ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

あなたは知っている?

2024-04-26 08:08:45 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「どうしてる?」4月22日
 『王道も珍品も 「ほとけの国の美術」展』という見出しの記事が掲載されました。『江戸時代の絵画を中心として、画家たちの制作の背景にあった「仏教」を切り口にさまざまな作品を集めた「ほとけの国の美術」展が東京都の府中市美術館で開かれている』ことを報じる記事です。
 『阿弥陀如来が浄土から二十五菩薩を供に従え、亡くなる人を迎えに来る様子を描いた来迎図』『釈迦如来と阿弥陀如来を中にして二十五菩薩と地蔵・竜樹菩薩~』『地獄道と等活・黒縄・衆合・大叫喚・叫喚・大焦熱・焦熱・阿鼻の8地獄を~』。子供に「○○って何?」と訊かれて、きちんと説明できる人がどれくらいいるのでしょうか。
 私も、「竜樹菩薩」という言葉は初めて目にしました。不勉強で恥ずかしいです。しかし私に限らず、上述のような「仏教」に関する知識を欠く大人は少なくないと思います。真言宗と天台宗、臨済宗と曹洞宗、時宗と黄檗宗と日蓮宗の違いを我が子向けに簡単にでも正確に説明できる人は数パーセントにすぎないのではないでしょうか。
 それは、学校教育において「仏教」について指導することがほとんどないからです。文化として仏像や仏師について学んだり、空海や最澄のような開祖について触れたりはしますが、仏教やわが国独自の仏教宗派の教義について取り扱うことはほぼないからです。
 これは仏教に限らず、イスラム教やキリスト教、ヒンズー教などについても同様です。しかし、文化や伝統について学ぶときに、宗教というものを無視して理解することができるものなのでしょうか。
 教委勤務時に、教員の欧州派遣事業の事務局として欧州5カ国を訪問したとき、各地で絵画や彫刻といった美術品を見学する機会がありましたが、キリスト教圏の人間であれば常識として知っている出来事やエピソードについての知識が乏しく、何が描かれているのか、その背景は何か、など何も理解できずに、感想を言えずに冷や汗をかいた(自意識過剰だっただけだが)ことを思い出します。
 文化や歴史と宗教の教義の関係について、どの段階でどのような内容をどの程度まで深く扱うべきか、今でもよく分かりません。研究されているという話も聞きません。国際化の時代、相互理解を深めるためにも重要な問題だと思うのですが。

 

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自分は「生の声」に偏り過ぎていたのかもしれない

2024-04-25 08:49:21 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「反省」4月22日
 専修大教授武田徹氏が、『新聞報道における「語り」』という表題でコラムを書かれていました。その中で武田氏は、『疑問視するのは、「データや根拠を前面に出」さずに個人的経験の吐露に終始する記事だ。確かに一人称で記者が語ったり、取材相手に語らせたりする記事の中には情緒に流れ過ぎと思うものもある(略)個々人の思いが示されているに過ぎない「語り」は、他の証言や事実と照合させて検証されてこそ、客観的な事実に近づく(略)語りの有無それ自体が問題なのではない。報道の公共性を実現させる方向で、語りが使えているかが問われている』と書かれていました。
 私は連れ合いと、「最近、ある個人を取り上げて、延々とその人の体験や感想を垂れ流しているような記事が多いよね」と話していたところだったので、武田氏の指摘に全面的に共感しました。私の印象では、東日本大震災や能登半島大震災の被害の現状についての継続報道で特に目にすることが多いと感じます。
 それはさておき、こうした「個人の語り」問題は、私が長年取り組んできた「社会科教育」においても無視できないと考えました。私は現役の教員時代に、よく「個人の語り」を授業に取り入れていました。5年生の「米作りの盛んな○○」の単元で、米作り専業農家のAさんにお手紙を出し、その手紙をメインの資料として授業を進めたり、漁獲量日本一の○○漁港の漁業組合に子供の質問を送ってその返事を元に話し合いをさせたりするような実践です。 
 ときには、地域の商店会の会長さんの話だったり、町工場を経営する社長さんへのインタビューだったりすることもありました。いずれも、公式な統計や報告とは異なり、「人間」を身近にかんじられるという長所があり、特に研究授業などでは、教科書や副読本、資料集などを使うのではなく、教員が自分で開拓した取材相手の「生の声」を使うことが、新たな教材開発として評価されるのでした。
 私自身、指導主事となってからも、教育研究員の指導や講師として招かれた校内研修での講評などの機会には、こうした「生の声を使った新たな教材開発」の取り組みを、意欲的だと評価していたものだったのです。でも、それは正しかったのか、という疑問がこのコラムを読んで浮かんできたのです。
 私はこのブログで何回か新卒の学校での同僚T氏のことを取り上げました。1日3食を学校で食べ、自費でわら半紙を購入して膨大なプリントを作り、元日にも出勤して警備主事に追い返されたものの1年364日学校に来て仕事をする、風呂は学区の銭湯に入り、退勤は22時過ぎという強者でした。もし、T氏に教員の多忙化についてというインタビューをしたら、子供のために頑張るのは教員の務めで当然のこと、それができない人間は教員になどなるべきではない、と答えるでしょう。実際、私もこうした論理で非難されましたから。
 では、こうしたT氏の「生の声」を資料に教員の多忙化問題を論じたらどうなるか、とんでもない結論に至ってしまいます。実は同じことを私も社会科の授業でしていたのではないか。さらに言えば、今も教科書の記述をそのままなぞるような授業は教員の恥だと考える「熱心な教員」が同じことをしているのではないか、そしてそれを褒める校長や指導主事がいるのではないか、と考えてしまうのです。
 誤解のないように言っておきますが、現場の人の生の声を教材化することがいけないと言っているのではありません。ただ、無条件に評価するのは間違いだということです。客観的なデータと現場の生の声、このバランスこそ社会科教員のセンスなのです。

