いたような記憶もあり、判然としない。そして、更に何年か後に、他の学年の同窓会で訪れた時には桜の木は1本も残されていなかった。

摂桜会が私の教え子の同窓会では最も回数多く開かれ、参加人数も以前は多かった。以後の学年に比べて最もよく生徒と接しられたからに違いない。生徒との年齢差が少ないということもあっただろうか。
                     
 [完]平成25年3月作成・4月・27年4月修正


  昭和37(1962)年の出来事
01/10 東京医科歯科大教授・柳沢文徳ら中性洗剤の有害性を指摘。
01/15 歌会始の入選歌に盗作の疑い、入選取り消し。
02/01 東京都、世界初の1千万都市に。
02/24 憲法調査会、東京で初の公聴会。乱31義務教育諸学校の教科書無償に関する法律公布。
03/01 テレビ受信契約数が約1000万件を突破。
04/23 海員組合、停船スト(~5.10)。
05/03 常磐線三河島駅構内で列車二重衝突。160人死亡(三河島事故)。
05/17 大日本製薬、西独のサリドマイド系睡眠薬による奇形児問題で出荷中止(9.13製薬5社、販売中止)。
06/10 北陸トンネル開通。
06/29 北海道十勝岳噴火、5人死亡。
07/01 第6回参議院議員選挙。
07/07 九州・西日本に豪雨、死者・不明227人。
07/31 台湾のコレラ騒動で厚生省、台湾バナナの輸入禁止。
08/12 堀江謙一、ヨットで太平洋単独横断に成功、サンフランシスコ入港。
08/24 三宅島雄山、22年ぶりに噴火。
08/30 戦後初の国産飛行機・YS-11、試験飛行に成功。
09/03 血液輸送中の自衛隊機、名瀬市付近に墜落、12人死亡。
09/05 金田正一投手(国鉄)、奪三振3514の世界新記録。
10/03 全国サンダル生産者連合会が「つっかけ」を「サンダル」と名称を統一した。
10/22 キューバ危機。ケネディ米大統領が、ソ連がキューバにミサイル基地を建設中であるとし、キューバ周辺の公海を海上封鎖。全面核戦争か、という緊張状態となった。
10/30 最高裁、吉田石松の再審決定。
11/05 美空ひばりと小林旭の結婚式が行われる。
11/09 日中貿易覚書調印(LT貿易開始)。
11/16 鳥取大山に国民休暇村第1号。
11/29 東京・世田谷区の電話ボックスで火薬が爆発、草加次郎と名乗る人物の五件目の犯行。
12/11 陸上自衛隊北海道松島実弾演習場で演習中地元民が電話線を切断(恵庭事件)。
12/19 日本初の自動車専用道路である首都高速1号線京橋~芝浦間が開通。
●世相 ツイスト流行/住宅難深刻/東京でスモッグが問題化/求人難で「青田刈り」の傾向強まる/「バービー」輸入開始/三和(現・貝印)が「T型カミソリ」を発売。ロングセラーに。
●流行歌
[1]
1.ルイジアナ・ママ(飯田久彦)
2.ふりむかないで(ザ・ピーナッツ)
3.遠くへ行きたい(ジェリー藤尾)
4.君恋し(フランク永井)
5.哀愁のトランペット(アイ・ジョージ)
6.下町の太陽(倍賞千恵子)
7.湖愁(松島アキラ)
8.若いふたり(北原謙二)
9.山男の歌(ダーク・ダックス)
10.五匹の仔豚とチャールストン(安村昌子)
11.ツイストNo.1(藤木タカシ)
12.電話でキッス(ダニー飯田とパダライス・キング)
13.悲しき片思い(飯田久彦)
14.ジェニ・ジェニ(鈴木やすし)
15.クライ・クライ・クライ(倉光薫)

