『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

丹羽長秀(にわながひで)[9/12]

2018-09-10 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
丹羽長秀(にわながひで)[9/12]

〔現代仮名遣い〕にわながひで


1581年4月長秀の元に仕えてきた溝口秀勝は、

    病死した逸見昌経の本地分五千石と

    役職一切を下され、また若狭(武田氏)

    の目付を命じられた。

1581年5月織田信澄・蜂屋頼隆・堀秀政・宮内

    卿法印・惟住長秀らは、槇尾寺の良い家

    を選び取った後、堂塔・伽藍・経巻全て

    を焼き尽くした。

1581年6月信長は寺崎盛永・喜六郎父子を召し

    寄せ子細を尋ねた後、佐和山の惟住長秀

    のところに幽閉。

1581年7月木舟城主石黒成親、家老石黒与左衛門・

    伊藤次右衛門・水巻采女正ら三十人が安

    土へ上ろうとしたとき、惟住長秀は信長

    の命により彼らを佐和山で殺害しようと

    する。その様子を察知した石黒一派は長

    浜でとどまったが、惟住の手のものに宿

    を襲われ殺害される。

1581年7月信長の命により、惟住長秀の佐和山城

    で寺崎盛永・喜六郎親子ともども切腹。



 ※このあたりでは、

  “長秀に佐和山城に呼ばれる=暗殺される!”

  という公式が世に知られていたようです。



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