 

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優しいor易しい

2024-04-24 08:32:42 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「早急に」4月19日
 『広がる「やさしい日本語」』という見出しの記事が掲載されました。『災害時、日本で暮らす外国人たちにも大切な情報を届けるための「やさしい日本語」を取り入れる科学館や美術館が増えている』ことの実態と背景を報じる記事です。
 記事では、『やさしい日本語は(略)簡単な言葉を短く、はっきり言いきるのが大切』『難しい敬語は使わず、「です」「ます」を崩さないことがポイント』などの解説とともに、実際の例が紹介されていました。「ここは家でした。家族が住んでいました」です。それまでは、「皇族の住宅でした~」と話していたそうです。皇族では日本語を母語とする子供でも「?」です。住宅も難しい言葉です。まして、日本語を母語とする成人に話す「この邸宅は皇族の方々がお住まいになっていらっしゃいました」では、絶対に通じません。
 また、メリットとして、『さまざまな国の人に同時に対応できる』『スタッフの取り組みやすさ』が挙げられていました。どういうことかというと、外国人に合わせて、その人の母語で伝えようとすると、フィリピン人とベトナム人とミャンマー人がいたとき、それぞれの言語を使えるスタッフを3人揃える必要がありますが、「やさしい日本語」であれば、一人のスタッフで対応できるということです。
 また、今日はミャンマーの人が来ているから、ミャンマー語ができるAさんに対応してもらおう、となりAさんがいなければ、利用を断るということになってしまいますが、「やさしい日本語」であれば、誰でも対応可能になるということです。
 わたしはこの「やさしい日本語」は、学校現場でこそ必要であると考えます。学校にベトナム語、スペイン語、韓国語、スワヒリ語などの言語の通訳をそれぞれ配置することは不可能です。また、仮に配置できたとしても、その人が何らかの事情で休んだときには、誰も対応できなくなってしまいます。そのときに備え予備の通訳を確保しておくことなどできるはずがありません。
 だからこそ、「やさしい日本語」を多くの教員がマスターするという対策が、現実的であると同時に効果的なのです。しかし、そのためのテキストがありません。学校においては、日常会話については、比較的短期間で子供はマスターします。しかし、抽象的な概念に基づいて思考することが求められる授業については、なかなか理解が深まりません。
 教員側も、「どうして~」「どのように~」「つまり~」「まとめると~」「結論は~」「比べると~」「それ以外には~」などの言葉を適切に使って問いを伝えたり、説明をしたりすることができません。「やさしい日本語」的な発想ではどのように表現すればよいのでしょか。
 文科省は、言葉の専門家の力を借り、早急にテキスト作りに取り組むべきです。

 