[2]
1.コーヒー・ルンバ(西田佐知子)
2.琵琶湖周航の歌(ペギー葉山)
3.赤いハンカチ(石原裕次郎)
4.江梨子(橋幸夫)
5.川は流れる(仲宗根美樹)
6.若いやつ(橋幸夫)
7.白い花のブルース(平野こうじ)
8.アカパルコのお転婆娘(スリー・ファンキーズ)
9.レモンのキッス(ザ・ピーナッツ)
10.ヴァケイション(弘田三枝子)
11.涙の日記(スリー・ファンキーズ)
12.可愛いベイビー(中尾ミエ)
13.すてきな16才(弘田三枝子)
14.ロコ・モーション(伊東ゆかり)
15.いつでも夢を(橋幸夫,吉永小百合)






<増修版36>忍耐ずくめの2年生

2015-04-23 | 昭和初期

 

 自治と強制 自治を掲げたのは、当時の国内外の2~3の書物の影響があった。自治を掲げたからには教室の清掃のいい加減さには目をつぶった。他のクラスへ行った前年活躍した女子たちが、教室のタワシがけをしたとか、学級新聞を発行したとか、次々に新しい組の情報を報告しに来てくれる。私の組の床は泥だらけ、期待している自治会も開かれそうにない。それでも辛抱した。しかし、男女隣席だけは1年の時と同じく長期間強行した。1人机だから、嫌がって離すのを一々くっつけて回る根比べもやった。授業中の私語を防ぐためである。これは他の有能な先輩教師の学級でもまた間もなく取り入れられたので少しやりやすくなった。翌年の2月下旬まで強行するが、「教室に塵を捨てないこと」を交換条件としてやっと男子のボスたちの要求を入れたのだった。   

  男女不和 昭和22年から男女共学にはなっているが、昭和23年、3年生でも、放課後に教室で1組の男女が距離を空けて話していたのを1度だけ見たことがある程度で、この頃はまだ大っぴらな交際は見られなかった。男女並んで歩く姿などまだまだ後まで見ることはなかったのではなかろうか。2年生位では、表面では反発する方が多かったかも知れない。この学級でも、最初の説教は男子に対して、女子への和を説いている。4月15日のことだ。

  草引熱中 以前に記してしまったが、校庭のほかに運動場ができて、毎年9月早々に草引きをすることになったのはこの年からか。この年は5月にも、翌年テニスコートが2面できる場所の草引きをしている。炎天下、1時間の作業だったか。大へん不思議なことと言えば、彼・彼女らに大いに失礼になるのだが、この時は交代せよとやかましく言ってもバケツを持って逃げて行ってしまう位みな良く働いたと記録している。失礼と言ったのは、その後の男子の教室掃除のいい加減さ、一部の女子の反抗とはそぐわないと感じたからだ。しかし、これらのことは、純な彼・彼女らへの私の対応のまずさによった可能性大か。終了時に各自が抜いた草を運んできて、一定の場所に積み上げるが、男子の量に比べて女子のは極度に少ない。それを言って細かい草を引くのは大へんなんだと反発された。このことは後に自分の家の庭で草引をするようになって実感したことだった。男子には草丈の長い場所を割り当てたが案外抜き安かったのか。微熱を出しながらの監督はつらかった。この頃もずっと微熱は続いていた。5月の祝日-当時は3日の憲法記念日だけ―の前日には、明日床磨きをすると、病欠中の私に電話してくれた女子のグループもあった。10名で実行してくれた。少ないが日記帳で親しく語りかけてくれる子もいた。

 一般家庭に電話のある時代ではない。父の家業上、電話債券を買って、長期間待って、やっと引いた電話である。私はまだ結婚していないから当然、両親と同居していたので電話が使えた。 

