『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

毛利秀頼(もうりひでより)

2019-10-08 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
毛利秀頼(もうりひでより)

<現代仮名遣い>もうりひでより

※下線部は信長公記以外の記事によります。


河内。父は斯波義純。

1560年5月おけはざまで信長方の臣として活躍。

1569年8~10月の伊勢攻略戦に参加。

1570年8~9月野田・福島の戦いで大坂方との二

    番合戦を務める。

1575年11月岩村城への後巻に進軍した武田勝頼

    が信忠方水晶山に夜討ちをかけるとこ

    れを撃退。

1582年2月織田信忠は、滝川一益・河尻秀隆・毛

    利秀頼・水野直盛・水野忠重を率い、土

    田→高野→岩村と進軍。

1582年2月織田信忠は岩村→平谷→飯田へと進軍。

    大嶋城を守備していた日向宗栄・小原継

    忠・武田信廉・安中らはこれを見て敗走。

    信忠は大嶋に在城し、河尻秀隆・毛利秀

    頼を城に入れておく。

1582年3月織田信忠は飯島から貝沼原まで、小笠

    原長嶺・河尻秀隆・毛利秀頼・団忠直・

    森長可らと足軽を先陣としておくる。自

    身母衣衆を引き連れ仁科盛信の籠もる高

    遠城の様子を見計らい貝沼原に布陣する。

1582年3月小笠原長嶺・森長可・団忠直・河尻秀隆・

    毛利秀頼が川を渡り高遠の大手口につめる

    と、保科正直は「織田方に忠節を尽くし城

    に火をかける」と申上しようとしたがその

    時間はない。織田信忠も高遠の搦め手から

    攻め付け大乱戦となる。

1582年3月信長の知行割で、毛利秀頼は信州伊奈の

    一郡を下される。

1582年6月信長没後は秀吉に服属。

1584年小牧・長久手の戦いに参戦。

1587年九州征伐に参戦。

1590年小田原の役に参戦。

同年7月信濃伊奈郡飯田十万石を与えられる。

1593年9月死去。



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