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縦社会への移行

2024-04-23 08:16:22 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「隔世の感」4月19日
 『新卒教員 負担軽減へ 文科省対策案』という見出しの記事が掲載されました。『文部科学相の諮問機関・中央教育審議会特別部会で議論している公立小中学校での教員不足解消策の素案が判明した』ことを報じる記事です。すごい内容です。
 記事によると、『若手教員の離職や休職を防ぐため、新卒1年目には学級担任をさせないなどの案を盛り込んでいる』『新卒教員(略)教科担任とし、持ち授業数も減らす』『小学校高学年で実施されている教科担任制を中学年でも導入』『教諭と主幹教諭の間に若手教員をサポートする新ポストを創設』『学級担任手当(略)も検討事項』『「教職調整額」について現行の給料月額の4%から10%以上に引き上げる』などの内容です。
 問題だらけ、副作用への配慮が見えない内容です。まず、「新卒の学級担任を~」ですが、中学校では現在も行われている取り組みであり、小学校への導入が目玉ということになります。大きく2つの問題点があります。まず、学級数を減らすわけではないのですから、担任の確保が難しくなります。仮に1校に2人の新卒が配置された場合、それまでTT教員や加配教員として配置されていた教員から2人を学級担任にしなければなりません。TT教員や加配教員は、それなりにその立場に相応しい専門性をもっている(建前では)はずですから、その代わりを新卒が務めるのは難しいでしょう。校長は校内人事の苦慮することになります。
 また、新卒の立場から言えば、学級経営や保護者との対応といった教員に必須の技能を身に付ける機会を奪われることになります。鉄は熱いうちに打て、です。白紙の状態の新卒のうちに試行錯誤してこそ、学級担任としての技能が身につく、理屈ではなく体で覚えることができるのです。ですから、新卒のときに学級担任をさせないということは、新卒の1年目が、無駄になる可能性が高いのです。
 次に、新卒1年目は教科担任というのも問題があります。いくつかの学級で算数なり国語なりを教えることになるわけですが、それは何人もの先輩教員に「気を遣う」ことを意味します。「○○さんの算数の授業がつまらない、って言っているんだけど」「○○三の授業の後、子供が落ち着かないんだよね」などというつぶやきに対応するのは神経が疲れます。かえって心を病む新卒が増えるのではないでしょうか。
 新卒への配慮とは直接関係がありませんが、教科担任制の中学年への拡充は、子供の発達段階から見て、人間関係ができている学級担任の下で授業を受ける方が精神的に安定し学習成果が上がるという、従来の考え方の否定につながります。そのことについて、国立教育研究所等による検証は済んでいるのでしょうか。
 最後に、若手教員をサポートするポストの新設と学級担任手当の創設ですが、このことが実現すると学校には、校長・副校長・主幹・サポート教員・学級担任・非学級担任の新卒という階層ができることになります。それはかつて「鍋蓋型」と呼ばれ、管理職以外は皆横並びの「教員」であった学校組織の上意下達型組織への変貌が完成するということを意味します。そのことへの賛否は立場によっていろいろあるでしょうが、学校組織が変質することは確かです。文科省がそのことを意識していないはずはありません。そのことを承知の上で議論が進んでいるのかが気になります。
 素案について、記事では現職教員の声が紹介されていましたが、教委や校長・副校長等の見解がほとんど紹介されていなかったのはなぜなのか、少し引っ掛かりました。

 

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男の生き方

2024-04-22 09:31:49 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「男の生き方」4月16日
 『市川團十郎が「團菊祭五月大歌舞伎」に出演 男性に「男の生き方」見てほしい』という見出しの記事が掲載されました。記事の中で、市川團十郎氏は、『長兵衛は死を覚悟しながら家を出る。子分や女房、子どもにも理解されないもどかしさ、周囲には分からない孤高の思想を意識しながらお客様に届けたい』『(長兵衛には)犠牲もいとわない美学がある。今の日本の男子が忘れてしまったものが、すべて結晶している』『今回は男性に見に来てもらい「男の生き方」を見てほしい』と語っています。
 歌舞伎は400年の伝統を誇るものです。多くが「昔」の時代を舞台に作話されています。それは理解しているつもりです。それでもなお、ここまで大っぴらに「男の生き方」と言われてしまうと、強烈な違和感を覚えます。
  端的に言えば、「人としての生き方」はあっても「男の~」「女の~」はないというのが、ジェンダー平等の考え方であり、「男の生き方」を想定した演目は、それに反するということです。もちろん、表現の自由は尊重されなければなりませんから、歌舞伎でそうした演目を行うことを咎めようというのではありません。でも、「團菊祭五月大歌舞伎」を学校行事の一環として子供に見せることはできないと考えます。
 我が国の伝統文化に親しみ理解すると同時に尊重し守っていく態度を育てることは、学校教育に位置付けられている内容です。歌舞伎や能、狂言などの観覧もそうした活動の一つです。実際、狂言や演劇の観覧に子供を引率して行った経験もあります。しかしその際、演目の内容については、慎重に検討する必要があります。
 観覧後、「やっぱり男は女とは違って~」などという感想を子供がもつような内容では、公立校として、保護者や市民に対して説明がつきません。町奴幡随院長兵衛と旗本奴水野十郎左衛門の話は私も何回か読んだことがあります。私は古い人間ですから、巧みに描かれた心理模様に「感動」してしまうことがあることは否定しません。ある意味「名作」なのでしょう。しかし、それとこれは別です。
 子供が伝統文化と接する機会を設けるに当たっては、学校や教員は、時代遅れの価値観や人権感覚への警戒感をもたなければならないと思います。
                                