  愉快な学級提唱 床がきれいになって1週間後、初の座席変更をした。そして「愉快な学級」を提唱した。自治会で落書板を設けることと、何かの行事を行うことが決められていたが、後の方の内容は今は分からない。誰かの教師の欠勤の時間には自治会をするようにかねがね申し渡しておいたが、スローペースながら、何とか行われるようになり、以前は反抗していたのに花を持って来て飾ってくれる2人の少女も出てきた。日記帳で心情を吐露してくれる生徒が女子に3~4、男子に2名ほど出てきた。2月末まで話が飛ぶのだが、一番手を焼いていた男子2人に「良い意味でのボスになるよう頼む」と言って、翌朝のショートタイムでの作戦―内容不明―を授け、その時は成功した。  

  反抗 女子の1~2のグループにも一時期反抗された。大方の理由は忘れたが、細かいことを言い過ぎるというのが一番だったか。今から思えば本当に父親以上の気持になって1人1人のことを構いすぎてうるさがられたのが一番だったか。男女各一部のグループ同士が親密になりかけたのを阻止しようとしたり、登下校時の歩き方がだらだらしている子たちへの注意が一番反発を食ったか。ソフトクラブ部に何名かが入部しようとしているのを知り止めたことも。ソフトクラブ部の雰囲気に眉をひそめていたからだ。それでも2人には入られたが。スカート丈は膝下何cmとかと決まっていて、それより長くするごく一部の子がいて厳守させようとしたことにも反発があった。叱るよりほめよの語は知っていたが、自分が過去に謹厳実直だったものだからつい目こぼししかねる所があった。包容力も足りなかったのだ。それらの子には1学期末の懇談会で母親にも注意したことがあって、翌日の放課後教室で遅くまで詰問され話し合ったことがあった。最後には、先生には勝てんと白旗を掲げさせたものだった。2学期には大方の女子たちは気持ちよく協力してくれるようになったが、男子数名の反抗は続くのだった。男子の場合はグループとしてではなく個人的にだったのは救いだったが。掃除や日記帳などの提出が悪いと罰掃除を、多い場合は5日連続でさせたりもしたからだろう。組一番体格もよく、成績もよく、福相なのに大勢の教師に反抗していた男子がいた。1年から私の組にいたのだが、この生徒の場合は母親が宿題や日記作成に手を加えていたことが分って注意したこともあるような熱心な家庭だったのに、後に一発殴ったら組み付いてきたこともある。一旦はやんわりと説教して涙ぐませ、暫くは温和しくさせたこともあったのだが、その後、以前記した美術科の古参教師にも撲られている。最初に記した1年の時の名委員長は、2学期には病気が快復して、また委員を務めてくれたが、最後はこの男に骨抜きにされてしまった。体格差が大だった。この男については次稿でまた述べる。

  贔屓(ひいき) 学級経営方針は特に改まって考えることはなく、場当たり的だったかもれない。教室の前壁には、父に模造紙に大きく墨書してもらった「自治」の語を貼ってあった。「ひいきは決してしてはいけない」ということだけは奉職当初からの信念だった。好意を抱く相手にもそれを伝えたことはない。従って、生徒からこのことで文句を言われたことは1度もない。これは寂しいことだ。1歳年上と3歳程年下の同僚に、共に教え子が高校を卒業するのを待って結婚したのがいる。彼等が教室でどう接していたかは知らないが、そんな感情を持つこと自体学級経営に災いすると固く戒めていた。

