丹羽長秀(にわながひで)[9/12]
〔現代仮名遣い〕にわながひで
1581年4月長秀の元に仕えてきた溝口秀勝は、
病死した逸見昌経の本地分五千石と
役職一切を下され、また若狭(武田氏)
の目付を命じられた。
1581年5月織田信澄・蜂屋頼隆・堀秀政・宮内
卿法印・惟住長秀らは、槇尾寺の良い家
を選び取った後、堂塔・伽藍・経巻全て
を焼き尽くした。
1581年6月信長は寺崎盛永・喜六郎父子を召し
寄せ子細を尋ねた後、佐和山の惟住長秀
のところに幽閉。
1581年7月木舟城主石黒成親、家老石黒与左衛門・
伊藤次右衛門・水巻采女正ら三十人が安
土へ上ろうとしたとき、惟住長秀は信長
の命により彼らを佐和山で殺害しようと
する。その様子を察知した石黒一派は長
浜でとどまったが、惟住の手のものに宿
を襲われ殺害される。
1581年7月信長の命により、惟住長秀の佐和山城
で寺崎盛永・喜六郎親子ともども切腹。
※このあたりでは、
“長秀に佐和山城に呼ばれる=暗殺される!”
という公式が世に知られていたようです。
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〔現代仮名遣い〕にわながひで
1581年4月長秀の元に仕えてきた溝口秀勝は、
病死した逸見昌経の本地分五千石と
役職一切を下され、また若狭(武田氏)
の目付を命じられた。
1581年5月織田信澄・蜂屋頼隆・堀秀政・宮内
卿法印・惟住長秀らは、槇尾寺の良い家
を選び取った後、堂塔・伽藍・経巻全て
を焼き尽くした。
1581年6月信長は寺崎盛永・喜六郎父子を召し
寄せ子細を尋ねた後、佐和山の惟住長秀
のところに幽閉。
1581年7月木舟城主石黒成親、家老石黒与左衛門・
伊藤次右衛門・水巻采女正ら三十人が安
土へ上ろうとしたとき、惟住長秀は信長
の命により彼らを佐和山で殺害しようと
する。その様子を察知した石黒一派は長
浜でとどまったが、惟住の手のものに宿
を襲われ殺害される。
1581年7月信長の命により、惟住長秀の佐和山城
で寺崎盛永・喜六郎親子ともども切腹。
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“長秀に佐和山城に呼ばれる=暗殺される!”
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