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結局は、カネ?

2024-04-21 08:25:20 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「同じこと?」4月14日
 ジャーナリスト池上彰氏が話題の人と対談する『池上彰のこれ聞いていいですか?』、今回は文化人類学者上田紀行氏との対談でした。『若者よ 志立て学ぼう』というタイトルで行われた対談は、『リベラルアーツ教育の必要性や、教育の問題点』がテーマでした。
 その中で上田氏は、『「大学はもっと社会に役立つ人材、即戦力を出すべきだ」との声が強まってきました。その流れで教養教育が軽視されるようになり、早く専門教育をすべきだという考え方が主流になりました。この流れに強い危機感を持ったのが、リベラルアーツの再評価のきっかけです』と語られています。
 重要な指摘だと思います。その後に話された、『そもそも「役に立つ」とは何なのか』『「個性」というのが、くせものです。成績が良かったり、、お金を生み出したりするような一見「役に立つ」個性が偏重されている』『評価されることだけやればいい、それ以外は人生のコストパフォーマンスが悪いという考え方が、若者も社会も覆い尽くすようになっていった』という認識も貴重です。
 ただ、こうした上田氏の指摘を受けた池上氏の『米国では、グーグルやアマゾンといった「GAFA」と呼ばれる巨大IT企業が次々と誕生したのに、日本では生まれていませんそのような反省もあって、社会がリベラルアーツを受け入れるようになってきた』という見解の同意されていたのには少しがっかりしました。
 「GAFA」を引き合いに出すということは、結局、教育の存在意義を経済の話に結びつける発想を肯定することになると思えたからです。米国=リベラルアーツ教育が盛ん=GAFAなど新しい巨大企業を生むー経済・国力の強大化、日本=リベラルアーツ教育の不足=GAFAなどの新発想の企業が生まれない=経済・国力の衰退という図式で、経済発展のためにリベラルアーツ教育の拡充を、ということになってしまうのではないでしょうか。
 つまり、教育の目的は、経済成長、国力増強に資する人材の育成ということで、早期専門教育を求めた経済界と、目的に達するルートに違いはあれど、同じ発想だということです。
 子供はよく「なんのために勉強するの?」「勉強して何になるの?」という意味の質問をします。この問いは、(学校)教育は何のためにあるのか、という問いを子供なりに表現したものです。私は、「幸せな人生を来るためだよ」と答えます。そして、よく分からないという顔をしている子供に対して、次のように説明を補足します。
 「何も学ばない人は、花が咲き誇っているのを見て綺麗とは言うけれど、雑草が生えているだけの場所では何も感じない。でも歴史を学んでいる人であれば、ここで戦があり、多くの人が死んでいった。彼らには家族もいれば、恋人も友人もいたかもしれない。将来の夢もあっただろう。それなのに死んでいかなければならなかった彼らは、どんな気持ちでこの場に赴いたのだろう。送り出す家族は。突撃を命じた将軍は何を思って命を下したのだろう。そんな感慨を味わい、思索を深め、自分の生に感謝することができる、それが人生を豊かにするということなんだよ」と。夏草や兵どもが夢の跡、ですね。
 私は社会科を専門に研究してきたので、こんな言い方になってしまいますが、言い方は人それぞれです。人生や社会について考えるための道具とも言える、知識や思考の枠組み、着眼点などを得るためという言い方もできます。それらは、結果として経済や産業、科学の発展に寄与することがあるでしょうが、それ自体が目的ではなく、あくまでも目的は豊かな幸せな人生だと思うのです。そう考えなければ、経済等の寄与できなかった人は、教育の失敗作だということになってしまうからです。
 理想論ですけどね。
 