  強権発動 自治の方針は大方諦めたのだったか、5月末についに“反省期間16日間”を申し渡している。16日というのは掃除当番が2回めぐる期間だ。自治会で決めた落書き板以外への落書き・その小黒板の破損・清掃状態の悪化・整頓不良などに、ついに業を煮やして16日間の謹慎を命じ、破壊者の代表として、一番背の高かった野球部員に1発パンチを食らわしている。非力の自分のパンチをしぶしぶでも受入れてくれていたのは、何よりも時代のせいで、なぐってやってくれという親も時々いた位。魂胆があってしたのではないが、ホームルームでの雑談で、商業学校時代に柔道を習っていて護身術として必殺技を学んだが、これは危険だから教えないと話したこと。動員中に空手の真似をしてコツコツと板を叩いて鍛えた拳骨で机をコツンと叩いて見せ、時には頭上に手首を軽く振ってコツンと見舞ったことも。真似をして机を叩いて大へん痛がった生徒も他の組にはいた。武道がGHQによって禁止されていた時代だから、生徒からは強く見られていたのだろうか。ただし、以前に書いたように、空手を習っている生徒がいようとは露思わなかった。また、少し後の学級で、在学中に若い猛者教師を、夜、近くの公園へ2人で呼び出し、チエーンでしばいた生徒もいた。猛者がどこだったかを怪我していたことは確かにあった。しばいた生徒が卒業3~4年後に家へ友人と娘の誕生祝いに来てくれて聞かされた話だ。その生徒は、私が担任した小柄だが見るからに悪そうな面体で、事実悪(ワル)で通っていた朝鮮籍の生徒だ。私も少し手心を加えて接していた。猛者教師は私より3歳ほど下で体格がよく、日頃から生徒に強圧的で、過去に校庭で2列横隊に並んでいる生徒を危うく全員ぴんたしかけたのを寸前に見つけて止めたことや、私の欠勤者に対する補欠割当方針にくどくたてついたので、かっとなって手にした補欠割当簿で1発顔をはたいた―この時は止めに入ってくれるひとがいたり、ひょっとすると前記のことに恩義を感じていたりしてか、なぐり返されずにすんだ-ことのある人物だ。腕に覚えがあって呼出しに応じたのだろう。前記のワルはしばらくすると、今度は1人で来て借金をせがんだ。結婚祝いはそのための方便として友人も巻き込んだのだったろう。ごく少額を与えた。彼は間もなく、前記の公園のベンチで泥酔していて凍死したとのこと。この手記の学級の少年1人も卒業後数年して失業し、借金に来て少額与えたことはある。2年の時には男子の中では一番よく文句を言った男子だが。2回とも丼は取ってやった。そうしたことは幸いにもこの2回だけだ。勤務校によっては度々起こる問題なのではなかろうか。

  レクリエーション 女子たちとは昼休みなどに時々円陣を組んでバレーボールの打上げ合いをした。昼休みには小会議も多かったので、そう度々ではない。男子とはゴムボールでの野球を2~3度しかしていない。走り回る元気のある日は少なかった。遠足で奈良公園の昼休み、珍しく、私は男子とゴムボールの野球をして、永遠のホームランを打ったことはある。スポーツの苦手な私の特筆事項だ。打ったボールが2塁後方の高く太い松の木の上へ飛び、ついに落ちて来なかったのだ。もう少し後の学年だったが。

  漢字指導継続 1年生の時の漢字指導は続けている。

   補習 5月頃から数学や英語の補習を始めているが、始めの頃は残ったのは、必要のない秀才2~3名だけ。夏休み中漢文の補習をして出席者は20名を超したことを記録しているが、漢文が何を意味するかさっぱり思い出せない。何回も記しているので、漢字との書き間違いではないはずだが。もちろん数学-代数の基礎-もしたが、低学力生に教えることの難しさをこの時に初めて体験した。一時的に理解させても定着させるのが至難の技だ。

