ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

熊さん、ご隠居、ホーキング

2019-08-20 08:27:35 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「等価値のとき」8月15日
 東北芸術工科大講師トミヤマユキコ氏が、『対立構図より本質を』という表題でコラムを書かれていました。その中でトミヤマ氏は、『あいちトリエンナーレ2019の企画展「表現の不自由展・その後」の公開中止』に関わる県知事と名古屋市長の『対立』報道に触れていらっしゃいました。
 『河村発言は憲法違反とする憲法学者・木村草太氏のコメントを掲載した。だとすれば、対立うんぬんではなく、河村氏が憲法をしっかり勉強していないだけなのでは…。メディア的には「市長と知事が対立!」と盛り上げたくなる折だが、ぐっとこらえ、冷静に事態を見桑めるべきだ(略)対立構図の協調に終始すれば、本質を見誤る危険性がある。分かりやすいドラマよりも、真実を』と述べていらっしゃるのです。
 なるほどな、と考えさせられました。私は、AとBが対立というとき、AとBの主張が「等価値」であるという印象を持ちます。例えば、かつて考古学界を二分した邪馬台国論争では、近畿派も九州派も、専門家がそれぞれの根拠と解釈に基づいて論争を繰り広げていました。専門家同士、具体的な遺物を根拠にという意味で「等価値」であり、だからこそ「対立」が相応しいと感じたものです。
 私は歴史好きですが、古文書の一つも読めません。そんな私が、聞きかじりの生半可な知識で、邪馬台国は九州にあったと言ったとして、私と近畿派の学者の見解が対立しているとは言わないでしょう。ただ単に、好奇心だけはある無知な素人が勝手に何か言っていると言うだけの話です。
 現代の課題で言えば、低負担低福祉で行くか中負担中福祉で行くかという論争も、福祉や財政の専門家、社会学者などがそれぞれの専門的な知見に基づいて行っているという意味で、「等価値」であり、対立という表現が相応しいと思います。これについても私には私なりの意見がありますが、いたって感覚的なものであり、具体的な数字やシミュレーションがあるわけではないので、無責任な放言の域を出ず、「対立」には当たりません。
 しかし、トミヤマ氏が指摘するとおり、全くの暴論や無知な放言が、専門家が積み重ねてきた見解と同列に扱われてしまうと、暴論や放言に市民権を与えることになってしまいます。学校教育にもそうした事例があります。
 体罰における「愛のムチ論」もその一つです。明確な法律違反でありながら、信頼関係があればとか、私は殴られて強くなったとか、殴ってくれたコーチに感謝しているといった個人の感想や思い込みレベルの妄言が、正論と「対立」する意見として居場所を得ています。専門家が他人への暴力は、それを目撃していた第三者の脳に対しても悪影響を与えるという研究結果を公表しても、科学的エビデンスと個人の思い込みが等価値に扱われているのです。
 いじめについても同様です。いじめられる側にも問題があるというような誤った見解が、根強く残っています。いじめは重大な人権侵害であるという公的な認識を正面からは否定できないので、陰で本音として力を持ち続け、本音と建前という形で「対立」させられているのです。
 学校教育にまつわる問題についても、安易に「対立」を前提にしないようにしなければなりません。
 
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