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貧乏

2024-04-20 09:39:45 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「フィギュアスケートは、ジャンプは、アメフトは」4月13日
 『ぜいたくなの?母苦悩』という見出しの記事が掲載されました。『見えない貧困と格差』シリーズの「上」ということで、『スポーツから落ちこぼれる人々がいる(略)さまざまな理由で片隅に追いやられる。この国の現実を見つめる』記事です。
 記事には、年収200万以下のシングルマザー渋谷氏が登場します。『渋谷さんは毎月2万円の会費を負担し、湊斗(息子)さんを地元のクラブチームに通わせる。貯金などを取り崩したほか、装飾品など身の回りのものを売り払い、ユニホーム代など工面した(略)思いきりサッカーをさせてあげたい。だが、周囲の理解は得られず、知人からは厳しい言葉を投げ掛けられる。「プロになれるレベルならいいが、シングルマザーなのに、そこまでお金をかける必要があるの?」』という状況です。
 同じような境遇の家族が何組か登場した後、『サッカーに対する支援活動は、食料や教育など生活インフラと同じくらい必要』かという問いが提示されます。『EUでは、子供の貧困を測る指標の一つに「レジャー活動」という項目がある。欧州ではサッカーボールなどは生活必需品である、との社会的な合意がある』という専門家からの情報提供もなされます。
 『スポーツをしたいと思うのはぜいたくなのか』、この問いに対して私は自信をもって答えることができません。貧困を理由に、スポーツを諦める。そのスポーツが好きだし、小さいころは一緒にボールを蹴っていた友人がチームのユニフォームを着て、新しいスパイクを穿いてボールを追いかけているのを眺めながら、「お母さんに負担をかけちゃいけない」と唇を噛み締めている子供の姿を想像すると、切なくなります。私自身、小学校の高学年のとき、友人の中でただ一人自転車をもっておらず、みんなが自転車で走る後を駆け足で追いかけていくという経験をしていました。私自身はそんなに気にしていなかったのですが、そうした息子の姿を見て母は辛かっただろうと思います。
 一方で、スポーツをしたいという子供の願いにどこまでも応えるのか、と言われると、ちょっと待て、と思います。フィギュアスケートやスキーのジャンプ、アメフトやゴルフなど、カネのかかるスポーツがあります。東京に住む子供が、高梨沙羅氏に憧れてジャンプを始めるとすれば、シーズンの度に遠征しなければならないでしょう。渋野選手に憧れてゴルフに打ち込みたいという子供には、コーチのレッスン料や実際にラウンドする費用、クラブなどの購入費などサッカークラブ以上の費用が必要になるでしょう。どんなスポーツでも、上達していけばいくほど、大会参加費などが嵩むのは必然です。スポーツをしたいという子供の願いに対する支援に反対はしませんが、どこかで、線を引かなければならないでしょう。その「線」が分からないのです。
 貧困が子供の成長に及ぼす影響は限りがありません。お肉と言えば豚小間という子供のたまには牛サーロインが食べたい、というのは贅沢ですよね?野球に打ち込んでいる少年が「最高のプレーが見たいから米国に行きたい」というのも贅沢ですよね?小学校の卒業記念に写真館で正装の写真を撮りたいというのは贅沢ではないのかな?混乱します。
 学校は、大勢の同年齢の、そして同じ地域の子供たちが集まり、常にお互いを比べ合う場所です。服装、持ち物、遠足のときのお弁当、会話の中に出てくる休み中の家族旅行、あるときは劣等感を隠し、あるときは劣等感を感じる自分を一生懸命に働いている両親に対して申し訳ないと責め、やせ我慢をし、わざと友人関係を断ち切り、そうやって日々を生き抜いているのです。
 貧困が子供に及ぼす影響について議論が進むことを願います。

 