   雪解け 校内の学級対抗の野球やソフトボール大会の前には女子にはノックもよくしてやったが、男子の方は彼等任せ、1学期の学級委員長始め野球部員が多かったので出る幕はなかった。昼休みには職員への臨時の連絡会がよくあるので、そう度々ではなかったが。女子の方に話を戻す。その頃もラジオでプロ野球などの中継放送はあったが、私は興味はあるが時間がなくて新聞で結果だけを見ていた。だからか、打順の知識などなく、4番を務めた機敏な少女に教えられた位である。それでも、ライバルの坊ちゃん数学教師の組との試合の前日には、急遽買ってきた野球のルールを読んで、不正な申し出があったりした場合に備えた。事実、彼は前年そんなことをしたのだった。女子は1つの組には勝ったが、数学教師の組には4対2で敗退した。男子は当然優勝したので、宿直の夜、メンバー10名にうどん30杯をおごったと記録している。学校の周りはまだ一面田畑ばかりで、全く遠くからの配達だ。校内食堂ができるのはまだ何年か後だ。最近の同級会で、珍しく出席した1人がうどんが嬉しかったと述懐していた。彼以外の野球部に入っていた面々は皆早世した。9時頃帰らした。学校は町から外れた処にあるので、真っ暗な中を月明かりだけを頼りに帰らすのだが生徒たちは全員が同じ方向へ帰るのだし、今と違って物騒な話など皆無だったから問題なかったと思う。夏休み直前のことである。反抗が全くなくなった訳ではなく、3年生になってからも時々は一部の連中に反抗されたことではあるが随分やり易くなった。殆どの女子も1学期末頃にはいつとなく打ち解けてくれていて、やりやすくなっていた。

  一善提唱 10月の初めだったかに、「一日一善」の語を持ち出し、せめて10月中に1善しようと提唱した。これは効果があった。急激に教室が整頓されたり、掲示物や、1年生の時と同じく入賞の賞状を自作して少々貼ってあったのを貼り直してくれたりするようになった。うどんの効果かも知れない。掃除については男子の日は相変わらず不十分なことが多かったが。 

   採点手伝い よいことではないが、当時、いろいろなテストの採点を大勢に手伝ってもらった。自学級のだけだったかと思うがはっきりしない。書取進級テストは全部任せたか。隠れてするのではなく、全員の前で手伝ってくれる生徒を募った。成績の悪い子は、自分の得点を級友に知られるのだが、不思議なことに誰も文句は言わなかった。職業適性を調べる“クレペリンテスト”というものがある。自分がどこかの相談所で受けて興味を覚えていたので、学級費で購入して実施した。その一部の処理まで任せた。ついでに記すが、次に勤めた学校では、私の提唱で全校生に“クレペリンテスト”を実施することにはなったが、私がマイクを使っての指示で、3千人の生徒がいっせいに行う破目になった。ストップウオッチとにらめっこ、1分毎に30回合図をするのを間違えないように精神集中を切らさないのが大へんだった。この場合の採点は業者委託だった。

 内田Kraepelin検査。性格や職務適性を判断する検査。 ドイツの精神医学者エミール・クレペリン(1856~1926)の研究理論をもとに、心理学者内田勇三郎(明治27(1894)年~昭和41(1966)年)がさらに研究を重ね、作業検査法として確立した。1桁の足し算を一定時間内にどれだけの回数、どれだけの精度で行うことができるかの型で見分ける。(検査用紙ー    https://www.nsgk.co.jp/sv/kensa/kraepelin/ 

用紙に並んでいる1桁の数字を1行目の左端から2個だけ加え、その答えの1の位だけをすぐ下へ書く。順に右へ同じことを繰り返す。1分経ったら2行目の左端からまた同じことを繰り返す。以下同様にして15分行い、休憩を5分間挟んで、後半も15分間繰り返す。各行の計算された最後の数字を前半、後半それぞれ15個ずつ線で結ぶ。これを「作業曲線」と呼び判定はその形で行う。性格の違いによって、そこに描かれる作業曲線にいろいろな特徴が見出されるから、その作業曲線の特徴で性格の特徴を見分ける。作業量の多い少ないや、作業をさせることによって生じる気分の変化、休憩をとることの効果、受検者自身の気持ちの気質特性、情緒の安定性や仕事にかかるときの態度、仕事の乗り、行動ぶりや知能などを判断する。計算間違いは部分的に調べるだけで全体を推測する。私は取っ付きは少しのろいが、終盤に伸びるタイプであった

