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和田山町竹田の寺町

2020-01-30 17:04:26 | 但馬
2020年1月29日、城崎温泉に宿泊後、出石に立ち寄り、帰路に朝来市和田山町竹田の寺町を散策しました。JR播但線竹田駅の西側の小路です。
map
天空の城、竹田城跡の麓ににある寺町です。竹田城跡は冬季期間は入城禁止となっています。
寺町の通りです。

法樹寺
説明書より「浄土宗知恩院派の寺院で、山号は見星山。1578年(天承6)、現在の東町に開創、竹田城廃城後の1606年(慶長11)、最後の城主赤松広秀公の居住地であるこの場所に、生野代官所の寄進を得て移転した。1667年(寛文7)~1688年(貞享5)の六世住職代に現在の本堂を再建し、門前の石橋は1723年(享保8)に架橋されたといわれている。境内には赤松広秀公の供養塔がある。元は1820年(文政3)竹田城登山道に建立されていた三十三観音も移設されている。」
石橋

山門





本堂

習田雪峰の碑、句碑、







鐘楼

観音石仏





赤松広秀公の供養塔
「広秀は1562年(永禄5)、播磨龍野城主赤松政秀の子として生まれ16才で龍野城主となる。1577年(天正5)、秀吉の大軍の前に降りるが、後に秀吉の家臣となり、四国征伐等の戦功により、1585年(天正13)竹田城主となる。竹田城主として広秀は、九州島津征討、小田原後北条攻めに参戦した外、1592年(文禄元)の朝鮮の役には、他の但馬衆と共に渡鮮している。1600年(慶長5)関ケ原の役にて西軍に組したこと等により家康の忌避にふれ、同年10月28日、鳥取市の真教寺にて自刃した。時に広秀は享年39才であった。」





勝賢寺
説明書より「浄土真宗本願寺派、山号は虎城山、1587年(天正15)向かい金梨山の山麓、迫間近辺にて創建され、竹田城廃城(1600年)後、赤松広秀公家臣・平位善右衛門屋敷跡とされる当地に移る。境内には第9代城主である桑山重晴の長男、一重夫婦の五輪供養塔がある。」
石橋

山門

本堂







鐘楼

境内

庫裏

常光寺
説明書より「真宗大谷派、山号は黒田山、1594年(文禄3)対岸の金梨山のふもと、現在の東町に開創。1610年(慶長15)の大火で焼失し、同年秋にこの場所に移転した。1698年(元禄11)に現在の本堂を再建し、門前の石橋は1707年(宝永4)に再架橋されている。境内は二初代城主太田垣光景公の供養塔があり、但馬最古の記銘石灯籠もある。」
石橋



山門

本堂(兵庫県登録文化財)



鐘楼





太田垣光景公の供養塔

善證寺
説明書より「浄土真宗本願寺派、山号は慈雲山、1334年(建武元)対岸の金梨山のふもとに開創。1625年(寛永2)の火災で焼失し、1652年(慶安5)にこの場所に移転した。1706年(宝永3)に現在の本堂を再建立し、門前の石橋は1732年(享保17)の年号が刻まれている。城主赤松公家臣であった平位善右衛門が、再建時に廃城した城跡の残存建物群ならびに自邸を寄贈したとされている。」
石橋

山門





本堂

境内



鐘楼



寺町通りの小川





殿町地蔵堂

表米神社
説明書より「久世田の加納陵より寄進された。1704年~1710年の間で、この地に移されたと伝えられている。本殿の欄間や神門の大扉の彫刻は京都の名工周斎の作である。祭神である表米宿弥命は初めて但馬国造に任じられた大多牟坂王の九代目となる。表米宿弥命は格技を好んだとされ、境内には全国的にも珍しい『半円形石積段型桟敷』がある。相撲桟敷とも呼ばれて、土俵を囲み半円状に六段の石が積まれている。1865年~1870年の間で造られたとされる桟敷の座席割図も残されている。類似の桟敷が山口県長門市の赤崎神社にもある。」
鳥居

参道の階段

鳥居



神門







狛犬



拝殿



本殿
「三間社流造で、千鳥破風を有しており、干支を周囲に巡らせており、その彫刻の精巧さには目を見張るものがある」











土俵と桟敷「(兵庫県指定有形民俗文化財)







稲荷神社



境内からの景色

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