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保身だけではない

2024-04-19 08:10:26 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「国民性」4月12日
 『障碍者スポーツを阻む 思い込み 「何かあったら…」考えすぎる日本人』という見出しの記事が掲載されました。『健常者の思い込みが理由で、障害者が運動する機会を奪われることも少なくない』という問題意識の下、『パラスポーツの伝道師と呼ばれる』オランダのパラスポーツ専門家リタ・ファンドリエル氏に取材した記事です。
 その中に印象に残る記述がありました。『日本人は「起こりえる難題を考えすぎる」。「何かあったらどうするのですか」と反論されるが、ファンドリエルさんは腹を据えている。「失敗しても、次は違うやり方でやってみればいい。スポーツ中に障害者が車いすから落ちるのと、私が足をけがするのと、違いはありません」』です。
 日本人についての指摘には頷かされます。私もその一員でしたが、特に公務員の場合は、より強く「何かあったら」を考えます。極端に言えば、99回成功しても1回失敗すれば、それは失敗ということだという考え方が染みついているのです。
 自己保身、責任逃れという面があることは否定しません。しかし、それ以上に、1回の失敗で99回の実績がふいになり、有意義な取り組みが中止、または後退させられてしまうことを恐れる気持ちが強いのです。
 ある学校が、子供自然体験教室を企画・開催したとします。大変評判がよく、順調に回を重ねます。しかし、ある回で木に登っていた子供の目の前に鳩がとんできて、驚いた子供が手を放し、落下して首を捻った形で地面に落ち、一命はとりとめたものの下半身不随で車いすの生活になったという事故が起こります。
  鳩が人に向かって飛んでくることはあまりありません。落ちた木の下は芝生になっており、地面は柔らかく通常であれば落ちても致命的な怪我はしないはずなのですが、その日は、級友の1人が珍しい直径10cmほどの石を見つけ、それを入れたリュックを置いていたところにぶつかってしまったのです。不運に不運が重なった形です。
 どうなるでしょうか。メディアは、教員が子供の行動をよく見ていれば、石のことも発見できたはずだと仄めかすでしょう。木に登ることを認めていたことを問題視する人も出てくることでしょう。そうなれば、子供が自由に木登りができる環境を肯定的に見ていた人は黙ってしまい、学校は孤立無援の状態に陥るでしょう。保護者会を開き説明、メディア向けの記者会見などで頭を下げ続けなければなりません。議会では、教委が学校への指導が不十分だったとして吊し上げられます。実施計画をチェックしたのか、現場に足を運んで確認したか、最初の開催時に視察をして状況を把握したのか、など問われ、一つでも欠けていれば責任を追及され、全て実施していれば実際に見ていながら危険性を感知できなかったことを無能と責められるでしょう。そして体験教室は中止となります。
 これが日本人の国民性です。常に他者に対しては完璧性を求める、そしてそうした傾向は「官」に対して顕著になるのです。ファンドリエル氏の指摘はもっともですが、国民性の違いを無視し、「官」だけに重荷を背負わせていくというやり方では、何も変わりません。国民性を変える、そんなことが可能なのかどうかわかりませんが、不運を不運と認める文化を創り出さない限り、「考えすぎ」による弊害をなくすことはできません。

 

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本当のプロ

2024-04-18 08:30:32 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「プロ」4月12日
 川柳欄に、久喜市M氏の『材料は並みを使ってこそのプロ』という句が掲載されていました。本日の秀逸です。意味を解説するまでもありませんが、大間の本マグロ、松阪牛、間人ガニなどの高級品を使って旨い料理を作っても、それは当たり前で名人でも達人でもない。近所のスーパーで売っている庶民が買うような材料を使って美味しいと唸らせる料理を作るのが本当のプロの料理人、ということです。
 全くその通りです。私がこの句を目にして直ぐに浮かんだのは、料理とは関係のないことでした。新たな教育課題が学校に持ち込まれようとするとき、先進的な実践に取り組む研究校が設けられるのが普通です。生活科、総合的な学習の時間、小学校英語、プログラミング教育等々、例外はありません。そして、研究校での先行実践の結果、新しい教育課題の導入が見送られたり、延期されたりしたことはありません。初めから、大きな成果とわずかな課題が予定されているかのように。
 私はこうした状況を見て、「○○小学校なら成功するよな。子供のレベルは高いし、保護者も理解があって協力的だからな。A校長は~の実践家だったし」と、半分白けた思いを抱いたものでした。つまり、一級品を使って料理を作って提供している料亭の料理がおいしいのは当然という感覚でした。
 学力テストの結果は中の中、いくつかの学級には、問題行動の対応に苦慮する子供がいて担任以外の教員が補助に入ってやっと授業が成り立っている、おまけに保護者から苦情が絶えない指導力が疑われる教員がいて校長が対応に苦慮している、というような一般的な学校が研究校に選ばれることはほとんどないのです。本来であれば、そうした普通の学校において新しい教育課題に取り組んでこそ、問題点や課題が見えてくるものであるはずなのに、です。
 また別の見方もできます。かつて「荒れる学校」が話題になった時期がありましたが、生徒が授業中に平気で立ち歩き、勝手に教室を出ていくものもいる、教室内で大人しく座っている生徒の半数は、漫画を読んだりスマホを診たりしている、校舎裏の階段には煙草の吸殻が落ちていて、生徒間の暴力沙汰が絶えないというような学校もまた、研究校には相応しくないということです。腐りかけた材料では一流のシェフにもおいしい料理は作れませんから。
 全国に学校は実に多様です。子供の実態、地域の実情、家庭の状況、管理職の見識、教員の指導力、過去の出来事、全て異なっているのです。キーワードは「並み」です。新しい教育課題の導入の是非、教育施策の成果の検証、いずれも「並み」の学校で行ってこそ、意味があると考えます。