  明治27(1894)年~昭和41(1966)年。

  ゲームでなごむ 3学期に副委員長に当選した温和しいが極めてまじめで、芯はしっかりし、翌年は学年の女子の中でアチーブメントテスト1番の実力者となる生徒-1学期は余り組になじまず、1年の時の友達と遊んでいた-が、ショートタイムにラジオの人気番組『私は誰でしょう』を取り入れてくれて、皆も喜んで打ち興じた。それ以前から私のリードで、『銭送りゲーム』や『伝言ゲーム』も時々した。前者は横1列に並んだグループが後ろ手で1枚のコインを次々と隣の者へ送って行き、途中で誰かがそれをにぎって、以下は送るふりだけをして最後まで行く。向かい側に並んだ同人数のグループが1人ずつ、握っている人物を当てる遊びだ。早く当てたチームが勝ちである。すぐににぎる子、全くにぎらない子、個性がよく現れる。私は前者だ。後者のゲームは、座席に座ったままでする。先頭の者に短い句を耳打ちし、それを耳を近づける隣の列の子に聞き取られないようにして小声で最後尾まで伝えるのだが、以後の学年でも正確に伝わった例しはない。一番の傑作は「~が~を~した」で、“~”の部分はよく似た3~5音程度の言葉だが、日常語ではなく生徒によっては知らない言葉を混じえておいた。結果は「~を3べん言え」に変わってしまったことだった。 

  学芸会好演 卒業生送別学芸会に女子だけで劇を上演することを3学期の副委員長が提案した。私が買ってきた脚本にはラブシーンがあり、配役された子が嫌がり、彼女らだけで買い直してきた。地元では気に入ったのがなく、阿部野橋まで行って探してくるという熱の入れようだった。彼女らだけで手分けして2日程で脚本のプリントも仕上げた。が、読み合わせになって内容が幼稚ということになり、副委員長の提案で急遽『白鳥の湖』に変えられた。脚本は彼女の頭の中にあったのか。主役は彼女で、その他10人位の配役ももめることなくすんなりと決まった。背景は私が以前から担当していた物理クラブの3年生で工作の実にうまい男子が造ってくれた。照明器具は誰がどこから借りて来たのか忘れたが、本式のものを当日私が操作した。大成功であった。他にも劇を演じた学級はあったので気は引けたが、私のクラスの劇の写真(後日掲載)を学校新聞1面に載せたのだった。ここで時代の傍証を入れる。この夏休みには5球真空管の電気蓄音機を組んで、1時間おきの停電に悩まされたことを先に書いたが、照明係の時にそれを危惧した覚えが全くない。その間に事情は好転していたのであろうか。そうとしか思えない。時、昭和27年3月、終戦後6年半目である。 

  (ウサギ)狩り 学芸会の翌日は兎狩り。この年から始めたようだ。大阪市から南へ2kmほど外れた地-現在羽曳野市―に、昭和23年-私の奉職の年-に戦災孤児収容のため、大阪市立羽曳野学園が設けられ私の学校と姉妹校になった。そこは後には親のない子の学校となった。長谷川学園ともいうようだ。学校の周囲は一面起伏に富んだ松林だった。そこへ生徒たちが分け入って、しばらくすると2~3羽の白兎を捕まえてきて、大きな鍋で煮た兎汁、実は豚汁―これは誰もが気づいていた-を囲んで終り。いささか呆気なかった。その学校の教頭(後、校長)の娘と5年後に結婚することになるとは夢想もしなかった。結婚後に妻から聞いた話では、兎は、飼っていたものを、朝、職員が山へ放して来るのだとか。生徒が、兎は逃げる処か寄ってきたと言っていたことを納得。

  激務始動 後回しにしてしまったが、この年の授業は自学級の国語、2年3学級と3年2学級の理科とで計24時間だった。教材研究が3種類必要なだけでも忙しいのだが、年初からの校務分掌は昨年に引き続いて、時間割編成と毎日の欠勤・有給休暇者の補欠割り当てで忙しかった。庶務係も依然兼務さされていて、備品と電気工事と規定されていた。演劇の背景を描いてくれた3年生2人に手伝ってもらって、学校中の備品や机、椅子を徹底的に台帳と照合した。随分なくなっていた。壊れた机や椅子は校務員室の湯沸しに使われる以外に、その部屋や、宿直室の火鉢でも燃やされ続けたので、両部屋の天井も柱も漆を塗ったように、真っ黒でぴかぴかしていた。話がそれた。備品調査に日曜日を2度つぶした。全く何のねぎらいもなしでだった。後にいきさつを記すが、この年の途中から学校新聞にも関係することとなり、これは、以後も校務とせずクラブ活動と扱われて、教務も付いて回り、第1次8年間の激務が始まった。一方で、たいして校務のない家庭もちの女性や、古参教師も少々いるという不公平人事だった。次に転勤した学校では、マンモス校で職員数が4倍あったせいではあったが、学校新聞だけに2人が携わり、2人にはそれ以外の校務はなかった。この年は自分もよく休み、女生徒達が電話してくれたり、家へ尋ねて来てくれたりもよくあった情けない年でもあった。15日位は休んだのだったろうか。記録は見当たらない。今のように祝日が多くはなかった(『11戦前の祝祭日』参照)し、土曜日も4時間は授業があった。生徒たちは40分以上かけて歩いてきていたようだ。電車を利用すれば10分は短縮できる距離なのだが貧しい家庭が多い彼女たちは電車賃を節約したのだ。ちなみに、当時の電話代は10(~5)円。市内は時間無制限だった。毎回の公立高校入試の合格発表日、一流校の結果を早く知りたくて一番合格しそうな生徒に10円玉を渡して、結果をすぐに電話するように言っておくのだが1度も実行されたことがなかった。言い訳は公衆電話*2は列を作っていたからとのこと。40分ほどかけて歩いて帰ってくるのだった。今思えば良くないことだったが、10円玉を返してもらった記憶がない。

 *封書10円、はがき5円(この年改訂)・電話 11月1日から度数制に変わり1通話5円に・国鉄最低料金10円、 都バス15円(12月)・ビール123円(3月)、127円(12月)・煙草 ピース(10本入)40円(4月)・週刊朝日25円(5月)、30円(7月)・朝日新聞朝刊月決め100円(5月)、130円(9月)、朝夕刊セット280円(11月)

 *2当時の公衆電話は、大通りには今と同じように、ボックス式のがあったが、住宅街では煙草屋の店頭、店番のひとの座っている前の窓ガラスの外に置かれ、形は今の家庭用と殆ど同じで黒色だったが、この2年後の昭和28年から一般電話と区別するために赤色のと取替え始めたとのこと。深夜は屋内にしまわれていたのだろう。

 [追記]もし、その時協力して下さったH君が読んで下さっていたら、何年目かの年賀状にお返事しなかったことをお詫びします。新しい卒業生を出す度に賀状が増えて5百枚超来るようになり、1年おきにお返事させて頂くつもりで、新卒業生を優先させたために、大切な方何名かとの音信がとだえてしまったことです。申し訳ありませんでした。もう1つ、無記名の賀状も時々あります。今春も1枚、10期生の方とは思いますが、今まで頂いていた方の筆跡とは合致しません。お返事の出しようがありません。悪しからず。 Tel/Fax 0743-84-6848 へご連絡下さい。

          [完]平成24年12月記・27年4月修正

 