 

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妙に忘れられない

2024-04-17 08:34:52 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教員の一言」4月11日
 科学の森欄に、『「光遺伝子」研究や治療に 目の難病 薬の開発進む』という見出しの記事が掲載されました。『光を当てることで、狙った神経細胞の活動を操作する「光遺伝子」という技術が、脳研究などで広く使われ始めている。脳の仕組みを理解するなどの基礎的な研究だけでなく、失明した人の視覚再生など、実際の治療への応用も期待されている』ことを報じる記事です。
 私はこの「科学の森」欄にはいつも目を通していますが、ほとんどの場合よく理解できず、「ふーんそうなのか」ということで次の紙面に進むというのが実情です。今回も同じでした。やはり私は文系の頭なのだな、ということを再確認しただけです。
 ではなぜこの記事を取り上げたかというと、次の記述が目に飛び込んできたからです。『栗原さんが構想する治療法では、光に反応するたんぱく質「ロドプシン」を組み込んだ~』『ロドプシンを組み込むと、視細胞がなくても光を受けとめられるようになる』『ロドプシンの遺伝子を組み込んだウイルスを患者に投与する臨床試験を計画し』『このロドプシンというたんぱく質こそ、近年、研究現場で急速な広がりをみせる光遺伝子のカギとなる物質』などです。
 私が高校生のとき、生物の授業で担当教員が、この「ロドプシン」という言葉を発したのです。前後の脈絡は全く覚えていません。ただ、「暗いところに長くいるとロドプシンという物質がたまる」「ロドプシンは光に反応する」「将来、殺人事件の被害者の目に残されたロドプシンに最後に見た犯人の顔が釣っていてそれで犯人が捕まる、なんてことが起きるかもしれない」というような内容だけが記憶に残っています。
 私の高校生物に関する記憶はこれだけです。教員の名前も忘れてしまいました。どういうわけか、「ロドプシン」という単語だけが強く記憶に刻まれ、50年経っても忘れないのです。
 この「ロドプシン」にまつわる話は、いわゆる雑談というやつです。教員は「今日は途中でロドプシンの話をしよう」と思っていたわけでもなく、何となく流れで口にしたのだと思われます。教員自身、次の日には忘れていたかもしれません。しかし、そんな一言が子供の記憶に残り続けることがあるというのが、教職の面白さであり、怖ろしさなのではないでしょうか。
 現に私は、明るいところに長くいると、「今、ロドプシンは減っているな。少し目を閉じてロドプシンを貯めておこう。そうしないと暗いところに入ったら周囲が見えづらくなる」などと考えてきたのですから。
 教員は自分が発した一言、意図的でも計画的でもなく気軽に発した一言が子供に与える影響について、考える必要と責任があるように思います。子供におかしな先入観や思い込みを与え、それが長くにわたって悪影響を及ぼすことがあるという自覚をもって、です。
 私には、もう一つ、今でも覚えている言葉あります。中学校の歴史のI教員が言った「世界で最も美しい言葉はフランス語と朝鮮語である」です。何でこんなことを覚えているのかは分かりませんが。誰の説なのか、今でも確かめられていません。

 

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