     昭和36(1961)年の出来事      

01/01 裏日本に豪雪。国鉄ダイヤ大混乱。
02/01 右翼少年が中央公論社・嶋中社長宅を襲い家人2人を殺傷(嶋中事件)。
02/14 俳優・赤木圭一郎、東京の日活撮影所でゴーカートを運転中、鉄扉に激突し重傷(21日死亡)。
02/19 日本医師会・日本歯科医師会、医療費値上げ要求で全国1日一斉休診。25日保健医総辞退を決定(3.3解決)。
03/09 全日赤スト(~5.16)。
03/15 日光東照宮薬師堂焼失。
03/15 有田八郎、三島由紀夫の「宴のあと」を "プライバシー"侵害で告訴(4.
11和解)。
03/28 都清掃局が路上のごみ箱を撤去。家庭のごみを曜日を決めて定期的に回収することを決定する。
04/12 ソ連が打ち上げた人工衛星・ボストーク1号(ガガーリン少佐が搭乗)が地球一周有人飛行に成功。
04/28 沖縄・那覇で祖国復帰県民総決起大会開催。2万人参加。
05/04 樺太犬タロー、南極から4年半ぶり帰国。
06/02 政防法反対で国会周辺3万5千人デモ。
06/21 小児マヒ患者1月以来1千人突破。生ワクチン緊急輸入決定。
06/24 本州・四国に集中豪雨。357人死亡。
08/01 大阪・釜ケ崎のドヤ街で住民2千人暴動。1人死亡。
08/08 仙台高裁、松川事件差し戻し審で全員に無罪判決(21日検察側再上告)。
08/13 東ドイツで、西側への難民流出防止のため、ベルリンの壁を構築。
09/03 『用心棒』(黒澤明監督)の主演・三船敏郎が第22回ベネチア国際映画祭で最優秀男優賞を受賞。
09/16 第2室戸台風、死者202人。
10/15 日紡貝塚女子バレーチーム、欧州遠征より全勝で帰国(東洋の魔女)。
10/25 西日本に豪雨。死者・不明106人。
10/26 全国一斉学力テストを実施(中学2年生、3年生全員を文部省が実施。)
12/07 秋田でニセ千円札発見され、以後も続く(チー37号事件)。
12/12 旧軍人らによる内閣要人暗殺計画発覚、13人逮捕(三無事件)。

●世相 少年少女に睡眠薬遊び流行/ジャズ喫茶・うたごえ喫茶隆盛/モデルガンブーム/アンネナプキン/ポリバケツ/レジャーブーム/シームレスストッキング/プラレールの名称で電動汽車(トミー) 発売

流行歌

[1]
1.上を向いて歩こう(坂本九)
2.東京ドドンパ娘(渡辺マリ)
3.ズビズビズー(森山加代子)
4.北上夜曲(多摩幸子・和田弘とマヒナ・スターズ)
5.子供ぢゃないの(弘田三枝子)
6.雨に咲く花(井上ひろし)
7.硝子のジョニー(アイ・ジョージ)
8.有難や節(守屋浩)
9.王将(村田英雄)
10.カイマナヒラ(エセル中田)
11.惜別の歌(小林旭)
12.無情の夢(佐川ミツオ)
13.南国の夜(大橋節夫)
14.悲しき街角(飯田久彦)
15.九ちゃんのズンタタッタ(坂本九)

[2]
1.銀座の恋の物語(石原裕次郎、牧村旬子)
2.北帰行(小林旭)
3.スーダラ節(植木等)
4.禁じられた恋のボレロ(水原弘)
5.スタコイ東京(菊地正夫)
6.じんじろげ(森山加代子)
7.別れの磯千鳥(井上ひろし)
8.恋しているんだもん(島倉千代子)
9.武田節(三橋美智也)
10.パイナップル・プリンセス(田代みどり)
11.ドント節(クレイジー・キャッツ)
12.日曜はいやよ(西田佐知子)
13.ゴンドラの歌(佐川ミツオ)
14.カレンダーガール(坂本九、ダニー飯田
とパラダイスキング)
15.南海の美少年(橋幸夫)

書籍ベストセラー

英語に強くなる本 岩田一男 光文社
何でも見てやろう 小田実 河出書房新社
まあちゃんこんにちは 山本祐義 文芸春秋新社
記憶術 南博 光文社
砂の器 松本清張 光文社